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鬼と仏の国東半島めぐり

国東半島に残る鬼伝承と仏の里を菜花のお宿のおかみが ご案内します。楽しんでいただけたら幸いです。

奈曽の白曝谷 

[ 瀬織津姫神]

明けましておめでとうございます。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。 

只今、菊池展明氏の遺構本、『八雲立つ出雲は滝の国』を今年八月の七回忌までに仕上げようと奮闘しています。 
巻末資料には、全国の瀬織津姫神の異称祭祀リストも含めて掲載予定です。

秋田県にかほ市象潟町小滝字奈曽沢の金峰(きんぽう)神社の紹介です。

大和国吉野より蔵王権現を安鎮しようと暫時の間観想を成し給うたところ、不思議なるかな虚空に紫雲あらわれ、その中から金色の光明を放っている。 これによって小角その光の下に至り、伏して明王尊を下し、一刀三礼して三日三夜かかり彫刻は成就し堂宇を建立する。

金峯神社ご祭神

安閑天皇(あんかんてんのう)
伊弉册命(いざなみのみこと)
事解男命(ことさかのおのみこと)
大日霊命(おおひるめのみこと)
稲倉魂命(うかのみたまのみこと)
八十枉津日大神(やそまがつひのおおかみ)

金峯神社鳥居jpg

金峯神社拝殿

境内案内板jpg
▼奈曽の滝
金峯神社ご祭神の八十枉津日大神は、滝神(瀬織津姫神)の異称です。小滝修験の荒行の場であったと伝えられます。
奈曽の白曝谷1

奈曽の白曝谷
▼鳥海山
秋田県から見る鳥海山

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伊吹山の円空仏 

[ 円空]


滋賀県と岐阜県の県境に日本百名山の一つの伊吹山(1377m)があります。
高山植物には伊吹山固有種も多く貴重な自然の宝庫です。「日本そばの発祥の地」と伝わり、古くから荒ぶる神がいるという伝承があります。
▼伊吹山
伊吹山jpg

『日本書記』宇治谷孟訳の大和武尊の病没の部分を読んでみます。

近江の五十葺山(伊吹山)に、荒ぶる神のあることを聞いて、剣を外して宮簀媛の家におき、徒歩で行かれた。胆吹山にいくと、山の神は大蛇になって道を塞いだ。大和武尊は主神(かむざね)が蛇になったことを知らないで、「この大蛇はきっと神の使いなんだろう。主神を殺すことができれば、この使いは問題ではない」といわれた。蛇をふみ越えてなお進まれた。このとき山の神は雲をおこして雹を降らせた。霧は峯にかかり、谷は暗くて、行くべき道がなかった。さまよって歩くところが分からなくなった。霧をついて強行すると、どうにか出ることができた。しかし正気を失い酔ったようであった。それで山の下の泉に休んで、そこの水を飲むとやっと気持が醒めた。それでその泉を居醒井(いさめがい)という。大和武尊はここで始めて病気になられた。

『日本書紀』岩波書店版は、大和武尊、始めて痛身(なやみますこと)有り。と記して語注にはナヤムは身の萎えるようになる意とあります。正気を失い酔ったように、また身が萎えるようになったという表現で、いかに伊吹山の神の威力が強かったかが想像できます。

この伊吹山に円空さんの足跡をみることができます。

以下は『円空と瀬織津姫』下巻 菊池展明著の各所から引用
寛文六年(1666)の蝦夷地(北海道)行で洞爺湖の中島に奉納されることを願って彫られた、道内唯一の白衣観音の背に円空は自ら、次の銘を刻んでいた。

うすおく乃いん小嶋 江州伊吹山平等岩僧内
寛文六年丙午七月廿八日
始山登   円空(花押)

「江州」つまり近江国の「伊吹山」、そこにある「平等岩僧」という自認が円空にはあった。
「平等岩」は「行導岩」のことで、中川泉三『伊吹山案内』(明治三十八年)は「土人ビヨド岩と云ふ、八合目の辺にある大磐石なり、古へ膽吹山の開祖、三修沙門錬行の処なりしより行導岩の称あり」と説明している。「ビヨド岩」を漢字表記したのが「平等岩」である。
元録二年(1689)三月、円空は伊吹山で、特大の十一面観音(像高180.5センチ)を、また、この観音の守護神とみられる不動尊(像高99.7サセンチ)の二体を彫っていた。円空は、伊吹山の神をおもってこれらを彫像したにちがいなく、では、彼が伊吹山の神をどのようにみていたかは、次の一首にうかがうことができる。

伊福山法ノ泉の湧出る水汲玉ノ神かとそ思ふ(歌番六一二)
(伊福山〔伊吹山〕法(のり)の泉の湧き出(いづ)る水汲む玉の神かとぞ思ふ)

円空は、伊福山=伊吹山には「法ノ泉」が湧出していて、ここにはその霊水を汲む最上の神(「玉の神」)がいると詠っている。円空にとって、仏法の霊泉を司る神、あるいは霊泉そのものである「水汲玉ノ神」がいるのが伊吹山で、この山神(水神)は十一面観音に化身する神だというのが彼の認識である。
円空仏3

円空は、最初期の修験修行にかかわる伊吹山に、晩年期、初志に立ち戻るようにして十一面観音と不動尊を彫像・奉納した。彼が伊吹山(の神)に特別なおもいを抱いていたことは、十一面観音の背に記された多くの「ことば」が如実に告げている。そこには、上段に漢詩、中段に和歌、下段に彫像経緯と、三つのメッセージがぎっしりと記されていた。
観音像背面1

上段
(起句)桜朶(おうだ)の花枝(かし)は艶(えん)にして更に芳(かんば)し
(承句)観音の香力は蘭房(らんぽう)に透(す)く
(転句)東風(こち)は吹送りて終(つい)に笑(しょう)を成す
(結句)好(よ)く筵前(えんぜん)に向ひて 幾場(いくばくかのじょう)を定めん

菊池氏の意訳では、「桜の花枝は艶やかに垂れ下がり、芳しい香りを放っている。伐りだした桜木をおいた室内には、清く芳しい観音の香りが満ちている。(薬師の浄土である東方瑠璃光世界からは)東風が吹きわたってきて、この風に吹かれて観音は笑みの表情となる。筵(むしろ)に立てた桜木に向かって、わたしは、今、観音を彫ろうとしている。生まれた観音をまつるささやかな場を、ここ(伊吹山)に定めんとおもう」―。
円空仏1

円空仏5

円空仏4

ヤマトタケルに討伐されるべく描かれた伊吹山の「荒ぶる神」だったが、この神が即物的に表れた姿を、『古事記』は「白猪」と書き、『日本書紀』は大蛇としていた。『古事記』によれば、タケルは「この白猪は、伊服岐能山(伊吹山)の神の使者である。今殺さずとも、山から帰る時に(山神を討伐したあとに)殺そう」と「言挙(ことあげ)」したところ、伊吹山神は「大氷雨」を降らせてタケルの正気を失わせたとされる。

『記・紀』には、「荒ぶる神」と記されていた伊吹山の神でしたが、円空は、伊吹山でまるで桜神と対話しているように特別な笑みを浮かべた十一面観音を彫像しました。円空のいた太平寺は大富川の断崖をのぞむ厳しい自然景勝地にあり、不動の滝をはじめ断崖の登攀行道岩(平等岩)の行場などがあります。昭和三十九年に伊吹山山中の太平寺の法灯は消えましたが、現在、十一面観音は山麓に再興された観音堂(米原市太平寺)に、同じく桜木で彫られた不動尊は光明院(米原市加勢野)にまつられています。
案内板
▼大平観音堂
大平観音堂

拝観について

大平堂の管理をしておられる方は、円空さんは不動の滝を思って十一面観音を彫ったと思うとお話していました。白洲正子さんや梅原猛氏などが太平観音堂を訪れたそうです。『円空と瀬織津姫』の著者、菊池氏は桜神・「水汲玉ノ神」の十一面観音に秘められた神を天照大神荒魂の瀬織津姫神と考察していました。

伊吹山で猪や大蛇に化身する神・・・
『日本惣国風土記』には
猪川里 中肥也有神号猪神所祭瀬織津姫也 と記されています。この猪川里がどこかは定かではありませんが、瀬織津姫という神が猪神として祭られたという風土記伝承は、記憶しておきたく思います。



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宇治の橋姫と桜谷 

[ 瀬織津姫神]

宇治の橋姫神社(京都府宇治市宇治蓮華47)の紹介です。

由緒
祭神 瀬織津比咩尊
式内 橋姫神社
摂社 住吉神社
▼宇治橋
宇治橋

孝徳天皇の御宇、大化二年(六四六)、南部元興寺の僧、道登勅許を得て創めて宇治橋を架するにあたり、其鎮護を祈らん為、宇治川上流櫻谷に鎮座まします瀬織津比咩の神を橋上に奉祀す。これより世に橋姫の神と唱ふ。今の三の間と稱するは即ち其鎮座の跡なり。後祠を宇治橋の西詰の地に移し住吉神禮と共に奉祀する。
明治維新までは、宇治橋の架換ある毎に新たに神殿を造営し神意を慰めたりしたが、明治三年洪水の為、社地流出してより此の地に移す。住吉神社は、往古は宇治川の左岸櫻の馬場にありし小社なり。彼の源平盛衰記に平等院の北東の方結の神の後より武者二騎云々とあるのも即ちこれなり。尚かの源氏物語宇治十帖のうち橋姫の巻といふ一帖は、これに因みしものなるべし。
橋姫神社鳥居
▼向かって左が橋姫神社 右側が住吉神社
橋姫神社
▼橋姫神社
橋姫神社2
▼由緒
宇治橋姫神社由緒

さむしろに衣かたしき今宵もや 我をまつらん宇治の橋姫 古今集
宇治橋1

「京都府神社誌」には宇治橋の鎮護として宇治川上流櫻谷に鎮座せし瀬織津比咩神を宇治橋三の間の奉祀し、橋姫の神と唱える・古より悪縁を絶つに霊験ありという。と記されています。
▼宇治橋から見る上流の景色
宇治橋から上流

琵琶湖から流れる瀬田川は途中の天ヶ瀬ダムのところで宇治川と呼名が変わります。
宇治川にかかる宇治橋は日本三古橋と云われ、橋姫神社の由緒に出てくる櫻谷は天ヶ瀬ダム近くと伝わります。

 桜谷を瀬織津姫神祭祀ゆかりの地名をとらえていたのは風琳堂主人こと故菊池氏(著書:エミシの国の女神・円空と瀬織津姫・八幡比咩神とは何か)でした。日本三大弁財天を祀る琵琶湖の竹生島は、その琵琶湖を模して造ったと伝わる東京の不忍池に天海僧正は、瀬織津姫神を崇め祀りました。琵琶湖の水神を瀬織津姫神と考察していたのは『円空と瀬織津姫』でした。この琵琶湖の瀬織津姫神祭祀が、瀬田川を下っていくと佐久奈度神社で瀬織津比咩神を桜谷神(興福寺文書では「佐久良太利大神宮」)として祀り、川名が瀬田川から宇治川へと変る櫻谷で瀬織津比咩尊の祭祀(後橋姫神社へ)があり、もっと河口の淀川では船場の御霊さんとして親しまれる御霊神社で瀬織津比売神が祀られています。
 
宇治の橋姫神社のご祭神の瀬織津比咩神は天照大神の荒魂と呼ばれるときのご神名が撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(ツキサカキイツノミタマアマサカルムカツヒメノミコト)です。「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」を祀る、廣田神社公式HPには御凱旋の帰途、武庫の地・廣田の国(芦屋・西宮から尼崎西部)に大御神の『荒魂』を国土の鎮め外難の護りとして鎮め祭ったと、『日本書紀』に記されている兵庫県第一の古社です。と書かれています。

天平三年(703)に成ると伝わる住吉神社最古の縁起書である『住吉大社神代記』には、次のように書かれています。

或記に曰はく、住吉大神と廣田大神と交親(ムツミ)を成したまふ。故(カレ)、御風俗(ミクニブリ)の和歌(コタヘウタ)ありて灼然(イヤチコ)なり。「墨江伊賀太浮渡末世住吉夫古(スミノエニイカダウカベテワタリマセスミノエガセコ)。」是、即ち廣田社の御祭の時の神宴歌(カミアソビウタ)なり。

橋姫神社では、「橋姫の神は古より悪縁を絶つに霊験ありという」と語られています。ただ、この神宴歌を思うと縁結びの神ととらえてもいいのかもしれません


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大井川の神と綾戸國中神社 

[ 瀬織津姫神]

『都名所図会』には京都嵐山を流れる大堰川について以下のように説明しています。

大堰川(桂川)の水上は北丹波より流れて、水尾川・清滝川に落ち合ひ、猿飛・竜門の滝・大瀬等の名ありて、あらし山を帯し、渡月橋を経て、末は梅津・桂の里のひがしを流れて淀川に落つる。
『拾遺集』
大井河川辺の松にこととはん かかる御幸やありしむかしも 貫之
色々の木の葉ながるる大井川 しもはかつらの紅葉とや見ん 忠岑
大堰川
▼渡月橋
渡月橋

大堰川にかかる渡月橋は、承和三年(836)に弘法大師の弟子の僧 道昌によって大堰川の修築が行われ、その時に架設されたのに始まると言われ千年以上の歴史を持つ由緒ある橋である。橋の南に法輪寺があったため、当時は「法輪寺橋」と称されており、渡月橋というのは、後に亀山上皇が東から西へ月が渡る様子を見て名付けたと言われている(案内板)。

渡月橋の北には、大堰川の守り神を祀る延喜式内社の大井神社があります。通り過ぎてしまいそうな路地裏の狭い敷地にある小さな社が大井神社です。
▼大井神社
大井神社

 御祭神 宇賀霊神 
大堰川の守り神、また商売繁盛の神として古来住民や秦氏や角倉氏の信仰も厚いものがあった。創立年月は不詳とするも「三代実録」などに見えるとあり、明治十年には村社へ列格され、現在に至る(案内板より)。平成祭データでは、大井神社のご祭神を宇賀霊神 大綾津日神、大直日神、神直日神と記しています。

松尾大社の伝承では、秦氏が桂川に堤防を築き、「渡月橋」のやや少し上流に大きな堰(せき=大堰→大井という起源)を作り、その下流にも所々に水を堰き止めて、そこから水路を走らせ、桂川両岸の荒野を農耕地へと開発して行ったとのことです。

秦氏の信仰も気になるところですが・・・。

祇園祭の関連で大切な伝承を持つ古社の綾戸國中神社があります。神社でいただいた由緒を読んでみます。

京都市南区久世上久世町にある式内社の綾戸國中神社は、以前、大井社と呼ばれていました。
昔は綾戸宮と國中宮の二社であったが現在では合祀され左に綾戸宮が、右に國中宮が鎮座されている。

御祭神 綾戸宮 大綾津日神、大直日神、神直日神
      國中宮 素盞鳴尊

例祭日 5月巳日 (現在では第二日曜日)
▼綾戸國中神社
綾戸國中神社1

社伝によれば、第二十六代継体天皇十五年(521)に大堰川(桂川)七瀬の祓神として大井社と称して創建され、その後第六十二代村上天皇天暦九年(965)に綾戸社に改称された。社号の額は第七十代後冷泉帝の御宸筆と伝えられている。
國中社は山城の地西の岡訓世がまだ一面湖水の時、素盞鳴尊が天から降り給い水を切流し土地を開いて広々とした平野とされ、その國の中心と思われる所に「符」を遣わし給うた。その「符」とは素盞鳴尊の愛馬天幸駒の頭を自ら彫刻して新羅に渡海する前に形見として遣わし給うたのである。この形見「符」が國中社の御神体である。(中略)日本三大祭のひとつである祇園祭に欠かせないものとして綾戸國中神社の「久世駒形稚児」がある。
▼駒形絵馬
綾戸國中神社駒形

この「駒形稚児」と祇園祭との関係は、素盞鳴尊「國中神社は尊の荒御魂なり。八坂郷祇園社は和御魂なり。依って一体にして二神、二神にして一体で神秘の極みなり。」また、「訓世の駒形稚児の到着なくば、御神輿は八坂神社から一歩も動かすことならぬ。若しこの駒故なくして御滞りあるときは必ず疫病流り人々大いに悩む。」と伝えられている。前述の由来にて駒形稚児はこの駒形を奉持することで神位つまり神そのものとされ、八坂神社境内を南楼門より騎馬のまま参入し拝殿を三巡の後一歩も地を踏むことなく本殿に昇殿し祭典に臨むのである。そして神輿祭、還幸祭では中御座神輿(素盞鳴尊)の先導をつとめるのである。  

『都名所図会』にも綾戸社(あやとのやしろ)は蔵王堂の南にあり。牛頭天皇を祭れるなり(例祭は4月19日なり。六月祇園会祭礼に、馬の頭(かしら)を首にかけて、児(ちご)の騎馬にて当社より毎歳出づるなり)。と書かれています。
▼拝殿
綾戸國中神社拝殿
▼拝殿中
綾戸國中神社2
▼本殿
綾戸國中神社本殿

綾戸社は以前は大井社と呼ばれており、七瀬の祓神を祀り、國中社は駒形の木像(頭部)がご神体で八坂神社の祇園祭は、「久世駒形稚児」の到着から始まることや國中神社は素盞鳴尊の荒御魂を祀っているとのこと等、興味深い由緒が語れていました。
 
ご祭神の大綾津日神は壱岐国神社誌(大正十五年)では、此の神は八十枉津日神の御一名也とあります。また、「神別記」には八十枉津日神・大綾津日神 此の二柱神ハ、初於中瀬、潜滌之時、所成之神。此二神ハ、瀬織津姫之別稱との記載があります。大井川の川神を瀬織津姫の異称とすると綾戸國中神社の創建が521年とのことですから、中臣朝臣金連が瀬田川のそばの佐久奈度神社に瀬織津姫神を祀り祓戸大神とするより、はるか前、七瀬の祓神として大綾津日神という異称祭祀ではありますが、瀬織津姫神が大井川の守り神として祭祀されていたことになります。大分県中津市の瀬織津姫神を祀る闇無浜神社でも七瀬の祓が行われていたと「闇無浜神社由緒と歴史」に記されていました。同由緒には「所謂七瀬は、中津瀬廣津瀬瀧津瀬鵜来津瀬熊津瀬大之瀬廣瀬以上七箇瀬なり。瀬毎に川社を造り八座置(やくらおき)の神檀を構へ、神供幣帛を兼備して、一箇瀬に神官十二人宛六箇瀬これに同じ。七瀬の内、中津瀬を以て本處と為す」とあります。以前は大井神社も瀬ごとに川社があったのかもしれません。もう一つの大井神社(並河)では出雲より来り給う二神が松尾大社から鯉に乗り移り当地に鎮座された。と伝えています。

八坂神社は古くは祇園社、または祇園感神院と称し、八坂神社と称するようになったのは明治維新の時からです。鎮座の年代は諸説ありますが、社伝によれば、斉明天皇の二年(656)とされています。祇園祭は、都に疫病が流行した際、これを怨霊の祟りによるものと信ぜられ、その退散を祈った御霊会に発し、貞観十一年(869)六月七日神泉苑に六十六本の鉾を立て、十四日洛中の男子が祇園社の神輿を神泉苑に送ったに始まるとされています。(「祇園社と町衆の形成」真弓常忠著)。

この祇園祭の山鉾に天照大神を男神像として奉斎するのが、岩戸山です。
▼岩戸山鉾
岩戸山
▼岩戸山鉾案内板
岩戸山2

『円空と瀬織津姫』菊池展明著の上巻で現在、円空が天照大神を男神として彫ったのは八体が確認されていると書かれています。『円空佛』五来重著を引用して天照大神を男神としてあらわすのは、祇園祭の鉾人形しかしらない。円空が天照皇大神を男神として彫ったことについて、五来氏は「論外」「恣意独善」だという。と書かれていました。

 いつか自分の目で天照大神の男神像を見てみたいという願いが今年、叶いました。
岩戸山の天照大神像を写すことはできませんでしたが、確かに男神でした。「都名所図会」にも天照をテンショウとルビがあり、「祇園会細記」にも岩戸山の絵図には、テンショウ大神と記されています。伊勢のアマテラス神とは異なる日神の男神をテンショウさん、またはアマテルさんと呼んでいた神像を祇園祭の岩戸山鉾で観ることができます。
『神道大系』神社編 祇園より
岩戸山4
▼中央が天照大神像(岩戸山鉾でいただいたパンプレットより)、実物はもっと若くてハンサムでした^^
岩戸山祇園

また、『円空と瀬織津姫』下巻では、円空が牛頭天皇像を女神像として彫ったことを紹介しています。『記紀』神話では、荒ぶる神、出雲神話では八岐大蛇を退治した英雄素盞鳴尊ですが、研究者の中には、素盞鳴尊を月神や農耕神として考察されている方もおいでです。
綾戸國中神社の「久世駒形稚児」の駒形ですが、八坂神社の深い信仰に関わる駒形かどうか定かではありませんが、駒形大神という名で記憶に残っています。

『円空と瀬織津姫』の著者菊池展明氏は、岩手県遠野郷においては瀬織津姫神を「早池峯山駒形大神」との異称があると伝えていました。




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錦岡樽前神社―円空仏 

[ 円空]

錦岡樽前神社(苫小牧市宮前町3丁目6-20)の紹介です。

樽前山の麓にある錦岡樽前神社は、円空仏を本尊として祀る稀有な神社です。

▼錦岡樽前神社 背景に見えるのが樽前山
錦岡樽前山神社
円空仏は氏子の方々によって大切に祀られています。
▼円空仏案内板
錦岡樽前山神社・円空仏案内板
▼円空仏
円空仏

『円空と瀬織津姫』上巻/菊池展明著から引用。
明治の神仏分離に伴って、この地方の神社(神体)調べをおこなったのは、札幌神社(のちの北海道神宮)権宮司兼開拓使・菊池重賢だった。彼は『明治五年壬申八月・十月巡回記』の樽前神社の項を、次のように記していた。

樽前神社 木造 仏体 改祭
観音裏ニたるまゑのたけトアリ年号訳兼
祭神瀬織津姫ト申伝有之候由ノ処、従前当社ハ樽前山神ヲ祭ル趣、瀬織津姫ハ海神祓戸神ニテ山海ノ相違、改祭ノ上ハ祭神判然取調可伺事。
勇払 白老 千歳三郡産土神ト奉斎シテ郷社ト被為成度段出願有之。
(中略) 同所漁場出張番家守護神

樽前神社の氏子衆は菊池に対して、「祭神瀬織津姫ト申伝有之候」、またはこの神は「勇払白老千歳三郡産土神」であり「漁場出張番家守護神」であると主張したのである。菊池は、樽前神社は「樽前山神」をまつるもので、「瀬織津姫ハ海神祓戸神ニテ山海ノ相違、改祭ノ上ハ祭神判然取調可伺事」と記している。瀬織津姫を「祓戸神」という性格ばかりではなく「海神」(宗像神)とも認めていたのは、やはり札幌神社の神官ゆえの見識であったが、その海神を山神としてまつるのはおかしいというのが菊池の『巡回日記』に記された主張だった。海神が山神としてまつられるのは阿寒大神ばかりでなく、、全国に諸例多く、むしろ自然のことだが、菊池は「山海ノ相違」云々と、神官にあるまじき不見識をもっていた。
 明治五年の氏子衆の祭神・瀬織津姫という主張は通ることなく、樽前神社は苫小牧市部に遷座し、祭神も「皇朝ノ神祗」にのっとって変更された。この新・樽前神社は樽前山神社となり、現在、壮大な社殿のもとに新たな祭祀がおこなわれている。しかし、同社の「由緒」には、明治五年後の祭神変更・決定のいきさつがさりげなく書かれている。
▼苫小牧 樽前山神社
樽前山神社
▼由緒案内板
樽前山神社由緒


錦岡樽前神社の氏子の方々にお聞きしても瀬織津姫神がご祭神として祀られていたことを知る方がいないのが現状です。
「とまこまいの石碑」高橋稔著には、同社祭神を天照皇大神・大己貴命・少彦命・埴山姫神・倉稲神と刻まれていると書かれています。同書には円空仏で知られる錦岡樽前神社の由来についてはほとんどが不明であるとし、言い伝えによると覚生川中流に祀られていたが、イワシ漁場が繁栄した明治二十年代に人口が増えた覚生に移され、明治三十七年に再び樽前に移設されたとあります。
『苫小牧市史』上巻には、市川十郎筆記として円空作の樽前権現は火山による災害を払うための鎮守としたものであろうと述べています。この祓いの神徳と明治期の氏子の方々の祀る瀬織津姫神のご神名が語られるとき、円空が瀬織津姫という神を樽前山神として感得し、「たろまゑのたけ権現」の観音像を彫ったのではないかと思えてきます。同書には松浦武四郎の『東蝦夷日誌』の中で樽前権現のほかにユウウツ川東に沼有、此の島に弁財天社ありて円空作の地蔵尊を安置す。「風を祈り又海上難風の時祈誓して頗る験有りと聞り。」と書かれたものを紹介しています。円空は自ら「江州伊吹山平等岩僧円空」と名乗っていました。琵琶湖を見下ろす伊吹山に円空は特大の十一面観音(像高180.5センチ)と不動尊(像高99.7センチ)の二体を彫っています。

『円空と瀬織津姫』下巻菊池展明著に円空が伊吹山の神を思って詠んだ歌を紹介しています。

伊福山法ノ泉の湧出る水汲玉ノ神かとぞ思ふ
(伊福山〔伊吹山〕法(のり)の泉の湧き出(いづ)る水汲む玉の神かとぞ思ふ)

同書には
円空は、伊福山=伊吹山には「法ノ泉」が湧出していて、ここには、その霊水を汲む最上の神(「玉の神」)がいると詠っている。円空にとって、仏法の霊泉をを司る神、あるいは霊泉そのものである「水汲玉ノ神」がいるのが伊吹山で、この山神(水神)は十一面観音に化身する神だというのが彼の認識である。

▼樽前山と支笏湖
樽前山と支笏湖
苫小牧市立図書館で樽前山や支笏湖の民話を探しましたが、見当たりませんでした。アイヌの方々の伝承が拾えるといいのですが・・・。円空は蝦夷地に二年間滞在(寛文五年より寛文六年と伝えられる)して仏像を彫ったと伝えられています。円空34歳のときでした。

錦岡樽前神社例大祭が六月十八日に行われます。この日は円空仏がご開帳されます。

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出雲大社 涼殿祭 令和1年 

[]

出雲大社 涼殿祭(すずみどののまつり) 令和1年6月1日
▼出雲森
出雲涼殿祭1

出雲涼殿祭2
▼出雲大社境内の御手洗井
出雲涼殿祭1-1

涼殿祭は「真菰神事」とも呼ばれ、大社町の人々の生活の中に溶け込んでいる奇祭だとあります(「出雲大社の祭礼行事」島根県古代文化サンター調査研究報告書)。
同書を少し読んでみます。
出雲国造(千家宮司)を先頭に十数名の神官らが本殿東200mに所在する「出雲森」に出向き、「出雲の森」の神木(椋木)の前で粢(しとぎ)団子などを供え、祝詞を読み上げ、拝礼する。その後、戻る形で大社境内の「御手洗井(みたらしのゐ)」に進み、井の前にて大きな御幣を両手に黙祷祈念して神事は終わる。この神事をまた「真菰」神事という。

「出雲の森」から「御手洗井」に至る道筋にほぼ一直線上に、30センチ間隔で稲佐浜で採ってきた砂を盛り(立砂)、国造が歩む前に一名の雑仕が竹箒でその立砂を掃き平に広める。そして左右の神職が(出仕役)が緑々とした真菰を砂の上に敷き、その砂・真菰の上を国造が踏みしめながら進む。
出雲涼殿祭4

出雲涼殿祭

ご神事のあとで「御手洗井」の前に置かれた真菰を神官から、いただくための行列が出来ていました。踏みしめたものでないとご利益がなく、人々は真菰を持ちかえり、神棚に供え、お風呂に入れたり、財布に入れたりすると夏の無病息災が得られるそうです。
出雲涼殿祭5

同書には、奇数月は千家家と偶数月は北島家で担当していたとあり、『御祭典式略図』(千家国造家所蔵)の絵図には、北島国造の場合は松明が見えることから夜に行われていた神事でもあったようです。



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荒神谷遺跡と銅鐸 

[ 遺跡]

 荒神谷遺跡 島根県出雲市斐川町神庭873ー8

荒神谷の青銅器は今から2000年前、弥生時代後半に埋められたと考えられています。
昭和59年に358本の銅剣が発見され、翌年すぐ近くから銅鐸6個と銅矛16本が出土しました。国の史跡に指定されています。
荒神谷遺跡3

荒神谷遺跡

荒神谷遺跡4


荒神谷4号と6号の銅矛には赤色顔料(水銀朱)が部分的に確認されており、銅矛が赤く塗られているのはマツリの場で使用されていたからと考えられています。
 鋳型から取り出された銅矛は研磨されますが、その際に研磨の角度を変えることによって綾杉状の文様ができます。荒神谷銅矛には7本の銅矛に砥ぎ分けによる文様がみられます。これらは、佐賀平野東部を中心とする地域に出土する銅矛の特徴であることから北部九州で製作された銅矛が荒神谷に運び込まれたと考えられています。
荒神谷遺跡案内板

荒神谷遺跡1
銅鐸について
滋賀県野洲市の銅鐸博物館では、銅鐸についての詳しい説明がなされています。
およそ、3500年もの昔から、中国では青銅、つまり銅にスズを加えた合金でさまざまな道具を造り、各種のカネをつくった。このうち「揺れ鳴るカネ」は、旗につるすと神を呼ぶと信じられ、家畜につけると家畜を守り、子をふやすものと期待された。2300年前、日本に稲作が伝ったとき、ウシ・ウマ・ヒツジは来なかった。そしてカネだけが渡ってきて祭りのカネとしての銅鐸が誕生し、独自の発展をとげることになる。
銅鐸が造られた2000年前は、日本で米づくりが生活の中心の時代(弥生時代)である。
銅鐸を鳴らす場としてもっとも相応しいのは米の豊作を祈り、収穫を感謝する祭りであろう。銅鐸には自分たちの領地に悪い神や敵が入り込まないように境界近くに埋めた、という考えや銅鐸の中に土の神(地霊)や米の神(稲魂)が宿っていたという考えもあるとのことです。
銅鐸博物館銅鐸
 銅鐸の時代、中国の南部からベトナムにかけて銅の太鼓を稲作の祭りに使っていた。
銅の太鼓の祭りは現在もなお中国南部やベトナムに伝わっている。そしておもしろいことに祭りの時以外には、銅の太鼓を土の中に埋め隠している。これは、銅鐸が土の中に埋めてあることと共通している。(出雲市荒神谷博物館・滋賀県野洲市銅鐸博物館より参考)
 銅鐸は、ウシなどの動物につけるカウベルが元になったと聞いたことがあります。
出雲出土の銅鐸は、滋賀県野洲市の銅鐸と大きさが随分違います。これは、出雲の銅鐸の方がはるかに古い時代に造られたものだからですが、銅鐸の周囲に装飾を施し、大きさを増した銅鐸もすばらしいです。鳴らす銅鐸から仰ぎ見る銅鐸へ変わります。 「ある時期から、パタッと銅鐸が造られなくなるんですよ」という銅鐸博物館の学芸員の方の熱い言葉に私も銅鐸について一気に興味が湧きました。
この謎は、1700年前から、社会の仕組みが大きく変り、支配する人、される人がはっきり分かれ、支配者が死ぬと人工の丘を造ってそこに死者を葬るようになったからではないかと考えられているそうです。村人たちの共同の祭りは邪魔ものになった。こうして銅鐸の祭りは消え去り、支配者の祭りでは鏡が重要視されるようになったとのことです。

荒神谷2号銅鐸は京都市右京区梅ヶ畑出土の4号銅鐸と同じで鋳型で作られており、3号銅鐸は徳島県和気町と兄弟銅鐸であるとのこと。同じ工人の出雲と四国を結ぶ線はどうような面となっていくのか・・・。また、淡路島南あわじ市で2015年に発見された弥生時代の青銅器「松帆銅鐸」も出雲との交流が考えられています。国生みの舞台である淡路島の神話が、「記・紀」の神話に取り入れられたのは、海産物の納入先であった伊勢の台所から伝わったのではないか?とは松前健氏の考察でした。しかしもっと遥かな弥生時代の頃、または神話以前からの交流が銅鐸を通じて判明されるのも近いのかもしれません。
野洲市大岩山の銅鐸博物館では、もっと多くの兄弟銅鐸が存在することを教えてくれます。
兄弟銅鐸分布図



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伊勢内宮:瀧祭大神 

[ 瀬織津姫神]

伊勢内宮の瀧祭神の紹介です。

先日、テレビで作家であり評論家の竹田氏が伊勢神宮の参り方を語っていました。

五十鈴川のそばにある瀧祭神は、五十鈴川の川神であり天照大神に取り次ぐお役目をしていただけるので内宮に参拝するときは、五十鈴川で手や口を清め、最初にお参りをするように。また、お願い事がある方は、荒祭宮と多賀宮に参拝して将来の希望を伝えるのがいいと。
伊勢五十鈴川

五十鈴川は、別名を御裳濯川(みもすそかわ)と呼ばれていました。
『円空と瀬織津姫 下巻』菊池展明著によると伊勢内宮の神官であった荒木田経雅著の『大神宮儀式帳解文』は内宮の滝祭神が瀬織津姫神であったことが内宮のなかで伝承されていたことを明かしています。
▼瀧祭神は社殿を持たず、霊石がご神体です。
瀧祭神

また、岡山県の吉備津神社神域の最奥部にまつられる瀧祭神社のご祭神を瀬織津姫神と伝えています。
吉備津神社・瀧祭神社

同書によれば『神皇正統記』には「瀧祭と申すは龍神なり、その神あづかりて地中に納めたりとも云ふ、一には大倭の龍田神は、この瀧祭と同体にます、此の神の預り給へる也、仍て天柱国柱といふ御名ありとも云ふ」と貴重な記録がみられると書かれています。江戸期(延宝時代)に成る『和州旧跡幽考』にも、「瀧祭神と廣瀬龍田神、即ち同躰異名にして、水氣の神なり」とあるとのこと。

江戸時代の僧、円空は伊勢で次の歌を詠んでいます。

「皇のけさ鏡の榊葉にみもすそ川の御形おかまん」
(皇(すめらぎ)の袈裟〔今朝〕の鏡の榊葉に御裳濯川の御形拝まん)

「ちはやふる五十鈴川の禊ぎにも乙女神よ祓いましませ」

菊池氏は『エミシの国の女神』で式年遷宮の考察をしております。詳しくは同書に譲りますが、式年遷宮は六八五年九月に天武天皇によって定められ、その第一回遷宮が六九〇年、持統天皇によって行われたと伝えられています。現在は平成25年に式年遷宮が行われましたので同書説明(内宮の配置図)と反対側にお社があります。同書には『神宮秘伝問答』に多賀宮がもともと内宮に並祭されていたという伝承を記しています。

元ハ荒祭宮一所ニ並祭ス。東多賀宮。西荒祭宮。此ノ故ニ今ニ至リテモ、荒祭東西遷宮ハ本宮遷座ノ例ニ違ヘリ也。

内宮の荒祭宮は、天照大神の荒御魂が祀られ、外宮の多賀宮では豊受大神の荒御魂が祀られています。
この神が荒祭宮の地で並祭されていたという伝承は他にも『類聚神祇本源巻十一』の「外宮別宮」篇があります。

「私記元荒祭宮一所並座東方多賀宮西方荒祭宮此宮至干御眞荒祭宮東西遷宮違本宮遷座例也」
多賀宮


『佐久奈度神社之記』には天瀬織津比咩尊者、天照太神荒魂、内宮第一摂社也、二所太神宮鎮座傅記曰、日向小戸橘檍原而祓除之時、洗左眼因以生日天子大日孁貴也、天下化生名曰天照太神荒魂、荒祭神也、所謂祓戸神、瀬織津比咩是也、(「神道大系近江國」)

伊勢の五十鈴川の神である瀧祭神も内宮荒魂宮の神も瀬織津姫神という伝承があります。
伊勢内宮荒祭宮


「令和」の初日、伊勢神宮の数ある別宮・摂社の中から、お願い事が許される宮として荒祭宮と多賀宮を示された竹田氏の言葉が深く残りました。

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沖縄総鎮守:波上宮 

[ 沖縄]

波上宮(ナミノウエグウ) 沖縄県那覇市若狭一丁目二十五番十一号
沖縄総鎮守 旧官幣小社 略記より

ご祭神
主神 伊弉冉尊 速玉男命(左神座) 事解男命(右神座)

相殿神 竈神(火神) 産土大神 少彦名神(薬祖神)

御由緒
当宮の創始年は不詳であるが、遥か昔の人々は洋々たる海の彼方、海神の国(ニライカナイ)の神々に日々の風雨順和にして豊漁と豊穣に恵まれた平穏な生活を祈った。その
霊応の地、祈りの聖地の一つがこの波の上の崖端であり、ここを聖地、拝所として日々の祈りを捧げたのに始まる。
 波上宮の御鎮座伝説に『往昔、南風原に崎山の里主なる者があって、毎日釣りをしていたが、ある日、彼は海浜で不思議な 〈ものを言う石〉を得た。以後、彼はこの石に祈って豊漁を得ることが出来た。この石は、光を放つ霊石で彼は大層大切にしていた。このことを知った諸神がこの霊石を奪わんとしたが里主は逃れて波上宮《現在の波上宮御鎮座地で花城(ハナグスク)とも呼んだ》に至った時に神託(神のお告げ)があった。即ち、「吾は熊野権現也この地に社を建てまつれ、然らば国家を鎮護すべし」と。そこで里主はこのことを王府に奏上し、王府は社殿を建てて篤く祀った』という。
 以来、中国・南方・朝鮮・大和などとの交易(琉球王府直轄事業)基地であった那覇港の出船入船は、その都度、波上宮の鎮座する高い崖と神殿を望み、出船は神に航路の平安を祈り、入船は航海無事の感謝を捧げたという。また人々は常に豊漁、豊穣を祈り琉球王府の信仰も深く、王みづから毎年正月には列を整え参拝し、国家の平安と繁栄を祈るなど朝野をあげての崇敬をあつめ、琉球八社(官社)の制が設けられるや当宮をその第一に位せしめ、「当国第一の神社」と崇敬された。明治の御代になるや、同二十三年官幣小社に列格し、沖縄総鎮守としてふさわしい社殿、神域の結構を見るに至ったが、先の大戦で被災した。
 戦後は、昭和二十八年に御本殿と社務所が、同三十六年には拝殿が再建された。そして平成五年、平成の御造営により、御本殿以下諸社社殿が竣工。翌年五月、諸境内整備が完工した。
波上宮鳥居

波上宮拝殿1

波上宮由緒

略年表
正平二十三年(1368)・・・頼重(らいじゅう)法院が当宮の別当寺として護国寺を建て王の祈願所とする。
大永二年(1522)・・・倭僧日秀上人、当宮を再興。
慶長十年(1605)・・・倭僧袋中上人が「琉球神道記」の中に「当国第一の神社」と記す。(以下後略)
御神徳
沖縄総鎮守の神として御神威は古今を通じて高く、国家鎮護・海外貿易の航海安全を始め豊漁・豊穣・諸産業の振興を守護され、「守礼の邦」沖縄の永世泰平の守護を戴く御神徳である。

波上宮2

波上宮

『波上宮誌』通史編より波上宮の創社以前を読んでみます。
かつて那覇市の旧那覇地区のことを古くは「うきしま」と呼んでいた。「うきしま」とは、安里川と国場川の流れが合流する広い入江の中にあった島のことで、本島側から入江の中の島が浮いているように見えたので「うきしま」とよんだのであろう。島は長さ2キロメートル、幅1キロメートルほどであったろうか。
 天平勝宝五年(753)十一月二十一日、唐の名僧鑑真らを乗せた第十一回の遣唐使一行の船団が、「阿児奈波島」に漂着したと、淡海三船の『唐大和上東征伝』(779)に記す。
阿児奈波(おきなは、ウチナー)の名が古文献に初めて登場した記述である。
 この阿児奈波の語義については、「おき」を大きい、沖、内、「なは」を漁場((ナバ)あるいは地理的空間を表わす語であると、説の分かれるところである。今でも崇元寺近くの安里川のほとりにひっそりと鎮まっている。「浮縄嶽」(オキナワノ嶽、神名ヨリアゲ森カネアゲ御イベ、通称ウチナーヌ・ウガン)が残っているように、神名ヨリアゲ森とは寄り物が集まる場所というところから神名となったのであろう。このように那覇の入江をかつて「内漁場」(ウチナバ)と呼んだのだが、やがて沖縄の汎称となったのではあるまいか。

「阿児奈波」がおきなわと読み、「浮縄嶽」をオキナワの獄と。又、琉球国の異名を「悪鬼納嶋・沖縄嶋」と記していたのは、『琉球国絵図史料第二集』でした。大きな漁場が沖縄の汎称になったとは『波上宮誌』の記載でしたが、もう一つの沖縄があるとすれば、縄を龍神と見立てる海部族の信仰があった故の名称ではないかと考えています。

海に突き出した琉球石灰岩の崖には、沖縄貝塚後期から歴史時代初期の墓所である「波上洞穴遺跡」が存在し、波上宮社殿造営工事の際には、沖縄貝塚時代後期並びに14~16世紀の遺跡が確認されています。

那覇の江に はらめきすぐる夕立は さびしき船をまねく濡しぬ
折口 信夫 歌碑より

波上宮は月見の景勝地であるとともに逢瀬の場所でもあったそうです。

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櫻咲く 

[ 田舎暮らし]

櫻 咲く・・・ 平成最後のさくら 

20190404櫻咲く

20190404櫻

20190404櫻1

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普天満宮:沖縄 

[ 沖縄]

普天満宮 略記
鎮座地 宜野湾市普天間一丁目27番10号
御祭神 一、熊野権現 伊弉冉尊 速玉男命 事解男命 天照大御神 家都御子神
    二、琉球古神道神 日の神 竜宮神(ニライカナイ神)普天満女神(グジ-神)
             天神・地神・海神
御由緒 
 当宮は別称普天満権現、琉球八社の一つである。創建については往昔、普天満の洞窟に琉球古神道神を祀ったことに始まり、尚金福王から尚泰久王の頃(1450~60年)熊野権現を合祀したと伝えられている。(中略)『琉球神道記』(1605年)には「當國大社七處アリ六處ハ倭ノ熊野権現ナリ一處ハ八幡大菩薩也」、又「普天間権現の事」については「濫觴亦知ラス、熊野ノ飛瀧ト見ユ、東に當リテ瀑布アリ、其水霊也・・・」と祭神のことが記されている。尚、普天満宮は熊野那智(飛瀧)に末吉宮を熊野新宮に、識名宮を熊野本宮に見立てて信仰されていたようである。
さらに、近世沖縄における熊野三山いわゆる権現信仰は琉球八社の内の七社はもとより、その分社、あるいはビジュル・観音・霊石信仰とも習合しながら県内広域に伝播し、拝所としても数多く存在する。
 当宮の縁起伝承には首里桃原(しゅりとうばる)に女神が出現され、後に普天満の洞窟に籠られた伝承。さらにその後、洞窟より仙人が現れ「我は熊野権現なり」と御神威弥高に示された。又、中城間切安谷屋村の百姓夫婦や美里間切東恩納村の「当ノ屋(屋号)」に黄金(神徳)を授け苦難をすくったという伝承があり、「当ノ屋」ではそのお礼参りが続いている。旧暦九月は普天満参詣と言って、かつては中山王はじめノロ、一般の人々が各地より参集し礼拝の誠を捧げた。(後略)

普天満宮鳥居

普天満宮案内板

普天満宮

普天満洞窟穴(市指定文化財「名勝」)洞穴の中は写真撮影が禁じられています。案内板の写真です。
洞穴

普天満宮仙人の由来

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洞穴は、全長280m、洞口が二ヶ所、大きな広場が三ヶ所あり、過去の水流の痕跡を示す洞穴ノッチも見られる。洞穴の形成規模等からして地域の地形地史を知るうえでも貴重なものである。洞窟内及び東洞口付近は遺跡となっており沖縄貝塚時代前期後半以後(約三千年前)の遺物が多数発掘されている。又、約二万年前の琉球鹿、琉球昔キョン、イノシシなどの化石も発見され「普天満宮洞穴」は平成三年八月一日付で、宜野湾市文化財「名勝」に指定されている。
普天満宮洞穴案内板
 
『琉球神道記』宜野座 嗣剛 訳には以下のように記されています。
普天満権現のこと
濫觴起源は不詳である。熊野の飛ぶような瀧と見える。東の方に瀑布があり、その水は霊験である。松の樹は高く秀い出、古仙の住所とも云えよう。岩窟は神秘で閑静で、世尊が入定した洞窟だとも伝えられる。それに向かい合っている磐石、登る嵒(いわお)があり、形も転々として変化が多く、諸色もまた新鮮だ。滴り落ちる露は、乾ききっている旱天でも絶えない。霖雨が降っても増すことはなく、風が吹いても入ることはない。水をそそいでも濡れないし、さながら四方の山にかこまれた田のまん中だ。昔は五ジョウ【ママ】殿の后が讒言によって苦しみ、その名がつけられており、今は飛ぶように速い瀧の大薩の絶壁だ。三つの熱い経路は消し、五つの障害の雲は、自ら晴れる。どんな祈祷でもかなえられよう。何のご利益でも施されよう。あヽ何と頼り甲斐があろう。

由緒案内板には「普天間権現の事」については「濫觴亦知ラス、熊野ノ飛瀧ト見ユ、東に當リテ瀑布アリ、其水霊也・・・」と祭神のことが記されている。と滝の存在が記されていますが、お聞きすると滝の存在を知らないようでした。熊野那智と見立てられた普天満宮には滝神への信仰が語り継がれていないようです。

沖縄には高野山で修行した日秀上人(1503~1577)が熊野信仰を広めたと伝わりますが、琉球八社の内の一社である安里八幡宮は琉球国王の武運を占った八幡大神を祀ります。地図には宇佐の地名を沖縄本島最北端の宇佐浜(辺戸)にみることができます。『沖縄の祖神アマミク』外間守善・桑原重美著には辺戸の安須杜には3つの御嶽があり、王国時代には王家の繁栄・五穀豊穣・航海安全をここで祈ったとあり、『中山世論』にはアマミク神は最初に辺戸の安須杜に降立ち、つぎに今帰仁のカナヒヤブに、そして一気に南部にとんで知念社に神降りしたと書かれています。辺戸は海部(アマ)族が最初に着岸した場所のように思えます。



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久高島・稲作発祥地(受水走水)・浜川御嶽へ 

[ 沖縄]

久高島は、琉球開闢の祖といわれる「アマミキヨ」が降臨、または上陸した島とされ、「神の島」と呼ばれています。沖縄で最も神聖な場所として現在でも多くの神事が行われているとのことです。

久高島へは、フェリーで南城市知念安座港から、久高島徳仁港へ約20分で行くことができます。
▼久高島
久高島
▼久高島徳仁港
徳仁港
久高島は周囲約8キロですので自転車を借りて聖地探訪をしました。私が目指したのは、クボー御嶽と「アマミキヨ」が降臨したと伝わるカベール岬のハビャーンです。
▼フボー御嶽案内板
フボー御嶽案内板
▼フボー御嶽この奥
フボー御嶽
クボー御嶽は、神代の昔から琉球王府と久高島の人々が大事に守ってきた聖地です。
入口までは、案内板で行けますが、聖地のため、中へは入れません。神事には多くの植物が重要な役割をはたします。神女たちが頭にかぶる「ハブイ」はトウツルモドキ、扇や神座にはビロウの葉がつかわれます。ノロ以下の神女たちはクバの葉の上に正座し東方に向かって敬虔な祈りを捧げます。
▼植物と信仰の案内板
久高島の植物と信仰
▼ハービャーンの案内板
ハビャーンの案内板

ハービャーン聖地

ハービャンからの景色

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久高島の対岸にはティダウッカー(太陽の大井戸)と名付けられた御嶽があり、小高い丘陵をスクナ森(須久名山)といいます。
地元の方は以前、川が流れていたが、須久名山に上がってもなにもないとのことでした。『沖縄の祖神アマミク』外間守善・桑原重美著にはスクナが少名毘古那神(スクナヒコナノカミ)と関わりがある語ではないか?と考察をしています。少名毘古那神は海の彼方の遥かの遠い所からやってきた神とされ、大国主神とともに国造りをした神と伝えられています。

海の彼方とは南方諸島のことでスクナヒコナノカミは沖縄の神話伝承から生まれた小さな神だったかもしれないと考えてみるのも面白いです。
▼テダ御川
テダ御川
▼スクナ山
スクナ山
▼東御廻り案内板
東御廻り案内板

東御廻りの由来
「東御廻り(あがりうま-い)」とは、沖縄民族の祖先<アマミキヨ族>が住み着いたと伝えられる知念・王城の霊地巡拝行事です。首里城を中心に大里・佐敷・知念・王城を「東方(あがりかた)」と呼んだことから、知念・王城の聖地巡拝を「東御廻り」と称しました。久高島は麦の発祥地、王城は稲の発祥地として国王自ら参拝しました。

▼稲種の発祥地(久高島の対岸の王城)
受水走水(うきんじゅはいんじゅ)に稲種を蒔いたと伝わっています。
受水走水案内板

受水

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走水

▼浜川御嶽(はまがわうたき)
(神名 ヤハラヅカサ潮バナツカサの御イベ)
浜川御嶽

昔、アマミキヨ(島始の神)がギライカナイ(海の彼方の理想国)からヤハラヅカサ(前方50mの海中にあるギライカナイへの遥拝地)に上陸し浜川御嶽にしばらく仮住まいした後、今のミントグスクに安住の地を開いたという。この地は霊域として東御廻りの拝所である。(案内板より)
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▼ヤハラヅカサ
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浜川御嶽周辺には、サンゴ礁の白いかけらが多く見受けられました。私はこのように美しい光景を始めてみました。


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沖縄開闢神話から斎場御嶽へ 

[ 沖縄]

沖縄開闢神話から斎場御嶽へ

『東恩納寛惇全集1』琉球新報社編には琉球の開闢伝説も天神降臨して国土を経営したことに始まるとあります。

天みこのお神天降りめしよちへ(召されて)造る島国や世々にさかる

という古歌があり、意味は、「あまみこ」の神が天降り給うて、造られた島国は幾久しく栄え行くとのことです。

この「あまみこ」が方言では、「あまみく」にひびき、又「あまみきよ」、「あまみきゆ」となり、近代の研究家は、これを「あまみ人」の意に解し、九州南部にいた海部(あまべ)族が、奄美大島(あまみおおしま)を経て南下したものと解しています。
同書によると「あまみこ」に天孫または天孫氏の漢字をあてたのは、向象賢(しょうじょうけん)の『中山世鑑』が最初です。世鑑は「琉球開闢の事」として、以下のように説いています。向象賢(羽地朝秀)は1666年から73年までの7年間、摂生として琉球王国の国政に敏腕をふるった方です。

太古、天城に、「阿摩美久」と申す神があり、天帝がこれを召して、この下に、神の住むべき霊所がある。しかしまだ島に出来上がっていないから、汝下って島を造り成せ、と命ぜられた。阿摩美久は、天神の命を畏み、下って見ると、霊地とは見えたが、東海の浪は西海に打ち越し、西海の浪は東海に打ち越して、まだ島とは成っていないので、再び天に上り、土石草木を持ち下り、許多(ここらぎ)の島々を造りあげた。まず一番に、国頭に、辺土(へど)の安須森(あすもり)、次に今鬼神(なきじん)のカナヒヤブ、次に知念森(ちねんもり)、斎場嶽(さやはだけ)、藪薩(やぶさ)の浦原(うらばる)、次に玉城(たまぐすく)アマツツ、次に久高(くだか)コバウ森、次に首里森(しゆりもり)、真玉森(またまもり)、次に島々国々の嶽々森々を造りあげた。かくて数万年を経たが、人もなく神の威も行わるべくもなかったので、阿摩美久は再び天に上り、人種(ひとだね)を乞うと、天帝は、汝も知る通り、天中に神は多いが下すべき神はない。さりとて下さぬわけにも行くまいとあって、天帝の御子男女二人を下し給うた。
世鑑は、最初に「アマミキユ」が、天帝の命によって天降り、更にその奏請によって、天帝の子なる男女二柱の神を降し、その間に三男二女が生まれ、それぞれ国君、諸侯、百姓及び君々(祝々の主宰)、祝々、の始めになったとする。

〔神道記〕キンマモン事
昔、此国初、未だ人あらざる時、天より男女二人下りし、男を「シネリキユ」。女を「アマミキユ」と云、二人舎を並て居す、二人陰陽和合は無れども、居所並か故に、往来の風を縁して、女胎む、遂に三子を生す。

神道記は、「アマミキユ」、「シネリキユ」男女二柱の神が天より降り、その間に三人の子が生まれ、それぞれ、国君、祝々(のろと云う女巫)及び百姓の始となったとする。

以上のように沖縄の歴史は、太古アマミキユと云う神が降臨したことから始まりますが、学者の方々は、アマミキユは、部族の名であって、九州南部にいた海部(あまべ)と称する部族で、五島七島の島々を経て奄美大島に達し、更に南下して沖縄の島々に落着いたものと考えています。このことは、土俗言語の類似によっても疑いのないところで、徳川時代に羽地朝秀(向象賢)が始めてこれを唱え、70年後に新井白石が、又これを提唱し、近くは英人チエンバレン氏が言語学上から立証しているとのことです。
 同書には潮流の関係で、南洋の諸島との人種や文化の交流のあったこと、おもろさうしや、民間伝承の中には、南方の分子が相当にあるとも語られていますが、苗族・ラオ族等の習俗が沖縄と著しく似ていることに驚くとも書かれています。

『沖縄の古代部落マキヨの研究』稲村賢敷著によると『日本書紀』に記された南島関係の記録には、三十三代推古天皇二十四年に三回に亘って掖玖人の帰化が記されているのが初見です。三十四代舒明天皇元年には田部連を掖玖に遣はす。三年掖玖人帰化す。更に三十七代斉明天皇の御代には、掖玖という島名の外に都貨羅(とから)島、海見(あまみ)島等の島名が見えます。663年、白村江の戦いに敗れた朝廷は、朝鮮半島を通るルートをさけ、鹿児島・南西諸島ルートを航路にしたため、遣唐使船の航海の安全を期する上からも、南島諸島の掌握が重要になったと思われます。天武天皇・持統天皇の時代には使者を南島に遣わしたという記録が残っています。
稲村氏は天武二年(674)には南島に使者を遣わし国を覔(もと)む、因て戎器を給すとあるのは、本土から民を移して新しく領土を開拓する事が即ち国を覔むという事であろうし、そのために武器を帯して従わざるものは征討するという意味もあったものと思われる。特に注目すべき点は、南島に対する対策は、大宰府を中心として講じられたということです。遠く中央から兵を派遣するより、九州に居住する海部の部民を南島に移すことが適当であると考える事は当然であったと思う。書かれています。
隼人の叛乱の前に、714年、朝廷は豊前の民、200戸(約五千人)を隼人の地に居住させ、制圧を図ります。同じ統治の為の手段が隼人叛乱の前にここ南島でも行われたと考えられることに注目しています。

次に沖縄の聖地の紹介です。
沖縄の信仰は御嶽と井の神に対する信仰だとお聞きしたのは、天久宮の宮司様からでした。
はじめは、沖縄隋一の霊地として知られる南城市知念村サイハ原にある斎場御嶽です。通称「セーファウタキ」とよばれ、世界文化遺産に認定されています。神名は「君が嶽主が嶽イベ」という、六つのイベ(拝所)があります。その中でも大庫理・寄満・三庫理は、いずれも首里城内にある部屋と同じ名前です。当時の首里城と斎場御嶽との深い関わりを示しています。
斎場御嶽1
▼拝所図(「沖縄の聖地」より)
拝所図
では斎場御嶽を歩いてみます。参道をしばらく歩くと右側に旧参道があり、降りるとウローカーという井泉があります。
ウローカーの案内板には、以下のように書かれています。
琉球王国時代より斎場御嶽の中に入る前に手洗いなどの禊ぎを行った場所といわれており、統治の祭祀には欠くことのできない聖なる水として受け止められています。
▼ウローカー
ウローカー

横にある水神と彫られた石柱には、水神男神とあります。1971年当時はウローカーの井泉の神を男神と受け止めていたようです。斜面下には、国道331号線や海が見えます。
参道に戻るとすぐに御嶽の入口にあたる御門口があります。元来、ここより先の御嶽内は男子禁制でした。又、王室関係者しか入れず、右側には御嶽の六つの拝所を示す香炉が置かれ、一般の人々はここから御嶽の中に向かって拝みました。
▼御門口
斎場御嶽2
御門口より敷石を敷きつめた幅1mほどの参道を100mほど進むと広場に出ます。巨石を背景にそのくぼみに拝壇があり、「大庫理(ウフグーイ)」とよばれています。大庫理前の広場は、聞得大君(きこえおおぎみ)の「御新下り(おあらおり)」の儀式の行われたところです。
▼大庫理案内板
大庫理案内板
▼大庫理
大庫理

「御新下り」は、聞得大君が最高神職に就任する儀式。首里における儀礼を終え、いくつかの要所を経て、知念間切(ちねんまじり)にある斎場御嶽に入り、2日間の及ぶ数々の儀式を執り行った。聞得大君は、聖水を額に付ける「御水撫で(うびぃなでぃ)の儀式で神霊を授かり、神と同格になったといわれる。(斎場御嶽パンフレットより)
ここから参道を左手に進むと鍾乳石の垂れた巨岩が見えてきます。巨岩の岩陰に奥行き3m、長さ7mほどの平たい石を敷いた拝壇があります。ここが「寄満(よりみつ)(ユインチ)」とよばれる拝所です。
▼寄満案内板
寄満案内板
▼寄満
寄満

ここは俗に「馬グァー石」とよばれ、馬の形をした白いビジュル石がおかれていて、この石の軽重によってその年の豊凶を占ったといわれています。
ここから引き返し、さらに東南に進むとやや広めの広場に出ます。右手には鍾乳石が2本あり、鍾乳石の下には壺が置かれ、滴り降りる水滴を受けています。
▼三角岩案内板
三角岩案内板
▼三角岩の左側全景
三角岩の左側

2本の鍾乳石
▼アマダユルアシカヌビーの壺
アマダユルアシカヌビーの壺
▼三角岩
三角岩
この拝所を「三庫裡(サング-イ)」といいます。前の鍾乳石が「雨たゆるあしかの美御水(ヌウビィ-)」で天からアザカ(和名ナガミノボチョウジ、聖木の一つ)を頼って流れ落ちる霊水の意味で後の鍾乳石が「しきよたよる雨か美御水(ヌウビィ)」、シキヨ(方言でシヒユ=トウツルモドキ)を頼って流れてくる天の霊水の意味です。斎場御嶽の御水(ウビィ)はこの壺にたまった水のことです。御水は聞得大君の御水撫で(ウビィナディ)に使われました。また壺の水量の多寡によってその年の豊凶を占ったといわれています。座敷壇につづくのは、斎場御嶽の象徴の逆V字形の洞門です。
▼久高島を望む
久高島を望む

この洞門を通り抜けると3m四方の空間があります。左側には久高島遥拝所がありますが、近年、立岩が地すべりによって転落し、久高島方面がよく見えるようになったとのことです。「三庫理」と呼ばれるこの小さな空間は、岩壁を通して天空を拝むという信仰があり、岩壁の頂上に「キョウノハナ」(拝所)があり、アマミク神がそのクバの木を伝って香炉のところへ降臨すると信じられているという説もあるそうです。

『東恩能寛淳全集1』琉球新報社編・『沖縄の古代部落マキヨの研究』稲村賢敷著・『沖縄の聖地』湧上元雄・大城英子著より引用。


 



 

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平成31年岩戸寺修正鬼会 

[ 文化財]

六郷満山・岩戸寺鬼会の紹介です。


国東市の岩戸寺の鬼会は、天念寺の鬼会とともに国指定重要無形民俗文化財に指定されています。六郷満山では、3ヶ所が現在、鬼会を行っています。天念寺は毎年、成仏寺と岩戸寺は交互に行い、今年は岩戸寺でした。

天念寺は今日、鬼会が行われますが、鬼が松明を持って踊るときに天念寺が、ホーレンショウーヨ、ソリャオンニワヘ」(法蓮称揚それ鬼庭へ)と掛け声をかけるのに対し、岩戸寺は、鬼(おに)はよ~、来世(らいしょ)はよ~と称えます。

また、天念寺では、講堂と身濯神社に松明の火を繰返し入れますが、岩戸寺では講堂の手前で3度上下し、回し六所神社への参道に立てます。

ユーチューブ nabana 88で小さな違いを発見しながら、鬼会を楽しまれてください。



こちらは、天念寺の動画です。





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長澤神社のどんど焼き 

[ 瀬織津姫神]

滋賀県野洲市の長澤神社のどんど焼きの紹介です。

長澤神社は野洲市比江の古社でご祭神は天瀬織津姫尊で配祀に天多紀理姫神・天市杵嶋姫神を祀ります。

創建は大宝三年(703)です。創建当時の由緒等は語られていません。

長澤神社

長澤神社拝殿


1月14日、小正月のどんど焼きが、早朝7時から行われました。

以前、小正月には天から降りてきた歳神さまが、どんど焼きの火に乗って天に帰ると聞いたことがあります。

境内前の広場には、正月の書初めを持った子供たちが集まり、どんど焼きの火の中に書初めを竿にさして燃やします。

燃えた炎がより高く上がれば、習字が上手になると伝えられているそうです。

江戸時代まで長澤神社と関係が深かった西願寺さん(かっては天台宗で現在は浄土真宗)では、毎年、どんど焼きの火をいただ

き、本堂の仏様に灯し、小豆粥を作って小正月のお供えをするそうです。

▼今年の恵方の方向(東北東)に倒します。
長澤神社どんど2焼き

長澤神社どんど焼き4

「広辞苑」にはどんど焼きは、小正月(一月十五日)に行う火祭で門松・竹・注連縄などを集めて焼くとあります。

そこには習字が上手くなりたいという子供たちの願いや仏様に捧げる灯明ともなる聖なる火の話は書かれていませんが、

どんど焼きは氏神様のところに集まった地元の方々にとって、とても尊い小正月の行事だと感じました。






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愛犬:ロン君 

[ 田舎暮らし]

我家の家族ロン君は、2012年2月11日生まれです。

ペットライフによるとダックスフンドは、年齢×4.32才だとか。人間の年にすると今年は30才!

口のまわりに白いお髭が生えてきたのは・・・貫禄?・・・かな。

天国のふ様 ロン君元気にしてますよ。

日出町大神 写真スタジオ&ドックラン Studio Hoto カメラマンの白石さんから撮影してもらいました^^

とっても素敵な写真を、ありがとうございました\(^o^)/

▼広いドックランを駆けるロン君
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宇佐神宮奥宮・御許山の古代祭祀 

[ 瀬織津姫神]

宇佐神宮の奥宮である御許山には、三女神が降臨したと伝わります。
▼宇佐神宮鳥居
宇佐神宮鳥居
▼由緒
宇佐神宮由緒

『古伝が語る古代史』宇佐公康著によれば、菟狭族は日本最古の先住民族として、九千年前の早期縄文時代には、山城国の稲荷山を根拠地として、狩猟・漁労・採取の原始生活をいとなんでいましたが、猿田族が進入したため、分裂し、あるものは古の吉備国の高島やあるものは隠岐諸島へ、東は北陸の越国や関東の総国(フサノクニ)から西は、四国の粟国や東九州の国東半島の木国(キノクニ)などへと遠くに移動して定着するに至ったと書かれています。菟狭族は、月の満ち欠けや昼夜の別を目安として、月日を数えたりするツキヨミ(月読)やヒジリ(日知・聖)、また、天候や季節の移り変わりを見定めるコヨミ(暦)の知能によって、この遠くて手に取って見ることのできない模様が、あたかもウサギに見立てられるところから、月をウサギ神として崇拝し、そのツキヨミの天職をもって、菟狭族と称するようになった。したがって、菟狭族の神はウサ神、すなわち月神である。
また、ツキヨミノミコトをアマ(天)の神とするアマ(海)族であるという伝承の記載もあります。

続『古伝が語る古代史』宇佐公康著には、比売大神についての秘伝が語られています。
三女神降臨の地と伝えられる御許山に以前から祀られていた宇佐明神は、アメノミナカヌシノカミ(天之御中主神)に直属するツキサカキイヅノミタマ(撞賢木厳之御魂)であると伝えられ、これは原始太陽神を意味し、この聖地は菟狭族のツキサカキイヅノミタマの鎮まる墳墓の地であり、このミタマはアマザカルムカツヒメノミコト(天疎向津比売命)、また、アマテラスオオヒルメムチノミコト(天照大日霎貴命)とも称せられ、(中略)この世に人体をもって出現した人格神としてのアマレラスオオミカミのアラミタマ(荒魂)である。太陽神として最も古い日本固有の称号は、おおひるめ(大日霎)、またはトヨヒルメ(豊日霎)、あるいは、ツキサカキイヅノミタマ(撞賢木厳之御魂)であったと考える。
▼宇佐神宮奥宮遥拝所
宇佐神宮奥宮遥拝所
伊勢内宮の第一別宮の荒祭宮のご祭神は天照坐皇大神大御神荒御魂(アマテラシマススメオホミカミノアラミタマ)で「先代舊事本紀」巻 第五の注釈には「天照大日孁貴尊」伊勢神宮の天照太神の御名である。また太神宮御鎮座次第記には、大日孁貴・天照大日孁貴也とあり、諡(おくり)を撞賢木厳之御魂天疎向津媛という。とあります。
▼伊勢内宮:荒祭宮
荒祭宮

撞賢木厳之御魂天疎向津媛という神の名をご存知ない方も多くおられると思います。日本書紀では仲哀天皇・神功皇后の条に託宣する神として登場します。兵庫県西宮の旧官幣大社の廣田神社由緒には、撞賢木厳之御魂天疎向津媛は伊勢神宮の内宮に御鎮座の天照坐大神の御荒御魂に坐しまし、神功皇后御征韓の時御霊威を示し給える大神と伝えています。
▼御許山(大元山)
日足から見る御許山
神宮庁発行『神宮要綱』昭和三年には以下のように書かれています。

荒祭宮
蓋し荒祭大神は日本書紀に撞賢木厳之御魂天疎向津媛命とも申し、古来皇大神宮の神威霊験と称せらるゝものは必ず此の大神の神託に因れり。

『八幡比咩神とは何か』菊池展明著には、御許山の麓の向津野は向津媛(ムカツヒメ)の先座があっての向津野だと考察し、御許山のムカツヒメ祭祀の考証が記されています。

同書には門司の和布刈神社に伝わる『和布刈神社志』にも「正殿第一殿比売大神」の割注に以下のような記載があることを紹介しています。
(比売大神は)胸形に坐す三女神也。宇佐宮正殿之姫ノ大神と同体にして、天照大神之御荒魂三女神也。賊的降伏之神にして、玉依姫と称奉すること、神代巻剣玉誓之章に口伝あり。
菊池氏は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(天照大神荒魂)が、ここでは玉依姫とも称されるも、「天照大神之御荒魂三女神也」とあり、しかも、この荒魂神は「胸形(宗像)に坐す三女神」および「宇佐宮正殿之姫大神」と「同体」と明記されていると書かれています。
▼北九州市門司区:和布刈神社拝殿
和布刈神社拝殿

中津市の闇無浜神社に伝わる「闇無浜神社-由緒と歴史」の中の「豊日別宮伝記」は、豊日別国魂神と太神龍(瀬織津姫神)の神縁の書(重松宮司家伝来の書)であります。同書には神託により、豊日別国魂神と同殿に鎮座するのが、天照大神の荒魂の顕現たる瀬織津姫神すなわち祓戸神の一神であります。中津に垂迹の時、白龍の形に現じ給ふに依りて、太神龍と称して奉るとあります。と記されています。
闇無浜神社拝殿

「豊日別宮伝記」には、「吾は天照大神の荒魂(アラミタマ)、瀬織津姫神なり、此の豊日別神と同じ宮に鎮り座して、遠き蕃(ホトリ)の寇(アダ)を除き、天の災地の災をも攘(ハラ)い除かむと思ふ。と神託がありました。他にも太神の神託は、航海守護等、多く残っています。平田篤胤は「古史傳」で、豊前国中津郷に、今現に豊日別宮と云ふあり、此の社の傳記に、祭神を豊日別国魂神と比咩大神と二座にて、豊日別神を伊邪那岐命の霊神なり。比咩大神と申すは瀬織津姫神なる由、つぶらに記せり。とあります。

宇佐神宮の姫大神の原像が見えてきましたが、対偶神の男神については、第一殿に祀られている応神天皇だったのでしょうか?
『古伝が語る古代史』宇佐公康著によれば、宇佐シャ-マニズムではオオナオビノカミ(大直日神)がヤハタノオオモトノオオカミ(八幡大元大神)と称せられている。と書かれています。大直日神は、イザナギの禊によって生まれた神として登場します。その神が、八幡大元大神なのだと。ちなみに禊によって黄泉の国の穢れを祓った時に最初に生まれた神が禍津日神(八十禍津日神・大禍津日神は瀬織津姫神の異称)でその禍を直すのが大直日神と伝えられているのですが、平田篤胤は、禍津日神は禍事を成す神ではなくて善神だと解釈します。それは置くとしても古代宇佐宮の元初信仰に、大直日神(八幡大元大神)という日神と月神とも称される八幡比売大神=撞賢木厳之御魂天疎向津媛命の祭祀があったという宇佐氏の後裔(著者の宇佐公康氏は宇佐神宮宮司で宇佐国造池守公より57世)の言葉は深いです。

又、同書には宇佐神宮二之御殿の比売大神は、三女神が宇佐嶋に降臨する以前から、菟狭族によって日の神として祀られていた八幡大神の妃を、宇佐嶋の旧跡である御元山上から遷し祀ったのであって、三女神の御祖(みおや)であっても決して三女神ではないのである。と書かれています。たしかに御祖神として宇佐氏の奉祀していたのは三女神の一神である湍津姫神です。『諸社一覧』第八には、宇佐宮 宇佐郡ニ在リ 祭神 湍津姫命 傅系上ニ見 社記未考 と記載するも姫大神を湍津姫命と考えられていたことが伝わります。
宇佐神宮第二殿

元禄三年(1690)に書かれた「宇佐宮両大宮司が寺社奉行に出した宇佐宮建立願」には三女神とは別に「湍津姫命を唯今大宮司遠祖宇佐国造奉祭之也」、つまり、湍津姫命を現今の大宮司遠祖宇佐国造がこれを奉祭していたとしていて、湍津姫命が宇佐氏の祖神であると明記しています。(『八幡比比咩神とは何か』より)

湍津姫神は滝津姫でもあります。宇佐・院内で三女神の湍津姫神の代わりに滝津姫神をご祭神としてる神社を明治期の神社明細牒に四社拾うことが出来ます。この滝神を各地の滝神社では瀬織津姫神のご神名で祀っています。

▼滝観洞( 岩手県気仙郡住田町)の天の岩戸の滝 
天の岩戸の滝

歌人、柳原白蓮は、「神代より かくしおきけむ 滝つ瀬の 世にあらわるる 時こそ来つれ」と詠んでいます。

宇佐氏伝承では、宇佐神宮奥宮のある御許山の聖地は菟狭族の古来から祀っていた神であるツキサカキイヅノミタマの鎮まる墳墓の地であり、この女神は伊勢内宮の荒祭宮の神でもありました。天照荒魂と呼ばれる神威の高い神ですが、『神道五部書 倭姫命世記』等には、荒祭宮の神を瀬織津姫比咩神・亦の名を八十枉津日神とも称せられます。柳原白蓮の歌が、深く心に沁みます。



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鳥海山の神 

[ 瀬織津姫神]

山形県出羽一ノ宮の鳥海月山両所宮のご祭神は、鳥海山の神霊大物忌神(倉稲魂神)と月山神と伝えられています。
境内案内によりますと平安時代のはじめ、朝廷よりそれぞれ位が授けられたと国史に記されているとあり、前九年の役に際し、その乱を平定すべき勅命をうけた鎮守府将軍、源頼義および長男の八幡太郎義家は、はるかに鳥海、月山の両神を拝し、この戦に勝ちその目的を達する事が出来たなら、新たに新廟を建立して其の神恩に奉謝すると祈願をこめました。
両神の加護により、戦いに勝った将軍は、請願のとおり、新しい祠を建立します。それが、両所宮だと記されています。代々領主や郷民の信仰厚く戦争の時はいつも霊験によって勝利をおさめ、山形の町を戦火より守ることが出来たので「国家太平武門吉事の宮」とも呼ばれるようになったとのことです。

▼鳥海月山両所宮 随神門
随神門

随神門案内板

鳥海月山両所宮鳥居
▼拝殿
拝殿
▼本殿
本殿
▼境内社 厳島神社
厳島神社

菊池展明著『円空と瀬織津姫』上巻には「岩木山の鬼神信仰」の中で出羽の鳥海山の神とされる大物忌神に触れています。以下は同書より引用。

出羽の鳥海山の神は、大物忌命とされる。この不思議な神名の大物忌命は鳥海山だけではなく、宮城県鳴子温泉の近くの荒雄岳(九八四m)にもまつられている。荒雄岳は、荒雄川=江合川の源流山である。『玉造郡誌』は荒雄川神社の由緒・沿革を、次のように述べている。

【鬼首村】村社荒雄川神社本村字小向にあり、参道及境内には老杉枝を交へ鬱蒼たる中に鎮座まします。祭神は大物忌命にして祭日九月九日となす。
縁起由来。玉造郡鬼首村鎮座荒雄川神社。祭神大物忌命。恭しく惟ゐるに大物忌命は、奥州玉造郡荒雄山上と、出羽の飽海郡鳥海山上とに鎮座す。共に神祇官の神名帳に登載せられ、朝廷より幣帛乃奉進ありしなり。荒雄山上に鎮座ましますを荒雄川神社と称え奉るは、山上に霊石(大物忌石と申す)あり、荒雄川の源水となるが故なり。即ち世に言ふ嶽宮にて、其の里宮は荒雄川の流域三十六箇所に及ぶを以って、後世三十六所明神とも言ふ。

荒雄川の「源水」を表微する霊石として「大物忌石」の名が記されている。これは、大物忌命と呼ばれる神の原型的性格が、水源神とみなされていたことを端的に告げている。
 ところで、荒雄川神社=三十六所明神の主神を、大物忌命といった抽象神名でなく、もっと具体的な神名、しかもまさに水源神そのものの名を記していたのも『玉造郡誌』である。三十六所明神の一社、現在の大崎神社についての記述を引用する。

三十六所神社。東大崎伏見土淵と称する地にあり、明治四十二年十二月熊野神社白山神社等是に併社して大崎神社と改称せり。往古葛西城主葛西監物の時代荒雄川の沿岸に三十六所の神社を建社して瀬織津姫命を祭れるなりと。
出羽の鳥海山においては、瀬織津姫という神名を消去して大物忌命などと表示しているが、陸奥国にくると、この曖昧の霧は一変して晴れることになる。鳥海山では、現在、瀬織津姫は山麓の一之滝神社と二之滝神社の神、つまり滝神としてその名を留めているが、鳥海山神=大物忌命は瀬織津姫神の異称であった。 以上。

扁額


両所宮という名に拘ると鳥海山・月山で両所と伝わりますが(「鳥海山縁起」では鳥海山・月山は一躰分身と記載あり)、鳥海山(別名:鳥見山)には、物部の祖神である饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が降臨したという伝承がありますから、両所宮の名は、饒速日命と瀬織津姫神の二神を祀っていた痕跡ではないかと私は考えています。

天保十五年(一八四四)頃の風景図には出羽国一宮鳥海山、大物忌神 祭神倉稲魂命 御本地薬師如来 白鳳年中役行者開基と神仏習合時の本地仏が記されています。
▼『鳥海山縁起の世界』神宮滋著より
鳥海山

「出羽国一宮鳥海山縁起」には、坎(きた)には荒神嶽あり「尊像は元正天皇養老年中瑠璃壷より出現し給ふ」と記されています。薬師像は養老年間に瑠璃壷から出現したことになります。大物忌神が女神だとすると薬師に相当する神は、倉稲魂神か又は由緒では語られていない饒速日命なのかは、定かではありません。
遊佐町には鳥海山龍頭寺があり、本尊を薬師如来とします。「山形観光サイトのHPでは、龍頭寺の名称の由来は、鳥海山の山頂に参拝した人が下を見たところ龍が昼寝をしてとぐろを巻いた姿に見え、ちょうどこの地が龍の頭の部分だったためといわれています。龍頭寺が鳥海月山両所宮別当寺であった可能性は高く、「縁起」では前身に観音寺があったとされます。
ちなみに瀬織津姫神は、十一面観音や不動明王と習合しますから、龍頭寺に安置されている御影の十一面観音像(約3、6mの像高)が、大物忌神=瀬織津姫神の神仏習合した姿と思えなくもありません。

次は、もう少し鳥海山に拘って『鳥海山縁起の世界』神宮滋著より鳥海山に伝わる各「縁起」の中から興味深いものを拾ってみたいと思います。

鳥海山は、標高2236mの大型成層火山で古代律令時代に北方の辺要とされた出羽国(およそ秋田山形両県域)の最高峰である。有史以来でも幾度となく爆発噴火してきた活火山であり、古来霊山とされ信仰されてきた。

中世成立「大物忌神大明神縁起」(其の一)には、両所大菩薩の一柱を月氏霊神、もう一柱を百済明神、天竺においては早彦霊神と号し、百済においては宇多於多神と称し、日本に来現す。この両所大明神が日本に来現の時、大鳥の両翼に乗って雲路を越えてくる。左の翼には二卯(卵ヵ)あり、右の翼には一卯あり。左より両所大菩薩を産み、右より丸子元祖を産む。その鳥北峰の池に沈む。
 
神武天皇以来人王十二代景行天皇の御世、両所大明神(出羽)に来現す。十四代仲哀天皇(神話時代)の御世三韓征伐あり。両所の宮は水波の体、火波の体の両雷電となり敵船に向かう神として、正一位勲一等を授与された。三十二代用明天皇の頃師安元年六月十五日当飽海郡飛沢に鎮座す。同郡内大槻沢にかの鳥の頭来る。国中の人々この鳥(の)毒により死するもの数知れず。よって大明神、水火雷電を引き連れてこれに罰を与える。六十四代円融院の代(九六九~九八四)当社の威光天下に満つ。信心の者には望みをかなえ、汚れや不信心のものには必ず罰を与える。このことが天皇の耳に達することとなり、両所大菩薩と命名された。
 
慈覚大師、貞観六年(八六四)正月12日、十ケ状の銘を記す。その第八条に言う。或る時日本の東北方面より五色の光を放ち、わが身を照らす。尋ねて見れば鳥海山であった。登ろうとすると青鬼・赤鬼が眼を怒らせ現れて言うには、「吾はこの山の主たること年久しく、お前は我々の領地を奪う企てを持って来たのであろう」と言うと、車軸の様に氷雨を降らせた。この時慈覚大師は火柱三昧の法をもって火焔を起こし、当山を焼尽した。そのため煙は国中を覆った。鬼神はひざまずき、「我らは鳩般恭王となり、以後大師に随って仏法を助け守護致します。」と言う。鬼王は神崛を穿ち、峰に大路を開く。人力に及ばない術であるのはこの故である。

伝長治元年(1104)作・寛文五年鳥海親範写「鳥海山大権現縁起」には、羽州由利郡鳥海大権現、仁王三十代に当たる欽明天皇の御宇(五三一~五七二)に出現有り。
後冷泉院の御宇(一〇四五~五八)、孝元天皇の末流阿倍朝臣景高、地を領し、出羽奥州を知(しら)して安盛す。然れば当山大権現、化して美女に現わる。景高に嫁ぎ合い、男四子を生む。即ち母、景高に向いて曰く、「我は是非にも人躰なれど、即ち鳥海山の霊神なり。天下の魔鬼を平ぐるため汝に大強の勇子を与う。就中(なかんづ)く三郎はわが子なり。鳥海と謂う可し。」言い了りて急に消え去る。父子、信心を起して鳥海山を拝す。託ぐるに任せ鳥海三郎を号す。(三郎)出羽を領し、由利城に居す。然るに(兄の)貞任が謀反す。兄弟にして是非に及ばず、同心を為せり。時に源頼義・義家、勅宣を以て合戦に発向す。然れば鳥海(三郎)、頼義が臣・鎌倉景政の左の目を射て名を挙ぐ。景政も亦大強の者なれば其の矢を抜かず、三日処を衒(くらま)す。厨河次郎(三郎の兄ヵ)と玉澤が組み、次郎、大力者を押し伏せ、玉澤の項(うなじ)を切らんと欲す。瀧口(不詳)が飛び重なりて、厨河を伐たんとす。鳥海(三郎)、兄が打たれしを怺(こら)えられず叫び出し処を、景政望して鳥海を射るを得たり。(三郎)急に鳥海山に飛びて霊神と成る。今鳥海山湖水の本尊是れ也。

他には、鳥海山大権現を大己貴神なりとの説。
「鳥海山大権現略記」は鳥海大権現と大物忌神が同体とし、本地の薬師如来が垂迹して、両尊が生んだ児が倉稲魂命であるとする説。
上記のように鳥海山の縁起では、卵生神話・三韓征伐神話・鬼伝承・慈覚大師・安倍氏伝承等が様々に盛り込まれた縁起を拾うことが出来ます。

「鳥海山大権現縁起」には鳥海大権現が阿倍朝臣景高の前に美女として現われ、景高に嫁ぎ、男四人を産むという説。さらに鳥海三郎(宗任)が鳥海山に飛んで霊神となること。などなど、とても興味深い縁起伝承でした。ちなみに安倍宗任は九州へ配流され、宗像大島で最後を迎えます。

▼大島の宗任のお墓
宗任の墓案内板

宗任の墓

「円空研究」-10 円空歌集Ⅰ に 

在かたや 出羽岩窟来て見よけさの御山の仏なりけり と詠んだ歌を見つけました。
  ありがたや 出羽岩窟来て見よ けさのみやまの仏なりけり




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出雲神在月 

[ 古社]

旧暦十月、神無月(かんなづき)と呼ばれるこの月を、出雲では神在月(かみありづき)と呼びます。全国の神々が出雲に集い、「神議(かむばかり)」という会議をし、集まった神様が「すべてのものご縁を結びつける」という決定をするそうです。
出雲大社

出雲大社では神在祭が11月18日から24日まで行われていますが、直接に出雲大社へ行くのではなく、八百萬の神々は、まず出雲市の朝山神社で旧暦十月一日から十日まで過ごされます。朝山神社では神迎神事を行い、旧暦十日の午後3時30分から神送神事が行われ、鳥居を出て宮司様が「お立ち、お立ち」の掛声で神送りをし、八百萬の神様は出雲大社へと向われます。出雲大社より先に神々の集まるという朝山神社とはどんな神社なのでしょうか?
▼朝山神社拝殿
朝山神社拝殿jpg
▼由緒
朝山神社由緒
▼神送祭
朝山神社神送祭1

朝山神社神送祭2
 ▼雲井滝
雲井滝

「朝山村史」には古老の伝説とし、大己貴命と邑日女命の神婚の後、邑日女命は懐胎を悲しみ、大川に出て神子を柏ノ葉に包み、大己貴命に流し届け、その御子は日御崎に着いたと書かれています。この伝承は海人族による南方系神話と近いものと考えています。

「旧暦出雲の神在社巡拝」によると日御崎神社の由緒には、天照大御神は「天の下の国民を恵まん」と仰って経島に降臨なさいました。素盞鳴尊は国造りを終えられ「吾が神魂はこの柏葉の止まる所に住まん」と仰って、放たれた柏葉が隠ヶ丘に止まりました。こうした神勅によって日御崎に二神がお鎮まりになりました。

この神話の二つを繋げると素盞鳴尊の母は邑日女命で朝山は、母なる神の居る場所となりましょう。
▼日御崎神社・神の宮
神の宮

神在月には古来より稲佐の浜から神様が出雲にみえられるとされ、神迎のご神事は11月17日午後7時から行われました(2018年)。神々を先導さなるのは「龍蛇神」とのことです。稲佐の浜の弁天岩付近には、動けないほど沢山の方々が、集まっています。海側でご神事を待っていると少しずつ波が寄せてきます。地元の方々は、雨靴を履かれていました。どうにか濡れずに済み、神様に感謝!
▼稲佐の浜の弁天岩 神迎え神事前日撮影
出雲弁天岩
▼神迎え神事 案内板より
神迎の道
▼11月17日午後7時からのご神事の様子
出雲神在祭稲佐の浜神事

出雲れきはく
出雲大社横の古代出雲歴史博物館では、神仏習合時、出雲大社と関わりがあるとされる鰐淵寺のご神像や松江市の成相寺のご神像が多く展示されています。朝山神社の別当寺が鰐淵寺とお聞きしたので眞玉箸玉之邑日女命のご神像かもしれないな?と思いながら、手を合わせて展示を楽しみました。

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吉井町の珍敷塚古墳の鳥についての仮説~日鮮神話伝説へ 

[ 対馬]

吉井町の珍敷塚古墳の鳥についての仮説~日鮮神話伝説へ

船の舳先にいる鳥を教育委員会では特定をしていませんが、私は太陽神と関りの深いカササギ(カチガラス)ではないかと考えています。カササギは、鵲と書きます。『三国遺事』の脱解伝説には、「鵲集一舡上舡中有一櫃子長二十尺、廣十三尺、曳其船置於樹琳下」とあり、鵲が脱解の舡を導いたと書かれています。鵲は天地の間を往来する霊鳥で、七月七日夜、
鵲は、牽牛織女の間にある天の川に橋を架けに行くという伝説が中国に詩人たちによっても歌われ、朝鮮半島でも俗信として語りつがれています。
カチガラス

 『三国史記』新羅本紀 著者 金 富軾著 訳者 林英樹より 

脱解はもと 多婆那国の生れでその国は倭国の東北(百)里の所にある。はじめ その国の王が女人国の王女を娶って妻としたが 妊娠して7年にして大きな卵を産んだ。王は「人が卵をうむとは不吉なことである。これを棄てよ」といったが 王の妻は棄てるにしのびず 絹で卵を包み 宝物と一緒に箱に入れて海に浮べてその流つく所にまかせた。はじめ金官国の海辺に流れ着いたが 金官国人はこれを怪しんで取らなかった。それから辰韓の阿珍浦の浜辺に流れついた。これは始祖赫居世在位39年の時のことである。 ちょうどその時 海辺に老婆がいて 縄を以て海岸にひきよせた。箱をあけてみると 中に1人の小児がいた。 その母はこの小児をとりあげて育てた。成年になるや身長が9尺もあり 風貌が秀朗であり 知識がひとよりもすぐれていた。 ひとびとは「この児の姓を知らない。はじめ箱が流れついた時に 鵲が鳴きながら飛んでついてきたので鵲の字の片方を省略して ”昔”の字を以て姓とし また箱を解いて脱け出して来たから名は”脱解”とするがよい」といった。脱解ははじめ魚取りを業として その母を養ったが少しも劣ることがなかった。母は「汝は普通の人ではない。骨相がすぐれているから学問をして巧名をたてるがよい」といった。彼はここにおいて学問に専心し兼ねて地理にくわしかった。楊山の下の瓠公の家を望見して そこが吉地であることを知り詭計を設けてそこの地を奪って住んだ。その地が後に”月城”になった。南解王5年になって 王は脱解が賢明だという話をきいて 王女を彼の妻として嫁がせた。王の7年になって彼を大輔に登用して政事をまかせた。

脱解が「多婆那国の生れでその国は倭国の東北(百)里の所」が倭国ではないかとの問いが、先生方の間で議論されてきました。私は、『日鮮神話伝説の研究』三品彰英氏の多婆那国は『三国遺事』のいう龍宮国(其の位置を新羅の東海はるか海洋)であるという考え方を支持します。三品氏は「物語の筋書きでは脱解の母は東海中の女国(龍宮)の女で、彼は生れ落ちると不祥事の為に捨子になり、赤龍に護られながら海路をさすらうというので、これを我が神話と比較するに、龍宮の女豊玉姫(その本体はワニとも龍とも考えられた)が、彦火火出見尊と結ばれ王子を生んだが、或タブーを犯したことによって、その御子は海邊に棄てられる運命となった云うものと甚だしく類似している。『書記』の一書には、この海童が眞床覆衾(まどこのふすま)及びカヤで包まれて波瀲(なぎさ)に置かれ、その名も彦波瀲武(ひこなぎさたけ)鸕鷀草葺不合尊と呼ばれ給うとあるが、『新羅本紀』には脱解の捨てられた場所を辰韓の阿珍浦に漂着して海邊の老母に養育されたと伝えている。又豊玉姫が海宮から海邊に来り、大鰐や龍の形になって御子を生むこと、赤龍が龍宮から卵を海邊まで導き、その卵から生まれ出ることとは、思想的に同系統の所伝であると。

又、三品氏は『古代祭祀と穀霊信仰』で眞床覆衾というシトネを、マレイ半島の稲の収穫祭で、稲魂(最後に刈り取った稲穂をヨリシロとする)のためにフトンと枕とが用意され、生まれたばかりの嬰児として扱われるという習俗と結びつけています。

▼対馬:和多都見神社
和多津美神社鳥居1

和多津美神社鳥居2

和多津美神社案内板

イソラエビス

イソラエビス2
▼豊玉姫の墳墓
対馬豊玉姫墳墓

海幸・山幸のお話は、山幸彦(彦火火出見尊)が、兄(海幸彦=隼人阿多君の祖)の釣り針を探しに海宮(龍宮)に行き、海神(綿津見神)の娘である豊玉姫と結ばれる神話です。山幸彦は潮満珠・潮干珠を入手して兄を屈服させます。『古代国家と神話伝承』松前健氏は、「天皇の支配は、地上の中つ国ばかりではなく、海底のワタツミの国にも及んでいると考えられていた」と書かれています。山幸彦は皇統の継承者となり、以後、海幸彦は、「吾当に汝に事へまつりて奴僕(やつこ)と為らむ」と服属の誓いをすることになります。

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装飾古墳:吉井町 

[ 壁画古墳]

福岡県うきは市吉井町富永の珍敷塚(めずらしづか)古墳は、六世紀後半頃の円墳で装飾古墳として日本の原始美術の祖とも賞賛されている古墳です。国指定史跡 昭和28年3月。
奥壁と側壁の輿石が残る長さ約4mの横穴式石室の中央には、赤と青の顔料を使い岩の地肌を利用して3色の色合いで装飾された壁画があります。
▼珍敷塚古墳
珍敷塚古墳奥壁jpg

珍敷塚古墳

珍敷塚装飾古墳は、全体が大きな船に乗ったような不思議な壁画です。冠をかぶった人物は船に盾をたて長い櫂(かい)で船を漕いでいます。船の舳先には大きな鳥がいて太陽の国から月の国(冥界)へと道案内しているようです。航路には船より大きな矢をさす靫(ゆぎ)が3つ描かれています。途中に描かれた蕨手(わらびて)文の意味は分かりませんが、月の国へ行くには権力の象徴とする大きな靫と長い矢が必要なのかもしれません。右手には月よりの使者と考えられているヒキガエルが2匹います。そこには盾をもつ人やカラスのような鳥もいます。
案内板には、「太陽から月へと船を進める様子は死者を葬る葬送儀礼を描いているようにみえる」と書かれていました。

同じく吉井町若宮には、同時期に造られた前方後円墳:日岡古墳・月岡古墳・塚堂古墳があります。日岡古墳は長さ3.8m、幅2m、高さ2m程の部屋の壁のほぼ全面に、赤・白・緑・青色で丸を幾つも重ねた同心円文や三角文、蕨のような模様の蕨手文が中心に描かれ、弓矢を入れる靫(ゆぎ)、太刀や盾、船や獣といったものもあります。
▼日岡古墳
日岡古墳

日の岡古墳解説

日岡古墳壁画

壁画実測図


▼月岡古墳
月岡古墳案内板

月岡古墳鳥居

月岡古墳鉄冑

月岡古墳石棺

月岡古墳には鳥居に月読神社の扁額があり、全長80mの前方後円墳で長さ5.5m×幅2.7mの長持型石棺をご神体とした社が建っています。記録によると石棺の内部には朱が塗られていたようです。1805年の発掘の際に出土した金銅装眉庇付鉄冑や豊富な副葬品から被葬者の繁栄ぶりが窺えます。長持型石棺と副葬品は畿内(近畿地方)との密接な繋がりが想定されているとのことです。(ようこそ古墳のまちに:吉井町教育委員会)から引用。

筑後平野に古墳時代に住んでいた人たちの語り継がれた神話や信仰が伝わってくるような装飾古墳の数々でした。

珍敷塚古墳は、第1・第3月曜日は休み。午前9時~午後17時開館。
管理人さんが常駐しています。
日岡・月岡古墳は、第2・第4月曜日は休み。電話予約が必要とのことです。
詳しくは、吉井町教育委員会生涯学習課(09437―5―3343)へお問い合わせ下さい。

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対馬-天道信仰(オヒデリサマ) 

[ 対馬]

対馬には、日本神道の原型祭祀と思われる神社が多く見受けられます。
特に対馬固有とされる天道信仰ですが、上県の佐護と下県は阿連の竜(龍)良山(たてらさん)と伝わります。
▼竜良山
竜良山

竜良山の八丁角の石積みは、天道法師とその母の墓所とされ、多久頭魂神社境内の不入坪(イラヌツボ)とあわせて「オソロシドコロ」と呼ばれ、竜良山という聖域の結界を構成しています。

『延喜式』神社に下県郡の阿麻氐留(アマテル)神社があります。場所は美津島町小船越の漁港のそばです。
ご祭神は天日神命(アマノヒノミタマノミコト)で天日神は対馬の古族、県直らの祖神とのことです。明治以前の両部神道の時代には照日権現と呼ばれていました。宝暦十年の『対馬国大小神社帳』には、照日権現社 祭神 天疎向津姫神  旧号天照(アマテル)乃神社 『特選神名牒』(内務省蔵版)には、山城の木島坐天照御魂神社、丹後の天照玉命神社などと同じく、当社も「天照国照火明命なるべし」と伝わります。
▼阿麻氐留神社
アマテル神社鳥居
▼拝殿
アマテル神社拝殿
▼拝殿中
拝殿中
▼阿麻氐留神社から見える小船越港
小船越

『海神と天神』永留久恵著によれば、船越の阿麻氐留神社が照日権現と称した例からして、これは本来、天照大神である。したがって、照日の女で日光に感じて孕んだという天童の母は、日神の神妻と解されよう。佐護の天道女躰宮(女房神)の神像は、まさにそのことを如実に形象している。この女神の固有名は知る由もないが、阿連の天童の母神はオヒデリ(日照神)と呼ばれている。

照日権現は、『対馬国大小神社帳』記載の天疎向津姫神というご神名です。伊勢の地主神である内宮の荒祭宮の神、天照大神の荒魂:撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(ツキサカキイツノミタマアマサカルムカツヒメノミコト)=瀬織津比咩神と同神と思われます。阿麻氐留神社は、皇祖神と別の男神の太陽神アマテルを祀った神社で後に照日権現と呼ばれる日神の神妻と一対で祀られていて一方が祭祀から消えたのかもしれません。そうであれば、上県町佐後の天道女躰宮の神体のように日輪を抱く日抱尊となりましょう(日抱尊については後記)。

『対州神社誌』には、「大小神社明細長」に佐須奈村の日吉権現社の脇宮の照日(テルヒノ)神社のご祭神に天照太神媛神(アマテルノダイシンノヒメガミ)と記載があります。

永留氏は、上県町佐後の神魂神社(天道女躰宮(俗称「女房神」))の神体は、腹部に日輪を抱いた女神で、縁起にいう日光感精神話を形象したものに相違なく、その像底には永享十二年(1440)の墨書銘がある。この天童縁起と同型の縁起に、有名な大隅国一ノ宮正八幡宮(現、鹿児島神宮)の所伝がある。(中略)朝鮮では高句麗の始祖神話がよく知られている。さらに中国にも日光感精神話があることから、天道信仰の本質は、東洋的祭天の古俗に発した日神崇拝の流れと解される。
▼神魂神社(天道女躰宮(俗称「女房神」))のご神像:『対馬国志』より
ご神像


『大和国家と神話伝承』松前健著には
対馬では古来太陽崇拝が盛んで、後世の天童信仰にも、これが、顕著である。伝説的神人天童法師は、照日の采という人物の女(むすめ)が、日光に感じて孕み、天童を産んだといい、または朝日に向って放尿し、受胎したとか、いろいろな日光感精譚が語られている。〔三品彰英『増補日鮮神話伝説の研究』〕
 
日抱尊について
『円空と瀬織津姫』下巻 菊池展明著に日抱尊に触れた部分があります。第Ⅵ円空の意思表示には、飛騨における伊太祁曽神社の「いたきそ」は、乗鞍大神の尊称「日抱尊(ひだきそん)」が転じたものである。(『飛州志』長谷川忠崇著も「所謂日抱尊ハヒダキソン・ヒダキソ・イタキソン・ダキソン以上四称あり、所謂日抱尊ノ一字ヲ誤リ伝フルナルベシ」と述べていた。また『飛州志』には、日輪神社の由緒に触れ、「按ズルニ曰祭神天照大神ノ荒魂ト云」という伝承があり、日輪神あるいは伊太祁曽神=日抱尊は「天照大神ノ荒魂」と伝えられていたこと、いいかえれば、瀬織津姫という伊勢の秘神を日抱尊とみる伝承が、飛騨国と紀伊国に共通してあった。
 円空は天照皇大神と乗鞍大神(伊太祁曽神=日抱尊)を一対の神と認識していた。

同じく菊池氏は『八幡比咩神とは何か』でも、廣田社の祭の時の神宴歌に広田大神と住吉大神との交親(ムツミ)が語られていたが、彦神と姫神との対偶関係のまま祭ることが封じられたとき、この彦神は、まさに「日子神」に変じて母神に抱かれることになる。と考察されています。

実は、『住吉神代記』には、住吉大神が、「吾が名、向匱男聞襲大歴五御魂速狭騰尊(ムカヒツノヲキキスオホフイツノミタマハヤサカリノミコト)」と語っています。松前氏は、ムカヒツノヲという名は、廣田社のムカツヒメと無関係とは考えられない。この名は住吉大神の別名とされている。もしかすると住吉神と廣田神とは、こんな名で夫婦神とされていたのかもしれない。と考察されています。

ムカヒツノヲと呼ばれる住吉大神もアマテル神と同様、海人族が奉祀する日神を秘めた男神と考えられます。

対馬の日抱尊とも思われる女房神像は、対偶神の祭祀を消されたものか、古くからの母子神信仰の表れかは判断出来ませんが、この女神像は天疎向津姫神のご神像とも考えられなくはありません。
対馬では、仏像盗難事件以後、どこも拝観が難しい現状ですが、一度は見てみたいご神像です。

最後に阿麻氐留神社には「弓射り神事」があります。旧2月9日。古文書には
「桃木の弓に竹の矢を造りて百姓是を射る也」と記されています。桃は悪魔を退散するという故事から、桃木の弓で悪魔を払い、村に幸をもたらすように願ったと伝えられています。
アマテル神社拝殿中

桃木の弓で悪魔を払うという神事は、まさに祓いの神事であり、照日権現と伝わる天疎向津媛命こと瀬織津比咩神の祓いの神徳が神事として伝承されたものではなかろうかと考えています。

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対馬の赤米と太陽の女神オヒデリサマ 

[ 対馬]

対馬の赤米と太陽の女神オヒデリサマ

『古事記』上つ巻の国生みの条には「津嶋」と記載し、またの名は天狭手依比売(あまのさでよりひめ)とあり、『日本書紀』は「対馬島(つしま)」、一書(第七)には対馬州(つしま)とも書かれています。
 対馬は、九州本土と朝鮮半島の間に浮かぶ面積約710平方km(属島含む)の大きな島ですが、面積の89%は山地であり、全島が岩がちで、農耕地は1%ほどしかありません。朝鮮半島までの距離は49.5kmしかなく国境の島と称されています。
平安時代に編纂された「延喜式」に記載された神社(官社、いわゆる式内社)が九州全体で98社ありますが、うち約3分の1にあたる29社が対馬に集中し、九州最多となっています。(壱岐の24社を加えると、両島で九州の半数を超えます)(対馬神社ガイドブックより)
▼気象条件がよければ釜山市の街並やビルを見ることができるという異国の丘展望台から
対馬展望台から

『海神と天神』対馬の風土と神々:永富久恵著によれば、ツシマの名義については、この島の地形が南北に高く中央部が低いため、遠方から見れば二島に見えることがあり、これによって対の字が選ばれたのではないかと考えられる。とあります。
また、同書には「天道信仰」に触れ、「豆酘(ツツ)の縁起によれば、ウツロ船に乗って漂着した女院が日光に感精して男児を出生、この男児が天道童子と称し、やがて法師となって卓抜した呪験を示し、人々に崇敬されたという。一方、天道の神体として礼拝される赤米の種は、天道がもたらしたというもので、稲の原生種に近い品種だが、その祭礼は真言密教で行われる。」と書かれています。

対馬の西南端に開けた豆酘には、稲の原生種といわれる赤米の新穀の種を鎮呪(まじない)して、神霊をつくる神事があり、年の暮にこの赤米で餅をこしらえ、これをテンドウと称して年神に奉安する神事がある。
▼赤米の神田
赤米神田1

赤米神田2

現在、赤米を作っている場所は、種子島と対馬だそうです。

厳原町阿連(いづはらまちあれ)の阿連川を遡った山中で行われる太陽神オヒデリサマに関する神事は、興味深いものがあります。

雷命(いかづち)神社(式内社)の祭神の雷命は、旧9月29日に出雲に旅立って不在(神無月)となるため、川上に鎮座するオヒデリを里に迎えます。11月1日に雷命が戻り、1週間オヒデリとともに暮らし、11月8日に大祭、11月9日に住民総出でオヒデリを川上に鎮座する神事(本山送り)が行われます。この時オヒデリは懐妊しているとされ、雷神・水神・男神である雷命と、太陽神・女神であるオヒデリが和合し、里に豊穣がもたらされる、という古い民俗学の世界が今に伝わります。(対馬神社ガイドブック)
▼雷命神社
対馬雷神社
▼雷命神社
雷命神社鳥居
▼本殿
雷命神社本殿

元山送りの日は、村の人々は総出で背に御幣をさし、青シデをつけた御幣を持って行列につらなります。鉦・太鼓・法螺貝の音の合図にオオカナグラベイを持った総代が、「イザヤ イザヤ トノバラヤ トノバラヲ 元の山に送り申す」と大声で叫ぶと、行列の一同は、「オウ― ウォ―」と大声で叫び返すそうです。
▼オヒデリサマ元山送り(対馬神社ガイドブックより)
オヒデリサマ元山送り

阿連川の水の枯れた川原の処までくると履物をぬいで小石の上を裸足で歩きます。元山のムクの木の根元にはオヒデリサマを祭っています。宮司の神事が始まると村びとは、一人ひとりローソクに火をともし、オヒデリサマに敬虔なお祈りを捧げます。
▼阿連川の川原
オヒデリ様神事
▼オヒデリサマの祠
オヒデリ様祠

 オヒデリサマと神婚されるのが、雷命神社のご祭神の雷大臣命ですが、鳥居には、八竜大明神・八瀧大明神・雷命神社の扁額がありました。『海童と天神』永留久恵著には
吉田東伍の『地名辞書』は、福岡県糸島雷山の項に、

山頂に雷神社あり、山下を筒原(ツツバル)という。雷神(イカヅチ)あるいは筒(ツツ)神と唱う。けだし筒男神に同じかるベし。

とあるのを引いて、谷川健一は「海神=雷神=筒神」とする等式を発表し、対馬の豆酘(つつ)にも雷神があることから、豆酘の地名をツツノヲの神に関係があるとした(「古代海神族の痕跡」)。

ツツノオとされる男神は、住吉大神で底筒之男命・中筒之男命・上筒之男命のこととされます。航海の目印となる星を意味する古語(ツツ)や対馬の豆酘などいくつもの説があります。雷神の男神と日照神(オヒデリサマ)である女神は、阿連(アレ)=御阿礼(みあれ)の地で豊穣の神となります。

つづく


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対馬―鳴滝 

[ 対馬]

対馬の浜久須の北東に鳴滝(奈留多幾)があります。対馬の方々にお聞きしますと対馬で唯一の滝とのことです。

「上対馬町誌」には、高さ4丈6尺、奔流の聲山谷に響き、因て名とするゆえんなり。とあります。

また、この滝が雨乞い祈願の聖地とされていたことと、古い雨請行事の儀礼として、「女たちが裸になって、瀧つぼで祈りをした」という古俗に触れています。

▼鳴滝
鳴滝神社1

鳴滝神社2jpg

鳴滝

鳴滝2

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高千穂 日本の滝百選 「真名井の滝」 

[ 瀬織津姫神]

高千穂峡の「真名井の滝」は、涼を求める観光客が多く訪れる場所です。

この高千穂峡は、阿蘇溶岩からの侵食谷を言い、上流の窓ノ瀬から下流の吐合間が中心で昭和9年11月20日五ヶ瀬渓谷として名勝天然記念物に指定されました。

▼真名井の滝
天真名井滝

真名井滝2

この「真名井の滝」の水は、「玉垂の滝」(ご祭神:瀬織津姫神)からおのころ池:桜川妙見社(池中の祠:瀬織津姫命を祀る)を経由し、滝口へと流れます。「桜川妙見社」は高千穂神社のご神幸地でもあり、十社大明神御浜出の所也と記載されています(「日本民族発祥の地・高千穂郷八十八社名録」より)。
おのころ島案内板

▼「玉垂の滝」とおのころ池
玉垂の滝とおのころ池
▼「玉垂の滝」
玉垂の滝
▼「玉垂の滝」水神祠(瀬織津姫神を祀る祠と思われます)
玉垂の滝神祠

瀬織津姫神が滝神として伝承されている神社は、岩手県桜松神社・根田茂神社(御瀧明神)・滝神社(大同年間(806-810)田村麻呂賊徒の強暴を鎮めんと祓戸大神を鎮座して神威を仰ぎ滝神社を奉安)・山形県二ノ滝神社・滝神社(高賀山岳信仰の一社・権現滝の裏から神々が出現して妖魔を追い払ったという伝説あり)・愛媛県松柏神社(旧鳴滝神社)等、、各地で崇敬されてきました。


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高千穂 天の安河原 

[ 瀬織津姫神]

宮崎県高千穂に天岩戸神社があります。岩戸川を挟んで西本宮・東本宮が建てられております。天岩戸神社のご祭神は天照皇大神で境内案内板には別の神名を大日霎尊(おおひるめのみこと)と書かれています。
天岩戸神社鳥居

西本宮

天の安河原へ

天岩戸神社から10分ほど渓流を見ながら岩戸川沿いに歩くと天の安河原宮(仰慕窟ぎょうぼがいわや)に着きます。『古事記』新潮日本古典集成には
八百万の神、天の安の河原に神集ひ集ひて、高御産巣日の神の子、思金の神に思はしめて、常世の長鳴鳥を集めて鳴かしめて、天の安の河の河上の天の堅石を取り、・・・・(後略)と続きます。案内板には天照皇大神の岩戸籠りの際、八百萬の神がご相談された場所と伝えられています。「古事記」の訳注には、「長鳴鳥」は、鳴声が暁を告げ闇の邪気を払う太陽の神使いの鶏とあります。天安河原宮に参詣すると願い事が成就する中風にかからない軽症ですむと伝えています。

▼天の安河原(『先代旧事本紀』には天八湍河(あめのやすかは)との記載あり、訳注には、高天原にあるという神話上の川。この川原は天つ神の集合場として、天石屋戸の時の神譲りも天孫降臨の決定もこの河原の神集でなされたとする。)
天の安河原1

天の安河原3

天の安河原説明板

天の安河原2

▲天の安河原宮には瀬織津姫神が祀られていると地元の方からお聞きしました。
その方からは、以前は観音像も一緒に祀られていたが、現在は天の安河原宮に行く途中の祠に観音像が移されたとお聞きしました。
▼観音祠
観音祠

「高千穂町史」には新(荒)立の宮から二・三町に早川の瀬、桜ヶ瀬などという小川があり、また瀬折津(セフリツ)姫の社ありと書かれています。天真名井の近くかもしれませんが、不明です。
▼天真名井案内板
天真名井案内板

天真名井
▼ケヤキの巨木(1300年)の根元の天真名井からは、ゴボゴボと水の湧出る音が聞こえます。
天真名井ご神水

瀬織津姫神は伊勢神宮では天照大神の荒魂として祀られていますが、確認できるものに『神社啓蒙』第七巻があります。

荒祭宮 神名秘書ニ曰く・・とあり、天照荒魂亦ノ名ヲ瀬織津姫神是也 

天の安河原においても例外ではありませんが、神道界では瀬織津姫神は神名秘書とあるようにあまり表に出してほしくない神なのかもしれません。全国各地で御神徳が語られてもです。

今回は岩戸の神とは?で考えてみました。
私の知る範囲で岩戸の神とは・・・?と思い巡らすと二つの神社が浮かびます。
一つは滋賀県の日牟礼八幡宮の境内社の岩戸神社です。ご祭神は撞賢木厳之御魂天疎向津媛(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)です。大和岩雄氏のご本には、撞賢木厳之御魂と天疎向津媛の二神の合体されたご神名という考察をされていましたが、私の調べた範囲内では撞賢木厳之御魂天疎向津媛を祀る荒祭宮は一座であり、伊勢内宮には荒祭宮と多賀宮の並祭祭祀があった(「エミシの国の女神」・「円空と瀬織津姫」菊池展明著)という文献は、『神宮秘伝問答』とのことでした。
▼日牟礼八幡宮・境内社の岩戸神社
日牟礼八幡宮・岩戸神社jpg

岩戸神社案内板

『類聚神祇本源』巻十一の外宮別宮篇には
「私記元荒祭宮一所並座東方多賀宮西方荒祭宮此宮至干御眞荒祭宮東西遷宮違本宮遷座例也」

内宮に並祭されていた多賀宮の神は、豊受大神の荒魂として外宮に祀られています。

『先代旧事本紀』巻五には
 天照大日ル貴尊・・伊勢神宮の天照太神の御名である。また太神宮御鎮座次第記には、大日ル貴・天照大日ル貴尊とあり、諡(おくり)を撞賢木厳之御魂天疎向津媛命という。
と、貴重な記載もありました。

又、一つは福岡県糸島半島の桜井神社です。本殿には岩戸宮(奥宮)という扁額があり、八十枉津日神・神直日神・大直日神が祀られています。瀬織津姫神の異称として八十枉津日神のご神名があります。奥宮岩戸遇小額玉串参拝の由来と作法(案内板)には、「岩戸宮は、慶長十五年(1610)六月二日未明、初めてその神窟が開き、大変、霊験あらたかで、元来、七月二日の神霊顕現の吉日のみ岩戸開きが斉行されていました」と書かれています。
糸島・桜井神社岩戸宮
また、別の案内板には「寛永六年(1629)与止妃大明神の御神託で建立され黒田藩主黒田忠之によって造営された筑前の守護神で与止妃大明神を祭っている」とあり、神霊が顕われて黒田藩主による社殿建立までに十九年という時間がかかったようです。桜井神社は与止妃大明神を祀っているとのことですが、桜井神社HPでは、ご祭神を上記三神とあり、伊勢神宮から勧請した桜井大神宮が、敷地内に祭られていますから、与止妃大明神=八十枉津日神との認識かと思われます。与止妃神といえば、佐賀県一の宮の與止日女神社ですが、同社はご祭神を川上神・淀姫神とも伝えます。この淀姫は神功皇后の妹または、豊姫とも言われ、和歌山県田辺市の川上神社(河上大明神)は、肥前一の宮の川上神社からの勧請で、ご祭神は瀬織津姫神と伝えています。
桜井神社で共に祀られている神直日神・大直日神は、八十枉津日神の枉(禍・災い)を直す神として「記・紀」に登場します。江戸時代の国学者である本居宣長は八十枉津日神を悪神だと解釈しましたが、一方、平田篤胤は、善悪という枠から離れてその発想自体を否定しています。平田篤胤は『鬼神新論』で以下のように書いています。
 
大禍津日神と称すは、亦名は八十枉津日神とも、此は汚穢き事を悪ひ給ふ御霊の神なる因にて、世に穢らしき事ある時は、甚く怒り給ひ、荒び給ふ時は、直毘神の御力にも及ばざる事有りて、世に太じき枉事をも為し給ふ、甚建き大神に坐せり。然れども又常には、大き御功徳を為し給ひ、又の名を瀬織津比メ神とも申して、祓戸神におはし坐て、世の禍事罪穢を祓い幸へ給ふ、よき神に坐せり。穴かしこ。悪き神には坐まさず。

『円空と瀬織津姫』下巻:菊池展明著には、白山信仰の秘伝書に「瀬織津比咩と云う神、苦業の因[もと]を救うべし」という文言がみられると書かれています。神功皇后が三韓征伐をするときに祈る神に撞賢木厳之御魂天疎向津媛というご神名を見ます。また、朝廷がエミシ討伐を祈る神に瀬織津姫という神がいます。大分県佐賀関の古社・早吸日女神社でも神武天皇の祈る神に速吸日女=八十枉津日神がおりました。これらは瀬織津姫神の異称祭祀がもたらした解りにくさです。

滋賀県琵琶湖近くには岩戸隠れする前に天照大神が剣を置いたという伝承がありました。神話から伝承へもう少しの間、瀬織津姫神というに拘ってみたいと思います。

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京都祇園祭 鈴鹿山と瀬織津姫神 

[ 瀬織津姫神]

京都祇園祭は疫病退散を祈願する八坂神社の神事です。貞観11年(869年)都に疫病が流行したとき、その退散を願って始められた「祇園御霊会」が起源であるとされています。
古来、神事の中心となる7月17日の神幸祭(しんこうさい)と7月24日の還幸祭(かんこうさい)にあわせて、17日に前祭の山鉾巡行、24日に後祭の山鉾巡行をすることが習わしになっていました。
後祭に登場する鈴鹿山鉾は鈴鹿山で人々を苦しめた悪鬼を退治した鈴鹿権現(瀬織津姫神)を金の烏帽子をかぶり手にお長刀を持つ女人の姿であらわす。山洞には鬼首を示す赭熊を掛け、この山に限って松には鈴鹿関をあらわす山・木立・鳥居に宝珠を描いた絵馬がつけられ盗難除けの護符として鎮重される。(鈴鹿山HP・案内板より)

▼鈴鹿山
京都祇園祭・鈴鹿山5

京都祇園祭・鈴鹿山 11jpg

京都祇園祭・鈴鹿山 3

京都祇園祭・鈴鹿山 1

鈴鹿山の伝承を「三重県神社誌」から読んでみます。

片山神社 鈴鹿郡関町大字坂下624 
祭神 倭比賣命 瀬織津比賣命 気吹戸主神 速佐須良比賣神 坂上田村麿命 天照大神
速須佐之男命 市杵島姫命 大山津見神
由緒
延喜式内社に列せられている神社でもとは三つ子山に鎮座ましましたが、度々水火の難にみまわれたので、永仁五年(1297)現在地へ奉還し、鈴鹿神社をも合祀した。鈴鹿神社もまた水害に逢うこと一再ではなかったからである。かくして、奉斎した神社の位置が、名にし負う鈴鹿越えの難所であったので、東海道上り下りの旅人から『鈴鹿権現』として広く崇敬されるところとなり、往来する士民の安全祈願所となった。殊に、旱天の年には雨乞いに訪れる集落が四百を越したという。古くは国司の造営もあり、神領も多かったが、戦国の世となってからは横領せられることもしばしばで、亀山城主と信楽代官とが御供米を献ずるのみとなって廃藩の時を迎えたのであった。(後略)
▼鈴鹿山
鈴鹿峠

片山神社 1jpg

片山神社 3jpg

片山神社1-1
▼片山神社
片山神社 4

『鈴鹿山系の伝承と歴史』大川吉崇著によれば、

天皇から鬼神退治を命ぜられた田村麿は、京都の清水寺に祈願して観世音菩薩の霊感を得、さっそく鈴鹿山に向かった。  片山社は鈴鹿権現と呼ばれる。また一説に鈴鹿権現は、天照大神を祀る幻の明神といわれ、峠のあたりにあったとも聞いたことがある。・・・・・と書かれ、鈴鹿権現について興味深いことが述べられています。以下は同書から他の伝承を拾ってみます。

『我が国の民間信仰史の研究』堀一郎著の中で『三代田村』を要約して
田村麿が嵯峨天皇の勅命によって悪路王を退治し、のち、伊勢の鈴鹿山の魔女である立烏帽子と契りを結び、その援助のもとに霧山岳に住む大竹丸を布原岳というところで退治して天下を静かにした。

室町時代の作と推定されている『田村草子』には鈴鹿山の鬼神大岳丸討伐の命を受け、霊夢のおつげにより天女鈴鹿御前と縁を結び、大岳丸の怪剣を奪う、さらに千手観音と毘沙門天の加護をもうけて 鬼神を滅ぼし、その恩賞として田村麿は伊賀をたまわった。

江戸時代になると
伊勢国の鈴鹿山に、立烏帽子となづく鬼女があり、往還の旅人を害し財宝を奪う、故に、坂上朝臣田村五郎利成に勅命が出て、討伐すべきため山に行く。金殿玉楼の中に美女あり。この美女は陸奥国の霧力岳に住む悪路王鬼の妻であった。利成に愛着して悪路王を討つ。そののち鈴鹿山に利成は往来して、ひそかに男子を生ませた。其の子が成長すると正林と名づけた。月日を経て夫妻とも死ぬ。その化女を鈴鹿権現に祭り、利成を今の田村堂に祀る。
 
同書では室町時代から江戸時代にかけて鈴鹿山の悪鬼を退治した鈴鹿権現は田村麻呂と縁を結んでついには男の子まで生まれるという伝承を伝えます。が、仙台叢書版「田村三代記」(「悪路王伝説」定村忠士著より)には妹背の契りを結び、三年後に二人の間に正林という姫が生まれたとあり、伊勢の国の鈴鹿山に現れた立烏帽子は天竺(インド)大四天の魔王の娘として登場しています。そして初めは日本を覆すために鬼神大嶽丸のもとに天降ったと。

一方、「南牟婁郡誌下巻」(三重県立図書館所蔵)に収録されている
紀州熊野大泊観音堂略縁起には以下のような伝承が伝えられていました。

平城天皇の御宇大同四年に将軍坂上田村麿の建立せし霊場なり。其の草創を尋ねるに大同の比ひ諸国在に鬼神魔王蜂起して国土を悩まし人民を殺害す是れが為諸国よりの奏聞甚だ急なりしかば忝くも 天帝歎かせられ給ひ時の名将坂上田村麿に鎮定の宣言を下し給ふ。将軍先づ勢州鈴鹿に参向有て凶徒を悉く退治し給ふといへども鬼王眷属の討ち洩らされたるもの熊野山ににげ去りて深山幽谷に身を隠す。将軍即ち士卒を進め攻め来り討取り給ふ。今の八鬼山、九鬼、三木と申すも此時より始まれり。然れども鬼王猶討たれずして、のがれければ山々によぢのぼり谷々をうちめぐり尋ね給ふといへども行衛更にしれざりき。爰に一つの高山あり。将軍よぢのぼらせ給ひ御装束を改め立烏帽子を観念し一心稱名と心中に御祈念をなし給へば天女雲中に告げて曰く是より西に霊地あり行て陣所に定むべし。(今の大魔山是なり)又南の海邊に岩屋あり悪鬼此所にかくれ居れり行て討つべし。彌々汝が念ずる観音力とかき消す様に失せ給ふ。将軍歓喜のあまり御跡を拝し甲冑御装束をなし給ふ是に依って今に此處を烏帽子山と申すなり。即ち彼所に到り給ひ士卒に告て海邊を尋ねさしむ。果して岩屋あり東西三十間石面は滑らかにして削れる板の如く岩を積み重ねて塀の如し人倫通ひ難き険阻なれば討つべき様もなかりけり。前に又一つの嶋あり即ち此嶋に上り念波観音力と唱へ給へば童子一人忽然として嶋の上にあらはれ給ひ軍勢とともにけんしやう楽を舞ふべしと御弓矢を輿へ給ひ汝が念ずる観音力と失せ給ふ田村軍勢歓喜のあまりに袖をつらねて舞ひ遊ぶ時に鬼玉石の戸を開き見る所を件の弓にて射留め給ひ其の他眷属残らず亡し給ふ。今に至り此嶋を魔見(まみ)が島と申すなり討取る所の骸骨は「タヽタノメシメシガ原ノサシモ草タヽリチナサシ」と封じ給ひ大魔権現と崇め給ひ今の世までも諸人歩を運ぶなり。扨我幼少より掛け奉る一寸八分閻浮檀金の千手の尊像あり四神相應の霊地を見立て末代のしるしに納むべしと。爰に霊地ありて後は高山峨々とそびへて神徳の高き事を現し前は海水清浄にして弘誓の深き事をあらわし漲り落つる瀧の水には煩悩の垢をすゝぐべく山聲松風自ら妙音をのぶ霊験無双の名地なり。又一丈四面の巌洞あり奇々妙々治国平天下と此洞に安置し置き給ひ其後天勅を受けて建立し給ふ即ち京都音羽山に同じとて比音山清水寺と號すといふ。
御尋に付書上け申覚
置く熊野大泊村比音山清水寺は人皇五十一代平城天皇の御宇坂上田村将軍御建立本尊は1寸八分の千手観音永代秘仏にて御座候事。但前佛御正体御長一尺二寸の千手座像木佛。

以上のように鈴鹿御前は、田村麻呂との神婚伝承が語られておりますが、「紀州熊野大泊観音堂略縁起」では観音力を持った天女の託宣や童子が嶋の上に現れ軍勢とともに楽を舞い、鬼玉石の戸から開き見る所を軍勢が弓で射止め、眷属もろとも滅ぼしたことが語られていました。縁起の中で坂上田村麻呂の祈った観世音菩薩の化身は大魔権現であり鈴鹿権現でもありました。祇園祭の鈴鹿山では雷除・安産守護・諸願成就の神として瀬織津姫命の御神名をみます。人々を苦しめた悪鬼を退治した鈴鹿権現=瀬織津姫命は人々の信仰の中で確かに生き続けています。

▼2017年祇園祭
京都祇園祭・鈴鹿山8
▼鈴鹿権現瀬織津姫神は雷除・安産の神と崇敬されています。古代より雷神は農耕に関係の深い水神として信仰されてきました。
京都祇園祭・鈴鹿山10
京都音羽山清水寺のHPでは、坂上田村麻呂が音羽の滝の清らかさにちなんで清水寺と名づけたと伝えられています。本尊は十一面観世音菩薩像です。音羽の滝からは三筋の水が流れています。参拝客は、長い柄杓から滝水を頂いて祈念します。滝の背後には不動明王・役の行者などが祀られています。滝神について清水寺は語りませんが、私は音羽の滝に鈴鹿権現こと滝神である瀬織津姫神を重ねます。(瀬織津姫神については「エミシの国の女神」「円空と瀬織津姫」「八幡比咩神とは何か」菊池展明著に詳しく書かれています)
清水寺には日高見国胆沢を本拠とした蝦夷の首領阿弖流為と母禮の顕彰碑がありました。
▼清水寺
清水寺
▼音羽の滝
清水寺 音羽の滝jpg

清水寺 音羽の滝2

清水寺 音羽の滝

音羽の滝-6

清水寺 不動明王像

アテルイ・モレ之碑

アテルイ 顕彰碑jpg

滋賀県甲賀市土山町の田村神社は近江国と伊勢国の境にあり、古来には都より伊勢へと参宮する交通の要衝でした。 神社の言い伝えによると、「鈴鹿峠に悪鬼が出没して旅人を悩ましており、嵯峨天皇は坂上田村麻呂公に勅命を出してこれを平定させた」とあります。 それゆえに、交通の障害を取り除いて土地を安定させた坂上田村麻呂公の御遺徳を仰ぎ、弘仁3(812)年の正月、 嵯峨天皇は勅令を出して坂上田村麻呂公をこの土山の地に祀られることとなりました。(田村神社HPより引用)

坂上田村麻呂伝承は、東北地方に多く残されています。

浄瑠璃「田村三代記」は「坂上田村麻呂利仁」の陸奥誕生から、のちに鈴鹿山の鬼神「立烏帽子」を征したが成功せず、かえってこれを妻としてその助力をえて近江国の「高丸」を、ついで奥州達谷窟の「大嶽丸」を討つという雄大にして荒唐無稽な構想が展開する。(「坂上田村麻呂」高橋崇著)
と書かれていました。
▼田村神社
田村神社1

田村神社jpg


故風琳堂主人が坂上田村麻呂について書いていますのでご参照下さい。
ヤフーブログ千時千一夜
夷民祭る所の神、お熊様──田村麻呂伝説の解読へ【Ⅰ】
夷民祭る所の神、お熊様──田村麻呂伝説の解読へ【Ⅱ】
夷民祭る所の神、お熊様──田村麻呂伝説の解読へ【Ⅲ】

夷民祭る所の神、お熊様──田村麻呂伝説の解読への中では

日高見国の地で、朝廷軍の一方的侵略に対して、独立の天地を守るために敢然と抵抗・反撃をつづけた蝦夷連合軍の長が阿弖流為かとおもいます。その抵抗・反撃の並外れた強さによって、阿弖流為は悪路王の名で、つまり、悪の権化のような名で伝説化され、一方、必然的に田村麻呂の過剰な美化伝説として語りつがれることになります。

朝廷側からはエミシの討伐を祈る神として、蝦夷の民がそれまで信奉してきた「神」として瀬織津姫神はある。神は公平で双方の心に宿る。京都祇園祭の鈴鹿山に瀬織津姫神というご神名が残されていることはとても貴重に思いました。

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特別展 縄文 1万年の美の鼓動 東京国立博物館 

[ 遺跡]

東京国立博物館平成館で7月3日から、9月2日まで「特別展 縄文 1万年の美の鼓動」が始まりました。

東京都立博物館

縄文の国宝すべてが集結するという企画です。

国宝 火焔方土器 新潟県十日町市 笹山遺跡出土
国宝 土偶  土偶合掌土偶 青森県八戸市 風張1遺跡出土
国宝 土偶  仮面の女神  長野県茅野市 中ッ原遺跡出土
国宝 土偶  縄文のビーナス 長野県茅野市 棚畑遺跡出土
国宝 土偶  中空土偶   北海道函館市 著保内野遺跡出土
国宝 土偶  縄文の女神  山形県舟形町 西ノ前遺跡出土

▼遮光器土器 青森県つがる市 木造亀ヶ岡出土 「縄文―1万年の美の鼓動」図録
特別展縄文1
▼火焔方土器 新潟県十日町市 笹山遺跡出土 「縄文―1万年の美の鼓動」図録
特別展縄文2

▼縄文の女神 高さ45センチ 山形県舟形町 西ノ前遺跡出土  図録から
縄文の女神

「縄文―1万年の美の鼓動」図録には
縄文時代は旧石器時代が終わったおよそ1万3千年前から1万年続いた時代を指し、狩猟や漁撈、採集を生業とした縄文文化は、世界最古級の土器を生み出し、世界の先史土器のなかででも群を抜く造形美を誇る土器を作り出した文化ともいえる。日本で国宝の指定されている美術工芸品は約900件でそのうち、縄文時代の出土品で国宝に指定されているのはたった6件である。と書かれています。

図録の表紙となった火焔方土器や美しい縄文の女神などは、縄文中期(前3000年から前2000年)のもの。
古代、先進文化は朝鮮半島を通じてもたらされたと様々な書籍が語るが本当にそうなのだろうか?縄文人の命の躍動は豊かな大地の中で育まれてきたものではないだろうか?と私は考える。
美の競演のコーナーでは、インダス文明期の壺やイラクで出土した前青銅器時代の鉢など様々なものを展示しているが、縄文時代の火焔型土器にすごい迫力を感じ圧倒されてしまった。このたくましく力強い造形美を持った縄文人に敬意を表したい。

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○△□の伝言から 

[ 壁画古墳]

NHKの日曜美術館で3月に放映された「○△□の伝言~井浦新“にっぽん”美の旅4~」を観て熊本県山鹿市鹿央町岩原の装飾古墳館へ立ち寄りました。
番組では△を求めて奄美大島へ渡ります。△はノロの羽織る衣装にモチーフされています。特に印象に残ったのは、神事に使う衣装で幼いノロは霊力が弱いので身を守る為に多くの△の文様を必要としたことです。△は霊魂の象徴とされ魔除けの意味も込められてそうです。他界から霊魂を迎える信仰は五穀豊穣のために稲に宿る精霊(稲魂)を招き寄せるまつりにも見られます。
現地では△は蝶や蛾などを他界からきた霊的なものと考え、蝶の羽根の姿に△の文様をみました。
番組ではその後、うきは市の装飾古墳を巡ります。
九州は装飾古墳が多く日本の装飾古墳(660基)の約4割の存在が確認されているようです。韓国でも装飾古墳に太陽を思わせるような円が描かれていました。
番組を見てから熊本県山鹿市の装飾古墳館へ立ち寄る機会がありました。○△□に込められた思いとはどのようなものだったのでしょう。
番組で紹介されたチブサン古墳のレプリカや多くの壁画をゆっくり観ることができます。
チブサン古墳の○は鏡や太陽・月と考えられているようです。
▼チブサン古墳
チブサン古墳
▼弁慶が丘古墳
弁慶ヶ穴古墳jpg
▼弁慶が丘古墳案内板
弁慶が古墳案内板jpg

装飾文様の種類

次に秋田県阿仁地区のマタギの信仰が紹介されます。熊や鹿を狩猟し生業としている方々は、狩猟の始まりには必ず根子山の山神にご祈念するそうです。その山の神のご神像は女神像でした。山の神としかご祭神のお話はなさいませんでしたが、奥宮へ行くと流れの激しい滝がありました。奥宮の滝の神のご神体があの山の神とされる女神像であったのではないかと考えています。滝の神を追っている私にはとても興味深い番組でした。

自宅に帰って門戸の入口の階段を上がりながら・・・えっ・・・そう自宅にも□と△が彫り込まれていたことを改めて認識しました。というもの私は田舎暮らしを楽しむために11年前、中古住宅を購入し引越して落書き程度にみていた□の配列と△の文様の刻まれた階段を深く考えることもなく無意識に登っていたのです。以前住まわれた方は、建築された時に魔除の意味で石段に刻まれたのかもしれません。以前の持主はもう亡くなられていますからお聞きすることはできませんが、○△□の謎は、私にも共有できる関心事となりました。
石段

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英彦山豊前坊高住神社 

[ 古代八幡信仰]

英彦山豊前坊高住神社(福岡県田川郡添田町英彦山27)の紹介です。
高住神社鳥居

高住神社拝殿


高住神社でいただいた案内書には下記のように書かれています。

御祭神
豊日別命・・・豊前豊後の住民の守護神(豊日別国魂神とよひわけくにたまのかみ)
天照大神・・・日の神
天火明命・・・稲穂(農耕)の神(天照国照彦火明之命)
火須勢理命・・・鎮火(火伏)の神(火燗之命ほのすすみのみこと)
少名毘古那命・・・金厭(きんよう)祈祷・医薬の神
社伝によりますと、御祭神は豊前豊後の守護神として、もと鷹巣山に祀られ人々の病苦を救い、農業や牛馬・家内安全の神として古くから崇められ、社殿は遠く継体天皇の御代(約1500年前)藤原恒雄によって創建されたと伝えられています。又、当神社は豊前坊天狗神としても有名で、欲深く奢りに狂った人には天狗を飛ばせて子供をさらったり、家に火をつけたりして慈悲の鉄槌を下し、心正しく信仰する人には家来の八天狗をはじめ総べての天狗を集めて願い事を遂げさせ、其の身を守ると伝えられてきました。(中略)英彦山部豊前坊は九州の天狗群の棟梁格で、霊力が抜群という天狗倒しでも有名です。

八天狗尊神:彦山豊前坊・鞍馬山大僧正・伯耆大仙清光坊・愛宕山太郎坊・白峯相模坊・高雄内供奉飯綱三郎
        熊野大峰菊丈坊・比良山治郎坊

豊前坊扁額

中野幡能氏は『英彦山と九州修験道』の中で
英彦山の草創は、『彦山縁起』によれば、魏国の法師善正が継体天皇二十五年(531)に渡来し、豊後日田の藤原恒雄(後に忍辱と称す)なる者とともに開いたとしている。しかしこれはあくまでも伝承であり、英彦山の開基は続日本紀大宝三年(703)九月二十五日の条に出る法蓮から考えるべきではないかと考える。 とあります。
法蓮といえば、宇佐神宮の弥勒寺初代別当で医薬にたけ、宇佐君の姓を与えられた人物です。英彦山や六郷満山の開創と関わりの深い修験者といわれています。
高住神社案内板

英彦山豊前坊(18番)は、英彦山四十九窟の中で般若窟(玉屋神社1番)と同じく、窟の中に神社が造られています。由緒にもありますが、元の鎮座地は鷹巣山で神社の方のお話ではご祭神の豊日別国魂神が祀られていたとのことです。日韓古代史シンポジュウム「韓国・檀君神話と英彦山開山伝承の謎」長野覺・朴成壽編で高住神社を創建した藤原恒雄(ふじわらつねお)は韓国で山の神として祀られていた恒雄(かんゆう)信仰が英彦山に伝わり、その山岳信仰が藤原恒雄に乗托されたということではあるまいか。と中野幡能氏が語っています。『三国遺事』によれば古朝鮮の歴史は、桓因・桓雄・檀君から始まります。この三神は、祖父、父、子の間柄ですが、天神桓因の子が地に降りて地神桓雄となり、地神
桓雄が熊女と結婚して人神檀君を産んだというお話です。以前に檀君神話はご紹介しています。http://nabaanooyado.blog.fc2.com/blog-entry-223.html
高住神社には午玉宝印という呪符があります。熊野三山は烏ですが、英彦山のものは開山伝承と関わる3羽の鷹になっています。午玉宝印は、古くは文字だけでしたが、鷹や烏などの絵を用いたのは、熊野より英彦山の方が百年古いといわれています(相田二郎「起請文の料紙牛王寶印に就て」『史学雑誌』第五十一篇)その3羽の鷹絵とよく似た呪符が韓半島にもあるとのことです(「朝鮮の鬼神」)。(『英彦山と修験道』中野幡能著より引用)
高住神社 午玉宝印
牛王印
熊野の奥宮:玉置神社の弓神楽
玉置神社

高住神社のご祭神が以前祀られていたのが鷹巣山で宇佐で法蓮が修行した処が、鷹栖観音堂一帯です。八幡信仰と鷹は、特に関わりが深いと考えています。また、ご祭神にも興味深いものがあります。英彦山神宮の主祭神は天之忍穂耳命ですが、末社の大南神社には天火明命が祀られ、高住神社にも元初の太陽神として祀られた天火明命の祭祀があります。宇佐八幡宮の創祀に関わった宇佐氏・大神氏・辛島氏(秦氏系)の中の宇佐氏である法蓮に日子を奉斎する太陽信仰があったと考えられます。この信仰が山国川を渡ると応神天皇=八幡大菩薩という信仰(神仏習合)へと変化していきます。しかし、宇佐神宮の二大神事である放生会(銅鏡奉納儀礼も含む)にはご神体の銅鏡鋳造に関わる儀式に「天火明命を降す」とあり、宇佐神宮では応神天皇としか語られていない日子神(八幡大神)の存在があると私は考えています。宇佐神宮に応神天皇を祭祀すると母神の神功皇后も第三殿に祀られることになりますが、それは約98年後のことになります。比売大神は地主神とのことで応神天皇が祀られた8年後に託宣により第二殿に祀られますが、太古に奥宮のある御許山に天降ったのは三女神という伝承が今日まで語り続けられています。神功皇后が三韓征伐で祈った神は宇佐神宮で祀る比売大神で『八幡比咩神とは何か』菊池展明著には伊勢内宮の荒祭宮の神である撞賢木厳之御魂天疎向津媛命は瀬織津姫神と同神であり、その対偶神と語られている神が高住神社のご祭神の一柱である天火明命こと天照国照彦火明之命です。高住神社を創建したのが藤原恒雄という伝承に古朝鮮や高句麗建国のことなど再び本を読み直しています。
鷹巣山案内板

鷹巣山jpg

明日は高住神社で護摩修法が行われます。松会の起源は、各霊場で発祥年代がちがうようですが、五穀豊穣・家内安全を祈り、「求菩提(くぼて)山雑記」(天保六年)の縁起書には「此祭式、元正帝の勅によって行善和尚開白の後、年の豊凶に増減なく、当時に至って例年勤る祭礼也」と記載され、豊前での松会の起源を1200年から1250年前と考えることが出来るようです。現在、英彦山神宮では松会の名を廃し、御田植祭と称し、毎年3月15日に行われています。

高住神社1jpg

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