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鬼と仏の国東半島めぐり

国東半島に残る鬼伝承と仏の里を菜花のお宿のおかみが ご案内します。楽しんでいただけたら幸いです。

日本の滝百選-龍頭が滝 

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中国地方随一の滝と呼ばれている奥出雲の滝が龍頭が滝です。
案内板には、頼朝公の秘蔵名馬「池月」の伝説が語られています。

案内板

画像1
▼雌滝
雌滝

雌滝2
▼落差40mの雄滝
龍頭が滝
▼滝の裏側にまわることもできるので裏見の滝とも呼ばれています。
裏見の滝

画像2
▼百畳の広さと伝わる洞窟の奥
画像3

画像4

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鉄の女神Ⅱ 

[ 瀬織津姫神]

出雲市平田町の芦高神社のご祭神である赤衾伊農意保須美比古佐和気能命(あかぶすまいぬおおすみひこさわけのみこと)は、斐伊川の砂洲を守る彦神(『島根の神々』島根県神社庁)と記されていると前回、紹介した。

▼芦高神社
芦高神社鳥居1
▼芦高神社拝殿
芦高神社拝殿

吉野裕『風土記』は、「赤衾伊農意保須美比古佐和気能命の赤衾は、清浄な寝具の意で伊農(寝ぬ)にかかる枕詞的称辞であり、意保須美は大炭霊で採鉄の神、砂鉄の神の系統の神であろう」と記されている。この神の対偶神が、風土記の秋鹿(あいか)郡の伊農(いぬ)の郷に登場するアメノミカツヒメである。

菊池展明『出雲の国の女神』で触れているので読んでみる。

出雲の多具(多久)の国の神-原・出雲国の大神より

(前略)アメノミカツヒメはタカヒメ(高姫)=タキヒメ(滝姫)でもあったが、古代、カ行音の変転に法則性はなく、タキの「キ」が「ク」に転じることはありえたこととおもう。このことは、月神の「月読」をツキヨミではなくツクヨミ、白山ゆかりの「菊理媛」をキクリヒメではなくククリヒメと訓じているなど、その例は多い。アメノミカツヒメという滝神ゆかりのタクの国である。これは「タキ(滝)」の国であった可能性がある。タカ(高・多賀)、タキ(多吉・多伎・多岐・多芸・多気)、タク(多久)・タケ(多気・竹)、タコ(多古)と、これら類音の地名が多いことは出雲国の特徴の一つで、しかも、これらの過半の地名にアメノミカツヒメという滝神の影が落ちているようだ。
 さて、東の多久川ゆかりの多久神社は、風土記の神祇官非登録社にすでに「多久社」とあったように、ここは奈良時代(以前)にさかのぼる古社である(松江市鹿島町南講武)。同社境内の由緒案内はユーモアのセンスで書かれていて、読む者を少しほっとさせる。

  多久神社
  主祭神 天甕津比女命(産土大神、氏神様)
  合祀神 素盞嗚命、建御名方命、大物主命、応神天皇、市杵島姫命等十一柱
  祭 日 祈年祭 三月十一日  夏 祭 七月十五日
    例 祭 十月十一日  新嘗祭 十二月十一日
    六月大祓式 六月三十日
  由 緒
 御当社の主祭神は天甕津姫命と称奉る女神様で、八束水臣津野命の御子、赤衾伊農意保須美比古佐和気能命の御后神様であります。
 夫神様の佐和気能命が「出雲の国は狭布の如き稚国なり」と国土経営開発の大業をなされた際、その神業を補翼し大功績をお挙げになられた神性勇剛で見目美わしい女神様であります。
 偶々開発の中途で余程お困りになられた事があったようで、出雲国風土記の一説に「伊農速[いぬはや]と仰せられた」と所載されています。現代風に言うならば「あなた速くおいでになって下さい」ということになりましょうか。 

 出雲国におけるアメノミカツヒメの受難をそのまま穏やかに受け容れ、その「夫神様」(赤衾伊農意保須美比古佐和気能命)とともに「国土経営開発の大業をなされた際、その神業を補翼し大功績をお挙げになられた神性勇剛で見目美わしい女神様」と自社祭神を紹介する、この由緒書の作者のセンスはすばらしい。
 由緒は、「国土経営開発の大業」をなした神は「夫神様」で、その「大業」をなす動機として「出雲の国は狭布の如き稚国なり」ということばを引いている。このことばは、いうまでもなく、風土記が記す八束水臣津野命のものである。それを「伊農の大いなる彦神」のことばとして紹介している。由緒の作者が風土記をよく読んでいることは、女神の「伊農速[いぬはや]」という秋鹿郡伊農郷条に記されていたことばの引用をみればわかる。作者は、この姫神の受難を理解した上で、「偶々開発の中途で余程お困りになられた事があったよう」だとしているのである。「あなた速くおいでになって下さい」というアメノミカツヒメのことば(気持ち)は虚空に響いたままだが、この女神の思いを「余程」汲むことのできる神職が、この多久神社にはいるようだ。(後略)
▼多久神社案内板
多久神社 案内板

▼多久神社(松江市鹿島町南講武)
多久神社 1
▼芦高神社と対面して伊努神社(平田町)にもアメノミカツヒメが祀られている。
伊努神社2

長い引用になってしまったが、赤衾伊農意保須美比古佐和気能命という採鉄の神の対偶神が、アメノミカツヒメという神であり、この神を滝神と菊池氏は考察していた。そして多久の国は、原・出雲国であり、国譲りの舞台であったのかもしれない。


吉野裕『風土記世界と鉄王神話』には、「クラ」は朝鮮語kol(谷)、満州語holo(谷)と同系語であるということが記されており、
『風土記』の讃容郡の郡名縁起のなかで「この山の四面の一二の谷あり、皆鉄を出す」とあり、このように見れば、『風土記』の語るクラとは鉄を産する谷であり、帰化人が占居するとことろであると。さらにクラは、たんに山容だけを意味するものではなく、<砂鉄>をも意味したのではと、中津市の闇無浜神社で柿本人麻呂と伝えられている歌を紹介している。

  吾妹子が赤裳ひづちて植ゑし田を刈りてをさめむ倉無(くらなし)の浜

吉野氏は、『これは倉無の浜という地名の面白さから発想されたもので他意はなかろうが、この地名そのものは「クラ穴師(砂鉄精錬)の浜」と見たほうがよく・・云々』と書いている。吉野氏の考察が正しければ、闇無浜も砂鉄精錬の浜となり、闇無浜神社は、瀬織津姫神を祀ることからも鉄の神との関連も考えられるのである。
▼闇無浜神社
闇無浜神社

他にも滋賀県の佐久名度を闇戸に比定した本居宣長の説を引用し、「人身にとりて谷の如くなる処は」と<股グラ>はホト(陰部)であり、すべての<クラ>はホトを中心にして形成され、それはいわば産鉄族として生命の在りどころ、いわゆるシンボルとされるべきものであった。ホトは<火跡><火田>に通じるものであり、産鉄族は製鉄上もっとも神聖なものとする溶鉱炉のことであり、火ムスビの顕現する場所であった」という。

近江雅和『出羽物語』に『宇佐郡の表現で炭のことを「イモジ」というと書き、イモジは鋳物師のことであり、八幡族=宇佐族が産鉄族』と書いている。

『続秦氏の研究』で大和岩雄氏は、稲荷・白山・八幡の神々は同一神で秦氏工人が崇拝した鍛冶神との見方をしている。大和氏は、倭人は早くから伽耶に住んでおり、魏の時代(220~265年)の三世紀に倭人は伽耶から鉄を取っていたから、倭系遺物が出土するのであり、「水脈と鉱脈を発見する作業」は、「同一の技術集団が担うものであった」と書いている。

真弓常忠『古代の鉄と神々』(学生社)は、次のように産鉄地について考察している。
倭姫命の巡幸地は、いずれも産鉄地に結びつくとことは著しい。しかも注意を要するのは、それらの地が多く河流・湖沼の水辺に臨[のぞ]んでおり、「スズ」の採取を行った初期製鉄を想わせる点で、「鉄穴流し」による砂鉄採取よりもいちだんと古い段階であったことが判明するのであると記し、真弓氏は、伊勢の五十鈴川の川砂におびただしい砂鉄を認め、二見の海岸の砂にも砂鉄を採取したと述べている。他にも「スズ」に関連した地名に鈴鹿山がある。弥生時代の製鉄において、原料となったのが、褐鉄鉱の団魂である「スズ」だと書いている。
京都八坂神社の祇園祭の鈴鹿山鉾は瀬織津姫神であるし、愛知県東海市横須賀町の民話に、鈴鹿の山の神、瀬織津姫が伊勢の海をこえて、馬走瀬(まはせ)の海岸にやってきたと伝わる。真弓氏は、スサノオノミコトは、新羅から渡来した韓鍛冶集団が租神とした神で斐伊川・神門川に沿って西出雲の奥地に入り、その土地に土着した神であると書く。

菊池展明遺稿集「出雲の国の女神」出雲大神と瀬織津姫  巻末資料 全国瀬織津姫神祭祀社一覧と伝承
風琳堂 3,080円税込み  風琳堂直販への注文は、送料・送金料無料です。

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鉄の女神 

[ 瀬織津姫神]

 人類の最初の鉄との遭遇は、空から降って来た隕鉄といわれる。以前放映されたNHKのアンアイロードでは、ヒッタイト(トルコ)・スキタイ・漢・匈奴へ鉄の技術が伝わり、倭国に入ってきたのが、弥生時代という。出雲では、縄文晩期(紀元前1000年)に東北地方から土偶が持ち込まれ、後に稲作が伝わり、弥生前期に青銅器・鉄器が伝わっている(荒神谷博物館)。

 石見の江の川河口から五キロ上流に「金鑄兒太明神(かないごだいみょうじん)」の祠がある。江戸時代に銑鉄(せんてつ)を盛んに生産した桜谷たたらの金屋子神社の祠である(『鉄のまほろば』(山陰中央新報社)。
▼江津市 江の川
江の川
▼桜谷たたらの金屋子神社
桜谷金屋子神社

全国の桜谷には、瀬織津姫神の祭祀がみられ、『近江国風土記』逸文は、桜谷の地にある佐久奈度神社(桜谷明神)は、「八張口の神の社 。即ち、伊勢の佐久那太李(さくなだり)の神を忌みて瀬織津姫神を祭れり」と記している。

瀬織津姫神は、遠野の愛宕神社のご祭神に祀られており、『大和志料』も瀬織津姫神の異称の天疎向津媛神を火知津(ひつりつ)姫神と書く。「瀬織津姫神」の持つ火の神徳は、鉄と関連するのではないかと考えている。雲南市の菅谷たたらでは、金屋子神は女の神様と伝わり、金屋子神が降臨したのが桂の木と伝わる。

鹿児島の隼人の籠城した姫木城では、「昔、神功皇后が新羅を攻めたとき、桂姫も従軍して武功があり、勝浦姫の名を賜り、その妹を姫木城に迎えた」という伝承がある(『国分郷土誌』下巻)。『八幡比咩神とは何か』で菊池展明氏は、「桂は中国では月に生える木とされ、桂姫は月とゆかりのある姫神かもしれません。神功皇后の新羅征伐に従軍した神でしかも[神功皇后の妹]と呼称される神、さらに月とも縁深い神という三つの条件を抽出しますと、思わぬ神(女神)に焦点が結ばれることになる。神功皇后の新羅征伐に従軍した女神は、天照大神荒魂が浮かびますし(後略)」とあるが、当時は、瀬織津姫神の神名まで辿りつくことはできなかった。しかし、二〇一九年三月『鹿児島県史料』地誌備考六(非売品)に「正宮傳記曰く、瀬織津姫を祀りしゆゑ姫城という」と記しており、隼人の城の桂姫と呼ばれる女神は、瀬織津姫神と伝えられていた。
▼姫城(鹿児島県霧島市)
天降川と姫城

 下原重仲「鐵山必用記事」(原田伴彦・朝倉尚彦編『日本庶民生活史料集成 第十巻 農山漁民生活』三一書房)
「昔、旱天が続き、民が集まり雨乞いをしたところ、七月七日に今の岩鍋と云う所に高天が原より一柱の神が天降りた。人民が驚いて如何なる神ぞと問うと、神が作金者(かなたくみ)金屋子ノ神なり、金の道具(うつわ)を造り、悪魔(あらぶるかみ)降伏、民安全、五穀豊穣のことを教えようと神託する。磐石(いし)を以て鍋を造ったので彼の地を岩鍋という。四方(よも)に住む山なく、吾は西の方を主(つかさど)る神なればと白鷺に乗って出雲の国の野義(のぎ)ノ郡の非田(ひだ)の山林(もり)に着いて桂の木の一枝(ひとき)の枝末(うれ)に羽を休めた」と伝わる。金屋子神が最初に天降った場所が播磨国岩鍋(現在の兵庫県穴粟市千種町岩野辺と考えられる)である。
大村幸弘『鉄を生みだした帝国』(日本放送協会)によると「古代の日本では季節風を使って高温を得て、製鉄を行っていたことがあるし、季節風をうまく利用するために山の傾斜に炉を作った」と記している。安来市の桜谷もそのような立地で選ばれたのかもしれない。
▼桂の木(菅谷たたら山内高殿前の神木)
57、桂の木

 『日本書紀』や『古語拾遺』には、一つ目の天目一箇神は「作金者(かなだくみ)「雑(くさぐさ)の刀斧(たち)及び鉄鐸を作る神」とあり、鍛冶神となっている。他にも「クグツは体制側からかぶせられた蔑称でククリ(坑道)に通ずる採鉱民のことにほかならない」とある。大分県中津市の古要神社は、姫城で戦っていた隼人がクグツ舞を見物しているところを攻めて勝利を得たと伝えている。放生会で行われていたクグツ舞も隼人の霊を慰めるものであった。『宇佐神宮由緒記』にも鍛冶翁の伝承があり、八幡神を鍛冶神とみる見方もある。柳田国男は、八幡神が「目一つの神」であり、ご神体の御神實(おんみがさね)は神秘な金属であった」と書く。
近江雅和氏は『出羽物語』に宇佐郡の表現で炭のことを「イモジ」というと書き、イモジは鋳物師のことであり、八幡族=宇佐族が産鉄族と書いている。
「鐵山必用記事」の祭文の解説は「金屋子神と金山彦と天ノ目一箇神(あめのまひとつのかみ)とは同神であり、多くの伝説や物語に出てくる白鳥はほとんど白鷺と見てよく、また金屋子神遊行の際、シラサギが神の乗り物となったというのも、シラサギを神の眷属と見なしたもので特に神の乗物の内、シラサギが選ばれたのは、五行説では『金』は色相『白』に配されているからであろう」と記されている。菊池展明氏の考察によると白山信仰や天白神、八幡信仰の白幡の神は、瀬織津姫神であった(『円空と瀬織津姫』上巻・『八幡比咩神とは何か』)。出雲市の伊努神社や平田市の芦高神社に祀られている赤衾伊農意保須美比古佐和気能命(あかぶすまいぬおおすみひこさわけのみこと)は、斐伊川の砂洲を守る彦神(『島根の神々』島根県神社庁)と記されている。菊池氏は、八幡信仰の白幡と対になる赤幡の神に天火明命という日神を重ねている(『八幡比咩神とは何か』)。砂洲を守る彦神は、溶鉱炉の中に太陽神を見出した産鉄族の祀る神でもあったと考えられないだろうか。
▼金屋子神乗狐図 島根・横田町 個人蔵(「絵図に表された製鉄・鍛冶の神像」金屋子神話民俗館より)
金屋子神乗狐図

つづく

瀬織津姫神についての考究書(価格は税込み表示)
風琳堂新刊・令和3年1月13日刊:菊池展明氏遺稿集「出雲の国の女神」 3,080円
「八幡比咩神とは何か」3,850円・「エミシの国の女神」2,750円・「円空と瀬織津姫」上巻3,740円下巻4,180円 
(風琳堂直販へのご注文は、送料・振込料、無料)

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武蔵国造の信仰-人見稲荷神社 

[ 瀬織津姫神]

人見稲荷神社(東京都府中市若松町)の紹介です。

『日本書紀』神代上では「天穂日命〔此出雲臣・武蔵国造・土師連等が遠祖なり〕」と記されている。出雲臣と武蔵国造及び土師連等は、ホヒノミコトを遠祖としており、同族と考えられる。

以下は、本年一月に発売された菊池展明『出雲の国の女神』風琳堂から、引用する。

 <ホヒノミコトの末裔には出雲国造(出雲臣)以外にも多くの同族がいた。たとえば武蔵国造(无邪志国造)は、氷上神社の祭祀者としてよく知られる。
『武蔵国一宮氷川神社書』の一つ「武蔵国造系図」では、天穂日命の子には天夷鳥命・伊努比売命の兄妹二神があり、天夷鳥命には伊佐我[いさわ]命・出雲建子命の兄弟があったとされ、この伊佐我命の末裔を出雲国造、出雲建子命の末裔を武蔵国造としている(原武史『〈出雲〉という思想』講談社学術文庫)。
 武蔵国造に連なる「出雲建子命」だが、この名は『伊勢国風土記』逸文に「出雲の神の子、出雲建子命、またの名は伊勢津彦の神、またの名は天の櫛玉命である」とあり、同逸文によれば、神武天皇の命によってやってきた天日別命に対して、伊勢の「国譲り」をして信濃国へ去った神とされる。つまり、伊勢国の地主神であったわけで、伊勢の祭祀の基層には出雲神の祭祀がかつてあったことが暗に告げられている。
武蔵国造ゆかりの人見稲荷神社(府中市)境内の石碑を読んでみる(適宜句読点を補足)。

  御祭神は倉稲魂命、天下春命、瀬織津比咩命三柱にして、武蔵国造兄武比命の祀られし社なりと伝ふ。
 昭和五十六年十一月三日未明、不慮の出火に依り焼失、氏子中恐懼協力し再建す。

  石碑には、多くの再建奉仕者の名も刻まれていて、この社を崇敬する氏子衆の篤信がよく伝わってくる。石碑は、この神社は「武蔵国造兄武比命の祀られし社」で、祭神の一神に「瀬織津比咩命」の名を刻んでいる。「武蔵国造兄武比命」の「兄武比命」は「出雲臣の祖」とされる「兄多毛比命」のことである。
 出雲国造の同族が、武蔵国で瀬織津姫神を奉斎していたというのは、出雲国の祭祀を考えるとき、示唆することすこぶる大きいといわざるをえまい。>

▼人見稲荷神社(東京都府中市) 
人見稲荷神社鳥居

人見稲荷神社拝殿

人見稲荷神社2

人見


人見稲荷神社に参詣する途中で人見(ひとみ)の地名について書いた石標があった。石標には、古く人見の集落は、街道筋ではなく浅間山(東京都府中市)の麓にあったと伝えられている。
新編武蔵風土記稿によれば、民家五十八軒府中路(人見街道)の往来に並居す」とあり、地名の起こりは、武蔵七党の人見一族が来住していたという説がある。あるいは、浅間山(人見山)が遠くを見たり、遠くからも望める格好の場所であることから起こった地名かもしれないとある。境内には、浅間神社の遥拝所があった。人見一族の浅間信仰が窺える。
▼浅間神社遥拝所
遥拝所

中世、武蔵国一之宮は、小野神社であったと伝わる。多摩市の小野神社には、天ノ春下命・瀬織津姫神が祀られている。小野神社は、当初は、瀬織津姫神のみの祭祀だったという説もある。八三八年、隠岐に配流された小野篁(たかむら)が祈ったのが、瀬織津姫神を祀る壇鏡の滝である。
壇鏡の滝(本殿背後))

 人見稲荷神社の由緒が語るように出雲族が武蔵国造になり、瀬織津比咩命を祀ったことが確認できるものの出雲の地では、瀬織津姫神は、神社の境内社等に神名が見受けられるが、神徳が語られることはない。
 『出雲の国の女神』は、風土記以前の出雲の元初信仰を深く読み解き考察をしている。その一つが、武蔵国造の祀る神の信仰であった。
 
 東京都千代田区の神田神社(神田明神)は、大己貴神・少彦名命・平将門命を祀る。社伝によると、天平二年(730)に出雲氏族で大己貴神の後裔・真神田臣により、武蔵国豊島郡芝崎村(現在の東京都千代田区大手町将軍塚周辺)に創建された。その後、天慶の乱で活躍された平将門公が没するに及び所縁の者たちにより将軍塚が築かれ、さらに延慶二年(1309)に神田明神の祭神として奉祀された(『社寺縁起辞典』より引用)。
以上のように神田明神も出雲氏族の後裔真神田臣による創建と伝承されている。神田明神に瀬織津姫神の祭祀は確認できないが、平将門公が瀬織津姫神を祭祀したという石碑が茨木県板東市長谷の長谷香取神社の境内にある。石碑は、瀬織津比鳴神社と記している。比鳴とあるが、瀬織津比咩と考える。愛媛県八幡浜市の松柏神社では瀬織津姫はたしかに鳴滝の神でもあった。

▼境内の石碑(千葉県在住S氏撮影)
平将門公祭祀

平将門公祭祀2

瀬織津姫神についての考究書(価格は税込み表示)
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民話のなかの瀬織津姫神 

[ 瀬織津姫神]

瀬織津姫神を織姫神と伝える民話を友人が送ってくれました(*^_^*)

「東海市の民話」東海市教育委員会から引用

衣の浦     横須賀町

むかし、鈴鹿の山の神、瀬織津姫が、伊勢の海をこえて、馬走瀬(まはせ)の海岸にやってきました。

馬走瀬とは、横須賀のむかしの呼び名です。

姫は、あちこちで衣を織ってきましたが、いまひとつ満足できる衣が織れません。

「ここは、良い糸がとれると聞いてきました。ためしに衣を織らせてもらいましょう。」

「はいはい、こんな糸でよろしければ、どうぞお使いください。」

村人たちは、親切に姫の機織(はたお)りの世話をしました。

何枚も織っているうちに、瀬織津姫は、馬走瀬の海岸で初めて満足のいく衣を織ることができ、

大いに喜びました。そして、このあたりの海岸を「衣の浦」と名づけるようにと言い残して立ち去りました。

「衣の浦」は波静かで、大変美しい海岸でしたので、いろいろな人がたずねてきては和歌によみました。

民話の最後には、数種の和歌が記されています。私の好きな西行法師の歌を書きます。

なみあらふ衣のうらのそで貝は汀(なぎさ)の風にたゝみ置哉(おくかな)  山家集 西行法師

▼京都祇園祭の鈴鹿山(瀬織津姫神)
京都祇園祭・鈴鹿山 2




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出雲ー国引き神話 

[ 出雲の神]


『出雲国風土記』で国引き神話の伝わる「伯耆(ははき)の国にある火神岳」が、大山(だいせん)で、「夜見(よみ)の嶋」とあるのが弓ヶ浜半島である。夜見から黄泉の島ともいわれるようになる。「河船のもそろもそろとすすむごとく国来(くにこ)、国来(くにこ)」と引いて来て国を縫い合わせるという神話からは、他の風土記にないおおらかさが伝わってくる。
国引き神話は、国外にも見受けられる。ニュージーランドの神話には、「英雄マウイが陸地を釣針で魚のように釣り上げた」というものや、ポリネシアのマルケサス島には、「太初に海だけあり、その上を、チキという神がカヌーで浮かびながら、太洋の底から地を釣りあげた」という創世神話が語られている(伊藤清司「蓬莱島説話と国引き神話」大林太良編『日本神話の比較研究』法政大学出版局)。
▼伯耆大山(火神岳)
伯耆大山
▼三瓶山(佐比賣山)
三瓶山

『出雲国風土記』意宇郡の国引き神話を読んでみる。

意宇(おう)と號(なづ)くる所以(ゆえ)は、国引きましし八束水臣津野命(やつかみづおみつののみこと)、
詔(の)りたまひしく、「八雲立つ出雲の国は、狭布(さの)の稚国(わかくに)なるかも。初国(はつくに)小さく作らせり。
故(かれ)、作り縫(ぬ)はな」と詔(の)りたまひて、「栲衾(たくぶすま)、志羅紀(しらぎ)の三埼を、

国の餘(あまり)あるやと見れば、国の餘(あまり)あり」と詔(の)りたまひて、童女(おとめ)の胸鉏(むなすき)取らして、大魚(おふを)のきだ衝(つ)き別けて、はたすすき穂振り別けて、三身(みつみ)の綱(つな)うち挂(か)けて、霜黒葛(しもつづら)くるやくるやに、河船のもそろもそろに、国来(くにこ)々々と引き来縫(きぬ)へる国は、

去豆(こづ)の折絶(おりたえ)より、八穂爾支豆支(やほにきづき)の御埼(みさき)なり。此(か)くて、堅(かた)め立てし加志(かし)は、石見(いはみ)の国と出雲の国との堺なる、名は佐比賣山(さひめやま)、是なり、亦、持ち引ける綱は、薗(その)の長濱(ながはま)、是なり。亦、「北門(きたど)の佐伎(さき)の国を、

国の餘(あまり)ありやと見れば、国の餘りあり」と詔りまたひて、童女(おとめ)の胸鉏(むなすき)取らして、大魚(おふを)のきだ衝(つ)き別けて、はたすすき穂振り別けて、三身(みつみ)の綱うち挂(か)けて、霜黒葛(しもつづら)くるやくるやに、河船のもそろもそろに、国来(くにこ)々々と引き来縫(きぬ)へる国は、

多久(たく)の折絶(おりたえ)より、狭田(さだ)の国、是なり。亦、「北門(きたど)の農波(ぬなみ)の国を、

国の餘(あまり)ありやと見れば、国の餘(あまり)あり」と詔(の)りたまひて、童女(おとめ)の胸鉏(むなすき)取らして、大魚(おふを)のきだ衝(つ)き別けて、はたすすき穂振り別けて、三身(みつみ)の綱うち挂(か)けて、霜黒葛(しもつづら)くるやくるやに、河船のもそろもそろに、国来(くにこ)々々と引き来縫(きぬ)へる国は、

宇波(たしみ)の折絶(おりたえ)より、闇見(くらみ)の国、是なり。亦、「高志(こし)の都都(つつ)の三埼(みさき)を、

国の餘(あまり)ありやと見れば、国の餘(あまり)あり」と詔りまたひて、童女(おとめ)の胸鉏(むなすき)取らして、大魚(おふを)のきだ衝(つ)き別けて、はたすすき穂振り別けて、三身(みつみ)の綱うち挂(か)けて、霜黒葛(しもつづら)くるやくるやに、河船のもそろもそろに、国来(くにこ)々々と引き来縫(きぬ)へる国は、

三穂(みほ)の埼なり。持ち引ける綱は、夜見(よみ)の嶋なり。賢(かた)め立てし加志は、伯耆(ははき)の国なる火神岳(ひのかみだけ)、是なり。「今は、国は引き訖(を)へつ」と詔りまたひて、意宇(おう)の社(もり)に御杖(みつえ)衝き立てて、「おゑ」と詔(の)りたまひき。故(かれ)、意宇(おう)といふ。謂はゆる意宇の杜は、郡家(こほりのみやけ)の東北(うしとら)の邊(ほとり)、田の中にある塾(こやま)、是なり。

国引き神話は、新羅・隠岐の国・能登半島などから、国の餘(あまり)ありやと見れば・・・と同じ言葉で4回繰り返して国を引く神話である。民謡のお囃子のように何度も何度も語られる言葉(ことのは)は、ある一定のリズムを持っている。遠い昔、神話の語り部によってこの言葉に節をつけて歌った人たちがいたのかもしれないと風土記を読みながら、古代に思いを馳せている。

▼マリンプラザ島根ジオパークの説明板・折絶の図
折絶の図

「意宇杜」の石碑が松江市の阿太加夜神社の境内にある。風土記以前は、出雲(いずも)は、「あだか」と呼ばれていた。
『出雲の国の女神』で考察している「あだか」の神が「阿陀加夜怒志多伎吉比売命(あだかやぬしたききひめのみこと)」である。

▼阿太加夜神社
阿太加夜神社

意宇社

瀬織津姫神についての考究書(価格は税込み表示)
風琳堂新刊・令和3年1月13日刊:菊池展明氏遺稿集「出雲の国の女神」 3,080円
「八幡比咩神とは何か」3,850円・「エミシの国の女神」2,750円・「円空と瀬織津姫」上巻3,740円下巻4,180円 
(風琳堂直販へのご注文は、送料・振込料、無料)

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クロスする円空と法蓮 

[ 古代八幡信仰]

 宇佐神宮の初代弥勒寺別当になる法蓮の伝承は、豊前の彦山・八面山・宇佐市の虚空蔵寺・上拝田の和尚山・鷹栖観音堂・院内の高並神社等に見受けられる。
 高並神社は、菟道大明神を主祭神として祀り、案内板には、「推古十二年(609)、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)が宝性山に垂迹され、その神託を受けた宇佐神宮神護寺別当職の法蓮和尚がこの地に祠を建立したのが百社宮の起源とされる」と記されている。鳥居の扁額は、百社宮とあるが、明治四十四年に高並神社に改称した。
▼宝性山
宝性山
▼高並神社
高並神社鳥居

高並神社

高並神社案内板

菟道大明神は、応神天皇の御子菟道稚郎子であったのだろうか?

菊池展明『八幡比咩神とは何か』には、八幡比咩神は宇佐氏の氏神であり、その抽象神名化の核には、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(天照大神荒魂)が封じられていたと考察している。

宇佐氏である法蓮が、晩年過ごしたと考えられる院内に比売大神が祀られていないことが、以前から腑に落ちなかった。菟道稚郎子の神名の仮説を書いておきたいと思う。

昭和十三年の『香川県神社誌』に考えるヒントがある。
木田郡の皇子神社の祭神に宇治稚郎子が祀られ、由緒には皇子権現と称されているとある。同じく皇子権現と称されていた神を祀るのが、同じ木田郡の拝師神社である。

神社誌の由緒には、
祭神 天火明命 
上古天火明命の子孫此の地に住し祭祀のことを司る。この族を拝師と称し、地名林(舊名拝師)はこれにより起こりしものにして、此等の人租神天火明命を祀りしものなりと云ふ。古くは皇子権現、拝師大権現等奉称せられ・・・(後略)。

他に高松市の若一王子神社にも祭神に菟道稚郎子命が祀られ、紀州熊野の若王子社より勧請とある。菟道稚郎子命は熊野神の一神でもあることになる。

円空は、「天照皇太神」を男神として彫り、「越路火明神(こしのみちほあかりのかみ) 世間万事空シ」と詠んだことは、先に書いた。香川県神社誌の伝承から、法蓮も天火明命を祀っていた可能性が高い。宇佐神宮の二大神事の一つ、放生会の宝鏡鋳造において香春の採銅所の清祀殿で、宝鏡に依りつく神霊こそ「火明神」であった(『八幡比咩神とは何か』)。

天火明命は『先代旧事本紀』は「天照国照彦天火明命櫛玉饒速日命」、日本書紀は「天照国照彦火明命」と記されている。『古事記』は火照命(隼人阿多君の祖)とあり、語注には[火が燃え初めて明るくなったのに因んだ名。書記には「火明命」とある。ただし本来は稲穂に因んだ名(穂照命)であったと思われる]と記されている。海幸山幸の神話では、火照(ほでり)命は海幸、山幸が火遠理(ほをりの)命(亦の名、天津日高日子穂穂出見命)で天孫の祖となる。
法蓮が秘して祀る神が天火明命であれば、菟道稚郎子とした心の闇は深い。
法蓮もまた、世間空しと思っていたのかもしれない。

高並神社の秋の神幸祭は、高並川傍の御仮屋へ向かう。御仮屋の神は伝えられていないが、そこに比売大神が祀られていたとすれば、語られない神の逢瀬を秘めた神事となる。
▼御仮屋
御仮屋

高並地区の案内板に法蓮の墓と称するヒメ松(塚)があった。地元の方に場所を聞くと「松が枯れたのでしばらく行っていない」とのこと。山道を少し登ると雑木のなかに案内板があった。

円空の歌に「松過て冬こそ宇佐の神ならは事をつくしの玉祭らせて」(歌番605)
「万世に開か花の主成か御評(御許)の山の守在世」(歌番626)とある。
御許山の神を花の主なりかと詠んだ円空であるが、大分県では円空仏は発見されていない。
画像5

ヒメ塚から、麻生方面に走ると法蓮が見たであろう景色がみえる。
画像4

画像3

瀬織津姫神についての考究書(価格は税込み表示)
風琳堂新刊:菊池展明氏遺稿集「出雲の国の女神」 3,080円
「八幡比咩神とは何か」3,850円・「エミシの国の女神」2,750円・「円空と瀬織津姫」上巻3,740円下巻4,180円 
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円空の和歌-「円空と瀬織津姫」より 

[ 瀬織津姫神]

先日、NHKで「円空 仏像に封印された謎」が放映された。

円空研究で有名な長谷川氏は、円空が亡き母への思いを生涯持ち続けていたと考えている。

ほほえみの円空仏の多くは、現世の労苦が少しでも軽くなるようにと祈りを込めて彫像されたにちがいない。

菊池展明「円空と瀬織津姫」は、円空の信仰を和歌を通じて掘り下げていく力作である。

著者は、円空の彫像思想を解き明かす、もう一つの旅の書であるとも書いている。

菊池氏の文を要約しながら、読んでみる。

円空の初期の神像と考えられているのが、郡上市南並町の神明神社に奉納された寛文三年(1663)作の男女神像である。

円空は、男神像を「天照皇太神」、女神像を「阿賀田大権現」として彫像していた。

▼「円空と瀬織津姫」上巻より
天照皇太神と阿賀田大権現像


記紀の記述を鵜呑みにするかぎり「女神」はアマテラスであることから、五来重氏は、『円空佛』の中で「論外だ」と書いている。

円空は仏教・修験・神道の三世界に精通している。現在、円空が「天照皇太神」を男神として彫ったのは八体が確認されていて、

円空が天照大神を女神ではなく男神とみなしていたのは、彼の確信的認識であったとみるしかないと菊池は述べている。

「とても世ニ長へはてぬ古への神もろ共ニ遊ふ言のは」(歌番一〇一五)の前詞として付された一行に円空の天照「男神」へのおも

いの一端がよく表れている。

   越路火明神(こしのみちほあかりのかみ) 世間万事空シ

ここに記されている「火明神」、つまり『先代旧事本紀』いうところの「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊

(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)」という男系太陽神こそが、円空が天照「男」神として認識して

いる神である。なぜ円空が「空し」とおもうかといえば、この神に注視しない「世間」が、空しいと記している。

歌番五七九には、次のような歌もある。

おそろしや浮世人ハしらさらん普(あまね)く照らす御形再拝(みかげおろがむ)

円空は、おそろしいことに浮世の人は知らないであろうが、ある神の「御形」を自分は「再拝」しているというのである。

しかし、「浮世人」が知らないのは、円空が彫像した男神「天照皇太神」だけではない。円空が神明神社へ奉納した男神

「天照皇太神」は女神「阿賀田大権現」と一対のものとして彫られ、熱田神宮奥の院の龍泉寺では、女神「熱田大明神」が

同じく一対神として彫られている。

円空が、生涯を通じて崇敬していた女神が、阿賀田大権現や熱田明神に秘された神(女神)であり、「瀬織津姫」という神だと

菊池氏は述べている。

以下は、「円空と瀬織津姫」に記された円空の和歌から引用した。

なんるりの開る玉の薬もや伊勢大神の蘇世に(歌番一四四三)
「なんるりの開(あく)る玉の薬もや伊勢大神の蘇(よみがえる)世に」

天照す月のおしなへて深山陰の心清きに(歌番六四五)
「天照す月のおしなべて深山(みやまの)陰の心清きに」

水色の夜の御神の玉ならは照る月と再拝つつ(歌番七六四)
「水色の夜の御神の玉ならは照る月と再拝(おろがみ)つつ」

千和屋振る五十川御そきニも乙女神払在せ
「ちはやふる五十鈴(いすず)川の禊ぎにも乙女神よ祓ひ在(ましま)せ」

祭荒神なお大空の身なりせは花の心の在に任せて
「荒祭神(あらまつり)なお大空の身なりせば花の心の在(ある)にまかせて」

菊池展明氏の遺稿集の2冊目『出雲の国の女神』が風琳堂から出版された。

瀬織津姫神についての考究書(価格は税込み表示)
風琳堂新刊:菊池展明氏遺稿集「出雲の国の女神」 3,080円
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『出雲の国の女神』本日発売! 

[ 瀬織津姫神]

故風琳堂主人の遺稿集、菊池展明『出雲の国の女神』風琳堂、本日発売です。

出雲の国の女神表紙

出雲の国の女神表紙2


瀬織津姫神探求の旅を続けた菊池展明氏は、2014年8月に逝去しました。

遺稿集『八幡比咩神とは何か』の次の舞台は出雲です。

菊池氏は、記紀や風土記を対比して古層の神祀りを考察し、時空を超えて読者を神話の舞台へと導きます。

神話の国、出雲で出雲大神の古代祭祀を語る菊池氏の最後の言葉に触れていただきたく存じます。


▼出雲市朝山神社 宇比多伎山の滝神は、瀬織津姫神です。滝の近くには、桜谷の地名が残っています。

朝山神社雲井滝

瀬織津姫神についての考究書(価格は税込み表示)
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歳神社-杵築市~金毘羅さま 

[ 瀬織津姫神]

歳神社(杵築市太田字俣水1524番地)の紹介です。

主祭神は、大歳神
相殿神 素戔嗚命 天照大御神 月読神 保食神 天忍穂耳命 活津彦根命
    熊野久須毘命 思姫命 市杵嶋姫命 湍津姫命 瀬織津姫命 大己貴命
ご神木 銀杏
由緒 社伝によると歳神社の創建は、文武天皇の三年(699)のこと、常盤の国から安岐の奈多の浜に船は着き、安岐川の清流を上り、この地に奉るという。境内に御船石がある。
相殿に祀られている瀬織津姫命は、明治・大正年間に十八の神社を合祀した中に含まれていたと考えられる。
歳神社鳥居

歳神社仁王像2 歳神社仁王像1

歳神社案内板

歳神社

御船石案内板

御船石

大歳神は、スサノオの御子神との記載がある(『太田村誌』)。
『先代旧事本紀』概説で大野七三氏は、「『古事記』の大年命系譜に命の御子神として天香山戸神(天香山命)と御年神(伊須気余理比賣)が記載されている。天香山命、伊須気余理比賣は饒速日尊の御子であり、大歳神はすなわち饒速日尊のこととなる。大歳神の神名は饒速日尊が出雲、九州方面におられた頃の御名と思われる」と記している。
続いて琴平神社に祀られている大歳命に触れ、四国の金比羅宮は大物主櫛玉饒速日尊であると添えている。

大歳神は、穀神であり、真名鶴が稲穂を落としたという伝承を持つ。『古事記』には、大物主大神が出雲の大国主神に「国作りを成すためには丁重に吾を御諸(三輪)山に祀れ」と神託したと記されている。

『エミシの国の女神』で菊池氏は、「『古事記』によると大歳神とは源初の太陽神の別名であり、年穀の神」とあり、大歳神と朝熊水神を一対の神として考察している。

四国の金比羅宮は、大物主神を祀り、饒速日尊とは記していない。
しかし、全国に一ヵ所だけ埼玉県の琴平神社は、祭神を饒速日命として祀り、金比羅宮から分霊を勧請した滋賀の金刀比羅神社は瀬織津姫神一柱を祀っている(『出雲の国の女神』巻末資料より)。

琴平神社(こんぴらさま) 
埼玉県狭山市、もと成円寺の境内天王山に祀られていた。
大物主命(天照国照日子天火明奇甕玉饒速日命)を祀り、香川県の金刀比羅宮の分社とある(狭山市教育委員会編『狭山市の社寺誌』(狭山市文化財調査報告 9)。

金刀比羅神社(東近江市伊庭町一三一〇)
瀬織津比咩神を祀る。
安政四年(一八五七)伊庭の商人中村新九郎の祖等が讃岐国琴平山金刀比羅宮より分霊を勧請して伊庭蛇塚の地に小祠を建立した(「神社庁」)。金刀比羅宮は大物主神を祀るが、分霊として勧請された神を瀬織津比咩神として祀るのは、ここ一社と思われる。
金比羅神社鳥居

金比羅神社1

瀬織津姫神についての考究書(価格は税込み表示)
風琳堂新刊:菊池展明氏遺稿集「出雲の国の女神」一月一三日発売 3,080円予約受付中  
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愛宕の神ー岩手県遠野市 

[ 瀬織津姫神]

遠野市綾織町上綾織三六ー二の愛宕神社の紹介です。

『上閉伊郡綾織村郷誌』には、「本社の創建は明らかならざれども、近村火災多く人家山野共に焼くること多し、ここに至り里人相協りて、寛治年間、火災の見張所を置けり、その後一社を建立して、瀬織津姫神を祭る。これ本社の始なり」と記されている。岩手県神社事務提要は、「軻遇突智命」とある。全国で遠野市の一社のみ愛宕神を瀬織津姫神と伝えている。

愛宕神社鳥居

愛宕神社鳥居2

愛宕神社拝殿

拝殿中

大分県速見郡日出町に愛宕神社がある。ご祭神は、イザナミ・カグツチの神を祀っている。
古くは辻の堂愛宕大権現とよばれ、中世から愛宕将軍地蔵尊を祀ると伝えられ、宇佐八幡の創基に関わる大神比義がこの大神の地に移り住んだ後、創建したと伝えられている。愛宕神の本地仏を祀る蓮華寺の本尊は、千手観音像である。本堂には将軍地蔵も見受けられるが、観音様のお姿がたまらなくいい。

蓮華寺観音像

大神比義の出目については、諸説あるが、奈良の大神(三輪)から来たという説がある。豊後大野市三重町には、玉津姫が三輪明神のお告げで豊後の国に来たという伝説が語たり継がれている。当ブログ「蓮城寺と有智山神社」に掲載。

 奈良県磯城郡田原本町の多坐弥志理都比古神社の第一殿に天忍穂耳尊、第二殿に天疎向津媛命が祀られており、「社司多神命秘傳」に天忍穂耳尊は即水知津比彦神、天疎向津媛命は即火知津姫神と記されている(『大和志料』中巻)。瀬織津姫神は、天疎向津媛命でもある。各地で水神として祀られるが、火知津姫神という火の神格も併せ持つようだ。

大神比義は、なぜ三輪の神ではなく、愛宕の神を勧請したのだろうか?

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ホノリ岳 

[ 山伝承]

新年 明けましておめでとうございます。

本年もよろしくお願いいたします。 令和三年 元旦

古史精伝『ウエツフミ』吾郷清彦著には鶴見岳をホノリ岳と書いている。
(写真は以前撮影したもの)

鶴見山

青森県の市浦村史編纂委員会発行『市浦村史資料編』上巻の「東日流外三郡誌」には、
次のように記されている。

 神の崇拝は海と山にして、日を男の神、月を女の神とし、星を子の神に配し、川を聖なる親の神とせり。
津保化一族はかくして天然を尊び、その祭祀は今に遺れる石神信仰なり。たとへば海辺の珍石、川辺の珍石を神棚に祀りて是を神とせるは今尚遺れる信仰なり。山川海辺の石を形像よき珍石は神よりの授けものとして崇むは津保化一族の習へなり。亦土をねり、よき人形を造り焼き固めて亡き親を偲ぶ崇行もあり、これをイシカホノリと称しける(後略)。

イシカホノリの文字が、ずっと気にかかっている。
古代の人々は、山には神がいると山自体を崇拝してきた。鶴見山(鶴見岳)には、火男火女神が祀られている。
ホノリとは・・・?と
『ウエツフミ』を読みながら考えている。

私の中の記録の箱にしまっておこう。いつか「やはり・・・そうだったのか」と思う日がくるかもしれない。

菊池展明氏の遺稿集『出雲の国の女神』風琳堂、令和三年一月一三日出版。



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日吉大社と瀬織津姫神(下) 

[ 瀬織津姫神]

大分県杵築市大田に比枝神社がある。
『太田村誌』によると主祭神は、大己貴命で相殿神に国常之命・国狭土命・惶根命・伊邪那美命・瀬織津姫命・天忍穂耳命・瓊瓊杵尊・神産巣日神を祀り、他にも明治期に合祀した神々を祀っている。

比枝神社 鳥居

社伝によると、弘仁元年10月15日(810年、平安時代)、日吉大社の分霊を小野に勧請し、鎮守の神とした。古来、小野の水田の多くは干ばつに悩み、人々は高田の浜に潮くみに出かけ、比枝の大神にお供えし、祈念すると霊験まことに著しく、雨は降り、
五穀は豊かに、人々は飢餓を免れたと語り伝えている。降雨の神徳を持ち、各地で「雨乞い」の神として祀られている神に該当するのは、祭神の中では、瀬織津姫命である。

比枝神社 画像1

比枝神社 画像2jpg

比枝神社 拝殿

比枝神社本殿


日吉大社の最初の神祀りは、「日吉神と后神」の一対の祭祀であったことは先に触れた。

『社寺縁起伝説辞典』戒光祥出版の日吉大社の項には、「故事談」巻五に、住吉明神が日吉明神の繁栄を祈る話や住吉明神は昔、新羅を討ったとき、我が大将軍で日吉明神が副将軍、将軍を討ったときは、日吉が大将軍で我が副将軍であったと託宣して、日吉神の威徳を讃えていると記されている。新羅を討ったときとは、神功皇后の三韓征伐のことと考えられる。つまり、三韓征伐に向かう船に乗ったのは、住吉明神と日吉明神と伝えているのである。
『古事記』には、神功皇后に託宣する神を「天照大神の御心ぞ。亦底筒男、中筒男、上筒男の三柱の大神ぞ」と記されている。
『日本書紀』には、天照大神の御心ぞと託宣した神を撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(ツキサカキイツノミタマアマサカルムカツヒメノミコト)と記されている。この神は、天照大神荒魂とも呼ばれる女神で伊勢内宮の荒祭宮の神である。伊勢から分霊した山口大神宮(山口市)は、天照大神荒魂を瀬織津姫神と案内板にあり、大阪の御霊神社も天照御大神荒御魂坐瀬織津日賣大神(「大阪府神社要覧」S4年)と記されている。兵庫県西宮の廣田神社は、神功皇后伝承とともに天照大御神之荒御魂を撞賢木厳之御魂天疎向津媛命と同神として祀っている。
「故事談」によれば、亦底筒男、中筒男、上筒男の三柱の大神である住吉明神が大将軍のときは、日吉明神が副将軍であり、逆になる場合もあるという。三韓征伐に向かう船に乗る二神の姿が重なる。「故事談」が語るのは、日吉明神=撞賢木厳之御魂天疎向津媛命とも理解できよう。ここに伊勢と日吉の信仰が交わる点が見える。

日吉大社の境内社の岩瀧社に、琵琶湖の竹生島との通底伝説が語られていたが、宝厳寺に伝わる古文書「竹生嶋縁起略」には、「欽明天皇六年、弁財天女が大内に元現して曰く、我は竹生島の弁財天、天照大神分魂なり」という神託があったことが書かれている(『円空と瀬織津姫』下巻)。また青森県下北郡の「箭根森八幡神社再興後記」に「比女大神」は「天照大神分身瀬織津姫命」と記している。

八王子山

八王子山頂上近くの日吉大社摂社には、牛尾宮(八王子)大山咋神荒魂と三宮宮(三宮)鴨玉依姫神荒魂が祀られている。鴨玉依姫神荒魂は、日吉神の一対の神の后神で瀬織津姫命の可能性が高いと考えている。

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日吉大社と瀬織津姫神(中) 

[ 瀬織津姫神]

 日吉大社の瀬織津姫神祭祀を紹介する。境内を流れる大宮川に架かる大宮橋を渡ると走井祓殿社の小さな社がある。境内案内板によると、以前は「波之利祓殿」と呼ばれていたようである。

走井祓殿社

走井祓殿社案内板

『東海道名所図会』上巻には瀬織津姫神一柱と記されているが、境内案内板には祓戸四柱神の神名がある。祓戸大神を祀る瀬田川沿いの佐久奈度神社もはじめは、瀬織津姫神一柱であったが、後に四神にされていることを考えると走井神は、瀬織津姫神であったと思われる。
菊池展明『円空と瀬織津姫』上巻には以下のように記されている。

村山修一編『比叡山と天台仏教の研究』には「走井宮」と記され、その割注には「祓戸神本地弁財天或地蔵或釈迦」とある。天台宗内部においては、走井神=祓戸神(瀬織津姫神)が習合するのは弁財天または地蔵尊、または釈迦如来という認識である。

 国東半島の中央に天台宗別格本山両子寺がある。両子寺近くに走水観音があり、霊水近くに馬頭観音が祀られている。日吉大社の走井神の信仰からの呼び名と考えられるが、神名は語られていない。私は、両子寺の走水神の由来は、日吉大社境内の「走井宮」ではないかと考えている。

 名古屋の熱田神宮「奥の院」の龍泉寺の本尊は最澄作の馬頭観音である。円空は、最澄作の馬頭観音がすでにまつられていたところへ新たにオリジナルな「馬頭観音」を、しかも天照皇大神と熱田大明神の男女像二体ほかを添えて奉納している(菊池展明『円空と瀬織津姫』下巻)。

 他にも東本宮への参道沿いの厳滝社に市杵島姫命・湍津姫神が祀られており、この社と琵琶湖の竹生島とが繋がっているという通底伝説が語られている。三女神の一神の湍津姫神は、滝津姫神や高津姫神、瀬織津姫神と同神と考えられる。弁財天を祀る竹生島のご祭神は、市杵島姫命・宇賀福神・浅井日売命・龍神である。『円空と瀬織津姫』下巻に伊吹山と浅井山の考察が記されているので一読して頂きたい。各地に残る通底伝説は、同じ神を祀る信仰と考えている。瀬織津姫神は滝の神でもある。

岩瀧社

岩瀧社案内板

 日吉大社の東本宮に祀られている大山咋神は、大己貴神勧請以前から祀られていた神で『古事記』に、大年神と天知迦流美豆比売(あまちかるみづつひめ)との間に生まれた神で別名を山末之大主神(やますえのおおぬしのかみ)と伝えられている。

「三輪大明神縁起」は、三輪と伊勢との同体説を語っている。さらに縁起は「当所霊神与日吉山王同体事」として、日吉山王も同体とあると述べている。

つづく

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日吉大社と瀬織津姫神(上) 

[ 瀬織津姫神]

日吉(ひえ)大社と瀬織津姫神

滋賀県大津市坂本の日吉大社は、日吉山王社、山王権現ともよばれ、全国の日吉・日枝神社の総本宮である。祭神は、比叡山の地主神、大山咋神(おおやまくいのかみ)と天智天皇の大津京遷都にともない、翌六六八年(天智七年)、大和の三輪山(大和神社)から勧請した大己貴神。平安京遷都後、都の表鬼門(東北)に位置することから、国家鎮護・方除け・魔除けの神として信仰され、天皇・上皇・藤原摂関家などの参詣も相次いだ。
一方、延暦寺の創立とともに、その鎮守神、天台宗の護法神となり、神仏習合を深めて「山王権現」と称され、延暦寺の発展とともに社運も隆盛に向かう。延暦寺の僧侶が朝廷に強訴(ごうそ)するときには、日吉社の神輿が担ぎだされ、その「神輿振」は名高い。一五七一年(元亀二)、織田信長の延暦寺焼き討ちにより建物・神輿のすべてを焼失するが、豊臣氏の援助で再建された。その後江戸幕府からも崇敬を受けた(『日吉大社』神社紀行)。

▼比叡山
比叡山

最澄(七六七~八二二)は、近江国に生まれ、十五歳で近江の国分寺で得度し、十九歳で東大寺戒壇院において具足戒を受け、比叡山に入り、山林修行をし、天台教学を学んだ。延暦二十三年(八〇四)、空海とともに入唐し、天台のほか密・禅・戒を学んで翌年帰国、大同元年(八〇六)、天台宗を開いた(『社寺縁起伝説辞典』)。

宇佐神宮の歴史年表には、八〇四年に最澄・空海、渡唐安全を宇佐宮に祈る、八一四年、最澄、渡唐を願い、八幡大神、香春神に法華経を講じると記されている。

日吉大社は西本宮と東本宮に分かれている。
西本宮(大宮)大己貴神、宇佐宮(聖真子)田心姫、白山宮(客人)菊理姫尊
東本宮(二宮)大山咋神、樹下宮(十禅師)鴨玉依姫神、牛尾宮(八王子)大山咋神荒魂、三宮宮(三宮)鴨玉依姫神荒魂

▼日吉大社の神輿
日吉大社西本宮神輿

宇佐宮・白山宮神輿


『エミシの国の女神』菊池展明著には、日吉大社の神体山である牛尾山の頂きには、巨大な磐座」である「金大厳」(こがねのおおくら)に琵琶湖の水の民による太陽信仰がみられ、中居国重『日吉神の謎』によれば、牛尾山の頂きの「磐座」には「日吉神と后神」という一対の神がまつられて、それが「最初の日吉大社の姿」だったという。

日吉大社鳥居

 西本宮の宇佐宮のご祭神は、田心姫と記されている。本社から分霊されると別の神名で祀られることがある。日吉大社の宇佐宮も東近江の宇佐神社に勧請されると祭神が湍津姫神に変わる。

▼日吉大社の宇佐宮
日吉大社宇佐宮1

▼宇佐神社(滋賀県東近江市川南町1125)
宇佐神社鳥居
▼境内の由緒案内板
宇佐神社由緒

日吉大社の宇佐宮案内板には、田心姫神(旧称聖真子)は、宇佐八幡宮の比売大神と同神とされ、当社では田心姫神のみがまつられていると記されている。一方、東近江の宇佐神社では、古くは比叡延暦寺領にして日吉山王七社の内、聖真子を勧請し奉り、一社を創建して聖真子権現と称え、産土神と篤く崇敬したとある。ご祭神は、湍津姫神である。
▼境内の三猿
三猿

 「續々群書類従」は、次のように記している。

「第一 諸社一覧 宇佐宮 宇佐郡ニ在リ 祭神一座 湍津姫命」

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宇津神社-広島県呉市 

[ 八十禍津日神]

宇津神社(広島県呉市豊町)

瀬戸内海にある小島の一つ、大崎下島に豊町があり、かつては、琉球(沖縄)使節が将軍の代替わりを祝うため、慶賀使として寛永十一年(一六三四)から、嘉永四年(一八五一)まで十八回江戸上がりをし、御手洗の港に度々停泊したと伝わる。御手洗港の由来は、伊予の大山祇神社から七番目に勧請された宇津神社にある。七番目から七郎大明神とも呼ばれた。

豊町絵図

御手洗港

御手洗港1

宇津神社境内の由緒案内板を読んでみる。

当社の御祭神は、災難(わざわい)の源である罪・けがれを祓い、心身を清める、御神徳の高い神様です。
 
祭神 八十禍津日大神(やそまがつひおおかみ) 神直日大神(かみなおびのおおかみ) 大直日大神(おおなびのおおかみ)

 社伝によれば、第七代孝霊天皇の第三皇子、彦狭嶋王が勅命を奉じ、伊予国に下向して「国家安泰の祈願所」として、伊予国越智七嶋のうち大長嶋(おおちょうじま)に祓戸大神を鎮祭される。鳥羽天皇の御代に菅原氏が九州から京都に向かう途中に嵐に遭い、この港に船泊りした時に「汝、我を祀らば、これより後、災難に遭わず無事に帰国できる」と霊夢を蒙り、参拝したところ道中無事に帰ることができたので、その旨を国主河野親経(こうのちかつね)に伝え、社を再建する。上古の時代から中世にかけて、越智・河野・小早川氏の尊崇の念は特に篤く、各々の武将が挙兵する時には、戦功を収めたので、武運長久・所願成就の守護神として、御神徳・御神威の高さが各地に広まった。(中略)明治十四年(一八八一)、有栖川親王殿下より、当社の御祭神を日本有数のミソギの神として讃える「神祇皇滌於身(じんきみをすすぐにあらわれき)]の御自筆を賜る。
宇津神社 鳥居

宇津神社

宇津神社本殿

宇津神社由緒案内板


『豊町史』(豊町教育委員会)は、「伊弉諾尊の御子八十枉津日神の鎮座ましますによりみたらい島と云う」と御手洗島の名前の由来を書いている。祭神は、当初八十枉津日神の一柱で祀られていたが、建保年中に越智家の先祖が神直日神、大直日神を合わせ祀り、三柱の御神を崇めたとあり、うつくしき光の立ちのぼる社でうつくしき社と称していたのが、詞を略して宇津の社となったと伝わっている。

神道五部書の一書内宮所伝本『倭姫命世記』に「天照皇太神荒魂 亦称(またたたえまつる)荒魂神之時(あらみたまのかみのときは)。是八十枉津日神(コレヤソマガツヒノカミ)也。謂祓戸神者(はらへとのかみとは)。瀬織津比咩(せをりつひめ)是也」と記されている。
▼境内のホルトの木
ホルトの木

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海峡の女神と倭大国魂神 

[ 八十禍津日神]

 大分市佐賀関の早吸日女神社の由緒案内板には、「神武天皇東征の途次、海女、黒砂、真砂の二神が速吸の瀬戸から大蛸が守護してきた神剣を取り上げて天皇に奉献し、その神剣を御神体として天皇自ら古宮の地に奉斎し、建国の請願をたてられたのが創祀である」と記されている。速吸の瀬戸で神武天皇の水先案内人をしたのが、珍彦(うずひこ)で後に椎根津彦の御名を賜った。椎根津彦命は、早吸日女神社境内社の木本社と椎根津彦神社に祀られている。
▼姉妹岩
姉妹岩

姉妹岩の由来

 椎根津彦神社の由緒によるとご祭神の椎根津彦命は、当地より、水先案内人として皇軍に従軍し、しばしば勲功をたて建国の偉業達成の為に全力を尽くし、天皇は論功行賞を行い、椎根津彦を倭国造(やまとのくにのみやつこ)に任じている。
椎根津彦神社由緒

 森浩一『敗者の古代史』によると奈良県天理市の大和神社は、平安時代には代々の神主を大倭(和)国造である倭(大倭)直一族が務め、倭直は伝承では神武東遷に速吸の門(と)(豊予海峡)で海導者として加わった椎根津彦の子孫であるという。
 大和神社HPには、「大和神社のご祭神は、日本大国魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)といい、宮中内に天照大神とともに同殿共床で奉斎されていたが、崇神天皇六年に天皇が神威をおそれて天照大神を皇女豊鋤入姫命をして倭の笠縫邑に移されたとき、皇女淳名城入姫命(ぬなきいりひめ)に勅して、市磯邑(大和郷)に移されたのが創建である」と伝えられている。
▼早吸日女神社
早吸日女神社jpg

画像1

 椎根津彦が祀った海峡の女神は、八十枉津日神(瀬織津姫神の異称神)であった。『八幡比咩神とは何か』で菊池展明氏は、天照大神と並祭されていた倭大国魂神は、伊勢の地主神の男神アマテル(天照)の后神であり、荒祭宮に祀られている天照大神荒魂とされた瀬織津姫神ではないかと考察している。椎根津彦の元名の珍彦(うずひこ)が海中の渦の精霊を祀る海人族と考えれば、神武天皇の水先案内人・海導者としてしばしば勲功をたてたのも合点がいく。椎根津彦が奉斎した神は、八十枉津日神であり、倭大国魂神と呼ばれる神であったと考えられる。
 
 今、吾郷清彦全訳『ウエツフミ』第一巻を開いている。鎌倉時代(一二二三年)大友能直公が、嫡子親秀ほか七名の家臣に命じて編纂したと伝わり、原文は、「豊国文字」というカタカナの神代文字で書かれている。二の七の「オオマガツヒノ尊の禍業」には、「オオマガツヒノ尊と女神クジマガツヒノ尊の御子、八十マガツヒノ尊は大人になるや、直ちに大変醜く穢い黄泉国(よもつくに)に行き、千万の雷鬼(イカヅチガミ)や醜男を煽動して、中ツ国に引き返し、種々の禍業(まがわざ)をなし、雲霧を降らすような妖術を行った。両神は、怒り、頭椎(たぶつつ)ノ剣で八十マガツヒノ尊を刃先鋭く斬り棄てられ、喉を刺して息の根をお止めになった」と記されている。

 早吸日女神社に祀られている海峡の女神である八十枉津日神は、『ウエツフミ』では、オオマガツヒ神の子神とされ、種々の禍業をなす悪神にされており、記紀よりも、もっと悪意のある解釈をされていた。



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出雲の国の女神 

[ 瀬織津姫神]

お知らせ

菊池展明氏の『八幡比咩神とは何か』に続く、第2冊目の遺稿集『出雲の国の女神』が、

令和3年1月13日に風琳堂から発売予定です。価格は2,800円(税別)。風琳堂直販に注文すると送料・振込料無料。

『エミシの国の女神』から20年、舞台は、出雲です。故菊池氏は『円空と瀬織津姫』のあとがきに

「伊勢を語って出雲を語らないとすれば、神の半面にしか光があたっていないということになる」と

書いている。神話の国・出雲で出雲大神の祭祀を考察する菊池氏の最後の文章に触れてほしいと思う。

本の巻末には、『エミシの国の女神』の付録にある瀬織津姫神の神社リスト以降に瀬織津姫神祭祀を

新たに見つけた神社と異称祭祀と考えられる神社の一覧を掲載し、地域に伝わる伝承を県ごとに記している。

出雲の国の女神1

出雲の国の女神2

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三影姫と三体の月の伝承 

[ 神話・伝承]

三影姫の伝承

日出町今畑八幡神社の奥に三影姫の伝説を伝える石室がある。
今畑八幡神社

佐藤悌氏の書いた「二豊の文化」北窓雑記㈠三影姫の伝説(上)の一部を読んでみる。

昔この村に一人に姫があって、どうした事か姫には影法師が三つ出来る。姫はついにこの異常を苦にして、前の小山の中腹に石室を作り、その内に籠って三日三晩香をたいて祈った末、死んだと言い、その石室を今もって姫のために祈念供養しているのである。

佐藤氏は、珍しい伝説に興味を覚えて調べると、この山の前で長い前から、二十六夜待が行われており、二十六夜の夜、この山で最後の盆踊りが終わるとこの石室のすぐ下にある八幡宮にお籠りをして夜明けの月を拝む。するとこの日に限ってお月様が三つになって出るという伝承を拾う。日出付近では横津神社の二十六夜待が有名で川崎平原の山神社でもお籠りと踊が行われていたようである。

『日出町誌』の三夜さまの項は、次のように記している。

「三夜待ち」とか「二三夜講」といわれ、「十七夜講」「一九夜講」とならぶ「月待ち」行事の一つ。このうち「二三夜講」はもっとも広く普及している習俗である。毎月二十三日に行う所も多い。座元(輪番制)に集まり、床の間に掛け軸をかけて飲食をし、雑談をしながら夜ふかしをして月の出を待つ。この夜の月は三つにわかれて上り、やがて一つになるといわれ、これを拝むとマンがよいと信じられていた。
今畑御堂1

今畑石室1


さて三体の月の話は、紀州にもあり熊野権現の由来にも関わる。

熊野権現が神武天皇戌午十二月晦夜半に摩竭陀国より二河の間に飛んで来られた。
この権現は初め日本に来られた時は鎮西彦山、次に四国の石鎚山に、次に淡路の遊鶴羽峯、次に紀伊無漏切目(むろのきりめ)、次に熊野神倉(かんのくら)、次に阿須賀社北の石淵に順々に降臨されて、石淵に「結速玉、家津御子」の二宇の社を造ってお鎮りになった。のちに家津御子だけが熊野川の上流本宮の櫟木(いちいのき)に天降(あまくだ)られ、崇神天皇の御代に別に社殿を造って御遷りになった。このように三神の内一番早く社殿を設けて鎮まりになったので本宮というと伝えている。本宮に御移りになった事を『三巻書』では阿須賀に十三年を過し、壬午年に本宮大湯原(おおゆばら)一位木の本の末に三枚の月形としてお降りになった。その後八年した年に、石多河の住人熊野部千与定という猟師が、射った猪を追ってこの木の下に来て、猪をとらえてそこで一夜あかした朝、木の先に三面の鏡を見つけて、熊野権現の御正体と仰いで崇拝した(篠原四郎『熊野大社』)。

熊野権現は、伝承によれば、摩竭陀国より彦山へ飛んできて最後に熊野本宮旧社地大湯原の一位木に三枚の月形として降りている。日出町で伝承される二十六夜待のように三体の月を拝する信仰と少し重なってくる。大湯原の位置は、熊野川と音無川との間の中州のような場所にある。一位木に三枚の月形として降りたという神は、熊野で語られていない月の神の信仰ではなかっただろうか?
出雲の熊野では、熊野(本宮)山に音無滝神社があり、瀬織津姫神が祀られていた。紀州熊野の音無川の音無滝の下には、かつて滝姫社があり、こちらも瀬織津姫神の祭祀があった。瀬織津姫神は水の神でもあり、月神でもあったと考えている。
今畑八幡神社へ話を戻すと、三影姫の伝承地は、八坂川水源の地でもある。私は熊野の伝承を持ち歩いた修験者や八百比丘尼などが三枚の月の話を伝えたのではないかと考えている。鹿児島では、十五夜の綱引き神事に月神信仰の面影をみる。他にも月神信仰が各地で伝えられているのかもしれない。いつか三枚の月形をみたいと思う。


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湯布院ー宇奈岐日女神社2 

[ 古社]

宇奈岐日女神社の境外社の津闇社の紹介です。

湯布院町川西字山口の津闇社は、饒速日命・宇摩志摩治を祀っています。

津闇社を探して地域の古老の方にどんな神様と伝わっていますか?とお聞きした。

津闇社の神様は、姥神様で宇奈岐日女神社よりも古くから祀られている女神であり、宇奈岐日女神と縁のある神だと

伝えられている。以前の神社跡は、山の上にあり津闇本宮阿弥陀と書かれているものが残っているとのことでした。

由布岳の神は、女神と伝承されている。津闇社に現在、女神が祀られていないのは、津闇本宮のあった山の上から、

女神のみ遷されて宇奈岐日女神として祀られたのかもしれない。そして残された神は、物部氏の租神・ニギハヤヒである。

ニギハヤヒの正式名は、天照国照彦天火明櫛玉饒速日命(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)

である(『先代旧事本紀』)。ニギハヤヒは、原初の太陽神と伝わる。

ホツマのみが、対偶神を太陽と向き合う女神「向津日女命」=天照大神荒魂とされた瀬織津姫神という伝承を記している。

『円空と瀬織津姫』下巻・菊池展明著に日本神道史において「姥神」の規定を受けていた唯一の禊祓いの神が

瀬織津姫という神であるということに触れている。


宇奈岐日女神社で語られていないもう一つの神話が、湯布院町川西にあった。拝殿は、痛みも激しく、本殿のみ、

雨漏りがしないように手当てがされている。津闇社の神様は、伊勢の地主神とも考えられる神様だとお話した。

津闇社のことは、自分しか知らないだろうと語る88歳になるという古老の方に少しでも長生きしてくださいと声をかけて

神社をあとにした。

津闇社鳥居

津闇社参道

津闇社拝殿

津闇社本殿


津闇社鳥居から見る由布岳











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湯布院ー宇奈岐日女神社 

[ 古社]

宇奈岐日女(うなきひめ)神社 (由布市湯布院町川上2220)

ご祭神
國常立尊 國狭槌尊 彦火火出見尊 彦波瀲部鸕鷀草葺不合尊
神倭磐余彦尊 神淳名川耳尊

境内社 厳島社 政正社(天児屋根尊・天種子命) 御年社
境外社 杵社(椎根津彦命)、御霊社(天日方奇日方命)、津闇社(饒速日命・宇摩志摩治)
福摩社(天富社)、道臣命(蹴折【ママ】社)
宇奈岐日女神社鳥居

宇奈岐日女神社ご祭神
▼ご神木の切り株
ご神木の切り株


楼門

▼拝殿
拝殿


▼厳島社
厳島社

▼本殿
宇奈岐日女神社本殿

神殿の周囲は池でかこまれ、池水の神を精霊として祀ったと考えられている。『式内社調査報告書』に、「創立については不詳であるが、『豊後六神社考』によると、景行天皇が速津姫に迎えられ、土蜘蛛、誅滅の時天神地祇皇祖等を祀った社であるという。別当寺を佛山寺といい、寺伝によると康保年間(964~7)に日向霧嶋の霊場をつくった性空上人が、由布、鶴見両山を中心に六観音の霊場を開き、宇奈岐日女神社を修験の霊場にしたとある。これより「六所権現」と称するようになった」と書かれている。宇奈岐日女神社は日女神を祀ると考えられるが、ご祭神に女神の神名はないが、筆頭祭神に「國常立尊」の神名が見える。
富山県高岡市の速川神社は、国常立尊・天照大御神・建御名方命を祀る神社であるが、明治期に瀬織津姫は国常立尊に
変更されたと氏子の方々から聞いていると菊池展明氏(故風琳堂主人)は語っていた。
他に池水の神として私が知る範囲では、静岡県の池宮神社がある。桜ヶ池「池宮神社略記」によると敏達天皇御宇十三年(584)に瀬織津比咩神が出現したと伝わる。和泉式部が性空上人に送った歌に

「くらきより くらきみちにぞ 入ぬべき はるかにてらせ 山のはの月」がある(『拾遺和歌集』一三四二番)。

『式内社調査報告書』記載の境外社の中に津闇(つやみ)社(饒速日命・宇摩志摩治:湯布院町川西1712)が見え、宇奈岐日女神社に物部氏が関わっていたことが考えられる。湯布院町川西には、湯布院盆地が湖だったころ、宇奈岐日女神から命じられ、湖の水を一部を蹴破って干したという伝説の蹴裂権現が祀られている。宇奈岐日女神社の神輿が年に1回蹴裂権現にところにきて3日間留まるという。私には、神々の逢瀬のように思える。

蹴裂権現由来
▼蹴裂権現
蹴裂権現

『大分の伝説』上巻に、由布岳と祖母山が鶴見岳をめぐって争い、恋の勝者が由布岳だったと書かれている。私は、由布岳と祖母山は、女神の山ではないかと考えている。
(宇奈岐日女神社の境内社・境外社の記載は、『式内社調査報告書』を参考にした)
▼由布岳
由布岳

つづく
http://nabaanooyado.blog.fc2.com/blog-entry-449.html

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弥五郎どんと八幡信仰 

[ 古代八幡信仰]

以前、大分合同新聞で連載された『大分の伝説』に神と巨人の話がある。

九州地方に伝わる巨人の名は大人弥五郎で「彼は宇佐八幡の配下に組込まれているようだ。だが、関東に行くと、その巨人の名はダイダラボッチなどとなる。山を作ったり、足跡をつけたりしている点では大人弥五郎と変わりない」と編者の梅木秀徳氏は書いている。以下は、同書に記載されている大分県内で大人伝承地や大人弥五郎の地名が残る地域である。

大人の足跡伝承地
宇佐市大字北字宇佐字大人
安岐市大字下原字大人
日出町大字大神字大人
大分市大在大字北大人
杵築市大字熊野字大人
中津市大字蠣瀬字大人足形
以上は、染谷多喜男氏の調べ

大人弥五郎の地名が残る地域
宇佐市大字別府字弥五郎
国東市大字横手字弥五郎
本匠村大字山部字弥五郎
上津江村大字川原字弥五郎
天瀬町大字女子畑字弥五郎
佐伯市大字狩生字弥五郎谷

大人が宇佐八幡神の従者となった云々の伝説を私はまだ知らない。10年余り、古代宇佐宮を調べてきたが、
やっと比売大神についてほぼ究明できたと思った矢先に弥五郎の伝説が課題として出てきた。
課題と云っても自分の中での研究課題である。ここ最近は、出雲風土記の国引き神話で登場する巨人(大人と呼んでもいいかもしれない)が、狭い国を造ってしまったので「国来(クニコ)、国来」と云って新羅や北陸などから国を引いてくる神話を頭に描いて楽しんでいる。さて弥五郎であるが、南九州にも大人弥五郎が、放生会と絡んで登場している。
▼宮崎県都城市の弥五郎どんの館
弥五郎どんの館
▼弥五郎どんゆかりのものに触れると病気をせず、一年中元気に過ごせるという言い伝えがある。
弥五郎どん
山之口弥五郎どん祭の解説

解説によると隼人の霊を慰めるために始まった放生会で、隼人族の首領・弥五郎どんの大きな人形をつくり祭を行う。弥五郎どんは、祭の主役として御神幸行列の先頭に立ち、神様たちの先導役になって露払い、悪魔祓いをしてくれるとある。

弥五郎どんの行列
▼隼人との戦いの様子・霧島市の姫城
姫城画像jpg

隼人の討伐のとき、現宇佐神宮はまだなく、北宇佐の小山田神社から神輿が出発する。そのとき、白馬が寄り添ったとの伝承がある。『宇佐市史』は、小山田神社の主祭神を八幡大神と記している。
▼小山田神社
小山田神社

隼人を平定し、神霊は宇佐に戻ることになるが、そのまま、小山田神社へは直行せずに御許山の麓の岩崎神社に帰還することになる。岩崎神社の由緒には、以下のように記されている。

元正天皇の養老三年に大隅・日向の隼人が反乱を起こしたので、同四年朝廷は宇佐神宮にその鎮定を祈念した。そこで御神霊を神輿に奉安して両国に行幸され、凶徒を悉く平定されて同七年に還幸されたが、その途路岩崎に荒霊を止められ、以来この地に鎮座された。

▼岩崎神社
岩崎神社
▼本殿
岩崎神社本殿

現在の宇佐神宮の造立は、七二五年、第一殿に八幡大神と称して応神天皇を祀ることに始まる。のちに宇佐国造によって比売大神が八年後の七三三年に第二殿に祀られている。隼人の討伐へ向かうときには、荒魂云々の記載はどこにもないが、荒魂神の働きで平定が出来たのかもしれない。岩崎神社の由緒は貴重であると思う。なぜなら、新社殿が出来ても八年間、宇佐氏の奉じる比売大神を祀ることが出来なかったのは、岩崎神社に留められていたからとも考えられるからである。比売大神については『八幡比咩神とは何か』菊池展明著に詳しく書かれている。

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大分県の瀬織津姫神祭祀-豊後大野市 

[ 瀬織津姫神]

豊後大野市三重町久田字神ヶ辻の神明社の紹介です。

明治期神社明細帳(大分県立図書館所蔵)には、字谷口より、瀬織津姫命・美津波女賣命・速秋津姫命が神明社に明治17年に合祀されたと記されています。

祭神は、天照大御神・素戔嗚尊・大物主神・倉稲魂命が主祭神として祀られています。

大分県内でも瀬織津姫神が異称神で祀られる神社は多くありますが、神名そのままに祀る神社は12社です。

菊池展明氏の遺稿集

『出雲の国の女神』出雲大神と瀬織津姫は、最後の校閲作業中です。

巻末には、全国の瀬織津姫神の祭祀社と異称神名で祀られている神社の一覧表があり、各地の神社伝承も知ることができます。

神明社
拝殿









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宿努神社と虹ヶ滝-出雲 

[ 出雲の神]

出雲市多久谷町の虹ヶ滝は、宿努神社の東側にある。

宿努神社は、多岐都比古命・天御梶姫命を祀り、『神国島根』(島根県神社庁)には、出雲風土記の宿努ノ社多久谷権現とある。
同書には、「社域四囲深山にて老樹木に蔽わるが本社より一町程東に滝あり、天御梶姫命、多岐都比古命を生み給うという伝説のある神域なり」とある。

▼宿努神社
宿努神社
▼本殿
宿努神社本殿

宿努神社は、かなり荒廃しており、虹ヶ滝を見物に行った人でも立ち寄る方は少ないと思われる。しかし、伝説を知ってこの周辺を探索すると出雲大社の神祀りとはちがう、もう一つの出雲に触れることができると思う。
近くには、風土記楯縫郡神名樋山の大船山(327.2m)があり、山上に多岐都比古命の御魂と伝わる石神がある。
平田市の多久神社の由緒には、古老の伝に「阿遲須枳高日子命の后、天御梶日女(姫)命多久村に来坐して、多岐都比古命を産み給う。石神は多岐都比古命の御魂なり、旱に雨を乞えば必ず零らせたまへり」と記している(『神国島根』)。同書には、「大船山麓まで海であった。遥か海の彼方近江国より松本一族を始め大衆が大船大明神の供奉をして多久郷に渡来した」とある。
近江国から来た大船大明神とは、天御梶日女(姫)命のことなのかもしれない。
▼虹ヶ滝
虹ヶ滝

もう少しで菊池展明氏の出雲の遺稿集が出来上がる予定である。天御梶日女(姫)命もこの本に登場する神である。
今日は、菊池氏の七回忌、氏の本を開きながら、偲ぼうと思う。




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安来白鳥ロードと米子水鳥公園 

[ 観光情報]

島根県安来市の能義平野で10月中旬から3月中旬まで多くの白鳥をみかける。そこを白鳥ロードと呼んでいます。

古代、白鳥は、音読みで「こう」、訓読みで「くぐひ」、あるいは「たづ」と呼ばれた。

湿田では「白鳥の来る田は実りが多い」という伝承があるそうだ『白鳥の古代史』芦野泉著。

▼ 落ち穂を食べている様子 

安来白鳥ロード2

▼道路は白鳥優先(^∇^)
安来白鳥ロード3

安来白鳥ロード1

夕方から朝まで白鳥達は、鳥取県米子市の水鳥公園で憩います。
水鳥公園一帯は、コハクチョウの集団越冬地として知られています。観察ホールでは、白鳥が互いに合図をして家族単位で飛び立つことやその時のしぐさ、また風上に向かって飛ぶことなど丁寧い教えていただきました。頭部が黒っぽい色の白鳥は三歳未満の子供で大人になると白くなるそうです。もうすぐ日本海を越えてロシアへと渡ります。
宇宙からの渡り調査
▼正面は伯耆大山
米子白鳥1

米子白鳥2

米子白鳥3


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奈曽の白曝谷 

[ 瀬織津姫神]

明けましておめでとうございます。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。 

只今、菊池展明氏の遺構本、『八雲立つ出雲は滝の国』を今年八月の七回忌までに仕上げようと奮闘しています。 
巻末資料には、全国の瀬織津姫神の異称祭祀リストも含めて掲載予定です。

秋田県にかほ市象潟町小滝字奈曽沢の金峰(きんぽう)神社の紹介です。

大和国吉野より蔵王権現を安鎮しようと暫時の間観想を成し給うたところ、不思議なるかな虚空に紫雲あらわれ、その中から金色の光明を放っている。 これによって小角その光の下に至り、伏して明王尊を下し、一刀三礼して三日三夜かかり彫刻は成就し堂宇を建立する。

金峯神社ご祭神

安閑天皇(あんかんてんのう)
伊弉册命(いざなみのみこと)
事解男命(ことさかのおのみこと)
大日霊命(おおひるめのみこと)
稲倉魂命(うかのみたまのみこと)
八十枉津日大神(やそまがつひのおおかみ)

金峯神社鳥居jpg

金峯神社拝殿

境内案内板jpg
▼奈曽の滝
金峯神社ご祭神の八十枉津日大神は、滝神(瀬織津姫神)の異称です。小滝修験の荒行の場であったと伝えられます。
奈曽の白曝谷1

奈曽の白曝谷
▼鳥海山
秋田県から見る鳥海山

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伊吹山の円空仏 

[ 円空]


滋賀県と岐阜県の県境に日本百名山の一つの伊吹山(1377m)があります。
高山植物には伊吹山固有種も多く貴重な自然の宝庫です。「日本そばの発祥の地」と伝わり、古くから荒ぶる神がいるという伝承があります。
▼伊吹山
伊吹山jpg

『日本書記』宇治谷孟訳の大和武尊の病没の部分を読んでみます。

近江の五十葺山(伊吹山)に、荒ぶる神のあることを聞いて、剣を外して宮簀媛の家におき、徒歩で行かれた。胆吹山にいくと、山の神は大蛇になって道を塞いだ。大和武尊は主神(かむざね)が蛇になったことを知らないで、「この大蛇はきっと神の使いなんだろう。主神を殺すことができれば、この使いは問題ではない」といわれた。蛇をふみ越えてなお進まれた。このとき山の神は雲をおこして雹を降らせた。霧は峯にかかり、谷は暗くて、行くべき道がなかった。さまよって歩くところが分からなくなった。霧をついて強行すると、どうにか出ることができた。しかし正気を失い酔ったようであった。それで山の下の泉に休んで、そこの水を飲むとやっと気持が醒めた。それでその泉を居醒井(いさめがい)という。大和武尊はここで始めて病気になられた。

『日本書紀』岩波書店版は、大和武尊、始めて痛身(なやみますこと)有り。と記して語注にはナヤムは身の萎えるようになる意とあります。正気を失い酔ったように、また身が萎えるようになったという表現で、いかに伊吹山の神の威力が強かったかが想像できます。

この伊吹山に円空さんの足跡をみることができます。

以下は『円空と瀬織津姫』下巻 菊池展明著の各所から引用
寛文六年(1666)の蝦夷地(北海道)行で洞爺湖の中島に奉納されることを願って彫られた、道内唯一の白衣観音の背に円空は自ら、次の銘を刻んでいた。

うすおく乃いん小嶋 江州伊吹山平等岩僧内
寛文六年丙午七月廿八日
始山登   円空(花押)

「江州」つまり近江国の「伊吹山」、そこにある「平等岩僧」という自認が円空にはあった。
「平等岩」は「行導岩」のことで、中川泉三『伊吹山案内』(明治三十八年)は「土人ビヨド岩と云ふ、八合目の辺にある大磐石なり、古へ膽吹山の開祖、三修沙門錬行の処なりしより行導岩の称あり」と説明している。「ビヨド岩」を漢字表記したのが「平等岩」である。
元録二年(1689)三月、円空は伊吹山で、特大の十一面観音(像高180.5センチ)を、また、この観音の守護神とみられる不動尊(像高99.7サセンチ)の二体を彫っていた。円空は、伊吹山の神をおもってこれらを彫像したにちがいなく、では、彼が伊吹山の神をどのようにみていたかは、次の一首にうかがうことができる。

伊福山法ノ泉の湧出る水汲玉ノ神かとそ思ふ(歌番六一二)
(伊福山〔伊吹山〕法(のり)の泉の湧き出(いづ)る水汲む玉の神かとぞ思ふ)

円空は、伊福山=伊吹山には「法ノ泉」が湧出していて、ここにはその霊水を汲む最上の神(「玉の神」)がいると詠っている。円空にとって、仏法の霊泉を司る神、あるいは霊泉そのものである「水汲玉ノ神」がいるのが伊吹山で、この山神(水神)は十一面観音に化身する神だというのが彼の認識である。
円空仏3

円空は、最初期の修験修行にかかわる伊吹山に、晩年期、初志に立ち戻るようにして十一面観音と不動尊を彫像・奉納した。彼が伊吹山(の神)に特別なおもいを抱いていたことは、十一面観音の背に記された多くの「ことば」が如実に告げている。そこには、上段に漢詩、中段に和歌、下段に彫像経緯と、三つのメッセージがぎっしりと記されていた。
観音像背面1

上段
(起句)桜朶(おうだ)の花枝(かし)は艶(えん)にして更に芳(かんば)し
(承句)観音の香力は蘭房(らんぽう)に透(す)く
(転句)東風(こち)は吹送りて終(つい)に笑(しょう)を成す
(結句)好(よ)く筵前(えんぜん)に向ひて 幾場(いくばくかのじょう)を定めん

菊池氏の意訳では、「桜の花枝は艶やかに垂れ下がり、芳しい香りを放っている。伐りだした桜木をおいた室内には、清く芳しい観音の香りが満ちている。(薬師の浄土である東方瑠璃光世界からは)東風が吹きわたってきて、この風に吹かれて観音は笑みの表情となる。筵(むしろ)に立てた桜木に向かって、わたしは、今、観音を彫ろうとしている。生まれた観音をまつるささやかな場を、ここ(伊吹山)に定めんとおもう」―。
円空仏1

円空仏5

円空仏4

ヤマトタケルに討伐されるべく描かれた伊吹山の「荒ぶる神」だったが、この神が即物的に表れた姿を、『古事記』は「白猪」と書き、『日本書紀』は大蛇としていた。『古事記』によれば、タケルは「この白猪は、伊服岐能山(伊吹山)の神の使者である。今殺さずとも、山から帰る時に(山神を討伐したあとに)殺そう」と「言挙(ことあげ)」したところ、伊吹山神は「大氷雨」を降らせてタケルの正気を失わせたとされる。

『記・紀』には、「荒ぶる神」と記されていた伊吹山の神でしたが、円空は、伊吹山でまるで桜神と対話しているように特別な笑みを浮かべた十一面観音を彫像しました。円空のいた太平寺は大富川の断崖をのぞむ厳しい自然景勝地にあり、不動の滝をはじめ断崖の登攀行道岩(平等岩)の行場などがあります。昭和三十九年に伊吹山山中の太平寺の法灯は消えましたが、現在、十一面観音は山麓に再興された観音堂(米原市太平寺)に、同じく桜木で彫られた不動尊は光明院(米原市加勢野)にまつられています。
案内板
▼大平観音堂
大平観音堂

拝観について

大平堂の管理をしておられる方は、円空さんは不動の滝を思って十一面観音を彫ったと思うとお話していました。白洲正子さんや梅原猛氏などが太平観音堂を訪れたそうです。『円空と瀬織津姫』の著者、菊池氏は桜神・「水汲玉ノ神」の十一面観音に秘められた神を天照大神荒魂の瀬織津姫神と考察していました。

伊吹山で猪や大蛇に化身する神・・・
『日本惣国風土記』には
猪川里 中肥也有神号猪神所祭瀬織津姫也 と記されています。この猪川里がどこかは定かではありませんが、瀬織津姫という神が猪神として祭られたという風土記伝承は、記憶しておきたく思います。



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宇治の橋姫と桜谷 

[ 瀬織津姫神]

宇治の橋姫神社(京都府宇治市宇治蓮華47)の紹介です。

由緒
祭神 瀬織津比咩尊
式内 橋姫神社
摂社 住吉神社
▼宇治橋
宇治橋

孝徳天皇の御宇、大化二年(六四六)、南部元興寺の僧、道登勅許を得て創めて宇治橋を架するにあたり、其鎮護を祈らん為、宇治川上流櫻谷に鎮座まします瀬織津比咩の神を橋上に奉祀す。これより世に橋姫の神と唱ふ。今の三の間と稱するは即ち其鎮座の跡なり。後祠を宇治橋の西詰の地に移し住吉神禮と共に奉祀する。
明治維新までは、宇治橋の架換ある毎に新たに神殿を造営し神意を慰めたりしたが、明治三年洪水の為、社地流出してより此の地に移す。住吉神社は、往古は宇治川の左岸櫻の馬場にありし小社なり。彼の源平盛衰記に平等院の北東の方結の神の後より武者二騎云々とあるのも即ちこれなり。尚かの源氏物語宇治十帖のうち橋姫の巻といふ一帖は、これに因みしものなるべし。
橋姫神社鳥居
▼向かって左が橋姫神社 右側が住吉神社
橋姫神社
▼橋姫神社
橋姫神社2
▼由緒
宇治橋姫神社由緒

さむしろに衣かたしき今宵もや 我をまつらん宇治の橋姫 古今集
宇治橋1

「京都府神社誌」には宇治橋の鎮護として宇治川上流櫻谷に鎮座せし瀬織津比咩神を宇治橋三の間の奉祀し、橋姫の神と唱える・古より悪縁を絶つに霊験ありという。と記されています。
▼宇治橋から見る上流の景色
宇治橋から上流

琵琶湖から流れる瀬田川は途中の天ヶ瀬ダムのところで宇治川と呼名が変わります。
宇治川にかかる宇治橋は日本三古橋と云われ、橋姫神社の由緒に出てくる櫻谷は天ヶ瀬ダム近くと伝わります。

 桜谷を瀬織津姫神祭祀ゆかりの地名をとらえていたのは風琳堂主人こと故菊池氏(著書:エミシの国の女神・円空と瀬織津姫・八幡比咩神とは何か)でした。日本三大弁財天を祀る琵琶湖の竹生島は、その琵琶湖を模して造ったと伝わる東京の不忍池に天海僧正は、瀬織津姫神を崇め祀りました。琵琶湖の水神を瀬織津姫神と考察していたのは『円空と瀬織津姫』でした。この琵琶湖の瀬織津姫神祭祀が、瀬田川を下っていくと佐久奈度神社で瀬織津比咩神を桜谷神(興福寺文書では「佐久良太利大神宮」)として祀り、川名が瀬田川から宇治川へと変る櫻谷で瀬織津比咩尊の祭祀(後橋姫神社へ)があり、もっと河口の淀川では船場の御霊さんとして親しまれる御霊神社で瀬織津比売神が祀られています。
 
宇治の橋姫神社のご祭神の瀬織津比咩神は天照大神の荒魂と呼ばれるときのご神名が撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(ツキサカキイツノミタマアマサカルムカツヒメノミコト)です。「撞賢木厳之御魂天疎向津媛命」を祀る、廣田神社公式HPには御凱旋の帰途、武庫の地・廣田の国(芦屋・西宮から尼崎西部)に大御神の『荒魂』を国土の鎮め外難の護りとして鎮め祭ったと、『日本書紀』に記されている兵庫県第一の古社です。と書かれています。

天平三年(703)に成ると伝わる住吉神社最古の縁起書である『住吉大社神代記』には、次のように書かれています。

或記に曰はく、住吉大神と廣田大神と交親(ムツミ)を成したまふ。故(カレ)、御風俗(ミクニブリ)の和歌(コタヘウタ)ありて灼然(イヤチコ)なり。「墨江伊賀太浮渡末世住吉夫古(スミノエニイカダウカベテワタリマセスミノエガセコ)。」是、即ち廣田社の御祭の時の神宴歌(カミアソビウタ)なり。

橋姫神社では、「橋姫の神は古より悪縁を絶つに霊験ありという」と語られています。ただ、この神宴歌を思うと縁結びの神ととらえてもいいのかもしれません


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大井川の神と綾戸國中神社 

[ 瀬織津姫神]

『都名所図会』には京都嵐山を流れる大堰川について以下のように説明しています。

大堰川(桂川)の水上は北丹波より流れて、水尾川・清滝川に落ち合ひ、猿飛・竜門の滝・大瀬等の名ありて、あらし山を帯し、渡月橋を経て、末は梅津・桂の里のひがしを流れて淀川に落つる。
『拾遺集』
大井河川辺の松にこととはん かかる御幸やありしむかしも 貫之
色々の木の葉ながるる大井川 しもはかつらの紅葉とや見ん 忠岑
大堰川
▼渡月橋
渡月橋

大堰川にかかる渡月橋は、承和三年(836)に弘法大師の弟子の僧 道昌によって大堰川の修築が行われ、その時に架設されたのに始まると言われ千年以上の歴史を持つ由緒ある橋である。橋の南に法輪寺があったため、当時は「法輪寺橋」と称されており、渡月橋というのは、後に亀山上皇が東から西へ月が渡る様子を見て名付けたと言われている(案内板)。

渡月橋の北には、大堰川の守り神を祀る延喜式内社の大井神社があります。通り過ぎてしまいそうな路地裏の狭い敷地にある小さな社が大井神社です。
▼大井神社
大井神社

 御祭神 宇賀霊神 
大堰川の守り神、また商売繁盛の神として古来住民や秦氏や角倉氏の信仰も厚いものがあった。創立年月は不詳とするも「三代実録」などに見えるとあり、明治十年には村社へ列格され、現在に至る(案内板より)。平成祭データでは、大井神社のご祭神を宇賀霊神 大綾津日神、大直日神、神直日神と記しています。

松尾大社の伝承では、秦氏が桂川に堤防を築き、「渡月橋」のやや少し上流に大きな堰(せき=大堰→大井という起源)を作り、その下流にも所々に水を堰き止めて、そこから水路を走らせ、桂川両岸の荒野を農耕地へと開発して行ったとのことです。

秦氏の信仰も気になるところですが・・・。

祇園祭の関連で大切な伝承を持つ古社の綾戸國中神社があります。神社でいただいた由緒を読んでみます。

京都市南区久世上久世町にある式内社の綾戸國中神社は、以前、大井社と呼ばれていました。
昔は綾戸宮と國中宮の二社であったが現在では合祀され左に綾戸宮が、右に國中宮が鎮座されている。

御祭神 綾戸宮 大綾津日神、大直日神、神直日神
      國中宮 素盞鳴尊

例祭日 5月巳日 (現在では第二日曜日)
▼綾戸國中神社
綾戸國中神社1

社伝によれば、第二十六代継体天皇十五年(521)に大堰川(桂川)七瀬の祓神として大井社と称して創建され、その後第六十二代村上天皇天暦九年(965)に綾戸社に改称された。社号の額は第七十代後冷泉帝の御宸筆と伝えられている。
國中社は山城の地西の岡訓世がまだ一面湖水の時、素盞鳴尊が天から降り給い水を切流し土地を開いて広々とした平野とされ、その國の中心と思われる所に「符」を遣わし給うた。その「符」とは素盞鳴尊の愛馬天幸駒の頭を自ら彫刻して新羅に渡海する前に形見として遣わし給うたのである。この形見「符」が國中社の御神体である。(中略)日本三大祭のひとつである祇園祭に欠かせないものとして綾戸國中神社の「久世駒形稚児」がある。
▼駒形絵馬
綾戸國中神社駒形

この「駒形稚児」と祇園祭との関係は、素盞鳴尊「國中神社は尊の荒御魂なり。八坂郷祇園社は和御魂なり。依って一体にして二神、二神にして一体で神秘の極みなり。」また、「訓世の駒形稚児の到着なくば、御神輿は八坂神社から一歩も動かすことならぬ。若しこの駒故なくして御滞りあるときは必ず疫病流り人々大いに悩む。」と伝えられている。前述の由来にて駒形稚児はこの駒形を奉持することで神位つまり神そのものとされ、八坂神社境内を南楼門より騎馬のまま参入し拝殿を三巡の後一歩も地を踏むことなく本殿に昇殿し祭典に臨むのである。そして神輿祭、還幸祭では中御座神輿(素盞鳴尊)の先導をつとめるのである。  

『都名所図会』にも綾戸社(あやとのやしろ)は蔵王堂の南にあり。牛頭天皇を祭れるなり(例祭は4月19日なり。六月祇園会祭礼に、馬の頭(かしら)を首にかけて、児(ちご)の騎馬にて当社より毎歳出づるなり)。と書かれています。
▼拝殿
綾戸國中神社拝殿
▼拝殿中
綾戸國中神社2
▼本殿
綾戸國中神社本殿

綾戸社は以前は大井社と呼ばれており、七瀬の祓神を祀り、國中社は駒形の木像(頭部)がご神体で八坂神社の祇園祭は、「久世駒形稚児」の到着から始まることや國中神社は素盞鳴尊の荒御魂を祀っているとのこと等、興味深い由緒が語れていました。
 
ご祭神の大綾津日神は壱岐国神社誌(大正十五年)では、此の神は八十枉津日神の御一名也とあります。また、「神別記」には八十枉津日神・大綾津日神 此の二柱神ハ、初於中瀬、潜滌之時、所成之神。此二神ハ、瀬織津姫之別稱との記載があります。大井川の川神を瀬織津姫の異称とすると綾戸國中神社の創建が521年とのことですから、中臣朝臣金連が瀬田川のそばの佐久奈度神社に瀬織津姫神を祀り祓戸大神とするより、はるか前、七瀬の祓神として大綾津日神という異称祭祀ではありますが、瀬織津姫神が大井川の守り神として祭祀されていたことになります。大分県中津市の瀬織津姫神を祀る闇無浜神社でも七瀬の祓が行われていたと「闇無浜神社由緒と歴史」に記されていました。同由緒には「所謂七瀬は、中津瀬廣津瀬瀧津瀬鵜来津瀬熊津瀬大之瀬廣瀬以上七箇瀬なり。瀬毎に川社を造り八座置(やくらおき)の神檀を構へ、神供幣帛を兼備して、一箇瀬に神官十二人宛六箇瀬これに同じ。七瀬の内、中津瀬を以て本處と為す」とあります。以前は大井神社も瀬ごとに川社があったのかもしれません。もう一つの大井神社(並河)では出雲より来り給う二神が松尾大社から鯉に乗り移り当地に鎮座された。と伝えています。

八坂神社は古くは祇園社、または祇園感神院と称し、八坂神社と称するようになったのは明治維新の時からです。鎮座の年代は諸説ありますが、社伝によれば、斉明天皇の二年(656)とされています。祇園祭は、都に疫病が流行した際、これを怨霊の祟りによるものと信ぜられ、その退散を祈った御霊会に発し、貞観十一年(869)六月七日神泉苑に六十六本の鉾を立て、十四日洛中の男子が祇園社の神輿を神泉苑に送ったに始まるとされています。(「祇園社と町衆の形成」真弓常忠著)。

この祇園祭の山鉾に天照大神を男神像として奉斎するのが、岩戸山です。
▼岩戸山鉾
岩戸山
▼岩戸山鉾案内板
岩戸山2

『円空と瀬織津姫』菊池展明著の上巻で現在、円空が天照大神を男神として彫ったのは八体が確認されていると書かれています。『円空佛』五来重著を引用して天照大神を男神としてあらわすのは、祇園祭の鉾人形しかしらない。円空が天照皇大神を男神として彫ったことについて、五来氏は「論外」「恣意独善」だという。と書かれていました。

 いつか自分の目で天照大神の男神像を見てみたいという願いが今年、叶いました。
岩戸山の天照大神像を写すことはできませんでしたが、確かに男神でした。「都名所図会」にも天照をテンショウとルビがあり、「祇園会細記」にも岩戸山の絵図には、テンショウ大神と記されています。伊勢のアマテラス神とは異なる日神の男神をテンショウさん、またはアマテルさんと呼んでいた神像を祇園祭の岩戸山鉾で観ることができます。
『神道大系』神社編 祇園より
岩戸山4
▼中央が天照大神像(岩戸山鉾でいただいたパンプレットより)、実物はもっと若くてハンサムでした^^
岩戸山祇園

また、『円空と瀬織津姫』下巻では、円空が牛頭天皇像を女神像として彫ったことを紹介しています。『記紀』神話では、荒ぶる神、出雲神話では八岐大蛇を退治した英雄素盞鳴尊ですが、研究者の中には、素盞鳴尊を月神や農耕神として考察されている方もおいでです。
綾戸國中神社の「久世駒形稚児」の駒形ですが、八坂神社の深い信仰に関わる駒形かどうか定かではありませんが、駒形大神という名で記憶に残っています。

『円空と瀬織津姫』の著者菊池展明氏は、岩手県遠野郷においては瀬織津姫神を「早池峯山駒形大神」との異称があると伝えていました。




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錦岡樽前神社―円空仏 

[ 円空]

錦岡樽前神社(苫小牧市宮前町3丁目6-20)の紹介です。

樽前山の麓にある錦岡樽前神社は、円空仏を本尊として祀る稀有な神社です。

▼錦岡樽前神社 背景に見えるのが樽前山
錦岡樽前山神社
円空仏は氏子の方々によって大切に祀られています。
▼円空仏案内板
錦岡樽前山神社・円空仏案内板
▼円空仏
円空仏

『円空と瀬織津姫』上巻/菊池展明著から引用。
明治の神仏分離に伴って、この地方の神社(神体)調べをおこなったのは、札幌神社(のちの北海道神宮)権宮司兼開拓使・菊池重賢だった。彼は『明治五年壬申八月・十月巡回記』の樽前神社の項を、次のように記していた。

樽前神社 木造 仏体 改祭
観音裏ニたるまゑのたけトアリ年号訳兼
祭神瀬織津姫ト申伝有之候由ノ処、従前当社ハ樽前山神ヲ祭ル趣、瀬織津姫ハ海神祓戸神ニテ山海ノ相違、改祭ノ上ハ祭神判然取調可伺事。
勇払 白老 千歳三郡産土神ト奉斎シテ郷社ト被為成度段出願有之。
(中略) 同所漁場出張番家守護神

樽前神社の氏子衆は菊池に対して、「祭神瀬織津姫ト申伝有之候」、またはこの神は「勇払白老千歳三郡産土神」であり「漁場出張番家守護神」であると主張したのである。菊池は、樽前神社は「樽前山神」をまつるもので、「瀬織津姫ハ海神祓戸神ニテ山海ノ相違、改祭ノ上ハ祭神判然取調可伺事」と記している。瀬織津姫を「祓戸神」という性格ばかりではなく「海神」(宗像神)とも認めていたのは、やはり札幌神社の神官ゆえの見識であったが、その海神を山神としてまつるのはおかしいというのが菊池の『巡回日記』に記された主張だった。海神が山神としてまつられるのは阿寒大神ばかりでなく、、全国に諸例多く、むしろ自然のことだが、菊池は「山海ノ相違」云々と、神官にあるまじき不見識をもっていた。
 明治五年の氏子衆の祭神・瀬織津姫という主張は通ることなく、樽前神社は苫小牧市部に遷座し、祭神も「皇朝ノ神祗」にのっとって変更された。この新・樽前神社は樽前山神社となり、現在、壮大な社殿のもとに新たな祭祀がおこなわれている。しかし、同社の「由緒」には、明治五年後の祭神変更・決定のいきさつがさりげなく書かれている。
▼苫小牧 樽前山神社
樽前山神社
▼由緒案内板
樽前山神社由緒


錦岡樽前神社の氏子の方々にお聞きしても瀬織津姫神がご祭神として祀られていたことを知る方がいないのが現状です。
「とまこまいの石碑」高橋稔著には、同社祭神を天照皇大神・大己貴命・少彦命・埴山姫神・倉稲神と刻まれていると書かれています。同書には円空仏で知られる錦岡樽前神社の由来についてはほとんどが不明であるとし、言い伝えによると覚生川中流に祀られていたが、イワシ漁場が繁栄した明治二十年代に人口が増えた覚生に移され、明治三十七年に再び樽前に移設されたとあります。
『苫小牧市史』上巻には、市川十郎筆記として円空作の樽前権現は火山による災害を払うための鎮守としたものであろうと述べています。この祓いの神徳と明治期の氏子の方々の祀る瀬織津姫神のご神名が語られるとき、円空が瀬織津姫という神を樽前山神として感得し、「たろまゑのたけ権現」の観音像を彫ったのではないかと思えてきます。同書には松浦武四郎の『東蝦夷日誌』の中で樽前権現のほかにユウウツ川東に沼有、此の島に弁財天社ありて円空作の地蔵尊を安置す。「風を祈り又海上難風の時祈誓して頗る験有りと聞り。」と書かれたものを紹介しています。円空は自ら「江州伊吹山平等岩僧円空」と名乗っていました。琵琶湖を見下ろす伊吹山に円空は特大の十一面観音(像高180.5センチ)と不動尊(像高99.7センチ)の二体を彫っています。

『円空と瀬織津姫』下巻菊池展明著に円空が伊吹山の神を思って詠んだ歌を紹介しています。

伊福山法ノ泉の湧出る水汲玉ノ神かとぞ思ふ
(伊福山〔伊吹山〕法(のり)の泉の湧き出(いづ)る水汲む玉の神かとぞ思ふ)

同書には
円空は、伊福山=伊吹山には「法ノ泉」が湧出していて、ここには、その霊水を汲む最上の神(「玉の神」)がいると詠っている。円空にとって、仏法の霊泉をを司る神、あるいは霊泉そのものである「水汲玉ノ神」がいるのが伊吹山で、この山神(水神)は十一面観音に化身する神だというのが彼の認識である。

▼樽前山と支笏湖
樽前山と支笏湖
苫小牧市立図書館で樽前山や支笏湖の民話を探しましたが、見当たりませんでした。アイヌの方々の伝承が拾えるといいのですが・・・。円空は蝦夷地に二年間滞在(寛文五年より寛文六年と伝えられる)して仏像を彫ったと伝えられています。円空34歳のときでした。

錦岡樽前神社例大祭が六月十八日に行われます。この日は円空仏がご開帳されます。

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