沖縄開闢神話から斎場御嶽へ
『東恩納寛惇全集1』琉球新報社編には琉球の開闢伝説も天神降臨して国土を経営したことに始まるとあります。
天みこのお神天降りめしよちへ(召されて)造る島国や世々にさかる
という古歌があり、意味は、「あまみこ」の神が天降り給うて、造られた島国は幾久しく栄え行くとのことです。
この「あまみこ」が方言では、「あまみく」にひびき、又「あまみきよ」、「あまみきゆ」となり、近代の研究家は、これを「あまみ人」の意に解し、九州南部にいた海部(あまべ)族が、奄美大島(あまみおおしま)を経て南下したものと解しています。
同書によると「あまみこ」に天孫または天孫氏の漢字をあてたのは、向象賢(しょうじょうけん)の『中山世鑑』が最初です。世鑑は「琉球開闢の事」として、以下のように説いています。向象賢(羽地朝秀)は1666年から73年までの7年間、摂生として琉球王国の国政に敏腕をふるった方です。
太古、天城に、「阿摩美久」と申す神があり、天帝がこれを召して、この下に、神の住むべき霊所がある。しかしまだ島に出来上がっていないから、汝下って島を造り成せ、と命ぜられた。阿摩美久は、天神の命を畏み、下って見ると、霊地とは見えたが、東海の浪は西海に打ち越し、西海の浪は東海に打ち越して、まだ島とは成っていないので、再び天に上り、土石草木を持ち下り、許多(ここらぎ)の島々を造りあげた。まず一番に、国頭に、辺土(へど)の安須森(あすもり)、次に今鬼神(なきじん)のカナヒヤブ、次に知念森(ちねんもり)、斎場嶽(さやはだけ)、藪薩(やぶさ)の浦原(うらばる)、次に玉城(たまぐすく)アマツツ、次に久高(くだか)コバウ森、次に首里森(しゆりもり)、真玉森(またまもり)、次に島々国々の嶽々森々を造りあげた。かくて数万年を経たが、人もなく神の威も行わるべくもなかったので、阿摩美久は再び天に上り、人種(ひとだね)を乞うと、天帝は、汝も知る通り、天中に神は多いが下すべき神はない。さりとて下さぬわけにも行くまいとあって、天帝の御子男女二人を下し給うた。
世鑑は、最初に「アマミキユ」が、天帝の命によって天降り、更にその奏請によって、天帝の子なる男女二柱の神を降し、その間に三男二女が生まれ、それぞれ国君、諸侯、百姓及び君々(祝々の主宰)、祝々、の始めになったとする。
〔神道記〕キンマモン事
昔、此国初、未だ人あらざる時、天より男女二人下りし、男を「シネリキユ」。女を「アマミキユ」と云、二人舎を並て居す、二人陰陽和合は無れども、居所並か故に、往来の風を縁して、女胎む、遂に三子を生す。
神道記は、「アマミキユ」、「シネリキユ」男女二柱の神が天より降り、その間に三人の子が生まれ、それぞれ、国君、祝々(のろと云う女巫)及び百姓の始となったとする。
以上のように沖縄の歴史は、太古アマミキユと云う神が降臨したことから始まりますが、学者の方々は、アマミキユは、部族の名であって、九州南部にいた海部(あまべ)と称する部族で、五島七島の島々を経て奄美大島に達し、更に南下して沖縄の島々に落着いたものと考えています。このことは、土俗言語の類似によっても疑いのないところで、徳川時代に羽地朝秀(向象賢)が始めてこれを唱え、70年後に新井白石が、又これを提唱し、近くは英人チエンバレン氏が言語学上から立証しているとのことです。
同書には潮流の関係で、南洋の諸島との人種や文化の交流のあったこと、おもろさうしや、民間伝承の中には、南方の分子が相当にあるとも語られていますが、苗族・ラオ族等の習俗が沖縄と著しく似ていることに驚くとも書かれています。
『沖縄の古代部落マキヨの研究』稲村賢敷著によると『日本書紀』に記された南島関係の記録には、三十三代推古天皇二十四年に三回に亘って掖玖人の帰化が記されているのが初見です。三十四代舒明天皇元年には田部連を掖玖に遣はす。三年掖玖人帰化す。更に三十七代斉明天皇の御代には、掖玖という島名の外に都貨羅(とから)島、海見(あまみ)島等の島名が見えます。663年、白村江の戦いに敗れた朝廷は、朝鮮半島を通るルートをさけ、鹿児島・南西諸島ルートを航路にしたため、遣唐使船の航海の安全を期する上からも、南島諸島の掌握が重要になったと思われます。天武天皇・持統天皇の時代には使者を南島に遣わしたという記録が残っています。
稲村氏は天武二年(674)には南島に使者を遣わし国を覔(もと)む、因て戎器を給すとあるのは、本土から民を移して新しく領土を開拓する事が即ち国を覔むという事であろうし、そのために武器を帯して従わざるものは征討するという意味もあったものと思われる。特に注目すべき点は、南島に対する対策は、大宰府を中心として講じられたということです。遠く中央から兵を派遣するより、九州に居住する海部の部民を南島に移すことが適当であると考える事は当然であったと思う。書かれています。
隼人の叛乱の前に、714年、朝廷は豊前の民、200戸(約五千人)を隼人の地に居住させ、制圧を図ります。同じ統治の為の手段が隼人叛乱の前にここ南島でも行われたと考えられることに注目しています。
次に沖縄の聖地の紹介です。
沖縄の信仰は御嶽と井の神に対する信仰だとお聞きしたのは、天久宮の宮司様からでした。
はじめは、沖縄隋一の霊地として知られる南城市知念村サイハ原にある斎場御嶽です。通称「セーファウタキ」とよばれ、世界文化遺産に認定されています。神名は「君が嶽主が嶽イベ」という、六つのイベ(拝所)があります。その中でも大庫理・寄満・三庫理は、いずれも首里城内にある部屋と同じ名前です。当時の首里城と斎場御嶽との深い関わりを示しています。

▼拝所図(「沖縄の聖地」より)

では斎場御嶽を歩いてみます。参道をしばらく歩くと右側に旧参道があり、降りるとウローカーという井泉があります。
ウローカーの案内板には、以下のように書かれています。
琉球王国時代より斎場御嶽の中に入る前に手洗いなどの禊ぎを行った場所といわれており、統治の祭祀には欠くことのできない聖なる水として受け止められています。
▼ウローカー

横にある水神と彫られた石柱には、水神男神とあります。1971年当時はウローカーの井泉の神を男神と受け止めていたようです。斜面下には、国道331号線や海が見えます。
参道に戻るとすぐに御嶽の入口にあたる御門口があります。元来、ここより先の御嶽内は男子禁制でした。又、王室関係者しか入れず、右側には御嶽の六つの拝所を示す香炉が置かれ、一般の人々はここから御嶽の中に向かって拝みました。
▼御門口

御門口より敷石を敷きつめた幅1mほどの参道を100mほど進むと広場に出ます。巨石を背景にそのくぼみに拝壇があり、「大庫理(ウフグーイ)」とよばれています。大庫理前の広場は、聞得大君(きこえおおぎみ)の「御新下り(おあらおり)」の儀式の行われたところです。
▼大庫理案内板

▼大庫理

「御新下り」は、聞得大君が最高神職に就任する儀式。首里における儀礼を終え、いくつかの要所を経て、知念間切(ちねんまじり)にある斎場御嶽に入り、2日間の及ぶ数々の儀式を執り行った。聞得大君は、聖水を額に付ける「御水撫で(うびぃなでぃ)の儀式で神霊を授かり、神と同格になったといわれる。(斎場御嶽パンフレットより)
ここから参道を左手に進むと鍾乳石の垂れた巨岩が見えてきます。巨岩の岩陰に奥行き3m、長さ7mほどの平たい石を敷いた拝壇があります。ここが「寄満(よりみつ)(ユインチ)」とよばれる拝所です。
▼寄満案内板

▼寄満

ここは俗に「馬グァー石」とよばれ、馬の形をした白いビジュル石がおかれていて、この石の軽重によってその年の豊凶を占ったといわれています。
ここから引き返し、さらに東南に進むとやや広めの広場に出ます。右手には鍾乳石が2本あり、鍾乳石の下には壺が置かれ、滴り降りる水滴を受けています。
▼三角岩案内板

▼三角岩の左側全景


▼アマダユルアシカヌビーの壺

▼三角岩

この拝所を「三庫裡(サング-イ)」といいます。前の鍾乳石が「雨たゆるあしかの美御水(ヌウビィ-)」で天からアザカ(和名ナガミノボチョウジ、聖木の一つ)を頼って流れ落ちる霊水の意味で後の鍾乳石が「しきよたよる雨か美御水(ヌウビィ)」、シキヨ(方言でシヒユ=トウツルモドキ)を頼って流れてくる天の霊水の意味です。斎場御嶽の御水(ウビィ)はこの壺にたまった水のことです。御水は聞得大君の御水撫で(ウビィナディ)に使われました。また壺の水量の多寡によってその年の豊凶を占ったといわれています。座敷壇につづくのは、斎場御嶽の象徴の逆V字形の洞門です。
▼久高島を望む

この洞門を通り抜けると3m四方の空間があります。左側には久高島遥拝所がありますが、近年、立岩が地すべりによって転落し、久高島方面がよく見えるようになったとのことです。「三庫理」と呼ばれるこの小さな空間は、岩壁を通して天空を拝むという信仰があり、岩壁の頂上に「キョウノハナ」(拝所)があり、アマミク神がそのクバの木を伝って香炉のところへ降臨すると信じられているという説もあるそうです。
『東恩能寛淳全集1』琉球新報社編・『沖縄の古代部落マキヨの研究』稲村賢敷著・『沖縄の聖地』湧上元雄・大城英子著より引用。
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