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鬼と仏の国東半島めぐり

国東半島に残る鬼伝承と仏の里を菜花のお宿のおかみが ご案内します。楽しんでいただけたら幸いです。

『大和志料』にみる瀬織津姫神 

瀬織津姫神

「エミシの国の女神」菊池展明著に『大和志料』の広瀬神社の項に記載の荒祭神社の引用がされています。

荒祭神社
本社の艮(鬼門の方角)にあり。天照大神の荒魂瀬織津姫神を祭る。同抄(「広瀬神社由緒書」)に摂社荒祭神殿一座(昔廊内の本社の艮に在った)。天照大神の荒魂で、この神は祓戸神瀬織津姫神と同体と言う。(引用者現代語訳)

引用の箇所や他の部分を実際に読みたくなり、古書店から取り寄せました。

『大和志料』は奈良県小牧知事が明治二十三年此の地に関する調査を大神神社宮司の斉藤氏に託したもので所陵墓、村里、山川、神社、佛寺、城壘等を詳しく記載したものです。奈良県教育委員会が大正三年十二月に出版し、私が入手した『大和志料』は昭和十八年に改訂されたものです。
大和志料


『大和志料』のなかで新たな瀬織津姫神の祭祀を見つけることが出来ましたのでご報告します。
「エミシの国の女神」の付録Ⅱには奈良県の本殿主祭神をまつる神社は以下の5社を紹介しています。

大将軍神社   吉野郡十津川村小井
菅原神社    吉野郡十津川村村上湯川
水分神社    吉野郡東吉野滝野
水分神社    吉野郡東吉野平野
高生神社    高市郡高取町清水谷

以下は『大和志料』より

祓戸神社 春日神社(三笠山麓)参詣の前にここで祓いを修めとあり、祓戸明神 瀬織津比咩明神是也と1柱で記載あり 上巻

祓處神社 狭井坐大神荒魂神社( 狭井川の南)二の鳥居左側にあり、同社社記に「祓殿宮、瀬織津比賣神」 中巻

多坐弥志理都比古神社神社 多村大字多ノ宮内にあり、   中巻
社司多神命秘傳 
珍子聖津日霎神者天忍穂耳尊。春日郡ニ坐ス宇豆御子神社同體異名也
天祖聖津日霎神者天疎向津媛命。春日郡ニ坐ス高座天照大神々社同體異名也
ウィキペディヤには「多坐弥志理都比古神社神社」は多氏の祖神である神八井耳命を祀ったものとみられると書かれていますが、『延喜式神名帳』には「大和国十市郡 多坐彌志理都比古神社二座」と記され、水知津彦神、火知津姫神の水知津彦神は大宮に祀られる天忍穂耳尊、火知津姫神は天疎向津媛命とあります。若宮の竹田神社には原初太陽神の火明命のご神名も見られ、特に興味深い神社であると感じました。春日郡の天照大神高座神社には白飯之滝があり、どのような旱天でも水が絶えることがないと言われます。神奈備さんHPには同所の岩戸神社にはご祭神を市杵島姫大神とし、1100年前に空海が高座神社参詣の折、大神の託宣によって創建し、日本最古の岩窟弁財天と称せられたという神社の栞を紹介しています。託宣する神・白飯之滝神・弁財天と習合する神を考えると同體異名也と書かれた『大和志料』は興味深いです。

甘樫坐(あまかしにます)神社 下巻
飛島村大字豊浦
八十禍津日命 大禍津日命 神直昆(日)命 大直(日)命
正邪を判定する方法に「盟神探湯」の神事が伝えられています。
詞林采葉ニ「衣ヲホスト云フコトハ甘橿明神トテヲハスルハ人ノトガノ虚実ヲ正シ給フ神ニテ其衣ヲ神水ニヌラシホスト申傳ヘタリ」
甘橿神ニ新誓シ衣ヲ神水ニ濡ラシ之ヲ干シ其ノ曲直ヲ判ズルハ即チ盟神探湯ノ遺法ヨリ出デタルモノナランモ、其ノ方法詳ナラズ。

高角神社  下巻
高見村大字平野
祭神は埴山彦命トスルモ建角身命ナルベシ とありますが、
明細帳ニハ、平野村字高見山 無格社 瀬織津姫トアリ




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託宣する神:宇佐神宮3 

託宣する神

「八幡宇佐宮御託宣集」霊巻五によれば、

金刺宮御宇二十九年戊子。筑紫豊前国宇佐郡菱形池の辺(ほとり)、小倉山の麓に鍛冶の翁有り。奇異の端を帯ぎ、一身と為(し)て、八頭を現す。人聞いて実見の為に行く時、五人行けば即ち三人死し、十人行けば即ち五人死す。故に恐れを成し、行く人無し。是に於て大神比義行きてこれを見るに、更に人無し。但し金色の鷹、林の上に在り。丹祈の誠を致し、根本を問ふて云わく。誰か変を成すや、君の為す所かと。忽に金色の鳩と化り、飛び来って袂の上に居る。爰(ここ)に知りぬ。神変人中を利すべしと。然る間、比義五穀を断ち、三年を経るの後、同天皇三十二年辛卯二月十日癸卯、幣を捧げ、首を傾けて申す。若し神為(た)るに於いては、我が前に顕わるべしと。即ち三歳の少児と現れ、竹の葉の上に於て宣ふ。辛国の城に、始て八流の幡と天降って、吾は日本の神と成れり。一切衆生左にも右にも、心に任せたり。釈迦菩薩の化身なり。一切衆生を度(すくは)むと念じて神道と現れるなり。我は是れ日本人皇第十六代誉田天皇広幡八幡麻呂なり。我名をば、五穀霊験威力神通大自在菩薩と曰ふ。
▼宇佐神宮菱形の池
菱形池

最初に語られる五人行けば即ち三人死し、十人行けば即ち五人死すというお話は「播磨国風土記」の佐比岡にも見られます。

佐比岡 佐比と名づくる所以は、出雲の大神、神尾山に在しき。此の神、出雲の國人の此處を経過(すぐ)る者は、十人(とたり)の中、五人を留め、五人の中、三人を留めき、故、出雲の國人等、佐比を作りて、此の丘に祭るに、遂に和(あまな)ひ受けまさざりき。然る所以は、比古神(ひこがみ)先に来まし、比賣神(ひめがみ)後より来ましつ。ここに、男神、鎮まりえずして行き去りましぬ。この所以に、女神恨み怒りますなり。然る後に、河内の國茨田(まむた)の郡の枚方の里の漢人(あやひと)、来至たりて、此の山の邊に居りて、敬ひ祭りて、僅(はつか)に和(やは)し鎮むることを得たりき。此の神の在(いま)ししに因りて、名を神尾山といふ。

「播磨国風土記」では荒ぶる神が女神で先に鎮座してくれるはずの男神がいないので怒ってしまい、出雲の国の人がここと通ると十人のうち、五人殺し、五人来れば三人殺したとなりましょうか。宇佐の伝承ももしかすると荒ぶる神は女神で男神が祀られなかった為に荒ぶる神になったと考えられないでしょうか?大神比義が現した神は金色の鷹から鳩へと変身します。五穀を三年断ち、祈ると三歳の童子となって現れ、我は是れ日本人皇第十六代誉田天皇広幡八幡麻呂なり。我名をば、五穀霊験威力神通大自在菩薩と云います。そして現在の宇佐神宮の第一殿に祀られるのが、七二五年(神亀二年)のことです。

「播磨国風土記」で語られる出雲の男女神の伝承は、とても興味深いものでした。
別に出雲の神社で荒神についての記載で面白いものを見つけました。
「荒神社」の祠を見つけた方が、太田亮博士曰く、荒氏は「任那帰化族なるべし」と推量されているとし、おそらく南朝鮮の伽耶地方を故郷とする氏族なのであろうとし、古代朝鮮半島の全体もしくは一部をカラ(韓)、カヤ(伽耶)、アヤ(漢)、アラなどと呼んだとすれば、「荒神社」は韓神を祀る祠なのかもしれないと想像してしまうというものです。「播磨国風土記」で枚方の里の漢人(あやひと)が祀ると鎮まったとありますのでこの荒神社の祠について書かれた方の記述はあながち的を得ているのかもしれません。

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託宣する神:宇佐神宮2 

託宣する神

「八幡御託宣集」日本国御遊化の部より引用

始は辛国宇豆高嶋(からくにうつのたかしま) 天国排開広庭(あまつくにおしひらきひろにわ)天皇御宇三十二年辛卯、宇佐郡(のこおり)菱形の大尾山に霊異有るの間、大神比義祈り申す時、天童(あめのわらは)として現れ、言(のた)まはく。

辛国城に始めて八流の幡と天降りて、我は日本の神と成れり。一切衆生(あるほどのひと)、左(そ)も右(う)も心に任せたり。
釈迦菩薩の化身なりてへり。余は略す。

人皇第一主、神日本磐余彦(かんたまといわれひこ=神武天皇のこと)尊御年十四歳の時、帝釈天に昇り、印鑰を受け執り、日州辛国城に還り来たまふ。蘇於峯是なり。蘇於峯は霧島山の別の号なり。

訳注(大隅国にあり、東西の二峰あり、東峰は高千穂または予峰(ほこのみね)といい、西峰は韓国嶽という。両峰は競い立つので、高千穂二神の峰という。


高千穂峰の鉾は、霧島ジオパーク案内板に戦前には雨乞いの神ともされ、鉾の前で祭祀を行っていたと書かれています。
天孫降臨とともにそこに見えてくるのは水を司る神の伝承です。

写真で高千穂峰をみていただきましょう。
高千穂峰1-1

▼霧島ジオパーク案内板
案内板
高千穂峰と御池(「三国名勝図会」には性空上人(910~1007)が御池のほとりで修行中に九頭の神龍が現れ、上人に宝珠を渡したとの記述があります。ジオパーク案内板より)
高千穂峰の下の御池jpg
天孫降臨神籬斎場 (古宮址)ここから見えるのは御鉢部分。
高千穂峰8
▼東霧島神社元宮と高千穂峰
高千穂峰

高千穂峰3
▼高千穂峰
高千穂峰2

高千穂峰4

高千穂峰6
▼天之逆鉾
高千穂峰5

▼桜島を望む
高千穂峰7

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託宣する神:宇佐神宮 

託宣する神

八幡
▲宇佐神宮第二殿
「八幡宇佐宮御託宣集」は八幡宇佐宮の根本縁起が書かれたものです。著者の神吽(じんうん)が正応三年(1290)二月十日頃に起筆し、正和二年(1313)八月頃稿了されたものです。正応三年は神吽の六十歳に当り、八十三歳まで書いて翌年五月に死去しています。第三巻冒頭の序文によれば、この書を編纂着手の時点で、すでに二十余年間にわたる準備期間があったと伝えられています。神吽の生年は寛喜三年(1231)で辛嶋・宇佐両氏と並んで宇佐神宮の神職であった大神氏の家系に属します。応神八幡神に奉祀した司祭者として大神比義がおりますが、神吽は大神比義の第二十一代の家に生誕し、出家して宇佐宮の神宮寺の弥勒時安門坊に住み、学僧として弥勒寺講代を勤めました。
 「八幡宇佐宮御託宣集」の第三巻には八幡神の神託が多くみられます。この第三巻の中心テーマは「日本国御遊化部」で大隅の曽於郡の霧島山に八幡神が天降ってより、小倉山の三神殿の成立までに言及しています。
(以上は、「八幡宇佐宮御託宣集」重松明久校中訓訳の解題部分からの一部引用です。)

私は大切な資料の「八幡宇佐宮御託宣集」は背景に応神八幡神系の神吽が書いたものであるとの認識で読むことが必要と考えています。たとえば、

辛国城に始めて八流の幡と天降りて、我は日本の神と成れり、一切衆生、左も右も心に任せたり。釈迦菩薩の化身なりてへり。(後略)人皇第一主、神日本磐余彦尊御年十四歳の時、帝釈天に昇り、印鑰(いんやく)を受け執り、日州辛国城に還り来たまふ。蘇於峯是なり。蘇於峯は霧島山の別の号なり。
▼硫黄山と霧島山
えびの高原からみる霧島山

▼高千穂の峯からみえる霧島山
霧島山

「八幡神」の依り代が八流の幡として書かれていますが、ここで神吽は八流の幡を詳しく述べていません。大分市の一宮の柞原(由原)八幡宮は以前紹介しましたが、「大分市史」下巻に由原八幡宮縁起絵巻が伝わっています。一部紹介されていますから読んでみます。
上巻
<第一段>仲哀天皇が、新羅国郡兵とともに攻めてきた塵輪を射殺する。塵輪は頭が八つある怪物である。天皇は流れ矢にあたり、神功皇后に、異国への出兵を遺言して崩御する。
<第二段>神功皇后が、三韓に向って出発したところ、その途中に住吉明神が老人の姿で現れて行をともにする。
<第三段>住吉明神が行く手を妨げる大牛を海中に投げ込む。
<第四段>住吉明神が浅瀬にかかった船を置きに押し出す。
<第五段>住吉明神が弓に矢をつがえて岩を貫く。
<第六段>住吉明神がせいのうの枚を舞って、磯童を海中からまねきよせる。
<第七段>神功皇后が竜宮より、磯童が持参した満ち珠・干珠を使って、新羅の軍船を全滅させる。
下巻
<第一段>神功皇后が新羅王の前で戦に勝ったことを岩に書く。
<第二段>神功皇后が凱旋して、筑前国の鵜羽根葺(うばねぶき)の産屋で応神天皇を出産する。
<第三段>応神天皇が崩御し箱崎に戒定会の箱を埋め、しるしの松を植える。そこに赤幡白旗各四枚が、天からたれさがって降りる。
<第四段>応神天皇の霊が宇佐の馬城峯(まきみね)の岩に垂迹し、岩が金色の光を放つ。仁徳天皇が勅使を派遣すると、金色の鷹になって現れる。大神比義(おおがのこれよし)の請いに応じ、三歳の童児になって竹の葉に現れ、われは誉田天皇であると名乗る。
<第五段>和気清麻呂が称徳天皇の怒りにより、両足を切られ、猪に乗って宇佐八幡宮に参詣する。小蛇に足をなめられ足が治り、足立寺を建てる。
<第六段>金亀和尚が宇佐宮に参籠し、神託により賀来社に八幡を勧請し、みこしの行列が通る。

以上のような十四場面の物語は伝承では文亀二年(1502)に絵を藤原光茂が書を第二位の親王と記し、青蓮院宮尊鎮奉親王ではないかと考えられています。

「日本書記」に書かれていた仲哀天皇の琴を弾く話も神功皇后の船の先鋒として軍船を導く荒魂の話もここには語られていない。大分弁でいうと「なしか?」となろう。八流の幡は由原八幡宮縁起絵巻によると赤幡・白旗の各4枚の幡でした。この幡が赤幡の神、白幡の神という太陽神の男神と月神の女神と考察したのが、故菊池展明氏でした。「八幡比咩神とは何か」風琳堂出版には白幡の神が宇佐神宮第二殿の比売大神だと。宇佐神宮では第二殿のご祭神は宗像三女神と伝えられていますが、宗像祭祀の解読についても同書に詳しく書かれています。学僧といわれた神吽が書いた「八幡宇佐宮御託宣集」にはどのような託宣が書かれているのでしょうか?(つづく)

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国東半島の瀬織津姫神Ⅱ 

瀬織津姫神

国東半島は神仏習合時代の姿が色濃く残っている半島です。
六郷満山の各寺院の背後には六所神社や身濯神社の名が見受けられます。豊後高田市の真玉川の上流には無動寺の鎮守の身濯神社で「八十猛津日命」のご神名がありますが、明治十五年の「大分県神社明細牒」には「八十枉津日命」と記載されております。「八十枉津日命」は瀬織津姫神のことです。「円空と瀬織津姫」上巻には福島県の福島大神宮の境内末社(かっては摂社)の川濯(かわそ)神社の紹介があり、「女性の守護神」「安産の神様」として信奉者が多いとあります。また、『福島村史』には祭神の瀬織津姫命は「宇宙清掃を司る女神」と壮大な讃辞が伝えられていることを紹介しています。瀬織津姫神の「禊神」という神格が川濯神社という社名によく表れている(身を川で濯ぐ→川濯)とは「円空と瀬織津姫」菊池展明著に書かれていることですが、国東半島の地図を見て身濯神社という社名を見つけて行ってみたらと声をかけてくれたのが著者の菊池氏でした。当時はご祭神を知らないで神社の社名で瀬織津姫神祭祀を見つける菊池氏に大変驚いたものです。あとで気づきましたが同書では伊勢の五十鈴川の別名は御裳濯(みもすそ)川でそそ=濯の女神と触れていました。
▼無動寺鎮守:身濯神社
身濯神社鳥居

42-1身濯神社由緒

『倭姫命世記』には
荒祭宮一座〔皇太神宮ノ荒魂。伊邪那伎大神所生神(アレマス)。八十枉津日命と名づくる也。〕一名は瀬織津比咩神是れ也。御形は鏡に在します。
鎌倉時代に成る『『倭姫命世記』ですが、ここには神宮祭祀の秘伝的古伝承がみられる箇所です。(『八幡比咩神とは何か』菊池展明著より)

伊勢内宮の別宮の荒祭宮はご祭神を「天照坐皇大御神荒御魂」と祭神表示されていますが、山口県の山口大神宮、〔永正17年(1520)に大内義興が朝廷に奏聞して勅許を得、伊勢皇太神宮のご分霊を勧請した神社である。(山口大神宮HPより)〕では荒祭宮のご神名を荒御魂:瀬織津姫命と表示しています。
▼伊勢別宮:荒祭宮
荒祭宮
▼山口大神宮:荒祭宮の表示
山口大神宮由緒
遠方に話が飛びましたが無動寺に戻ります。
▼無動寺不動明王像
無動寺不動明王像

無動寺の由緒では養老年間の創建にして本尊は不動明王なりとあり、鎮守六柱神のご神名で相当するのは「俗ニ滝権現ト称ス」と「西国東郡誌」に書かれているようにこの不動明王が滝神でもある瀬織津姫神(八十枉津日命)と神仏習合した姿となりましょう。無動寺の案内板には不動明王様は慈悲相を表し、霊験あらたかな像と伝えられています。

豊後高田市の熊野磨崖仏は国の重要文化財に指定されている磨崖仏で今熊山胎蔵寺奥の巨大な岩壁に不動明王と大日如来が刻まれています。
熊野磨崖仏

『エミシの国の女神』菊池展明著に

平安後期の学者・大江匡房の著である『江談抄』に「熊野三所は伊勢太神宮と同体である。本宮ならびに新宮は太神宮、那智は荒祭である」(引用者意訳)という認識を書いていた。

『長寛勘文』に、熊野権現は、伊勢太神宮と其名異にして、其神は同一であるとし、また熊野本宮は伊勢の内宮であり、新宮は外宮、那智は荒祭宮であると勘申したことが記されている。(岩田貞夫「皇大神宮別宮 伊雑宮謀計事件の真相」)

那智の滝神が荒祭宮の神と同体であるという説を紹介していました。熊野磨崖仏の不動明王は那智の滝神である瀬織津比咩神の神仏習合した姿であり、大日如来には熊野の日神である太陽神の姿が投影されていると思われます。平安時代末期の作と伝えれている熊野磨崖仏にも熊野修験の奉斎した神の姿がよく見えるようです。

「円空と瀬織津姫」菊池展明著の上巻には以下のように書かれています。

円空は宇佐八幡の大元神ともいえる御許山の神(八幡比売神=宗像女神)について、次のような歌を残している。

万世に開は花の主成か御評(許)の山の守在世
(万世に開(さく)か花の主なるか御許(おとも)の山の守在世(まもりましませ)

白鷺や池主の玉ならは御許山の神かとそ思ふ
(白鷺(しらさぎ)や池主(いけのあるじ)の玉ならば御許山の神かとそ思ふ

江戸時代の僧である円空の足跡を追いながら、瀬織津姫神の祭祀を明らかにしていくという「円空と瀬織津姫」上下巻により私は多くのことを学びました。生前菊池氏からは同書を心血注いで書いたとお聞きしています。

詳しくは宇佐神宮の謎の比売大神を書いた
「八幡比咩神とは何か」菊池展明著に譲りますが宇佐神宮の第二殿に祀られている比売大神は国東半島では身濯神であり、不動明王とも習合する女神となります。多くの瀬織津姫神の神社伝承を調べて本に残してくれた菊池氏に深く感謝します。

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御霊神社:大阪市 

瀬織津姫神

大阪市中央区淡路町の御霊神社の紹介です。
昨年12月発売した『八幡比咩神とは何か』菊池展明著の写真挿入のために関西に行き、御霊神社に立ち寄りました。
御霊神社は船場のごりょうさんとして親しまれ、崇敬されている神社です。
神社のHPには以下のように記されています。

ご祭神
天照大神荒魂(瀬織津比売神)
津布良彦神(旧摂津国津村郷の産土神)
津布良媛神(旧摂津国津村郷の産土神)
応神天皇(広幡八幡大神)
源正霊神(鎌倉権五郎景政公霊)

創祀は、平安時代に書かれた『文徳天皇実録』の嘉祥三年(850)に八十嶋祭の祭場とされた圓神祠にはじまります。
この圓神祠こそが、御霊神社の始まりで、千年以上の歴史がうかがえます。

圓江は禊祓する場所であり、ツミ、ケガレは川へ流しただけでは徹底しないため、都人たちは遠路わざわざ難波津までやってきて、自らの息を吹きかけてケガレを移した人形を海に流しました。

瀬織津姫神を祓いの神としたのは中臣金で天智八年(669)のことと記憶していますが、御霊神社は祓いのご神徳を語るも瀬織津姫神を天照大神荒魂として祀っている神社です。神様を総称して呼んでいるのかもしれませんが、ごりょうさんの響きがとてもいいです。
御霊神社鳥居

御霊神社拝殿

御霊神社由緒1

御霊神社由緒2
拝殿横の松之木神社横には小さな不動明王像が大切に祀られており、入口近くの石碑には観音霊場の碑が建っています。瀬織津姫神は十一面観音や不動明王とも習合しますので旅の疲れを忘れてほっとしたのを覚えています。
御霊神社松之木神社

御霊神社不動明王像

御霊神社 11面観音像

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豊後大野市の瀬織津姫神 

瀬織津姫神

豊後大野市朝地町板井迫736の瀬織津姫祭祀は、故菊池氏の調べた資料の全国祭祀リストに記載されている神社です。大分県内で他には中津市の闇無浜神社・杵築市大田の日枝神社・日田市の有王社などがあります。
▼神明社
神明社1

リストには合祀されたことが書かれていましたが、郷土資料を見てもどこから合祀されたものか解りませんでした。
数年前、明治期の神社明細牒で字妙見からと書かれたものが見つかりましたので周辺の方にお聞きしてあるお宅を
お訪ねしました。神社らしきものは現存しませんが、以前は裏の岩のところに何体かの像が祀られていました。その像が
下の写真です。
画像1

今回、もう一度訪問をして御神像の写真を写させて頂き、ブログに掲載してもよいとの許可をいただきましたので
ご紹介出来ました。このお宅のご先祖は、大友氏の家来で戦いに行く時には必ず一緒に持っていかれてこのご神像に武運長久の祈りを捧げたそうです。
ご先祖様がこの地に来られたのは、この地が妙見だったからと以前お聞きしたことがあります。400年前と云われていましたが当主の方は瀬織津姫神というご神名はご存知ではありませんでした。妙見という地に住まわれて守護神として祀られてきました。亀に乗って剣を立てている姿は確かに勇ましいものがあります。妙見神として瀬織津姫神のご神名を残しているの神社は他にも宮崎県の衾田八幡宮の境内社で見受けられます。下記の像はご神像としてご紹介出来る数少ない像の一つだと思っています。
神明社妙見神像


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「八幡比咩神とは何か」菊池展明著より 

瀬織津姫神

「八幡比咩神とは何か」菊池展明著に紹介されている神社です。

豊後高田市真玉町の真玉川沿いに香々地町方面に走ると左手に八面宮の鳥居があります。

明治初期の「旧藩神社明細牒」大分県立図書館所蔵には城前 八面大明神とあり

ご祭神は少童命・瀬織津姫命・速秋津姫命の三柱の神様と記載されています。

ところが明治十五年「西国東郡神社明細牒」になるとご祭神は八面に合わせて次のように変わります。

天之狭土神・国之狭土神・天之狭霧神・国之狭霧神・天之闇戸神・国之闇戸神・天之惑女神・天之惑子神

この露骨な祭神の改名はどのような意図があったのでしょうか?

又、真玉川の上流には身濯神社や六所神社のご祭神として瀬織津姫神は異称である八十枉津日神で

祀られていることをお伝えします。明治という時代は、全国各地で廃仏毀釈やご祭神の改名等、神仏にとっても

氏子様にとっても本来の真の姿が見えなくなった時代でした。大分県立図書館には

明治初期の「旧藩神社明細牒」~明治44年「神社明細牒」まで神社を調べた記録が残されているので

時代を追ってご祭神の変化を知ることが出来たのですが他の県では、このような形では公開されていません。

各地の神社調べが明治期以前まで遡ることができれば、もっと多くの瀬織津姫神祭祀が探せると思っています。

では八面神社をご紹介します。

八面宮鳥居

八面宮拝殿
八面神社本殿
八面宮本殿2
本殿の下の石碑には八面大明神として祀られたのが元正天皇の御宇の神亀元年であることを告げています。
神亀元年といえば、724年のことです。本来はこの場所ではなく、もっと川沿いに社殿があったようですが、元禄の洪水の時に流され、社殿が遷されました。
八面宮本殿
八面神社の変えられたご神名は、現在氏子の方々により、本来のご祭神に戻され、祀られています。



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笠沙の岬と瀬織津姫祭祀 

瀬織津姫神

あけましておめでとうございます。

本年もよろしくお願いいたします。

昨年12月に風琳堂から出版した『八幡比咩神とは何か 隼人の蜂起と瀬織津姫』菊池展明著には

心暖まる激励やご注文を沢山いただき、大変ありがとうございました。

今年もゆっくりと古代史を学ぶ旅を続けて行きたいと思います。

宜しくお願い申し上げます。

昨年は、本の中に挿入する写真を写す為に鹿児島へ随分と走りました。

本日は笠沙の岬に残る太陽神である火明神と月(水)の神の瀬織津姫神祭祀の紹介です。

鹿児島県神社庁のHPには県内の神社のご祭神について詳しく載せていますが、

現地に行って調べると別の発見があって楽しいです。

まずは、『八幡比咩神とは何か 隼人の蜂起と瀬織津姫』にも触れている南さつま市の笠沙の岬です。
案内図
笠沙の岬
笠沙の岬1
笠沙の岬の写真を写そうと海岸に着くと伊勢社が祭られていました。
笠沙の岬の伊勢神宮
そしてその先には立神さんと呼ばれている大岩がありました。
立神さん

笠沙の岬周辺
野間岳(591m)
野間岳

野間岳中腹には野間神社があり、ここで始めて私は姥媽神を知りました。
野間神社鳥居

野間神社拝殿

野間神社本殿
野間神社由緒
野間神社由緒
『三国名勝図会』の野間嶽
野間獄

野間神社は勧請年月は不詳のようですが元は野間岳山頂にあり、東宮にニニギノミコト・コノハナサクヤヒメを西宮にホノスソリノミコト・ヒコホホデミノミコト・ホアカリノミコトを祭り、『加世田再撰帳』には西宮は姥媽神女・千里眼・順風耳を祭っていると書かれています。
『笠沙町郷土誌』<上巻>には野間権現末社の記載があります。

白石権現
野間岳の頂上から下に400mぐらいの所に北側の片浦に面して、高さ約10mの大きな岩山がある。これが白石権現の御神体であった。側には清水が湧いており御手水と呼び、神之水として崇められている。野間権現の正祭のときにここでも祭ることになっていた。
一王子
末社の一つ、野間山中にあり湍津嶋姫(おきつしまひめ)を祀っていた。石がご神体。
二王子
末社の一つ 祭神不詳

野間岳山中には本地堂があり二尺5寸木造の阿弥陀佛と一尺6寸5分の石造の姥媽神、脇士に一尺3寸の順風耳と千里眼の石造が記録されています。

『先代舊事本紀』には以下のように書かれています。

次に湍津姫命(せつひめのみこと)亦の名は多岐都姫命(たきつひめのみこと)亦の名は遺津嶋姫命(をきつしまひめのみこと)。
宗像の辺津宮に座す。是海浜(これわたつはま)に居所者(ましませるかみ)なり。

『八幡比咩神とは何か 隼人の蜂起と瀬織津姫』菊池展明著より引用。

湍津嶋姫(おきつしまひめ)はタキツ姫の異称でもありました。
笠沙の岬には、元初太陽神とされる火明命と月(水)神の湍津嶋姫(おきつしまひめ)と記載されるも異称での瀬織津姫祭祀がありました。笠沙の岬の立神さんは太陽神の降りた神岩あり、末社に残る湍津嶋姫祭祀双方が阿多隼人の古の信仰と考えられます。

野間岳には神火の伝説があり、夜、航海で方角が分からなくなった時に祈願すると必ず頂に神火が現れ、助けてくれるように書かれています。これは航海守護のご神徳を持つ、瀬織津姫神伝承で語られるものと同じで大分県中津市の闇無浜神社や福岡県福津市の波折神社などにも伝承されるお話です。『笠沙町郷土誌』<上巻>史料編には本地堂より三町南の山中に、堂の鼻と云う所があり、ここに往古権現社が有り、夫より絶頂に御遷宮有りと云う一説を紹介しています。姥媽神と呼ばれる女神がいつから祀られるようになったかは定かではありませんが、野間神社にはどのような神様が祀られていますか?という私の問いに伊勢にいる神様と同じすごい女神様が祭られていると初老の男性が答えてくれました。思わず、嬉しくなったひと時です。

『エミシの国の女神』で書かれたように伊勢の地主神として祀られていた女神は、遠野では早池峰山の女神でもありました。
次の『円空と瀬織津姫』では、円空の足跡から瀬織津姫神祭祀の残像を見つめて歩いた旅であることや消された神への鎮魂の彫像の旅であったことを明かしました。また、円空がアマテラスを男神で彫ったことやスサノオノミコトの本地である牛頭天皇を「女神」として彫っていること等興味深い内容が紹介されています。
そして次の九州では隼人(ハヤヒト)の信仰に月(水)神である瀬織津姫神の祭祀を考察しました。
一昨年の夏、他界した風琳堂主人こと菊池展明氏は地方によりご神名が変わる複雑な神社祭祀の実像を明快に答えてくれる頼もしい歴史研究家でした。今年も氏の著作や瀬織津姫祭祀、郷土史に残る地域の伝承等を紹介していきたいと思います。

野間権現略縁起

野間山大権現略縁起

抑、薩摩の國野間山といへるは大悲の霊場なり、往古唐土福建の南海の甫田といふところあり、此浦の漁家林氏の娘生れて霊異あり、十余歳にして、我ハ是海神の化身なり、海洋ニ入て往来の船を守護すへしとて、忽海水に没死す、則甫田に廟社を建て、船神として是を崇祭りて今にあり、時に大明の天子にて、天妃姥馬の諡(シ)号を賜り、則観世音菩薩の化身として、唐土の諸船甚尊敬し奉ぬ、其海洋に没せし尊骸は、流れて薩州の海邊に寄来れるを、取あけ、即山上に葬奉り畢ぬ、其後種々霊異の事とも有之、往来の船の諸願も叶へ給へり、仍而長崎往来の唐船も、洋中にてはしめて此霊山を見れば、紙銭を焼き、金鞁をならして拝祭せり、是よりして、此山を野間山権現と号せり、野間の和訓は是姥媽の唐韻の轉語なり、又長崎の津外七里の南に野母(のも)と云る浦里あり、高山の麓に寺あり、本尊一体、御長七尺、行基菩薩の作にて、元享釈書にいへる、日御崎の観世音これなり、此高山の下を日の御崎といふ、唐船も亦これを遥拝す、野間と野母の通韻にて、殊にいつれも観世音の霊地なれはなり、皆姥媽の轉韻なり、故に野間・野母の両山ともに、唐土の人は天童山と号し奉しぬ、右は、崎陽西川先生の文にして、則これを長崎夜話艸と題し、五巻の草紙にしてありしを、予乞い求めて、ひしてつれつれなる雨夜の折に、ひとり寝の友と詠めしに、如何して洩れけん、薩陽の聖師、姥媽の巻計りを写しくれよと、せちに乞給ふによりて、求に應し侍る、
于時天明六稔    崎山人一瓢軒   丙午仲冬二日 恕柳


野間権現神火ノ伝説

野間権現御潮井取トシテ、海邊へ御下リト、往古ヨリ俗ニ唱ヘテ、折々野間山絶頂白石の邊ヨリ神火相見得、其火甚タ大ニシテ、後平ノ方ヘ廻ラセラレシ、神渡・打寄ノ邊へ御下リ、夫ヨリ又本ノ通御道筋御上リ帰ラセ給フト云、其神火、野間池邊ヨリ折々相拝ミ候、又洋中ニテ難船ノ折、夜中方角不弁進退相窮リ候節、御祈願ヲ掛候得ハ、必ス右絶頂ヘ火顕レ、方角相分リ助命イタシ候者過半有之、右様ノ事度々ニテ、本朝ニ限ラス、異国ノ船マテモ深ク尊敬ノ御岳ニ候、是レ七奇所ノ一ツナリ、

野間山大権現略縁起には「野間・野母の両山ともに、唐土の人は天童山と号し奉しぬ」と書かれています。対馬に残る天童信仰を
重ねて縁起を読んでいました。いつか対馬を歩いてみたい・・・。


資料:『笠沙町郷土誌』<上巻>より引用




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『八幡比咩神とは何か』菊池展明著本日発売! 

古代八幡信仰

『八幡比咩神とは何か』菊池展明著本日発売!

八幡

『エミシの国の女神』『円空と瀬織津姫』上下巻を書いた菊池展明氏の遺作集が風琳堂から出版されました。

本の始めは鹿児島市隼人町の犬飼の滝です。

ユーチューブでもご覧いただけます。https://www.youtube.com/watch?v=8bt-SEB3gsc

犬飼の滝

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新刊「八幡比咩神とは何か 隼人の蜂起と瀬織津姫神」 

風琳堂

12月22日風琳堂から『八幡比咩神とは何か 隼人の蜂起と瀬織津姫神』菊池展明著が出版されます。
≪追録≫宗像祭祀の解読を含む、約400ページのものです。

 鹿児島~宇佐~宗像まで宇佐神宮の比咩神の謎を追って原初八幡信仰の原像に迫まります。同書は、昨年他界した菊池氏の遺作集となりました。今年の後半は、本に挿入する写真を写す為に鹿児島~福島県まで走りました。
 菊池氏に生前、写真を特に綺麗に写してほしいと依頼された場所があります。霧島山・鹿児島の犬飼の滝・中津市の八面山・そして宗像の大島です。一度は全部写して送りましたが、編集者の顔を持つ鬼の筆者からは再度チャレンジするように促されボツになりました。鹿児島の犬飼の滝へは5~6回足を運んだでしょうか・・・。天気のよい日、雨上がりなど時間も変えて行く(ちなみに当地から片道高速でも5時間かかります)のですが、なかなかいい写真は写せませんでした。校正の期日も迫り、もうこれが最後になるだろうと再度犬飼の滝へ向いました。午後3時を過ぎていたと思います。前回は雨の後で滝の水は多く濁っていましたので私にあるのは小さな希望だけでした。その時、私の見た犬飼の滝の姿は・・・・・・?
本の始めに載せています。どんな写真を写したかはお楽しみです。22日にはユーチューブで見ていただけるようにしたいと考えています。
チラシも出来上がりましたので風琳堂HPからご覧下さい。http://furindo.webcrow.jp/
当ブログを見て早速ご注文していただいた皆様にとても感謝しています。
ありがとうございました。
▼薩摩半島野間岬(笠沙の岬)
ハヤト(ハヤヒト)の文献上の初出は『古事記』の天孫降臨の段につづく場面です。天孫「天津日高日子番能邇邇芸能命」は「筑紫の日向の高千穂の久士布流多気」に降り立つと、次のような言葉を呟きます。
「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、此地は甚吉き地。」中略
「笠沙の御前」は薩摩半島「阿多」地方にある、現在の野間岬とされます。(『八幡比咩神とは何か』より)
本の写真は白黒なので笠沙の岬をみてほしいと思い、アップしました。
笠沙の岬


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香春町 天照大神宮と呉媛のお墓 

古代八幡信仰

古代宇佐神宮の二大神事の一つに放生会があります。その出発地となるのが、福岡県田川郡香春町です。

風土記の豊前国の記載を読んでみます。

鹿春郷

豊前(とよくにのみちのくち)の国の風土記の曰はく、田河(たがは)の郡(こほり)。鹿春(かはる)の郷(さと)。 此の郷の中に河あり。年魚(あゆ)あり。其の源は、郡の東北(うしとら)のかた、杉坂山より出でて、直(すぐ)に正西を指して流れ下りて、眞漏川(まほろがは)に湊(つど)ひ会えり。此の河の瀬清浄(せきよ)し。因りて清河原の村と號けき。今、鹿春の郷と謂ふは訛(よこなま)れるなり。
昔者、新羅の国の神、自ら度り到来りて、此の河原に住みき。便即(すなわ)ち、名づけて鹿春(かはる)の神と曰ふ。又、郷の北に峯あり、頂に沼あり、黄楊樹生ひ、兼、龍骨(たつのほね)あり。第二の峯には銅(あかがね)、並びに黄楊・龍骨等あり。第三の峯には龍骨あり。
▼香春岳
香春岳
八幡神の分霊を祀って放生会を行っている神社は多く見受けられるが、銅鏡奉納儀礼は受け継がれなかったと書いたのは宇佐神宮について多くの著書を残した中野幡能氏でした。放生会については、後日、触れたいと思います。
 
清祀殿の天照大神宮はご存知の方もいると思いますが、採銅所近くの天照大神宮を訪れる方は少ないのではないでしょうか。香春駅に設置の案内板には、以下のように書かれていました。

天照大神宮
神功皇后が仲哀天皇に祟る神を知るため、神託を聞いたと伝えられている

どうしてこの場所にこのような伝承があるのか不明ですが、興味深いことだとは思います。日本書紀には祟る神についてどのように書かれていたのか巻第九を読んでみます。

皇后、吉日を選びて、斎宮に入りて親ら神主と為りたまふ。即ち武内宿禰に命(みことのり)して琴撫かしむ。中臣烏賊津使主(なかとみのいかつのおみ)をして審神者(さにわ)にす。
「先の日に天皇に教へたまひしは誰(いづれ)の神ぞ。願はくば其の名をば知らしむ」とまうす。七日七夜にいたりて、乃ち答へて曰はく、「神風の伊勢国の百傳(ももづた)ふ度逢縣(わたらひのあがた)の拆鈴五十鈴宮(さくすずいすずもみや)に所居す神、名は撞堅木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)と。(後略)
「さにわ」語注ー皇后の神託を請い聞き、意味を解く人とあります。

神功皇后が聞いた神託では、祟る神は伊勢の五十鈴の宮に居ます神として長いご神名が続きますが、内宮の荒祭宮の神のことです。この神を西の伊勢と呼ばれる山口大神宮では、瀬織津姫神と記載しています。

▼香春町採銅所近くにある天照大神宮
香春天照大神宮鳥居
▼拝殿
香春天照大神宮拝殿
▼本殿
香春天照大神宮本殿

次は、呉媛の伝承です。
仲哀トンネルからすこし入ったところに呉媛のお墓があります。
▼呉媛案内板
呉媛の墓
▼呉媛の墓
呉媛の墓2

案内板によりますと四婦女が呉(中国)から筑紫に渡ってきて、そのうち一人は宗像大神に奉り、あとの三人は津の国に行ったとあります。風琳堂主人が千時千一夜ブログの最後に書いた遠野の伝承には三人の姫神の母神が書かれていました。遠野はこの母神の存在を伝承している貴重な里です。

http://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/31039473.html(遠野郷天女伝説の故地)


『エミシの国の女神』菊池展明著には遠野郷の母神のことや伊勢の地主神について詳しく考察されています。12月22日発売予定の『八幡比咩神とは何か 隼人の蜂起と瀬織津姫神』菊池展明著(風琳堂)は、隼人の国の女神ともいえる内容が書かれています。この本は昨年他界した菊池氏の遺稿集となりました。八幡大神の原像や宇佐氏の奉祀する女神のルーツに迫ります。古代史に関心のある方や八幡神社の氏子様に是非読んで頂きたい書です。

12月22日は、冬至日で古代には冬至を1年の始まりとしたそうです。新しい年の始まりを寿ぎ、出版日とさせていただきました。

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宗像大社:みあれ祭・高宮神奈備祭 

平成27年宗像秋季大祭は、9月30日の午後5時、総社地主祭から始まりました。神事は辺津宮拝殿で行われると思っていましたが、秋季大祭が無事行われるように祈念する総社地主祭は、辺津宮拝殿横にある榊の木の前で厳かに行われました。社の中の神に祈るのではなく、榊の前でなければならない理由がそこにはあると思われます。
▼辺津宮拝殿横の榊の前の祭壇
総社地主祭
▼辺津宮拝殿(神勅の神額)
辺津宮拝殿
▼みあれ祭
10月1日、朝からの風雨でみあれ祭は中止になるのではないかと傘を差しながら、祭の船団を待ちました。予報では午前中雨でした。みあれ祭は沖津宮・中津宮から出御した御座船が、大島~地島を経由して神湊へ海上神幸します。 船が大島を出御するころになると雨と風は、すこし静かになり、空には明るい日差しが射しました。さっきまでの風雨がうそのようです。そのとき私は宗像の神様の神徳と神様を信じて荒波に船を出す海の男達の勇ましさを感じました。
みあれ祭り1
▼御座船 赤と白の旗をなびかせて船が進みます。
宗像みあれ祭
▼神湊につくと辺津宮からも神輿が着いて3基の神輿が揃って遁宮祭の神事が行われました。
中津宮神輿jpg
▼10月3日午後6時から高宮神奈備祭:辺津宮から高宮への参道を通って庭上祭祀が行われている祭場へと向います。
高宮祭場案内板
▼高宮祭場
高宮祭場
▼高宮神奈備祭(悠久舞奉奏 八女神事古歌奉唱)
高宮祭場2

takamiya 12月出版予定の『八幡比咩神とは何か 隼人の蜂起と瀬織津姫神』菊池展明著の本に挿入する写真撮影のために宗像大社に向いました。忙しくしていたため、みあれ祭のご紹介が遅くなりました。

以前、著者の菊池氏は千時千一夜のブログのなかで次のように書いていました。
 
伝説を読むとは、伝説を語り継ぐ人々の「心」を読むのと等価であるようにありたい。

故菊池氏は、語り継ぐ人々の「心」を読むことのできる稀有な作家でした。おかげさまで氏の本を出版することの大変さと面白さを体験させていただいています。

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地蔵院の不動明王像 

古代八幡信仰

宇佐神宮の奥宮(大元神社)のある御許山は、三女神降臨の地と伝えられています。

『日本書記』巻第一には以下のように書かれています。

「即ち日神の生まれませる三(みはしら)の女神(ひめかみ)を以(も)ては、葦原中国(あしはらのなかつくに)の宇佐嶋(うさのしま)に降り居(ま)さしむ。」

▼御許山
日足から見る御許山
▼九合目には、宇佐神宮の奥宮の大元神社があります。
大元神社1
▼奥宮の鳥居 鳥居の奥は禁則地になっています。
大元神社奥宮
御許山には神仏習合の時に正覚寺がありましたが、他に僧房もいくつかありました。その中に成就寺(院)があり、不動明王像が祀られていました。明治の廃仏毀釈の時には、日足の方々が総勢で御許山の上から、大きな不動明王像を運んだとお聞きしています。今は、日足の地蔵院の一角に安置されております。この不動明王像は寺伝(本朝無双木目不動尊御略記)によると仁聞菩薩が一刀三禮して彫られたと伝えれています。
 略記には養老四年の隼人の乱にこの不動尊に祈念したと書かれていますが、南北朝の頃の像との説もありますので略記の記述は定かではありません。国東の千燈寺の五智岩屋には同じ縁起が語られていました。『速見郡誌』には「養老四年大隅隼人の反乱の時、ここ五智の岩屋で仁聞が自ら書いた不動明王の像を掛けて五壇の秘法を修した」との記載があります。いずれも隼人の乱の時に不動明王と習合する神(八幡大神)に異敵降伏を祈念したのではないかと考えられます。
 
地蔵院の不動明王像は、大分県下のなかでもとても力強い作だと思います。

▼地蔵院
楼門
▼略記
不動尊略記
▼不動堂
不動堂
▼不動明王像
御許山不動明王

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宇佐氏伝承:織姫命 

古代八幡信仰

『古伝が語る古代史』宇佐公康著には、宇佐家伝承によると常世織姫命の墳墓が宇佐市橋津字上築の貴船神社の社地であると書かれています。宇佐神宮の奥宮のある御許山の裾野には寄藻川が流れています。神社沿革には上築(あげつき)の橋津の人たちは川向かうの山側から、移住地を捨て川の東岸の台地に住むようになったと伝えています。この川が寄藻川です。
▼御許山と寄藻川
御許山と寄藻川
▼貴船神社(現在は橋津神社と呼ばれています)
橋津神社 1
▼神社沿革
橋津神社沿革
同書には3世紀初頭の原始的高塚古墳の形態をそなえているが、盗掘されてしまって、現在では社殿の周辺や境内に石棺の石と見られる平石が散乱していると書かれています。
この橋津地区の沿革をよく読むと1587年に黒田領、1600年中津藩細川領、1669年肥前島原領、1871年小倉県、1876年福岡県、1876年ここでやっと大分県、色々と領主交代を経験した地域であることが分ります。
▼神社由緒
橋津神社由緒
▼拝殿と本殿
橋津神社4

同書には、この神社の祭神は貴船大神で、一般に「貴船さま」と呼ばれ、古くから宇佐宮大宮司の宇佐家が社司を兼務し、祈年祭・新嘗祭・神幸祭の三代祭を斎行していたとあります。実際の現地の由緒には織姫命には触れられておらず、宇佐宮のご神幸祭や禊神事等と深い関係があると記されています。
沿革には「小山田社免田封戸郷橋津入江屋敷・・」とあり、古代宇佐宮が出来る前に社地としていた小山田社(宇佐宮八箇社の一つ)との関わりが考えられます。小山田社にも鳥居に貴船神社の扁額があります。小山田社のご祭神は八幡大神ほかで織姫伝承は見受けられません。宇佐家が大切にした貴船大神は、宗像大宮司も私祭していた神でもありました(『八幡比咩神とは何か』(十二月始め出版予定:菊池展明著より)。その神と織姫神が重なってみえる橋津神社の伝承でした。豊前国へ行くと瀬織津姫神がご祭神と伝える貴船神社があることをお伝えします。

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店主お勧めのお酒! 

ひとりごと

豊後高田市田染荘に行ってきました。

このところ、随分とお世話になった方への贈り物をお酒にしました。

日本酒を楽しむ会で知った店主のもとへ

どの銘柄かいいかは、お任せで選んでいただきました。

さてその方は喜んでもらえるでしょうか?

※・・・・さん、お体を労りながら、お飲み下さいませ。

田染の荘
▼おすすめの焼酎
焼酎
▼おすすめの日本酒
日本酒



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宇佐神宮:放生会 

放生会

平成27年10月10日、宇佐神宮の仲秋祭(放生会)が今日から、12日まで行われます。
本殿での神事の後、秋色に染まった宇佐平野を1基の神輿を多くの氏子さんが担いで寄藻川近くの和間神社まで向います。
明日は、六郷満山の僧侶の方々と和間神社で放生会の神事が行われます。
宇佐神宮神事

ご神事と神輿

宇佐神宮鳥居と神輿
▼沿道のコスモスは、ご近所の方が今日のために1年前から計画して植えたそうです。満開に咲いたコスモスの傍を氏子さんの行列が通ります。
コスモスと放生会

コスモスと神輿

宇佐神宮は、神輿発祥の地です。中津市の薦神社の真薦をご神体にして朝廷軍と八幡の神軍が鹿児島の隼人を討伐しました。
その後、疫病等が発生して八幡神の神託で放生会が行われるようになりました。その場所が和間神社の浮殿です。
▼和間神社
和間神社
▼浮殿
浮殿

 古代宇佐宮の二大神事として行われていた放生会は、銅鏡奉納儀礼でもありました。香春から豊日別宮や豊前の各神社を経由して和間神社に収められたご神体である銅鏡は、ここから古代宇佐宮へ奉納されることになります。
11月末に出版予定の『八幡比咩神とは何か』菊池展明著に放生会のことが詳しく書かれています。以前の宇佐神宮研究書では触れられなかった八幡神の謎を深く考察した歴史書です。昨年、著者は他界しましたので遺作集になりました。本が出来上がりましたら、ブログで報告します。

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円空仏:三井寺 

円空

滋賀県大津市園城寺町の三井寺の紹介です。

「三井寺」は、正式には園城寺ですが、俗に「三井寺」と呼ばれるのは天智・天武・持統天皇の産湯に用いられた霊泉があり、「御井(みい)の寺」と呼ばれていたものを智証大師が、厳儀・三部灌頂の法水に用いられたことに由来すると伝えられています。(三井寺パンフレットより)
 また、この「井」には琵琶湖の竜神が住んでいるとも伝えられています。閼伽井屋の正面には、左甚五郎作の龍が夜な夜な琵琶湖に出て暴れたために、困った甚五郎が自ら龍の目玉に五寸釘を打ち込んみ静めたと伝えられる龍を観る事が出来ます。
 この三井寺には「円空と瀬織津姫下巻」菊池展明著に書かれているように円空が彫った7体の「善女竜王像」(最大は71.3cm)が安置されています。同書には円空が三井寺で詠んだ歌が紹介されています。

 三井の寺書置事文なれや古も今もかワらさりけり
  (三井の寺書きおくことの文(あや)なれや古(むかし)も今も変わらざりけり)

筆者の菊池氏は、円空が「文(あや)なれや」という深い溜息を詠んだのはこの歌と、高賀山の滝神を思って詠んだ「文なれや予(わが)ことなさで滝の宮心のこゑヲ神かそと念(おもふ)」の二首であると書いています。また円空は琵琶湖の竜神の鎮魂・供養の気持ちから白山の水神を投影させた善女龍王像を三井寺へ奉納したのであろうと考察しています。
 果たして円空の溜息は琵琶湖の龍神に届いたでしょうか?1600年代を生きた円空と現在の神祀りは少しも変わっておらず、著者も同じ溜息を共有したのではないか・・・と考えます。
▼三井寺山門
三井寺山門
▼金堂
三井寺金堂
▼▼閼伽井屋は金堂の正面左側にあります。案内板。
閼伽井屋案内板
▼左甚五郎作の龍
左甚五郎作の龍
▼閼伽井屋の井(天智・天武・持統の三天皇の産水といわれています)
 ごぼごぼという音とともに綺麗な水が沸き出でていました。
閼伽水
▼三井寺円空仏のはがきより
三井寺円空仏

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野洲:長澤神社 

瀬織津姫神

野洲市比江の長澤神社の紹介です。

長澤神社の創建は古く大宝三年(703)と伝えられています。ご祭神は三女神で総称して長澤大明神と呼ばれていた時期があると思われます。長澤神社のご祭神を良く見ますとタギツヒメとは記載されず、天瀬織津姫尊と書かれています。宇佐神宮周辺でも
明治期の神社明細牒にタギツヒメを滝津姫神と記載される神社を四社見つけることが出来ます。タギツヒメ=瀬織津姫です。全国的にはこのように表示されるのは少数で鹿児島の厳島神社と数件でしょう。境内には藤の木があり、大切に手入れされています。
長澤神社全景

長澤神社扁額

長澤神社案内板
▼この伝説を読むと彦神がいないので花は咲くが実らないと興味深いことが書かれています。特別の意味を持つ藤の老樹を見ながら江戸時代の僧・円空を思い出していました。円空が入定地として選んだのは岐阜県関市の長良川河畔でした。「この藤の咲く間は、この土中に生きていると思ってほしい」と里人へ告げて入定しました。『円空と瀬織津姫』下巻には琵琶湖周辺の神社・仏閣の興味深い話が書かれています。秋の夜長、菊池氏の本をを再び開いてみましょう・・・
長澤神社藤樹伝説

長澤神社の藤

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佐久奈度神社 

瀬織津姫神

滋賀県大津市大石の佐久奈度神社の紹介です。

佐久奈度神社は天智天皇八年創建の延喜式内名神大社です。
大祓の神・厄除の祖神として祓戸大神が祀られております。

佐久奈度神社鳥居

佐久奈度の神

佐久奈度神社由緒

ご祭神 瀬織津姫命・速秋津姫命・気吹戸主尊・速佐須良姫尊

神社発行のパンフレットを読んでみます。

瀬織津姫尊
「祓戸の大神四神」の名前は『古事記』や『日本書紀』には直接登場しませんが、いつくかの文献にはその名が見られ、謎の多い神々とされています。大祓詞には「高山の末短山の末より、さくなだりに落ちたぎつ速川の瀬に坐す瀬織津比売という神、大海原に持ち出でなむ」とあります。勢いよく流れ下る川の力によって人々や社会の罪穢れを大海原に押し流してします。川に宿る大自然神であることがわかります。大祓詞の最古の注釈書といわれる『中冨祓注抄』では、「速川の瀬」を「三途の川うばなり」と書かれてぽります。人々が犯した罪穢れを剥ぎ取り、生まれたままの姿に戻す働きであるともいえます。

速秋津姫尊
海に居られる神で、大海に流れ出た罪穢れを勢いよく呑み込んでしまいます。
気吹戸主尊
速秋津姫尊が海に呑み込んだ罪穢れを風の神である気吹戸主尊が根の国底の国(地底)に吹き放ちます。
速佐須良姫尊
気吹戸主尊によって気吹き放たれた罪穢れが、根の国底の国に居られる速佐須良姫尊によって浄化します。


祓戸の大神の総本宮とされている佐久奈度神社は朝廷が飛鳥より近江大津宮に移ったのを期に、天智天皇八年(669)天皇の
勅願により中臣朝臣金連(かねのむらじ)がこの地に祓戸三神を祭ったのが始まりとの記載があります。この地は桜谷と呼ばれ、景勝地として知られ、唐崎神社と共に天皇の厄災を祓い平安京を守護して「大七瀬の祓所」として武家の崇敬も篤かったそうです。昭和39年、「天ヶ瀬ダム」建設に伴い、旧社地から移転しました。(パンフレットから引用)

佐久奈度神社拝殿

佐久奈度神社拝殿中

佐久奈度神社境内社

故風琳堂主人のブログ(千時千一夜)には『近江国風土記』に以下のように記載されていると書かれています。

近江[あふみ]の風土記に曰[い]はく、八張口[やはりぐち]の神の社[やしろ]。即[すなは]ち、伊勢の佐久那太李[さくなだり]の神を忌[い]みて、瀬織津比咩[せおりつひめ]を祭[まつ]れり。『近江国風土記』逸文(秋元吉郎校注『風土記』岩波書店、所収)

佐久奈度神社には始め、、一柱で瀬織津比咩が祀られていたとあります。豊前市の神社にも祓戸社のご祭神が一柱で祀られていました。大祓いの神とされた女神を伊勢内宮では天照大神の荒魂として荒祭宮に祀っています。『近江国風土記』にみる伊勢の佐久那太李[さくなだり]の神を忌みて祭ったとの記載は深い意味があるように思えます。境界の神として又、三途の川の姥としても郷土史で語られる女神ですが、国東半島では姥が懐に八十枉津日神(異称)でご神名をみます。

▼瀬田川
瀬田川2

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三国名勝図絵にみる瀬織津姫祭祀 

瀬織津姫神

『三国名勝図絵』は江戸時代後期に薩摩藩が編纂したもので山・川・滝や神社・仏閣・物産まで多く紹介されています。

この資料が語るのは、鹿児島にも瀬織津姫神の受難があったということです。

七社明神社 

祭神 八十狂津日命 神直日命 大直日命 天伊佐布玉命 天表春命 天背男命 経津主命 
    
    飯富7社の二祠は許多の神田を寄付ありしとす(三国名勝図絵より)

 
 ご祭神の八十枉日命の「枉」「狂」と記載するのは

  鹿児島に限ったことではありません。大分県国東半島にも明治期の神社明細牒には

  八十狂津日命とわざわざ訂正されていました。

 
 『先代旧事本紀』には

  荒祭宮一座 御形鏡坐。

  皇太神宮荒魂。伊弉諾大神所生神。

  名八十枉津日命也。 一名瀬織津比咩神是也。

  
 八十枉津日命は瀬織津比咩神のこととの記載です。
 
 瀬織津姫神という神に「狂」の烙印を押した本当の理由はなんだったのでしょうか?

 『エミシの国の女神』菊池展明著にあるように答えは、やはり伊勢にありそうです。

  風琳堂主人の歩いた道を私もまた・・・歩いています。

 七社明神社は、現在、七社神社といわれており、往古は霧島神宮の境内末社でありました。

 ▼七社神社鳥居
 七社神社鳥居
 ▼七社神社由緒
七社神社由緒
 ▼ご神木
七社神社ご神木jpg

 

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風琳堂主人を偲ぶ 

風琳堂

今日は風琳堂主人の命日にあたります。

昨年の今日、岩手県の遠野で急逝した風琳堂主人の他界への旅立ちを見送ったのは、90歳の母上様と

危篤の知らせを受けて東北へ向った私でした。風琳堂は菊池氏亡き後に母上様から

託されて現在に至っています。大分県の瀬織津姫祭祀の資料を送ったのが菊池氏との

ご縁の始まりで私の郷土史を読みながら、古代史の舞台を歩く旅が始まりました。

菊池氏の書いた宇佐八幡比咩大神の本は現在、校正中で晩秋には出版が出来そうです。

菊池氏の著書には伊勢神宮の成立と遷宮の謎を考察した歴史書『エミシの国の女神』や
エミシの国の女神

円空上人の彫像に至る信仰を深く読み解いた『円空と瀬織津姫』上下巻があります。

円空と瀬織津姫

滝の神、水の神である瀬織津姫神は伊勢内宮の荒祭宮に祀られています。

今日は、日本に大切な偉大な水の女神様がいることを教えてくれた風琳堂主人に感謝の気持ちを伝えます。

▼鹿児島市の犬飼の滝:案内板
犬飼の滝1

▼犬飼の滝
犬飼の滝 2
















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童謡 うさぎ うさぎ ・・・ 

古代八幡信仰

宇佐の本の第1回の校正中です。

『宇佐家伝承 古伝が語る古代史』宇佐公康著には宇佐氏の月神信仰が書かれていました。

最近、童謡の うさぎ うさぎ なにみて 跳ねる 十五夜 お月さん 見て跳ねる という懐かしい歌が

気になっています。(この暑さで可愛そうに・・・などと思う方もおありかと^^)

▼三井寺鎮守三尾神社のうさぎさん
三尾神社

うさぎは今日のような半月には跳ねないんだぁ~・・・そんなんだ・・・

『八幡宇佐宮御託宣集』には
 聖武天皇六年、天平元年已巳八月十四日に神託したまわく

毎月十五日は吾が日なり。これを知る人猶少し。就中八月十四日十五日を点領して、放生会を勤行して、放生を引導し、罪障を懺悔して、共に覚岸に登り、天朝を守護し奉らむてへり。

隼人の討伐後に始まった放生会(それ以前に仏教行事で行われていたという説あり)ですが、宇佐神宮では仲秋祭として現在も行われています。校正中の菊池氏の書いた宇佐の原稿の中で隼人の信仰に触れているのでもう一度「隼人」関連書を読み直しています。『隼人』大林太良・編の中で「民俗にみる隼人像」小野重朗著には薩摩半島に牛-稲作と関連した月神があったこと、大隅半島には蛇-栗や芋と関連した月神があると古い月神信仰を語っています。また八月十五日夜綱引に特に月神を祀る例が多くあるとも述べています。

同書を少し読んでみます。

例えば大隅半島の大根占町城元では十五夜の大綱を山上でカヤを主材料にして作るが、その時に別に小さいォ月サンノ綱をなう。よいカヤを選んだ長さ5メートル、太さ10センチほどの小綱で、これは近くの畑から七種の作物をとってきてないこむ。七種とは栗、野稲、キビ、ソバ、ゴマ、里芋、サツマイモだという。それらの穂やイモのついた茎をないこんだォ月サンノ綱は傍の高い木の枝に蛇が巻きついた形に巻きつけておく。これは月に供える綱、お月様の綱で、綱引には使わない。この綱は山上に残して、大綱は里に担ぎ下して部落で綱引をする。
 部落によってはこの小綱を丸く輪状に作って高い月のよくさす木の枝にのせておいて、これをォ月サァ(お月様)と呼ぶ例もみられる。すなわちこの小綱は農作物をないつける聖なる神の象徴であり、一方では蛇体、一方では月の偶像でもあると考えられよう。

読みながら、綱引の終わった後に大綱を輪にしてその中で相撲を取ったり、一部を切って体に巻きつけて鬼会のように災いを祓ったりしたのでは・・・と考えました。これは妄想に近い話ですが。

毎月十五日が、宇佐で託宣する神にとって「吾が日だ」とある。

隼人と宇佐氏の月神信仰との関連をわたしなりに模索しています。

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大島の七夕伝説 

観光情報

天の川・織姫神社1
▼織姫社
織姫神社
▼牽牛社
牽牛社1
▼天の川と天ノ真名井(延命招福の霊泉)御嶽山からの清水が牽牛・織姫社の間を流れ、海老なども生息する清らかな小川を天の川と呼んでいます)
天ノ真名井と天の川

筑前大島には宗像大社中津宮があり、宗像三女神の湍津姫神が祀られています。中津宮の鳥居を過ぎると天の川が左手に見え、中津宮のパンフレットには七夕伝説発祥の地と紹介していますので読んでみます。

七夕伝説発祥の地

 今日では季節の風物詩として全国各地で行われている「七夕」。まつりの規模が小さいためか知る人ぞ知る話ですが、中津宮七夕祭は少なくとも鎌倉時代まで遡ることができ、大島は七夕伝説発祥の地といわれています。「正平年中行事」(1346)には「七月七日、七夕虫振神事」とあり、境内にある牽牛社、織姫社に参籠し、水に映る姿によって男女の縁を定める信仰があると記されています。「続風土記」十六大島の条には、境内に「天の川」が流れ、牽牛社(彦星宮)、織女社(七夕宮)があること、さらに7月1日より7日間男性は彦星宮で、女性は七夕宮で参籠(お籠り)後、祭壇を設けて星祭(ほしまつり)(七夕祭)を行った。そして3つのタライに水を入れ、その3つそれぞれに想う男性の姿が映ればその男性と結ばれると記されている。
 「古今集栄雅抄」では、同様に7日間参籠後、上中下に水を入れたタライをおき、そこに男性の名前を書いて参事を行えば、その水面に映る姿で男女の縁を決めたとあります。
 さらに昔より大島では男児を得たいと思う人は牽牛の祠に、女児を得たいと思う人は織女の祠に詣でるという信仰もあります。
 これらの信仰は大陸から伝えられたと考えられていますが、商人によって都へ伝えられた書物に登場したようで、中津宮の七夕信仰が古くより中央にまでその名が知られていたことを物語っています。今日では8月7日(旧暦7月7日)の夜に、島を挙げて七夕祭が斎行され、島民をはじめ多くの篤信者が島に渡って夜遅くまで賑わいをみせています。
 
男女のご縁を七夕神に祈る大島での七夕伝説をご紹介したくて久々にブログをアップしました。始めて訪れた大島はとてもここちよい風が吹いていました。

現在、風琳堂では「宇佐八幡比咩大神」の本の出版を企画しています。風琳堂主人であった菊池展明氏の書いた比咩大神の歴史書を皆様に読んでいただきたく、只今奮闘中で今秋には出版出来る予定です。
本に載せたい写真を撮りに梅雨の天気のいい日を選んで走っています。また、随時ご報告します。

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宇佐神宮:遷座祭5月27日 

宇佐神宮で勅旨をお迎えして御遷座祭が5月27日に行われました。
本殿屋根の檜皮の吹き替えが終わり、下宮に移られていたご神体を3基の神輿にのせて午後8時過ぎに上宮へ向われました。
宇佐神宮の遷座祭は74年ぶりとの事でこのような儀式に立ち会える幸運に感謝です。
普段は皇族や勅旨しか渡ることができない呉橋も美しく塗られて一般の方の通行も許可されていました。
宇佐神宮鳥居
▼呉橋
呉橋
▼呉橋案内板
呉橋案内板
▼上宮への鳥居
上宮へ
▼上宮
上宮
▼下宮と神輿
下宮
▼下宮横
下宮横
▼御遷座の神輿
遷座

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善光寺通底伝説 

瀬織津姫神

信州善光寺7年に1度の前立本尊御開帳に行ってきました。
本尊の一光三尊阿弥陀如来像はインドで作られ百済に渡り、欽明13(552)年に仏教とともに日本に渡ったと伝えられています。その後秘仏となりそれ以降誰も目にした人はいないそうです。ご開帳で姿を見せるのは、本尊の分身として同じ姿で作られた前立本尊です。山門と本堂のほぼ中央には大香炉があり、手前に一尺5寸角(45cm)、高さ33尺(約10m)の回向柱が建立されています。回向柱の上部には「善の綱」が結ばれ、本堂に安置されている前立本尊につながっており、回向柱に触れることは、前立本尊に触れるのと同じ功徳があり、前立本尊と結縁で叶うと信じられています。
善光寺1-1
▼山門
善光寺1
▼本堂前の回向柱
善光寺1jpg


善光寺2

▼小林一茶句碑
春風や牛に引かれて善光寺 開帳に逢うや雀も親子連
小林一茶句碑
▼種田山頭火句碑
八重ざくらうつくしく 南無観世音菩薩像 すぐそこでしたしや信濃路のかっこう
山頭火句碑
▼善光寺には50のお寺があるそうですが本覚院内には静岡県の桜ヶ池と通底伝説があると伝えられている阿闍梨池があります。
善光寺5
▼皇円について
皇円阿闍梨
▼阿闍梨池由来
阿闍梨池由来jpg
▼阿闍梨池
阿闍梨池1
▼阿闍梨池
阿闍梨池2
静岡県の桜ヶ池には諏訪湖と通底しているとの伝承もあります。『円空と瀬織津姫』下巻菊池展明著には桜ヶ池の神をまつるのが池宮神社であり、江戸期までは「池宮天王社」と呼ばれ、池宮神社由緒には「敏達天皇ノ御宇十三年(583)瀬織津姫出現、国司此ノ由ヲ奏聞ス」とあるそうです。信濃善光寺には桜ヶ池ゆかりの神がいると思われます。


東北伝説 千時千一夜ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/13813257.html「伊豆権現と善光寺如来」に詳しく書かれています。

五十鈴川きよき流れはさもあらばあれ我は濁れる水に宿らん 

と詠まれたのは寛文時代に、この前立仏にちなんだ「新仏御詠歌」の一首(善光寺史研究会『善光寺史研究』大正十一年)です。

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国東半島の瀬織津姫1 

瀬織津姫神

国東半島に祀られている瀬織津姫神の紹介です。

まずは国東町掛樋の関大神社です。
関大神社は、私が始めて郷土史の中から発見した瀬織津姫祭祀でした。この神社は佐賀関に鎮座する「早吸日女神社」より元禄15年(1702)に飛来したとの伝承がありました。早吸日女神社では八十枉津日神として祭祀されています。
では八十枉津日神は瀬織津姫神と同神ですか? との問いに風琳堂主人から教えていただいたのが倭姫命世紀のことでした。
『元初の最高神と大和朝廷の元始』の中の倭姫命世紀 下巻には
 荒祭宮一座 御形鏡座 皇大神宮荒魂 伊弉諾大神生神 名八十枉津日神也 一名瀬織津比咩神是也 
と記載されています。

風琳堂HP東北伝説の千時千一夜で風琳堂主人が関大神社と早吸日女神社を以下のように紹介しています。
http://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/15952018.html
関大神社[せきだいじんしゃ](大分県国東市安岐町掛樋799)の紹介です。
 大分県国東[くにさき]半島の両子[ふたご]山(七二一㍍)は、養老二年(七一八)からはじまる神仏混淆(のちに「六郷満山」と呼ばれる)の中心的霊山で、関大神社は、この山の南麓へ流れる両子川が安岐川に注ぐ地に鎮座しています。
▼関大神社
関大神社鳥居

関大神社扁額

関大神社拝殿

関大神社拝殿中

『安岐町史』所載の関大神社由緒を読んでみます。

関大神社
祭神 天照皇大神・瀬織津姫神・気吹戸主神・速秋津姫神。
由緒 元禄十五年(一七〇二)八月二十九日、塩屋村の海上より大光飛来しこの地の西岸寺の側に落つ。これを見れば人面三体・明珠一顆なり。神記により海部郡佐賀関大神の飛来したものと知り、村民社殿を造営して奉祀する。明治六年(一八七三)村社に列す。〔後略〕

 祭神は「天照皇大神・瀬織津姫神・気吹戸主神・速秋津姫神」とのことで、「天照皇大神」を除く三柱は、大祓祝詞(『延喜式』収載の「六月晦大祓」)の祓戸四神のうち三神ですが、残る一神の速佐須良姫[はやさすらひめ]神がなぜここにまつられていないのかという素朴な疑問がまず浮かびます。
 また、「関大神社」の神は、元禄十五年(一七〇二)八月二十九日に「海部郡佐賀関大神の飛来したもの」とされます。関大神の故地は佐賀関[さがのせき](佐賀関半島)らしく、そこに鎮座する神であるゆえに「佐賀関大神」なのでしょう。
 この「佐賀関大神」をまつるのが「早吸日女[はやすひめ・はやすいひめ]神社」です(大分市大字関3329、写真5~9)。早吸日女神社は、『延喜式』神名帳に「豊後国海部郡 一座小」と記される「古社」です。早吸日女神社の由緒を読んでみます(同社公式HPから記載順を整序して引用)。
▼早吸日女神社
早吸日女神社鳥居jpg

早吸日女神社本殿

早吸日女神社
祭神 八十枉津日神・大直日神・底筒男神・中筒男神・表筒男神・大地海原諸神
社格 式内小社 旧県社
由緒
皇暦紀元前7年(西暦紀元前667年)、初代神武天皇ご東遷の途次、速吸の瀬戸に於いて、長い間大蛸により守護されていた神剣を海女の黒砂、真砂が海底より取り上げて天皇に献上された。
その神剣を神体として、古宮の地に天皇御自ら祓戸の神を奉斎し、建国の大請願をたてられたのが創祀である。
大宝元年(701年)、神慮により古宮の地から現在の社地に遷座。
古来から諸災消除・厄除開運の神として、皇室、諸大名を始め諸人の崇敬をあつめ、荘厳な社殿や数多くの建造物が献納されている。

 同内容の由緒は境内にも表示されていますが、『古事記』・『日本書紀』に記される神武東征神話に自社由緒を露わに関連づけていることがわかります。祭神「八十枉津日神・大直日神・底筒男神・中筒男神・表筒男神・大地海原諸神」の六柱にちなんで、「古宮の地」には「六柱神社」が再建されていますが、早吸日女神が最初にまつられた「元宮」は「六柱神社」の地ではなく、半島の北部海岸にあり(この神は「北」からやってきたと考えられます)、今は「早吸日女神社旧蹟地」と刻まれた石碑が建っています。
 さて、祭神についてですが、同社「ご祈祷のご案内」には、「主祭神の八十枉津日神は、災いの根源神ともいえる大変力強い神です。その神をお祀りしている当社は、古来より祓いを司る神社として崇められてきました」と書かれています。
 早吸日女神社の「主祭神」は「八十枉津[やそまがつ]日神」で、これは、瀬織津姫神の貶称神名です(『古事記』は八十禍津日神、『日本書紀』は八十枉津日神と表記)。この神が「災いの根源神ともいえる大変力強い神」だと書かれるとき、ここには、誰にとって、あるいは何にとって「災いの根源神」なのかという説明が伏せられています。ここで伏せられている「誰」については、それが「庶民」でないことは、これまでの瀬織津姫祭祀の紹介から明白です。また「何」については、天皇の祖神をまつるとされる「伊勢神宮」(の思想)というしかありません。早吸日女神社が、この伊勢神宮と縁故浅からぬことは、由緒表示板における、次のような文面からよく伝わってきます。

大宝元年(七〇一年)、神慮によって現在の地に遷座〔中略〕遠近の諸人も伊勢神宮になぞえて関大神宮又お関様(関権現)とも称し、伊勢神宮に参拝することを参宮、当社に参拝することを半参宮ととなえ、多くの信仰をあつめて今日に及ぶ。

 瀬織津姫神は、伊勢神宮(内宮)においては、正殿背後の荒祭宮にまつられる神(神宮における現表示名は「天照坐皇大御神荒御魂」)ですから、この荒祭宮と同神を秘してまつる早吸日女神社に参拝することは、たしかに「半参宮」となります。
 ところで、早吸日女神社は「関大神宮又お関様(関権現)とも称し」とあり、この早吸日女神社の異称は、安岐・関大神社の「関大神」、また、天保期建立の鳥居扁額に刻まれた「関権現宮」にみられます(写真2)。
 関大神社と早吸日女神社は、単純な分社・本社関係にはありませんが、関大神社が早吸日女神こと八十枉津日神を、元の神名である「瀬織津姫神」へもどして祭神表記していることは貴重です。
 では、早吸日女神社から、祭神の「瀬織津姫神」が「八十枉津日神」へと、いつ変更となったのかですが、早吸日女神社由緒の古伝には、次のように記されています(山田宇吉『佐賀関史』大正十四年刊、所収)。

文武天皇の大宝元年、日向国造上京航海の時、異砂真砂姉妹の蜑[あま]、神託により海底の神剣を取り、国造に謂つて曰く願くは此剣を以て神となし、早吸の六柱の神を祭祀せよと、国造其情を得、遂に奏して曲浦の高風浦に神社〔今の古宮村社ヶ浦是也〕を建て奉斎す、是則鎮座の始なり、(〔 〕内は割注)

 古伝は、「神託」とするも「早吸の六柱の神」の祭祀の始まりを神武天皇の時代ではなく、大宝元年としています。大宝時代には「国造」の制はすでにありませんから、この古伝の由緒内容も信憑性がないと一蹴できないわけではありません。しかし、大宝元年(七〇一)というのは示唆すること多い象徴的な時間です(「木曽・御嶽から消えた滝神」参照)。神社一般にいえることですが、自社由緒をなるべく古くみせようとする傾向が大で、この古伝はその逆ですから、わたしは内容に信憑性はあると判断します。なお、現今の由緒では「大宝元年(七〇一年)、神慮によって現在の地に遷座」とありましたが、古伝では、この遷座を「醍醐天皇昌泰二年(八九九)」のこととしています。
 早吸日女神社は、境内社に「伊邪那岐社」をまつっていて、同社の説明を次のようにしています。

イザナギ(伊弉諾・伊邪那岐)は、日本神話に登場する男神。『古事記』では伊邪那岐命、『日本書紀』では、伊弉諾神と表記される。
当地方の言い伝えでは、速吸の瀬戸(権現礁)に於いて、黄泉国の穢れを落とすために禊を行ったとされている。その時に遺していかれたのが当社のご神体となっている神剣である。

 イザナギ(伊弉諾・伊邪那岐)が「黄泉国の穢れを落とすために禊を行った」ところについて、「当地方の言い伝えでは、速吸の瀬戸(権現礁)」だとされます。ちなみに、『古事記』では「筑紫の日向[ひむか]の橘の小門[をど]の阿波岐原[あはきはら]」の「中瀬[なかつせ]」とし、『日本書紀』も同内容ですが、記紀いずれの注も、その所在地は不明としています。イザナギの神話時代(?)には日向国はありませんから、たしかに、現在の宮崎県に比定する必要はなさそうです。「日向」は、朝日の射すところの意ですし、現実の地名に神話をあてはめて比定すること自体、あまり有意義だとはおもえません。
 ただし、そこで誕生した神として「八十枉津日神」の祭祀が語られるとき、その地には「八十枉津日神」と貶称される前の神の祭祀があっただろうことはいえます。その意味で、貶称神名とはいえ、この「八十枉津日神」を主祭神としてまつりつづけてきた早吸日女神社の存在は、関大神社とは別様に貴重だとはいえます。
 ところで、神名・神社名にみられる「早吸」ですが、この言葉の初出は『古事記』の神武東征神話です。神武は「高千穂宮」から東征の旅に出て、「豊国の宇沙」「竺紫の岡田宮」「阿岐国の多祁理宮」を経て「吉備の高島宮」にまでたどりつきます。そのとき、亀の甲に乗って「釣[つり]」をしながらやってきた国つ神(槁根津日子[さをねつひこ]、書紀は「椎根津彦」と表記)と「速吸門[はやすひなと]」で出会い、神武は彼に東征の道先案内を頼むことになります。この「速吸門」は、現代の地図上でも「速吸瀬戸(豊予海峡)」と記され、大分県・佐賀関と愛媛県・佐田岬にはさまれた海峡をいいます。もっとも、吉備(岡山県)の話のあとに「速吸門」(豊予海峡)が記されるのは、いかにも現地の地理関係を知らない者の机上の創作であったことが伝わってきます(書紀では訂正されます)。
 それはともかく、海峡は海の境界・関でもありますから、その境界神・関神をまつるゆえに、早吸日女神社は「関大神宮又お関様(関権現)」と呼ばれたのでしょう。
 早吸日女神といい八十枉津日神というも、その本来の名である瀬織津姫神は、大祓の神である以前は、ここ佐賀関においては「海峡の女神」とみられていたようです。この神は、大祓祝詞では「速川の瀬に坐す瀬織津比咩といふ神」とされましたが、海を流れる「速川」が海峡・瀬戸の特徴です。
 ところで、関大神社の祭神(天照皇大神・瀬織津姫神・気吹戸主神・速秋津姫神)で、「天照皇大神」を男系の天照大神とみますと、ここには、その対偶神(配偶神)である「瀬織津姫神」との同居祭祀、つまり、神宮の基層祭祀が再現されていることになります。この男系・天照大神は、大祓祝詞では「気吹戸主神」(早吸日女神社にみられる「大直日神」と同神)へと変じること、および、祓戸三女神の中心神は「瀬織津姫神」で、この神の分化神として「速秋津姫神」(および速佐須良姫神)があることはすでに指摘されていることです(『円空と瀬織津姫』下巻)。つまり、関大神社の祭神四柱には、次のような変成神の祭祀構造がみられるようです。

  天照皇大神(→気吹戸主神)
  瀬織津姫神(→速秋津姫神)

 関大神社に速佐須良姫の祭祀がないのは、ハヤスヒメとハヤサスラヒメという音の近さもありますが、あるいは、佐賀関から飛来することなく現地に残った早吸日女を速佐須良姫に見立てたものかもしれません。
 早吸日女神社は、その祭神数の六柱から六柱(六所)神社の異称もあります。宇佐神宮の神々を神仏混淆化した両子山の「六郷満山」信仰ですが、この山に林立していた寺々の多くは、その鎮守神を六柱(六所)神社(六所権現)としています。
 佐賀関大神が飛来した地は「西岸寺の側」でした。『安岐町史』は、関大神社の由緒につづく「附記」で、「清巌寺(西岸寺)は六郷満山の末山本寺十カ寺の一つで、広大な境内に仏閣僧坊が立ち並び、初夜晨朝の鐘の音は谷にこだまして、官僧平僧十許の輩が常住していた」、しかし、寛文九年(一六六九)二月に「火難に逢い、仏像・宝物・建物ことごとく焼失して一物も残らず焼野原」となったと書いています。また、細々と再建された西岸寺(清巌寺)には「六所権現」がまつられていた、これについては「六郷満山の寺は皆そうなっている」と指摘してもいます。
 町史は「(清巌寺が)焼失して三三年、元禄の時代に関権現が飛来したことは何を意味するか」という鋭利な問いを記し、これは「(清巌寺にかつてまつられていた)六所権現の再来と見てよい」と書いています。
「六所権現」は、早吸日女神(六神)を権現化したものですが、早吸日女神の根本神は、安岐・清巌寺(西岸寺)への「飛来」の途中、「祓戸の神」(八十枉津日神)という不本意の名を脱ぎ捨て、本来の名でここに鎮座したとはいえるようです。(資料提供・写真:豊国の風)


 2009年時点では、掛樋に飛来した女神が瀬織津姫神で佐賀関の早吸日女神社では八十枉津日神のご神名で祀られていることを確認しただけでもっと詳しく調べることはありませんでした。ところが飛来したと伝承される巨石が掛樋の山中にあることを地元の方からお聞きして2度ほど山中を探索したのですが、迷ってしまい、伝承の巨石にたどり着けませんでした。
先日、やはり気になって氏子様を訪問してご案内をお願いしましたら、快く案内をして下さり、やっとブログでご紹介できるようになりました。下記の写真の山の9合目あたりにその巨石はあります。山は急斜面の道のないところを上がります。一人ではやはり迷ってしまうと思います。
▼関大神社の後の山(地図では筧とあります)
筧山関大神社
▼山中の瀬織姫神が佐賀関から飛来したという巨石
巨石には馬のヒズメの後のような穴が沢山ありました。日出町には女神が白馬に乗って降臨したという巨石が大山積神社にありますが、やはり馬のヒズメのような跡があります。関大神社では大きな光となって海を渡って飛来したとの伝承ですが、私には白馬に乗って飛来したように思えました。
関大神社:飛来石

早吸日女が祀られている大分県の神社を調べてみました。
▼明治23年の日田郡神社明細牒より(現在の祭神として表記されているかは未調査)
日田郡有田村字平野 平野神社 早吸日女神
日田郡長尾野村字森 小一郎社(元長尾野神社)速吸姫神
日田郡大肥村字厳(ママ)赫山 郷社 天満社 境内社に関神社 早吸姫神
日田郡夜明村 金山神社 早吸姫命(同村小鶴の鎮座していた明治9年合祀)
日田郡田嶋字大原 県社 大波羅社 境内社 関神社 速吸日女命
▼大分県神社神社名簿より
大分市大字旦野原225 早吸日女神社
大分市佐賀関286番地  六柱神社   八十枉津日神
蒲江町大字西野浦2449番地 早吸日女神社
三重町大字西畑7625番地1  向原神社   早吸日女神
竹田市大字入田367番地 早吸社

こうして県内の早吸日女神で調べていると瀬織津姫神のご神名で祀られるところは関大神社のみです。氏子の皆様が伝承を語り継ぐ間は、神様もご神名を失わずにいられるということでしょうか・・・。それにしても海岸から遠く離れた日田の地域に早吸日女神が多く祀られているのはとても興味深いことです。



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『円空と瀬織津姫』上下巻の紹介 

円空

風琳堂の『円空と瀬織津姫』上下巻 菊池展明著の紹介です。

水の神である瀬織津姫神の祭祀を深く研究された菊池氏が、心血を注いで書いたのが、『円空と瀬織津姫』です。『円空と瀬織津姫』を元に番組構成をしたのが、2010年NHKで放映された『日曜美術館「仏像革命~円空の祈り~」』でした。後に菊池氏がブログに書いた言葉が以下の文章です。

円空の強い意志を感じさせる印象的なことばの一つに、「我山岳に居て多年仏像を造り其地神を供養するのみ」という、自身の彫像思想を明快に語ったことばがあります(『飛州志』)。高賀山・白山ほかの山岳霊地、そこには円空にとって「供養」 の対象となる「地神」がいるというのが彼の認識です。
 
円空を語る書籍は沢山ありますが、円空の信仰に踏み込んで書かれたものは少ないのではないかと思っています。いつか円空が歩いた道を私も歩んでみたい。
成願寺

成願寺2

成願寺円空仏
▼円空作:善女龍王像
円空仏2

▲風琳堂主人のご友人の方から知多半島、曹洞宗神光山成願寺(以前は天台宗)の善女龍王像の写真を送っていただきましたのでお許しを得て掲載しました。
成願寺にある善女龍王像は延宝四年の制作だそうで像高91.6センチのものです。
成願寺由来には弘法大師伝承もあるようですが、「歓喜する円空」梅原猛著には円空がこの寺に来て作ったのか、あるいは荒子観音寺の像がここに流れてきたのか分からないと書かれています。善女龍王像は祈雨の法を行うときに祀られると聞きますが、この像に秘められた地神こそ円空が生涯をかけて供養した神だったのかもしれません。
『円空と瀬織津姫』下巻の「善女龍王像に化身した白山神」には、円空の龍女には仏法守護を誓った白山の「神」が投影されていると書かれ、また『エミシの国の女神』で触れた伊雑宮のこともさらに詳しく読むことができます。
『円空と瀬織津姫』上下巻には随所に円空の歌が紹介されています。その歌を読み解く菊池氏の詩的な感性が読者を魅了します。

私の好きな円空歌は最愛の神を月神と重ねて水色の夜の御神と表現した歌です。

水色の夜の御神の玉ならば照る月と再拝つゝ

おそろしや浮世人ハしらさらん普照す御形再拝
(おそろしや浮世の人は知らざらん普(あまね)く照らす御形再拝(みかげおろがむ)

菊池氏は、上記の円空歌を下記のように読み取っています。

円空は、闇夜(憂き世)を片寄ることなく公平に照らす「月の御影」(月神)を「再拝」している。この月神の真を世の人は知らないだろうが、自分だけは何度も拝もうと詠っている。

J 様へ お写真を送っていただき大変ありがとうございました。感謝します。おかみ

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『遠野物語』とその背景 原美穂子さんを偲んで 

遠野より

『遠野物語』とその背景
原美穂子
▼早池峰山:風琳堂主人撮影(2014年4月)
早池峰山【20140401】

 およそ六十年ぶりとなるが、私が縁あって遠野という生まれ故郷に帰ったのは二〇一二年のことだった。そのとき、私の頭ではすっかり忘れていた『遠野物語』という本を思い出した。この本は、明治四十三年(一九一〇)の発刊で、今から百年以上も昔になる。つまり古典に近い印象があって、したがって、今の遠野に住んでいる人からすれば、忘却の彼方にあってもおかしくないと漠然と考えていた。ところが市内の一日市というところに「遠野物語研究所」なるものがあり、意のある人々は本書の研究に余念がないらしいことを知ったのである。
 それまでの私が知っている遠野といえば、お早、お六、お石という娘が遠野三山の早池峰、六角牛、石上に祀られていることと、馬市が遠い昔から開かれていて、私がいた昭和二十五年にもまだ続いていたことくらいだろう。この馬に関しては、薪や木炭を馬の背に積んで東の沿岸部に届け、沿岸からは海産物をやはり馬の背に載せて遠野に運ぶといった交易の往来が盛んで、この馬と一緒に歩く人を駄賃付けと呼んでいた。なお、戦前までは、馬は軍馬として国に提供する目的で飼育されていて、それが遠野の貴重な資金源ともなっていた。
 私も『遠野物語』を新たに読んでみよう、考えてみようとおもい、いくつかの関係書に目を通してみた。そのなかで、もっとも印象深く読めたのは、遠野出身の民俗学者で、今は故人となったが、菊池照雄氏の書いた『遠野物語をゆく』(一九八三年刊)と『山深き遠野の里の物語せよ』(一九八九年刊)だった。この二冊は、なるほど遠野の人でなければ書けまいとおもわせる内容の本である。
 照雄氏は、遠野を中心とする北上山地の民俗学研究を専門としていた。『遠野物語』の話者・佐々木喜善を知っている人に直接会うなど、彼のフィールドワークによって書かれたのが二著といってよい。本書は佐々木喜善の生涯についても書かれていて、これを参考に、喜善と『遠野物語』の関わりについて考えてみたい。
 佐々木喜善は山口村(今の遠野市土淵町山口)に生まれた。山口村には話の上手な人が多くいて、炉端でどぶろくを傾けながらの話に熱がはいったことだろう。また、山口村には、村外から多くの話が持ち込まれてもいた。この村外の者とは、熊野比丘尼、歩き巫女、修験者、絵解法師、先達、御師、神人といった下層宗教者や、漂泊の旅芸人、ホイト(乞食)などもいた。彼らが伝えた昔話や幻話が、山口村の上手な話者によって記憶かつアレンジされ語りつがれることになる。
 山口村の大ほらふきの総元締めは瀬川シゲさんという人で、シゲさんは相手が話したどんな難問題でも笑いのうちに解いてゆく、しかし、これ全部がほらで固めた名解答だったという。
 ところで、ほらふきにもいくつか型があった。学者型、地獄耳型、全然ないことでもあることのように作り替える作り話型、体験的な話をそれらしく語る体験型などである。山口村では、これらいろんなタイプのほらふきが集って、即興的なほらふき大会が開かれてもいたというから面白い。
 佐々木喜善は柳田國男に『遠野物語』の原話を語った。しかし、喜善の背後には、瀬川シゲを中心とした山口村とその近郊には多くの原話者がいた。このシゲさんのほかにも、喜善に多くの話を提供した以下のような人々がいたことを忘れてはならないだろう。
 辷石[はねいし]谷江。安政五年生まれの隠し念仏の信者で『遠野物語』一〇三話の話者。
 山口のおいち婆様は辷石谷江の三倍も四倍も話を知っていた。ほかにもブゾトの婆様、新屋のおみよ婆様、横崖のさのせ婆様がいる。大洞の犬松は喜善の家に日雇いに来たにもかかわらず、話しはじめると何時のまにか昼になっていた。それで喜善の祖母ノヨはこの人を手間仕事に頼むのは嫌いだったということだ。また喜善の祖母の姉であるお秀婆様は、喜善に、まじないを使って蛇を殺し、木に止まっている鳥を落とすところを見せ、呪文やオシラ祭文を語って聞かせた。
 喜善の祖父・万蔵の弟である菊池弥之助は、酒に酔うと立ち上がって銚子と箸を持ち身振り手振りで夜を徹してしゃべりまくる人であった。喜善が正月の鏡餅を持っていって話を聞いたというおみよ婆様。喜善の祖母ノヨの兄・新田乙蔵、そして息子、孫などは話の大家で、話の製造工場の花形たちであった。きわめつけは喜善の祖母の姉・瀬川マサヱである。彼女は女だてらに駄賃付けを生業とし、沿岸部と遠野盆地を行き来したが、彼女もすぐれた話者であった。山口村とその近郊には、ほかの遠野郷の村々に比べて、なぜか多くの話者が集中するように存在していた。喜善の身内に近い人たちにすぐれた話者がいたことも指摘できるかもしれない。
 柳田に『遠野物語』の原話を語った佐々木喜善、そして喜善の背後には多くの庶民的原話者がいた。ここで、物語そのものの背景についてもふれておきたい。
 たとえば「山の神」である。「山の神とは春に里におりて(田の神となり)、農耕を守り、秋になると山に帰って山の神となり山で仕事をする人々を守る」というのはだれもが知るところと思うが、菊池照雄『山深き遠野の里の物語せよ』に、柳田國男の山の神の起源についての考察記事がある。曰く「村の死者は山(遠野では早池峰山)にとび去ると霊魂はここで山頂の霊気と長い歳月の風雪に変容し、霊魂の大集合が出来る。これが山の神になった」、さらに「平凡な村人の死霊でも山霊のなかで長い年月を経ると神に昇格する。山の神は、いってみれば死者の霊魂の経立つなのである」──。これは、早池峰山が祖霊信仰の山でもあることを述べたものだろう。
 次に「山男」についてだが、遠野郷の歴史で最初の山男といえば、大同元年(八〇六)に早池峰山を開いたとされる始閣藤三が挙げられる。藤三は伊豆出身の狩人兼金山師で、熊を追って早池峰山の頂上まで登ったとき、追っていた熊の姿は消え、目前には虹がかかり、もやの中に神様の影が映った。彼は選ばれて神を見、神の慈悲を感じ、不安もなくただ平安と歓喜が充満した──。これは『早池峰山妙泉寺文書』収録の「早池峰山開山縁起」が記すところである。
 下山した藤三は居を来内から早池峰登山口の附馬牛村の大出[おいで]に移し、山頂には御嶺社、大出には新山宮をつくった。この新山宮が今の早池峰神社(祭神:瀬織津姫命)である。
 遠野郷にも平家の落人伝承がある。この落人も山男の部類に属するだろう。彼らは加賀から落ち延びてきたとされ、平家の家人であった証拠として幡をぼろぼろになるまで大事に持っていたという。彼らは辺境遠野の山中にほんの少しの平地をみつけ、そこで世間とは縁をもたずにひっそりと生活していた。そこは十軒ばかりの集落で、クリ、ケヤキ、ブナ、トチなどの大木の枝がおおいかぶさって、いくつかの屋根がわずかに見えるだけだったという。
 少し変わり種の山男の話もある。それは、死して土葬にされた人が息を吹き返し、この世に戻ったはいいが、一度死んだ人は家の敷居をまたぐことはならないという掟を守って山で一生を送った人もあるとのことである。昔は死者を二十四時間見守って死んだことを確かめて葬式を出すというきまりはなかったから、このような事態も発生したのだと思う。
 山中の不思議な話といえば、『遠野物語』六三話に「遠野にては山中の不思議なる家をマヨヒガといふ。マヨヒガに行き当たりたる者は、必ずその家の内の什器家畜何にても持ち出でて来べきものなり」とある「マヨヒガ」の存在だろう。私などは、マヨヒガといえば山奥にひっそりと建っている幻のような小さな家が心に浮かぶが、物語にあるのは、黒い門や大きな庭があり、鶏や牛馬も飼われている立派な家であったらしい。しかし家人はおらず、このマヨヒガを見た人は恐ろしくなり逃げ帰るも、ある日、家の前の川戸[かど]で洗い物をしていると、川上から「赤き椀一つ」が流れてきて、それを米びつを量る器としたところ、米びつは尽きることがなく、この家の者はやがて金持ち・長者となったという。菊池照雄『山深き遠野の里の物語せよ』には、このマヨヒガは「金山師の屋敷だろう」という柳田國男の推測の言葉が紹介されている。
 山男にはほかに木地師などもいたが、菊池照雄氏の著作によれば、彼が若いときに親しくなったという西洋人ふうの人もいた。容貌は赤面で髭も赤く鼻はとがっていたという。この山男は耕地を所有していたが、そこで働くのは楽しまず、年中山で狩りをし、川では魚を釣って生活していたという。また、これも照雄氏の知人で、山で蜂をつかまえては家に持ち帰り、蜜をとっては町で売り生活していたということだ。蜜蜂については実に詳しく、蜜蜂をとることにおいては先生として認めてもいいほどだったと照雄氏は書いている。
 山男とは山の生活者の意とすると、山はさまざまな人々の生活を包み込むところ、里からみれば異界ではあったが、里の生活からはみだした人々にとっては包容力をもった世界であっただろう。また、当然ながら、山の生活者としては「山女」もいたはずで、たとえば『遠野物語』八話では「神隠し」といっているが、この里から消えた娘も山女として生活してきたことが想像されるのである。八話を読んでみる。

 黄昏[たそがれ]に女や子供の家の外に出てゐる者はよく神隠しにあふことは他[よそ]の国々と同じ。松崎村の寒戸[さむと]といふ所の民家にて、若き娘梨の樹の下に草履[ざうり]を脱ぎおきたるまま行方を知らずなり、三十年あまり過ぎたりしに、ある日親類知音の人々その家に集まりてありし処へ、きはめて老いさらぼひてその女帰り来たれり。いかにして帰つて来たかと問へば、人々に逢ひたかりしゆゑ帰りしなり。さらばまた行かんとて、ふたたび跡を留めず行き失せたり。その日は風の烈しく吹く日なりき。されば遠野郷の人は、今でも風の騒がしき日には、けふはサムトの婆が帰つて来さうな日なりといふ。

 娘の失踪は「梨の樹の下に草履を脱ぎおきたるまま行方を知らずなり」とあるように確信犯的な行為だった。昔、草履を脱いで置いたまま姿を消すということは、家人への遺言に代わる行為だった。物語は、彼女が家と訣別するように失踪せざるをえなかった理由を伏せていて、三十年後の奇譚を「遠野郷の人は、今でも風の騒がしき日には、けふはサムトの婆が帰つて来さうな日なりといふ」と、里側の感想で締めくくっている。
 ところで、『遠野物語』全一一九話の中で、この「サムトの婆」の話はもっとも文学的な表現の一つといってよかろう。この話は、明治の初め頃、松崎村登戸[のぼと]の佐々木茂助という名家の娘サダに起こった実話である。佐々木喜善が柳田に語ったときは「登戸の婆」の話として語ったはずだが、柳田はこれを「サムトの婆」の話として物語に推敲・定着させた。サムトが寒戸とも記されることで、この話の基底に吹く風の寒さをより感じさせるといってよかろう。
 サムト(登戸)の娘の失踪の理由が物語に書かれなかったように、『遠野物語』は物語自身の背景を語らない、いわば謎としたままの話が多い。たとえば五九話にある河童の話などは典型的だろう。

 外の地にては河童の顔は青しといふやうなれど、遠野の河童は面[つら]の色赭[あか]きなり。佐々木氏の曾祖母、稺[をさな]かりし頃友だちと庭にて遊びてありしに、三本ばかりある胡桃[くるみ]の木の間より、まっ赤なる顔したる男の子の顔見えたり。これは河童なりしとなり。今もその胡桃大木にてあり。この家の屋敷のめぐりはすべて胡桃の樹なり。

 河童の顔は青いのが一般的だが、遠野の河童の顔の色は赤いとされる。それはなぜかという問いも答えも物語は語ることがなく、佐々木氏の曾祖母の実見譚が記されるのみだ。もっとも、「まっ赤なる顔したる男の子」という表現によって、そこに人間的な匂いを河童に重ねているとはいえるかもしれないが──。
『遠野物語拾遺』二六九話は「昔は老人が六十になると、デンデラ野に棄てられたものだという」という一文ではじまっているが、同話は、このデンデラ野は遠野郷の「方々の村」にあったと書いている。これは、棄老の事実を語るものだが、同じように、子供を棄てる(棄児)という行為もあった。いわゆる「間引き」である。
 しかし、棄児・間引きには、少なくとも人間(親)の感情として、棄てるにしても、自分の子供には生き延びてほしいという思いがあったはずである。子供を川に流すという行為には、河童の世界に子供を委ねる思いがあった。ある子供は幸いにも生き延びて、人家の土蔵や小屋などの人の出入りの少ない場所に寝起きし、ときおり世間の目にふれると、赤い顔をした河童と呼ばれることにもなる。
 同じ棄児・間引きでも、棄てられる前に、長者や多少財力に余裕のある家に引き取られた子供もあった。この子供が奥の間などで育てられるとき、おそらくはザシキワラシとも呼ばれることもあっただろう。
 ところで、河童にしてもザシキワラシにしても、その本源の姿は「神」であったが、その信仰はだんだん地に墜ちてきた(妖怪化してきた)という経緯がある。たとえば河童について、柳田國男は「竜王と水の神」で、次のように書いている。

今日妖怪変化の下等なものとしか見られていない河童が、以前はすぐれた神聖な民間信仰の仲介者であったことを認めなければ古史に「わたつみの神」を「海童」「少童」と書く理由が訣[わか]らないのである。もし昔からこんな劣等な、悪戯[いたずら]しか知らぬ妖魔だったら、少童の文字が伝わっている理由がない。

 文中、河童は「以前はすぐれた神聖な民間信仰の仲介者であった」とされる「神聖な民間信仰」とは「神聖な水の神の信仰」の意である。つまり、河童は神聖な水の神の信仰の「仲介者」、いいかえれば、神聖な水の神の眷属神であった。
 柳田は「竜王と水の神」で、「我々の大昔以来の非常に大事な神の名が、今日はもう忘れられ消えている」、「日本ほど水の神の威徳を深く感じなければならぬ国はないのに、我々の学問でも、神道でも、歴史でも、この信仰の変遷が現在は不明に属しているのである」と書いている。
 柳田が知っていたかどうかは不明だが、「大昔以来の非常に大事な(水の)神の名」を、日本で唯一伝えているのが早池峰山である。この神の名は瀬織津姫[せおりつひめ]といい、早池峰神社や伊豆神社(伊豆権現)ほか、早池峰山周辺では多くの神社の主祭神であるが、『遠野物語』二話の「大昔に女神あり」とある、その「女神」でもある。『遠野物語』の一話は遠野郷の地勢を記したもので「物語」の実質的なはじまりは第二話からである。柳田が『遠野物語』を編纂するにあたって、この大昔の女神の話を冒頭にもってきたことは、やはり意図するところがあったのかもしれない。
 ちなみに、早池峰神社では「ザシキワラシ祭り」をしていて、同社の説明ではザシキワラシは早池峰大神の化身だという。つまりザシキワラシもまた、大事な水の神の「仲介者」あるいは眷属神ということになり、河童とザシキワラシは無縁の神ではないというのが、早池峰─遠野郷の伝承なのである。

この文章を書いた「原美穂子」さんは、今年3月20日遠野で安らかに永眠されました。御歳91歳でした。原稿は昨年の3月に書かれたものです。昨年他界された風琳堂主人の母上様でもありました。『遠野の河童たち』『遠野随想記』の著者で遠野に生まれ、遠野の昔を語ってくれた人でした。謹んでご冥福をお祈りいたします。

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大歳神:歳神社 

ニギハヤヒ

大分市田尻の歳神社の紹介です。大分市の南部に霊山(標高610m)があります。歳神社はその麓に位置します。『エミシの国の女神』菊池展明著には『古事記』を引用し、大歳神とは源初の太陽神の別名であり、年穀の神となると書かれています。源初の太陽神とはニギハヤヒのことだと伝えられておりますが、『白鳥伝説』谷川健一著には『旧事本紀』の引用でニギハヤヒの降臨に同行した面々として物部の同族のことを詳しく記されています。

ニギハヤヒは
天照国照彦天火明櫛玉饒速日命
(アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシタマニギハヤヒノミコト)又の名を火明命とし、饒速日命としている。

ニギハヤヒが天降ったとき乗っていた天磐船(天磐樟船)の乗務員
五部人(いつとものひと)を副へ、従となして天降り供奉らしむ
物部造祖 天津麻良
笠縫部等祖  天津蘇  摂津 東成郡・笠縫島 大和 城下郡・笠縫
為奈部等祖  天都赤占 摂津 河辺郡・為奈郷 伊勢 員弁郡
十市部首等相 富々侶(ほほろ)筑前 鞍手郡・十市郷 筑後 
三毛郡・十市郷 大和 十市郷
五部造(いつとものみやつこ)を伴領(とものみやつこ)となし、天物部を率ゐて、天降り供奉らしむ
二田造(ふつたのみやつこ)筑前 鞍手郡・二田郷 筑後 竹野郡・二田郷 和泉 和泉郡・二田村
大庭造 筑前 朝倉郷・大庭村 河内 北河内郡・大庭村 和泉 大鳥郡・大庭寺村
舎人造
勇蘇造 筑前 糸島郡 深江村・磯崎 伊勢 度会郡・伊福郷
天物部ら二十五部人、おなじく兵仗を帯びて、天降り供奉らん
二田物部 筑前 鞍手郡・二田郷 筑後 竹野郡・二田郷 和泉 和泉郡・二田郷
当麻物部 肥後 益城郡・当麻郷 大和 葛下郡・当麻郷
芹田物部 
馬見物部 大和 北葛城郡・馬見村 筑前 嘉穂郡・馬見郷
横田物部
嶋戸物部 筑前 遠賀郡・島門
浮田物部
案宣物部(巷宣物部)伊勢 奄芸郡・奄芸郷
疋田物部(足田物部)因幡 八上郡・礪田郷 越前 敦賀郡・匹田郷 上野 礪楽郡・匹太郷 讃岐内部 ・引田郷 大和 城上郡・辟田郷
酒人物部 河内 古市郡 ・尺度郷 摂津 東成郡・酒人郷 大和 平群郡・坂門郷
田尻物部 美濃 多芸郡 田後郷
赤間物部 筑前 宗像郡・赤間 長門 豊浦郡・赤間
久米物部
狭竹物部 常陸 久慈郡・佐竹郷
大豆物部 大和 広瀬郡・大豆村 肥前 三根郡・千栗郷・豆津
肩野物部 河内 交野郡
羽束物部 山城 乙訓郡・羽束郷 摂津 有馬郷・羽束郷
尋津物部 大和 城下郡・阿刀村 大和 平群郡・阿刀村
布津留物部
住道物部 摂津 住吉郡・住道郷
讃岐三野物部 讃岐 三野郡・三野郷 河内 西成郡・三野郷 播磨 飾磨郡・三野郷
相槻物部 大和 十市郡・倉橋郷・相槻
筑紫聞物部 豊前 企救郡
播磨物部 播磨 明石郡
筑紫贄田物部 筑前 鞍手郡・新分郷

河内・摂津・大和から筑前・筑後など広範囲に物部氏の同族が多いと筆者は書いています。

田尻歳神社鳥居

田尻歳神社拝殿jpg

田尻歳神社拝殿中

歳神社由緒
由緒には700年前に田尻氏族発生とともに大歳大神が祀られ、最初は石の祠だったと記されています。一緒に祀られている菅原道真公は、あとで合祀されたものと思われます。田尻氏ですが、谷川氏の本の中のニギハヤヒとともに天降りだった二十五部人に登場する田尻物部と考えてよいのではと思っています。
 歳神社には境内に「堅牢地神」という聞きなれない神が祀られています。辞書等で調べた限りでは「堅牢地神」とは大地の女神であり、大地を堅牢ならしめる神と云われ、農業の守護神とされているようです。大歳大神(ニギハヤヒ)は、女神と1対で祀られているのが、原初の神祀りと思いますが、この本殿にニギハヤヒを祀って境内に地神として女神を奉斎したということでしょうか。あるいは全国に地神信仰が広がったときに後で「堅牢地神」を祀ったのかもしれませんが・・・
 福岡市の堅固神社には主祭神に八十禍津日神他が祀られており、三韓征伐のおり、神功皇后の船を守護し、勝利に導いたと伝えられています。この歳神社では堅牢地神ですが、同じ堅く守るというものを感じます。八十禍津日神は、瀬織津姫神のことです。歳神社由緒では語られませんが、堅牢地神という女神が気になります。
歳神社地堅大神の鳥居jpg

歳神社地神

歳神社地神2
▼国東の千灯寺で見つけた太郎天像に似て翼をつけています。光背は炎を表現したものの様ですが、像の名前が判りません。
歳神社画像1


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