鬼と仏の国東半島めぐり

国東半島に残る鬼伝承と仏の里を菜花のお宿のおかみが ご案内します。楽しんでいただけたら幸いです。

京都:下鴨神社 

瀬織津姫神

京都の賀茂御祖(下鴨)神社の紹介です。
鴨川と高野川

鴨川と高野川の合流する三角州にある糺(ただす)の森は、古代から清水の湧く所、鴨川の水源の神地として信仰されてきました。室町時代の「諸社根元記」に「浮島の里、直澄(ただす)」と記されており、「糺」の語源の一説として知られています。糺の森の奥に賀茂御祖神社(下鴨神社)があります。平安遷都以降は、皇城鎮護の神、賀茂皇大神宮と称され全国に六十の荘園を持ち、山城国の一宮、全国賀茂神社1300社の総本宮として広く崇敬されてきました。境内の糺の森では古代祭祀復元跡も見られます。
古代祭祀跡2jpg

遺構復元案内板jpg

糺の森の中の河合神社境内の中には神社祀官系累にあたる鴨長明の家が復元されています。家は囲炉裏を中央に人間住むにはこれくらいがいいかなと思わせる五坪程の屋敷です。この地で鴨長明が読んだ歌が下記の歌です。

 「石川や せみの小河の清ければ 月もながれを 尋ねてぞすむ」
▼糺の森の小川
糺の森の小川

鴨長明について案内板

鴨長明屋敷

鴨長明庵

賀茂御祖神社発行の「御蔭祭 みあれ神事の歴史」には以下のように書かれています。

葵祭の名で知られる賀茂祭は、約1400年の歴史があります。前儀として、五月十二日におこなわれる御蔭祭は、それよりも古く、約二千数百年前に始められたとする御生(みあれ)神事が始原の祭りであります。神様がお生まれになった若々しいお力、荒御魂をお迎えする祭事です。その化粧は、日本最古の神幸列と伝えられています。今日でも賀茂祭と対を成す重要な祭事です。

▼賀茂御祖神社の由緒
賀茂御祖神社由緒記

下鴨神社楼門

ご祭神は神賀茂神社の祭神である賀茂別雷神の母の玉依媛命と玉依媛命の父の賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)とあります。「洛北誌」には賀茂御祖神社摂社の御蔭神社の項にご祭神の記載を「御祖神社荒御魂 東殿 玉依媛命 西殿 建津身命」とし、舊社なり高野より高野川を隔てて東方叡山の西麓字御蔭山にあり創立由緒種々の説あれど未だ定かならず

境内由緒には触れていませんが御蔭山にみあれした神は摂社の御蔭神社に祀られ、御祖神社荒御魂神がどのような神の荒御魂であるかは知らされず、口伝で伝えられたのではなかろうかと考えます。推定ですが、神官の末裔の鴨長明はご祭神のことを知っていたかもしれません。
そう思い彼が詠んだ歌をみると小河に映る月神の存在がみえるようです・・・
又、七不思議の一つに「烏の縄手」というものがあります。下鴨神社の案内板には賀茂建角身命は別名「ヤタカラス(太陽という意味)」と呼ばれています。またナワテとは細い(狭い)長い道ということでヤタカラスの神様へお参りする長い細い参道という意味と書かれています。賀茂御祖神社では賀茂建角身命が太陽神と仰がれていたと考えられます。
太陽神と荒御魂神祭祀を考察するとなぜか伊勢に行きつきます。伊勢の荒祭宮に天照大神の荒御魂神が祀られているからです。そして賀茂御祖神社では井上社(井戸の井筒の上に祀られたので井上社といいます)の祭神として瀬織津姫神のご神名をみます。案内板では災難厄除けの神様とあります。出雲では撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(天照大神荒魂)は痔病平癒の神として崇拝され、「大和志料」下巻には、天照大神ノ荒魂瀬織津姫神ヲ祭ルとあります。賀茂御祖神社は以前、賀茂皇大神宮と称されていましたから、伊勢を連想してしまった訳です。
残念ながら、賀茂御祖神社の荒御魂神については資料がなく、不明です。各地の神社伝承を見ると玉依媛命荒御魂なども登場するのでご祭神二神の荒御魂ともとれますが、御蔭神社のご祭神は三柱の神様の記載なのでこれも考えがたいです。

井上社の前の御手洗池は池に湧き出る水あわをかたどったのが「みたらし団子」を連想させ、みたらし団子発祥の地と伝えられ、団子は人の形を表現したものといわれています。井上社の前の御手洗池は葵祭の斎王代が池に手を浸し清める「斎王代御禊の儀」の場所でもあります。今年の御手洗祭は七月二十二日から三十日とのことです。是非、出かけてみてください。
井上社案内板

井上社

井上社本殿

みたらし団子発祥案内板jpg


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牽牛と織女図 

神話・伝承

明日は七夕、年に1回天の川を挟んで彦星と織姫の逢瀬が行われるとの伝説があります。

九州は梅雨前線が停滞しており残念ながら天の川をみることはかなわないようです。

福岡県の大島でも七夕伝説がありますが、京都の地主神社では「棚機(たなばた)」とは古い日本の禊ぎ(みそぎ)行事で、乙女が

着物を織って棚にそなえ、神さまを迎えて秋の豊作を祈ったり人々のけがれをはらうというものと伝わっています。他には京丹後

の天女伝説や琉球にも天女伝説があり、各地で明日は古代の伝説を思い浮かべながら、夜空を眺める方もいるかと思われます。

峰山郷土史(上巻)では「七夕伝説の織姫」に以下のような伝説を紹介しています。

比冶の里に三右衛門という狩人があってある朝、山頂の池(女池・雌池)で水浴する八人の天女を発見し、そのうち一人の羽衣を奪って天女と同棲して、三人の女児をもうけ、農業、養蚕、機織の業をひろめたが、天恋しさにたえかねた天女は、子供から羽衣のかくし場所を聞き出し、大黒柱の中にかくしてある羽衣をとり出すと、軒先の夕顔(干瓢)の蔓をよじのぼり、外から駆けもどって来た三右衛門に「七日々々に会いましょう」と再開の日を約束して昇天して行くという筋書で、七日々々が七月七日と聞き間違えたのは「あまのじゃく」という悪神のいたずらからであった―という。
―また、三右衛門は、天女を慕って夕顔の蔓をよじて天上にのぼり、天女に会い、天の川の架橋を請け負った。しかし、この工事が完成するまでは、天女のことを思い出してはならないという約束であったが、予定の七月七日が来て、橋がほとんど出来上がったとき、三右衛門は、天上にとどまり天女といっしょに暮らせるよろこびに、ふと天女を思い出した。と、たちまち洪水が出て、橋は押し流され、三右衛門は下界へ追いかえされた―という後日物語がある。(中略)
その後、三右衛門の家には代々美女が生まれたので、その美系にあやかるため、毎年七月六日・七日の祭りには遠近をとわず、参詣する人々で賑わったという。また、この天女がはじめて稲(水稲)の栽培を教えたので五穀の神、すなわち田畑の神として祭るのであるという。現在(昭和38年作成の郷土史の為、現在は確かめていません)でも三右衛門の家では2日間に限り、牽牛織女の画軸などが展覧される。

「世界の大遺跡シリーズ10 古代朝鮮のあけぼの」講談社では

1976年に発見された徳興里古墳に高句麗文化の遺産を見ることが出来ます。

江西一帯が古墳の密集地で高句麗王族や貴族と墓域と考えられているそうです。

徳興里古墳で関心を持ったのが「牽牛と織女図」です。図の解説には以下のように書かれています。

牽牛と織女図  徳興里古墳  三国時代高句麗 408年

青色の銀河が大きくうねって流れ、それを挟んで、牛をひく牽牛と犬を連れた織女を描く。年に一度、七夕の夜にしか

会うことを許されなかった2人。多分逢瀬の後であろうか、織女は悲しげに牽牛を見送る。

 七夕伝説が5世紀の高句麗にすでに伝えられていたことは興味深い。

上記のように書かれていましたが高句麗へは中国から伝説が伝わったと考えられます。

▼徳興里古墳 牽牛と織女図
牽牛と織女図

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日出町:”カフェシエル本日OPEN” 

未分類

 日出町深江港近くの回天大神訓練基地記念公園のそばに本日、Cafe Ciel(カフェ シエル)がオープンしました。

オーナーは第二の人生の夢がカフェの実現だったそうです。おいしいコーヒーとジュースと手作りケーキのカフェです。

今日は、多くの友人の方々からも祝福されて笑顔がいっぱいのカフェ空間でした。地元の方々にも愛される場所にしたいと

色々企画を考えているようです。回天記念公園に行かれたら、是非、新たな癒しの空間へお立ち寄り下さい。

ちなみに「シエル」はフランス語で「空」を意味します。回天の「天」から一字をもらって「天」を空(そら)と読んで「シエル」と名付けたそうです。

看板はオーナーが心を込めて書きました。

今日はダイエットは忘れて美味しいケーキをいただきました(^^) ごちそうさまでした。


カフェシエル1

シエルオーナー

シエルjpg

ケーキセット

いちごケーキ

回天基地案内板

回天公園












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速谷神社:広島県 

瀬織津姫神

広島県廿日市市上平良の速谷神社(旧郷社)のご紹介です。

ご祭神 飽速玉男命

当神社HPには以下のように書かれています。

当社にお祀りするは、飽速玉男命は古代、安芸国を開かれた大神です。成務天皇の時代に、安芸国造(あきのくにのみやつこ)を賜り、広く国土を開拓し、産業の道を進め、交通の便を開き、安芸国の礎をつくり固められた安芸建国の祖神です。
速谷神社鳥居
▼楼門
速谷神社楼門
▼由緒
速谷神社由緒
▼神門
神門jpg
▼境内図
境内図
▼拝殿
拝殿
▼拝殿中
拝殿中
▼本殿
本殿jpg
▼境内社:岩木神社
岩木神社
▼境内社:稲荷神社
稲荷神社

鎮座の年代は不明ですが、創祀千八百年余りとなる古社との説明があります。
『府縣郷社明治神社誌料』明治四十五年によりますと古事記傳に「瀬織津姫」、神名帳考證に「速素盞鳴尊」神祇志料に「多支都比咩乃命」とあります。また、地名辞書には速田大明神といわれ、伊都岐島を一宮というのに比し、二宮と見えます。往時は二宮速田大明神と称していたようで、昔市杵島姫神当国に鎮座の時、霊鳥従い来たり当村に留まる。時に岩木翁なるもの村の主たり、霊鳥のために十歩の地をかし以って棲えしむ。後社を建てこの鳥を祭る。今境内社岩木神社は即ち岩木翁を祭れるものなりと。(厳島道芝記、厳島図会)祭日には厳島の神官が来て祭儀を行い舞楽を奏したそうです。

境内の由緒案内板にもご祭神は飽速玉男命一座になっており、そこに瀬織津姫の御神名はありません。
御神名からあくまで推測ですが、安芸国造の奉祭した神は「速玉男命」という男系神と「瀬織津姫」という対偶神が並斎されていたのではなかろうかと思われます(拝殿中にもう一つの御幣がありました)。)『神道大系』でもご祭神は瀬織津姫神でした。 いつの時代か不明ですが、速谷神社の祭祀から、瀬織津姫神は消えてしまいました。雨上がり、古を偲びつつ、参拝した神社でした。  

                                                                                                                                                                                                                                                                              

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木梨神社:兵庫県 

託宣する神

兵庫県の木梨神社の資料紹介です。


明治四十五年に出版された「府縣郷社明治神社誌料」より

兵庫県播磨国加東郡福田村大字藤田の木梨神社(郷社)

ご祭神 
大直日神 八十枉津日神 表筒男命 神直日神 中筒男命 中津少童命 底筒男命 底津少童命 表津少童命

由緒
御神体は金紙幣帛に坐ます由、崇神天皇の御宇、丹波の玖賀耳御笠(クガミミカサ)の渠師謀反せしに依り、日子坐王をして
平定せしめ給ふ時、賊軍逃げて此里に来り、皆野中に身を隠せしかば、野を焼きて賊を亡せしに、皇軍忽病み臥せり、王太く患へ給ふ、時に八十枉津日神の御【言】【兪】あり、此里の東に醎(カン)水湧出づるを(今に醎水の湧出づる虚あり、此を藤田の醎水と云へり)汲み来て飲しめ給へば、病又忽癒えたり、於是王小祠を建て八十枉津日神・神直日神の三柱の神を鎮祭す、蓋是當社の創立なり、其後允恭天皇の皇子木梨軽太子(キナシカルノミコ)播磨に行啓の時、當社に住吉大神海童大神を奉祀し給ふ、因りて宮名を木梨神社と稱す、(後略)

木梨神社の由緒では崇神天皇が丹波の玖賀耳御笠(クガミミカサ)の渠師謀反を平定する時、野に隠れた賊軍を野を焼き亡した後、「皇軍忽病み臥せり、王太く患へ給ふ、」とありますから、相当に悲惨な戦いだったと考えます。
そこで託宣したのが、八十枉津日神で醎(カン)水の湧いている場所を教えます。醎(カン)水とはしおからい水と「広辞苑」には書かれています。この醎水により、たちまち病が癒えたので小祠を建て八十枉津日神・神直日神の三柱の神を祀りました。

『日本書紀』の崇神天皇の条をみてみましょう。
崇神天皇五年に国内の疫の病多く、民(オオミタカラ)は大半は死亡して徳を以って治めることが難しかったとあります。この後、天照大神・倭大国魂の二柱神を天皇の大殿の内に並祭します。しかし、其の神の勢いを畏れて大殿の内で神と共に住むことが出来ませんでした。そこで天照大神を豊鍬入姫命に託して倭の笠縫村に祭ります。日本大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)は淳名城入姫命(ぬたきのいりびめのみこと)に託して祭りますが、髪落ち體瘦(やすか)みて祭ることが出来ませんでした。七年の春にはしばしば災いがあり、八十萬の神をつどいて再度占います。すると倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)に神懸りして「天皇、何ぞ国の治まらざることを憂える。若し、能く我を敬ひ祭らば、必ず當(まさ)に自平(たひら)ぎなむ」と託宣します。天皇は「如此(かく)教ふは誰(いずれ)の神ぞ」を訊ねると「我は是倭国の域(さかひ)の内に所居る神、名を大物主神と為ふ」と答えます。そこで教えのままに大物主神を斎祀ります。しかし、験がなかったとあります。その後、再度祈ります。すると夢に一人の貴人が自らを大物主神と名乗って云われるには「天皇、復な愁へましそ。国の治らざるは、是吾が意(こころ)ぞ。若し吾が児大田田根子を以て、吾を令祭(まつ)りたまはば、立(たちどころ)に平ぎなむ。亦海外の国有りて、自づからに帰伏ひなむ。」と託宣しました。その後、秋八月には穂積臣の遠祖大水口宿禰等の三人が同じ夢の中で神の託宣を聞きます。「大田田根子を以て、大物主大神を祭ふ主とし、亦、市磯長尾市(いちしのながをち)を以て、倭大国魂神を祭ふ主とせば、必ず天下太平ぎなむ」と。このように祭祀を行うと疫病始めて終息して国内がしずまったと書かれています。

私は「若し、能く我を敬ひ祭らば、必ず當(まさ)に自平(たひら)ぎなむ」と託宣した神は木梨神社の由緒にある八十枉津日神と同神ではないかと考えています。

ご祭神の八十枉津日神とは、荒祭宮の神であり、瀬織津比咩神のことであると『倭姫命世紀』の下巻には
下記の様に書かれています。

荒祭宮一座 御形鏡坐
  皇太神宮荒魂。 伊弉諾大神所生神 
  名八十枉津日神也
  一名瀬織津比咩神是也
伊勢内宮8

八十枉津日神を祀る神社はあっても託宣する神として由緒を残している木梨神社は興味深いです。
私の是非、訪ねてみたい神社の一つです。

瀬織津比咩神については『エミシの国の女神』『円空と瀬織津姫』『八幡比咩神とは何か』に詳しく書かれています。

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中津瀬神社:山口県 

瀬織津姫神

山口県宇部市新天町2-2-19の中津瀬神社の紹介です。

中津瀬神社の創建は江戸後期享和元年(1801)と伝えられ、新川(真締川マジメガワ)の疎通の神助を謝し、村里鎮守の神・農耕・水産諸事業の守護神として祀られています。地元の方々からは水神さんとして親しまれています。
度重なる水害や凶作に悩まされていた村人の願いを叶えたご祭神の中に神社名の中津瀬の名と縁の深い神様がおいでになります。

ご祭神
主祭神 綿積見神・瀬織津比賣神・倉稲魂神
配祀神 市杵島比賣神・田心比賣神・湍津比賣神・八王子神・赤崎大明神・金刀比羅神

神社統合により配祀神が祀られました。

「円空と瀬織津姫」下巻菊池展明著には以下のように書かれています。
「熊野那智山結宮並滝本年中行事」の三月二十一日の項には「川中の神供、瀬織津姫ノ神を祭る、那智山滝ノ上の中津瀬にてみそぎ祓いの式典あり」とあり

中津瀬神社は、新天町商店街に接し、境内の池の「真名井水」は良質な美味しし水(参拝に来られていた方から伺いました)と評判がよく遠方からも水を汲みに来られます。境内の狛犬さんは珍しいライオンさんでした。境内はきれいに掃き清められ、地域の方々から大切に守られている神社でした。
中津瀬神社鳥居

中津瀬神社由緒

中津瀬神社狛犬jpg

中津瀬神社扁額

中津瀬神社本殿

中津瀬神社境内社

中津瀬神社水神様

中津瀬神社ご神水


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山口大神宮:山口県 

瀬織津姫神

西の伊勢さまと呼ばれている山口大神宮の紹介です。

山口県山口市滝町4番4号
ご祭神
内宮-(主祭神)天照皇大神
    (配祀神)天手力男命 萬幡豊秋津姫命
外宮-(主祭神)豊受大御神
    (配祀神)天津彦火瓊々芸命 天児屋根命 天太玉命 建御名方神 八坂刀売命
主要祭典 例祭 十月17日 春祭 五月一日

境内神社
内宮別宮 荒祭宮 (荒御魂・瀬織津姫命)、内宮摂社 恵比寿社(事代主命)、外宮多賀宮(荒御魂・伊吹戸主尊) 末社岩戸社(天照皇大神外二座)、末社稲荷社(宇迦之御魂外三柱・末社御門守神社相殿
境内地 
一万七千坪(山林含む)
由緒 
永正十七年(1520)大内義興氏が御柏原天皇より勅許を得、伊勢皇大神宮より御分霊を勧請した神社。内宮に天照皇大神・外宮に豊受大御神を祀る。また伊勢神宮に習い、式年遷宮が定められている。現在の本殿は、平成十二年に御造営されたもの。西の伊勢参り、山口参宮として、古くから県内はもとより、中国地方や九州からの参拝が多い。(パンフレットより)

多賀神社 (おたかさま)
近江(滋賀県)の多賀大社かの御分霊を勧請した神社。御祭神は伊弉諾尊・伊弉再尊の二神。国生の神であることから、延寿・安産の神として古くより親しまれ、さらに縁結び・学業成就・病気平癒等広く信仰をうけている。

高嶺稲荷神社
農産物の守護を始め、商売繁盛・三難消除(病・火・盗)又、芸能 家社海運の神として広く信仰されている。

「山口県神社誌」によりますと山口大神宮は、永正十五年に勅許を賜り、十六年に外宮を同十七年に(1520)に内宮を造営しました。御柏原天皇より「高嶺大神宮」の御宸筆を賜り、さらに御陽成天皇より「伊勢」の勅額を賜る。以来「今伊勢」と称し、山口大神宮と尊称したとあります。神宮の前には道路を挟んで五十鈴川が流れています。伊勢に因んで名づけられた河川の名称と考えられますが、社宝のなかに河原禊図との記載がありますので今の河川がもう少し広く、河原で禊が行われたと思われます。
社殿の後方には鴻の嶺に岩戸社がありますが、当日は行けませんでした。パンプレットには「神話の天の岩戸に由来し、大きな岩窟の中に天照大御神を祀り、入り口に手力男命が祀られている」と書かれています。
山口大神宮鳥居
▼由緒
山口大神宮由緒jpg
▼境内図
山口大神宮境内図
▼古殿地上が内宮
山口大神宮・古殿地上が内宮
▼内宮
山口大神宮内宮
▼外宮
山口大神宮・外宮
▼多賀神社
山口大神宮・多賀神社jpg
▼五十鈴川
山口大神宮前の五鈴川

境内神社の記載から1520年当時、境内神社の荒祭宮で天照大神荒御魂が瀬織津姫神と認識されていました。
伊勢内宮では荒祭宮のご祭神は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)となっています。天照大神荒御魂=撞賢木厳之御魂天疎向津媛命=瀬織津姫神となりましょう。ただ、古代の文献等には荒祭宮のご祭神が瀬織津姫神と記載されてはいません。伊勢から勅許を賜り、勧請された山口大神宮の由緒は、大変貴重なものだと思っています。

山口大神宮を後にして近くに大内氏館跡の龍福寺に立ち寄りました。
▼案内板
大内館跡
▼龍福寺本堂と緋寒桜
龍福寺本堂と緋寒桜
▼緋寒桜
緋寒桜jpg
▼大内義興像
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▼辞世の句の案内板
大内氏辞世の句
▼境内にある岩や蘇鉄は豊後の国から船で持ってきたと書かれています。雨の夜は豊後が恋しいと泣いていたと。
豊後石


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小山田斎宮:福岡県古賀町 

瀬織津姫神

「日本書紀」巻第九 神功皇后の条に

九年の春二月に、足仲彦天皇、筑紫の橿日宮(かしひのみや)に崩(かむが)りましぬ。時に皇后、天皇の神の教に従わずして早く崩りたまひしことを痛みたまひて、以為(おもほ)さく、祟る所の神を知りて、財寶(たから)の國を求めむと欲(おもほ)す。是を以って、群臣及び百寮(つかさつかさ)に命(みことおほ)せて、罪を解(はら)へ過(あやまち)を改めて、更に斎宮(いはひのみや)を小山田邑に造らしむ。
三月の壬申(みずのえさる)の朔(ついたちのひ)に、皇后、吉日を選びて、斎宮に入りて、親ら神主と為りたまふ。則武内宿禰に命して琴撫(みことひ)かしむ。中臣烏賊津使主(なかとみのいかつのおみ)を喚(め)して、審神者(さには)にす。千繒高繒(ちはたたかはた)を以て、琴頭尾(ことかみことしり)に置きて、【言】【靑】(ねぎまう)して曰(まう)さく、「先の日に天皇に教えたまひしは誰(いづれ)の神ぞ。願わくは其の名をば知らむ」とまうす。七日七夜に逮(いた)りて、乃ち答へて曰(のたま)はく、「神風の伊勢國の百傳ふ度逢縣(わたらひのあがた)の拆鈴五十鈴宮(さくすずいすずのみや)に所居す神、名は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)と。(後略)

「日本書紀」には仲哀天皇に託宣した神の名を神功皇后が神主となり、武内宿禰が琴を弾き、中臣烏賊津使主を審神者にしていずれの神かを尋ねています。其の場所が小山田邑の斎宮とあり、岩波書店版の訳注には不詳となっていますが、「宇佐神宮由緒記」には福岡県古賀町小山田ありと記載されています。

▼小山田斎宮
小山田斎宮:鳥居

小山田斎宮1

小山田斎宮2
▼拝殿
小山田斎宮3
▼拝殿の扁額斎宮:拝殿中には忌宮の額があり。
小山田斎宮:扁額
▼本殿
小山田斎宮本殿
▼境内社:鴨瀧神社
小山田斎宮境内社:鴨瀧神社

斎宮の右手には聖母屋敷(個人宅)があり、ご主人様に元斎宮のあった場所に案内していただきました。
木の下に社が一つあり、聖母神を祀っているとのことでしたが、斎宮のご祭神が天照御大神の荒魂と由緒記にもありますのでここでは、聖母神=天照御大神の荒魂と考えられます。ただ、古賀市歴史講座『古賀の昔と今』古賀市立図書館蔵では正八幡縁起を元に聖母屋敷には香椎神社と武内神社があり、香椎聖母大明神と触れています。
▼元斎宮地(香椎神社)
元斎宮地
▼聖母屋敷の武内神社他
聖母屋敷武内神社
以前、武内神社の下から沢山の仏画の描かれた石が多く出たそうでご主人様に見せて頂きました。私の関心は武内神社横の仏画の書かれた石の中心に祀られている十一面観音像。伊勢内宮の天照大神荒御魂として各地で祀られている瀬織津姫神は神仏習合では本地仏として十一面観音や不動明王で現します。素朴な十一面観音様ですが、その存在は大きいと私は考えています。
▼十一面観音像
聖母屋敷:十一面観音像
親切なご主人様とのお話の中で聖母屋敷の角にあった竹がほしいと言われ、差し上げたそうですが、災難にあってすぐに戻しに来られたそうです。他にも多々このようなお話があるそうです。小山田斎宮では勧請の経過は分かりませんが境内社に鴨瀧神社があるのも興味深く思いました。

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有王社:瀬織津日女祭祀 

瀬織津姫神

大分県日田市の夜明ダム近くの有王社の紹介です。

大分方面から夜明ダム横のトンネルを通過してすぐに右折して坂道を上がると左の角に鳥居が見えます。

有王社の由緒は案内板にあるように
「人皇八十代高倉天皇(平安時代末期1168~1183在位)の御代、大蔵永秀の豊後国の関門守護を任として築城の櫛崎城に鎮座の処、宝永二年(280年前)現今の地に御鎮座奉斎す。当時は有王宮と称す」とのことです。

以前、宮司様に他の伝承がないか確かめましたら、「他に伝えられているものはない」とのことでした。

異称で祭られる場合が多い、瀬織津姫神ですが、この案内板をみるとなぜかほっとします。

ご祭神の瀬織津日女神は罪・穢れを大海原の持ち出で給う神との記載があり、大祓いの神としての認識で一柱で祭られています。境内神社に菅原神社と水天宮があります。

▼鳥居
日田市有王社1
▼案内板
有王社2

有王社3
▼拝殿
有王社 4
▼本殿
有王社本殿
▼境内の土俵
有王社6



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ひな祭り 

瀬織津姫神

明日から三月ですね。ひな祭りについて調べてみました。

三月三日の上巳(じょうし)の節句、女児のある家で雛壇を設けて雛人形を飾り、調度品を具え、菱餅・白酒・桃の花などを

供える祭り。

上巳とは五節句の一。陰陽3月初の巳の日、後に三月三日。宮中では、この日、曲水の宴を張った。桃の節句。(『広辞苑』より)

故風琳堂主人(菊池展明氏)の千時千一夜のブログでは、桃の節句のことを愛知県一宮市の真清田神社の紹介で
以下のように触れていました。
http://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/MYBLOG/yblog.html?m=lc&sv=%BB%B0%B7%EE%BB%B0%C6%FC&sk=1

桃花祭は、真清田神が当地にまつられたのが三月三日であるとされ、真清田神社の最重要な例大祭とされます(現在は四月三日)。三月三日という桃の節句は、「人々は三月三日に桃の木で身を祓ひ、それを川(木曽川)に流してゐた」とされるように、その初源は祓いの神事で、真清田神・三明神がいかに「祓い」と縁故深い神であるかがわかります。

縁故深い神とは瀬織津姫神を指しています。「エミシの国の女神」・「円空と瀬織津姫」上下巻・「八幡比咩神とは何か」には
菊池氏が調べた各地に残る瀬織津姫神伝承を豊富に知ることができます。滝神・水神・祓神・航海神等、様々なご神徳が語られています。桃の節句とご縁のある女神様のお話です。
 
我家の玄関には、遠野で頂いた雛人形を飾っています。この表情がなんともいえません。

雛様

今日は、古代史の会の皆様と九州国立博物館で行われている特別展『宗像・沖ノ島と大和朝廷』をみてきました。国宝級の展示もありかなり迫力がありました。

文化交流展示室では、海の守り神の姥媽神の像を見ることが出来ました。
又、宮地嶽古墳の石室から出た冠は高句麗との関連を示すものとの説明もあり、大変興味深かったです。

今回の特別展は3月5日までです。
http://www.kyuhaku.jp/exhibition/exhibition_s46.html(九州国立博物館HP)



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H29:修正鬼会 

2月3日(金)の豊後高田市の天念寺・2月4日(土)に無病息災・五穀豊穣を祈る「修正鬼会」が行われます。
※天念寺についてはhttp://www.showanomachi.com/events/detail/68
※岩戸寺についてはhttp://www.city.kunisaki.oita.jp/soshiki/kanko/syujoonie2017.html
上記のHPでご確認下さい。
▼鬼に扮するのは、六郷満山の僧侶の方々です。
画像18

『神々の祭祀と伝説』上田正昭著には新羅が日本神話には敵対関係だけではなく、新羅を「金銀の宝」があふれている豊穣の国としてみる視覚も強く反映されているということが書かれ、新羅を神功という架空の人物として征伐に行かせたのは、桃太郎が鬼ヶ島を征伐して宝物を沢山持って帰る民話の構造と似ていると考察する。実際、日本人が新羅を人間が住むところではなく、鬼の国と見ている例が、神功皇后を主題にした中世の「社寺参詣曼荼羅」の絵によくあらわれているという。そこでは新羅を征伐している日本人は、きわめて普通の人間の姿をしているのに反して、彼らと戦って負けている新羅人は鬼のように書かれているのである。日本人にとって新羅人は宝を持っている鬼の国だったのである。という内容が書かれていました。
筑紫の磐井の乱・隼人の乱の背景に新羅擁護の姿勢を示す神が登場していました。その神が本ブログで取り上げている「天照大神の荒御魂=撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)」瀬織津姫という神です。この神様のことは「エミシの国の女神」「円空と瀬織津姫」「八幡比咩神とは何か」菊池展明著に詳しく書かれています。

国東半島の鬼会に登場する鬼は、福をもたらす豊穣の神でありますが、上田氏の視点には、日本神話に登場する王権神話の大きな特徴は、他界を訪問することによって今まで置かれてきた弱者の立場を逆転させることが出来ると書く。そういう意味で王権神話における他界とは、主人公の身分を変換させてくれる象徴的空間だったとある。

ブログタイトルの「鬼と仏の国東半島めぐり」で今まで鬼関連を取り上げませんでしたが、上田氏の新羅を宝を持っている鬼の国とする上記の本を興味深く読みましたので「鬼会」の紹介のついでに触れてみました。神仏習合の濃く残る国東半島もある意味では他界の存在する空間なのかもしれません。

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新年のご挨拶 

ご挨拶

笑門来副

旧年中は、拙いブログにお越し下さり、大変ありがとうございました。

本年もどうぞよろしくお願い致します。

▼1月1日:日出町深江港
2017元旦
▼鳥尾の滝(ちょうのおのたき)別名「那智の滝」広島県庄原市:昨年5月撮影
鳥尾の滝

伯耆の鳥上山(島根県奥出雲町の船通山)にある「鳥上滝」に対して比婆山を鳥尾の峰といい、この滝を「鳥尾の滝」と呼ぶそうです。30m余の高さから落下する様から尾長鳥の尾を連想することもできると案内板にありました。

本年も皆様にとって幸せな1年となりますようにお祈りします。 おかみ

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「宇治拾遺物語」小野篁(たかむら)の頓知のお話 

本の話

「今昔物語集・宇治拾遺物語」小林保治訳に隠岐に配流された小野篁(たかむら)の頓知のお話がありますのでご紹介します。

〔内裏の立札〕
今は昔、小野篁という人がおいでになった。嵯峨帝が在位中の時、誰かが内裏に札を立てたが、それには「無悪善」と書かれてあった。帝がお召しになって、「読め」と仰せられたので、篁が「読めは読めますが、おそれ多いことでございますので、申し上げかねます」とお答えすると、「ともかく申せ」と仰せられるので、篁はしかたなく、「さがなくてよからんということでございます。すなわち我が君を呪い申し上げているわけでございます」と奏上した。すると帝が「おまえ以外には誰が書こうか」と詰問なさったので、「こういうことになっては困りますので、初めに申し上げますまいと申し上げたのでございます」と篁が困惑して申し上げる。
〔難題への明答〕
帝が「では、書いてあるものなら何でも読んでみせると言うのだな」と仰せられたので、「何にても読み申しましょう」と篁が御返答になると、帝は紙に片仮名の子という字を十二お書きになられて、「読め」と仰せられた。篁が即座に「ねこの子の子ねこ、ししの子の子じし」と読んでみせたので帝は微笑まれて、何のおとがめもなく終わったという。

小野篁(たかむら)―漢学者・書家・歌人(八〇二~八五二)。八三四年、遣唐副使に任ぜられたが、正使と争って乗船せず、八三八年、隠岐に配流され、「わたの原八十島かけて漕ぎいでぬと人には告げよ海人の釣り船」(『古今集』)の歌を詠んだことは有名。
◇無悪善―無悪を「さが、なし」と訓じて「嵯峨無し」の意とした。◇片仮名ー当時は片仮名の「ネ」が「子」と表記されたので、「し・こ・ね」の三通りの読み方ができた。

「子子子子子子子子子子子子」凡人の私には読めません^^

さて以下は隠岐の島に配流された小野篁の見たであろう景色です。
壇鏡の滝に行く途中の都万の海辺です。
隠岐の島1

隠岐の島2

以下は帰りのフェリーから写しました。

隠岐の島4

隠岐の島3

隠岐の島5

隠岐の島6

隠岐の島7

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松江市八束町大根島の瀬織津姫神祭祀 

瀬織津姫神

「大根島の由来」を島根県八束町島めぐりのパンフレットには以下のように書かれています。

「出雲風土記」には大根島は踞蛸(たこ)島と記され、当時の人は栲(たく)島と呼んでいたという。戦国時代ににはすでに大根島の名があり、江戸時代の「懐橘談(かいきつだん)」には焼(たく)島、俗に大根島とふ、とある。タコ島、タク島が大根島と変化したのか、あるいは、大根の名産地ゆえに名づけられたのか、島名の由来については定かではない。

ちなみに「広辞苑」には栲(たく)をコウゾの古名。豊後風土記に「-の皮を取りて木綿を造る」とありました。コウゾはクワ科の落葉低木で樹皮の繊維から糸や紙を作るそうですから、この地域一帯にはコウゾの木が多く自生していたのかもしれません。
大根島案内板

大分県中津市の八面山の麓に宇佐神宮の摂社で「大根川神社」という社があり、ここには神功皇后が大根を洗ったなどと伝承が伝わり、大根とはなんぞやと思っていましたので町役場で確認しましたら、この由来の記載のあるパンフレットを頂きました。

およそ20万年前の火山活動によってできた島が大根島で、中海に浮かぶ大根島の周囲には弁天島などもあり、隣接江島の工業地帯とは別ののどかな風景が広がっています。パンフレットを見ると他にぼたん園や観光バラ園などもあるようです。
▼三社神社
三社神社
▼三社神社の鳥居近くに大きな石灯籠がありました。島で一番大きいものだそうです。
三社神社石灯籠
▼拝殿
三社神社拝殿
三社神社(ご祭神:大己貴命・事代主命・三保津姫命)は、こんもりとした林の中にありました。瀬織津姫神は三社神社に明治42年、遅江地区から合祀されました。(明治期の神社明細帳より)

以前祀られていた間津崎(まつざき)神社跡は、遅江地区の区民会館敷地内に今も祠が残っています。パンフレットにも小さく紹介されていますが、ご祭神は瀬織津姫命と速秋姫命(ママ)で海上の守神として信仰されていました。現在では竜宮社と豊受社を祀るようです。間津崎神社では明治時代末までは盛大な祭が行われ大勢の人で賑わったといいます。
間津崎神社跡
▼遅江区民会館前から中海を見る
遅江から
▼島の風景:全隆寺の花咲き観音像
全隆寺(曹洞宗)花咲観音像
▼入江にある小さな島(近くで島の名前をお聞きしましたが分かりませんでした)
入江

 島根県立図書館所蔵の明治期の神社明細帳を全て閲覧しましたら、八幡神社比売神の記載は宇佐神宮から勧請や岩清水八幡宮からのものもほぼ玉依姫一色で宇佐の比売神は玉依姫かと思わず思ってしまうほどでした。「古事記」(中)次田真幸著では「玉依姫は神霊の依りつく巫女を表します。」とあります。他に水神はほぼミズハノメ神で統一されていました。
明治期に3~4回ほど全国的に神社の由緒やご祭神を神社庁に各神社から提出させられた時期があります。その中で無格社は村社へそして郷社へと昇格願いが出されましたが多くの神社で瀬織津姫という神はご神名のまま、生き残ることが出来ませんでした。
島根県で気づいたのは、瀬織津姫神の異称として伝わる八十枉津日神は石見国邑智郡日貫村字櫻井山(旧地名)の郷社である大原神社の摂社桜井神社ではご祭神名に八十麻賀津毘神との記載があり、天暦八年に静馬庄左衛門ナル者紀州本宮より勧請一社を建立スとされています。他の祭神構成をみると紀州本宮とは熊野大社のことだろうと推測されます。那智の滝神でもあった瀬織津姫神は八十麻賀津毘神としてご祭神に記載されたのでしょうか?そして重要文化財「佐太神社  佐太神社の総合的研究」発行者 鹿島町立敵視民俗資料館には「天保本」の収集の住吉奏神のなかで

八十狂都毘ノ神との記載のあとに八十狂津日神ハ内宮ノ摂神荒祭りノ宮ニ坐す神直日神大直日神ハ外宮ノ摂神高宮ニ坐す・・・という記載となります。

「エミシの国の女神」菊池展明著には
『倭姫命世記』に「荒祭宮一座 皇大神荒魂(すめらおおかみのあらみたま)、伊奘那伎大神所生神、名は八十枉津日神(やそまがつひのかみ)也、一名瀬織津比咩神是(これ)也」とあります。

また、島根県の明治の神社明細帳の石見国那賀郡今福村(旧地名)の村社八幡宮ではご祭神の一柱として八十狂日神の記載がありました。大分県神社明細牒や三国名勝図会にも散見された瀬織津姫神の異称である八十枉(禍)津日神というご神名は古事記記載の「穢れ繁き国に到りたまふ時の汚垢(けがれ)によりて成れる神ぞ・・」に因があるのかは解明できませんが、各地で枉という字が狂という字に置き換えられるとき、そこに暗い闇を感じます。そしてその闇は島根県にも存在しました。

他に島根県では、瀧神社のご祭神として瀬織津姫神が祀られている例が数社が見受けられたことを報告します。

あと、石見国那賀郡井野村(旧地名)に郷社八幡宮があり、文治元年土佐守重信という郷士が或る夜、夢で林の中に神鏡懸かっているのを見て林の中で見つけ城主に報告し、岩清水八幡宮を勧請して神鏡をご神体として祀ったとあります。この八幡宮のご祭神は応神天皇・神功皇后・湍津姫命です。この湍津姫命は滝津姫命で滝の女神である瀬織津姫神の異称同体の神であります。
八幡神比売神のご祭神名に玉依姫オンパレードが続いたあとだったのでふ~と力が抜けたのを覚えています。宇佐神宮では比売神を宗像三女神としますが、湍津姫命はその中の一神でもありますが、宗像祭祀の中で最重要な神であります。瀬織津姫神という神を全国規模で調べ、本に残した菊池展明氏(故風琳堂主人)は最後に出雲を旅する予定でした。志半ばで逝ってしまった故人に代わり、出雲の地を少しずつ歩いてみたいと思います。

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隠岐の島 壇鏡神社 

瀬織津姫神

隠岐の島の壇鏡神社のご紹介です。
壇鏡神社鳥居

主祭神 瀬織津姫命
配祀  諾浦姫命(峯津神社)・大山咋命(日吉神社)・事代主命(三保神社)、牛頭天王・八幡社合祀
神紋  逆二巴
祭日  例祭 四月1日 祈年祭 3月1日 新嘗祭 12月1日
境内社 弁財天社
由緒・沿革
     創立年月日は詳らかではないが、縁起書の伝える所によると、光山寺第二代住職慶安が一夜夢想あるによって、峻険なる山道を登り行くに源来滝と称する小滝があり、傍の壇の上に一鏡あるを見て之を祀ったのが社名の起こりであると。この光山寺は参議小野篁が隠岐配流中滞在せる寺院なる所から推察すると、凡そ千二百年前の創立と見られる。しかしてこの社霊験あり、しかも社地狭小なるにより、後世この源来滝の下流にある壇鏡滝の畔の現在地に移転したものである。この滝は裏見滝で隠岐島第一の壮観と讃えられ、しかも往古より唯一の修験場としても知られ、祭神は罪穢を清め、凶事の除去特に鎮火の神として霊験があるにより、広く島民一般の崇敬をあつめ国内神名帳所載の神社である。(後略)
壇鏡神社・石碑

壇鏡神社への石段

壇鏡神社拝殿

壇鏡の滝(本殿背後))
▼裏見滝
壇鏡神社裏見の滝
▼滝の裏の崖窟に祀られている虚空蔵菩薩・不動明王像もう一体は不明(光山寺に祀られていたが明治の廃仏毀釈で野ざらしになっていたのを大正時代にここに祀った
虚空蔵菩薩・不動明王
▼壇鏡の滝案内板
壇鏡の滝案内板
▼本殿より下の滝
壇鏡の滝(神社より左下)

▼壇鏡神社の近くには光山寺跡があり、小野篁(おののたかむら)の在所跡。
(案内板より)
創建は宝神年間(770~780)といわれ、平安時代に遠流となった小野篁が過ごした場所といわれています。
小野篁は承和元年(846)遣唐副使となるものの、渡航しなかったことなどの罪により、承和5年(838)に隠岐に遠流の刑に処せられました。配所は、当初島前の海士町豊田でしたが、その後島後に渡りこの光山寺に移ったとされています。その後、承和7年(840)に許されて帰京するまで、ここから小路の満願寺へ仏像を彫るために通う途中、その途中の都万目の里のあこなという女性と恋仲になるなど悲恋伝説を残しています。平安時代の勅撰和歌集「古今和歌集」には、篁が隠岐への船出の際に詠んだとされる和歌「わたの原 やそしまかけて こぎいでぬと 人にはつげよ あまのつり舟」と、隠岐に流されていたときに詠んだといわれる歌「おもきひや ひなのわかれに おとろへて あまのなはたき いさりせんとは」が収められています。古い堂宇は、明治の廃仏毀釈で焼失し、往時を偲ばせるものは礎石のみとなっています。大正9年(1920)、檀家により小堂が建立され、本尊と小野篁作と伝えられている焼け残った仏像が安置されています。また、境内には江戸時代に那久村に配流となった流人の墓があります。
▼小野篁在所跡
在所跡

小野氏は滋賀県大津市周辺を本拠としていましたが、武蔵国一ノ宮の小野神社のことに触れて「円空と瀬織津姫」下巻菊池展明著には円空の時代、武蔵国一宮は氷川神社であったが、同社が「一宮」を名乗るのは中世以後のことで、それまで武蔵国一宮は小野神社であり、ご祭神は『延喜式』神名帳では瀬織津姫神一座で瀬織津姫神は小野氏が奉祭した神とみられるとあります。

壇鏡の滝案内板には小野篁は、赦免となって帰京できるように壇鏡の滝に打たれ、一心不乱祈願したと伝えられています。
遠流となった隠岐で小野篁は小野氏の奉祭する瀬織津姫神という滝神に祈りを込めたと思われます。
壇鏡の滝案内板にはここの水は全国名水百選のひとつで勝者(女神)の水、火難防止の水としても有名で、750年の歴史のある島の闘牛大会や、隠岐古典相撲大会には出場する関係者は必ずこの水を大会前日(深夜)に先を競って迎え、清めて大会に臨む慣習が今もなお続いている。また、野焼き等の火入れの祭には必ずこの水で清め御守として利用するとともに、島内でも長寿者が多いところから長寿の水(万病に効く水)としても重宝がられていると書かれていました。とても島民に崇敬されていることが伝わる神社でした。
 引用 「神国島根」「都万村誌」

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古代八幡信仰ー語られぬ氏族 

古代八幡信仰

宇佐神宮鳥居

古代宇佐宮は、地主の宇佐氏・応神天皇を現した大神氏・秦氏系と伝えられる辛嶋氏の三氏族が主に関わりました。

また、「八幡本紀」には祠官四姓を「宇佐、大神、田部、漆間」と記しています。

「姓氏家大辞典第二巻」には田部氏について以下のように書かれています。

豊前の田部氏 田部勝の裔にして、宇佐八幡の祠官也。「八幡本紀」に祠官四姓を「宇佐、大神、田部、漆間」と見えたり。

日向の田部氏 宇佐大鏡に「諸縣大夫田部宗綱」なるものを載せたり。前項氏の族なり。猶ほ諸縣條参照。又日向纂記に

「直彦宿禰は宇佐八幡宮の総辨官たり、田部姓を賜ふ。・・・」

※辨官とは律令制の官命で太政官に所属し、文書を受理し、命令を下達するなど行政執行をすると広辞苑に書かれています。

「古代氏族系譜集成」には

田部 宇佐八幡宮の祠官家 饒速日命を祖とする物部氏とあります。

宇佐八幡宮の総辨官たり、田部姓を賜ふとあるのは、祠官のなかでもかなりの地位にあったものと思われますが、

宇佐市では物部氏の祀る原初太陽神である饒速日命を祀る神社は1社のみで宇佐神宮祭祀の中からは完全に消えています。

私は物部氏の信仰を原初八幡神に重ねて考えています。「八幡比咩神とは何か 隼人の蜂起と瀬織津姫神」菊池展明著には

宇佐神宮の二大神事である「放生会」に関わる銅鏡鋳造時に火明命の降臨が語られていました。

銅鏡奉納儀礼は途絶えましたが田部氏の信仰の片鱗がどこかで見つかるやもしれず、もう少し八幡信仰を追ってみたいと

思っています。

「古代氏族系譜集成」でもうひとつ面白い記載を見つけました。

大神氏 「三輪高宮家系」(「大神神社史」)・『古代氏族系譜集成』『宇佐神宮史』『姓氏家大辞典』

大神(おおみわ おおが) のちに「おおが」と訓じた 宇佐八幡祠官家

大国主命を祖とし、比義の注には欽明29於宇佐郡菱形山(ママ)祭八幡姫大神


大神比義が五穀を三年断ち、祈ると三歳の童子として現れ、「我は是れ日本人皇第十六代誉田天皇広幡八幡麻呂なり。我名を

ば、五穀霊験威力神通大自在菩薩と曰ふ。」と託宣をしました。

応神八幡神を現した大神比義に姫神信仰が語られるのはなぜでしょうか?

それも欽明時代のこととして・・・

速見郡大神の愛宕神社は比義の勧請と語られていますが、東北に行くと愛宕神社のご祭神は

カグツチではなく瀬織津姫神だそうです。比義の信仰の一端を垣間見たようなはっとした記載でした。

宇佐八幡の姫神は宗像三女神と伝えられ、三女神の中心神がタギツ姫神(滝津姫)=瀬織津姫神です。

詳しい考証は「八幡比咩神とは何か 隼人の蜂起と瀬織津姫神 追録 宗像祭祀の解読」菊池展明著に書かれています。









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『大和志料』にみる瀬織津姫神 

瀬織津姫神

「エミシの国の女神」菊池展明著に『大和志料』の広瀬神社の項に記載の荒祭神社の引用がされています。

荒祭神社
本社の艮(鬼門の方角)にあり。天照大神の荒魂瀬織津姫神を祭る。同抄(「広瀬神社由緒書」)に摂社荒祭神殿一座(昔廊内の本社の艮に在った)。天照大神の荒魂で、この神は祓戸神瀬織津姫神と同体と言う。(引用者現代語訳)

引用の箇所や他の部分を実際に読みたくなり、古書店から取り寄せました。

『大和志料』は奈良県小牧知事が明治二十三年此の地に関する調査を大神神社宮司の斉藤氏に託したもので所陵墓、村里、山川、神社、佛寺、城壘等を詳しく記載したものです。奈良県教育委員会が大正三年十二月に出版し、私が入手した『大和志料』は昭和十八年に改訂されたものです。
大和志料


『大和志料』のなかで新たな瀬織津姫神の祭祀を見つけることが出来ましたのでご報告します。
「エミシの国の女神」の付録Ⅱには奈良県の本殿主祭神をまつる神社は以下の5社を紹介しています。

大将軍神社   吉野郡十津川村小井
菅原神社    吉野郡十津川村村上湯川
水分神社    吉野郡東吉野滝野
水分神社    吉野郡東吉野平野
高生神社    高市郡高取町清水谷

以下は『大和志料』より

祓戸神社 春日神社(三笠山麓)参詣の前にここで祓いを修めとあり、祓戸明神 瀬織津比咩明神是也と1柱で記載あり 上巻

祓處神社 狭井坐大神荒魂神社( 狭井川の南)二の鳥居左側にあり、同社社記に「祓殿宮、瀬織津比賣神」 中巻

多坐弥志理都比古神社神社 多村大字多ノ宮内にあり、   中巻
社司多神命秘傳 
珍子聖津日霎神者天忍穂耳尊。春日郡ニ坐ス宇豆御子神社同體異名也
天祖聖津日霎神者天疎向津媛命。春日郡ニ坐ス高座天照大神々社同體異名也
ウィキペディヤには「多坐弥志理都比古神社神社」は多氏の祖神である神八井耳命を祀ったものとみられると書かれていますが、『延喜式神名帳』には「大和国十市郡 多坐彌志理都比古神社二座」と記され、水知津彦神、火知津姫神の水知津彦神は大宮に祀られる天忍穂耳尊、火知津姫神は天疎向津媛命とあります。若宮の竹田神社には原初太陽神の火明命のご神名も見られ、特に興味深い神社であると感じました。春日郡の天照大神高座神社には白飯之滝があり、どのような旱天でも水が絶えることがないと言われます。神奈備さんHPには同所の岩戸神社にはご祭神を市杵島姫大神とし、1100年前に空海が高座神社参詣の折、大神の託宣によって創建し、日本最古の岩窟弁財天と称せられたという神社の栞を紹介しています。託宣する神・白飯之滝神・弁財天と習合する神を考えると同體異名也と書かれた『大和志料』は興味深いです。

甘樫坐(あまかしにます)神社 下巻
飛島村大字豊浦
八十禍津日命 大禍津日命 神直昆(日)命 大直(日)命
正邪を判定する方法に「盟神探湯」の神事が伝えられています。
詞林采葉ニ「衣ヲホスト云フコトハ甘橿明神トテヲハスルハ人ノトガノ虚実ヲ正シ給フ神ニテ其衣ヲ神水ニヌラシホスト申傳ヘタリ」
甘橿神ニ新誓シ衣ヲ神水ニ濡ラシ之ヲ干シ其ノ曲直ヲ判ズルハ即チ盟神探湯ノ遺法ヨリ出デタルモノナランモ、其ノ方法詳ナラズ。

高角神社  下巻
高見村大字平野
祭神は埴山彦命トスルモ建角身命ナルベシ とありますが、
明細帳ニハ、平野村字高見山 無格社 瀬織津姫トアリ




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託宣する神:宇佐神宮3 

託宣する神

「八幡宇佐宮御託宣集」霊巻五によれば、

金刺宮御宇二十九年戊子。筑紫豊前国宇佐郡菱形池の辺(ほとり)、小倉山の麓に鍛冶の翁有り。奇異の端を帯ぎ、一身と為(し)て、八頭を現す。人聞いて実見の為に行く時、五人行けば即ち三人死し、十人行けば即ち五人死す。故に恐れを成し、行く人無し。是に於て大神比義行きてこれを見るに、更に人無し。但し金色の鷹、林の上に在り。丹祈の誠を致し、根本を問ふて云わく。誰か変を成すや、君の為す所かと。忽に金色の鳩と化り、飛び来って袂の上に居る。爰(ここ)に知りぬ。神変人中を利すべしと。然る間、比義五穀を断ち、三年を経るの後、同天皇三十二年辛卯二月十日癸卯、幣を捧げ、首を傾けて申す。若し神為(た)るに於いては、我が前に顕わるべしと。即ち三歳の少児と現れ、竹の葉の上に於て宣ふ。辛国の城に、始て八流の幡と天降って、吾は日本の神と成れり。一切衆生左にも右にも、心に任せたり。釈迦菩薩の化身なり。一切衆生を度(すくは)むと念じて神道と現れるなり。我は是れ日本人皇第十六代誉田天皇広幡八幡麻呂なり。我名をば、五穀霊験威力神通大自在菩薩と曰ふ。
▼宇佐神宮菱形の池
菱形池

最初に語られる五人行けば即ち三人死し、十人行けば即ち五人死すというお話は「播磨国風土記」の佐比岡にも見られます。

佐比岡 佐比と名づくる所以は、出雲の大神、神尾山に在しき。此の神、出雲の國人の此處を経過(すぐ)る者は、十人(とたり)の中、五人を留め、五人の中、三人を留めき、故、出雲の國人等、佐比を作りて、此の丘に祭るに、遂に和(あまな)ひ受けまさざりき。然る所以は、比古神(ひこがみ)先に来まし、比賣神(ひめがみ)後より来ましつ。ここに、男神、鎮まりえずして行き去りましぬ。この所以に、女神恨み怒りますなり。然る後に、河内の國茨田(まむた)の郡の枚方の里の漢人(あやひと)、来至たりて、此の山の邊に居りて、敬ひ祭りて、僅(はつか)に和(やは)し鎮むることを得たりき。此の神の在(いま)ししに因りて、名を神尾山といふ。

「播磨国風土記」では荒ぶる神が女神で先に鎮座してくれるはずの男神がいないので怒ってしまい、出雲の国の人がここと通ると十人のうち、五人殺し、五人来れば三人殺したとなりましょうか。宇佐の伝承ももしかすると荒ぶる神は女神で男神が祀られなかった為に荒ぶる神になったと考えられないでしょうか?大神比義が現した神は金色の鷹から鳩へと変身します。五穀を三年断ち、祈ると三歳の童子となって現れ、我は是れ日本人皇第十六代誉田天皇広幡八幡麻呂なり。我名をば、五穀霊験威力神通大自在菩薩と云います。そして現在の宇佐神宮の第一殿に祀られるのが、七二五年(神亀二年)のことです。

「播磨国風土記」で語られる出雲の男女神の伝承は、とても興味深いものでした。
別に出雲の神社で荒神についての記載で面白いものを見つけました。
「荒神社」の祠を見つけた方が、太田亮博士曰く、荒氏は「任那帰化族なるべし」と推量されているとし、おそらく南朝鮮の伽耶地方を故郷とする氏族なのであろうとし、古代朝鮮半島の全体もしくは一部をカラ(韓)、カヤ(伽耶)、アヤ(漢)、アラなどと呼んだとすれば、「荒神社」は韓神を祀る祠なのかもしれないと想像してしまうというものです。「播磨国風土記」で枚方の里の漢人(あやひと)が祀ると鎮まったとありますのでこの荒神社の祠について書かれた方の記述はあながち的を得ているのかもしれません。

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託宣する神:宇佐神宮2 

託宣する神

「八幡御託宣集」日本国御遊化の部より引用

始は辛国宇豆高嶋(からくにうつのたかしま) 天国排開広庭(あまつくにおしひらきひろにわ)天皇御宇三十二年辛卯、宇佐郡(のこおり)菱形の大尾山に霊異有るの間、大神比義祈り申す時、天童(あめのわらは)として現れ、言(のた)まはく。

辛国城に始めて八流の幡と天降りて、我は日本の神と成れり。一切衆生(あるほどのひと)、左(そ)も右(う)も心に任せたり。
釈迦菩薩の化身なりてへり。余は略す。

人皇第一主、神日本磐余彦(かんたまといわれひこ=神武天皇のこと)尊御年十四歳の時、帝釈天に昇り、印鑰を受け執り、日州辛国城に還り来たまふ。蘇於峯是なり。蘇於峯は霧島山の別の号なり。

訳注(大隅国にあり、東西の二峰あり、東峰は高千穂または予峰(ほこのみね)といい、西峰は韓国嶽という。両峰は競い立つので、高千穂二神の峰という。


高千穂峰の鉾は、霧島ジオパーク案内板に戦前には雨乞いの神ともされ、鉾の前で祭祀を行っていたと書かれています。
天孫降臨とともにそこに見えてくるのは水を司る神の伝承です。

写真で高千穂峰をみていただきましょう。
高千穂峰1-1

▼霧島ジオパーク案内板
案内板
高千穂峰と御池(「三国名勝図会」には性空上人(910~1007)が御池のほとりで修行中に九頭の神龍が現れ、上人に宝珠を渡したとの記述があります。ジオパーク案内板より)
高千穂峰の下の御池jpg
天孫降臨神籬斎場 (古宮址)ここから見えるのは御鉢部分。
高千穂峰8
▼東霧島神社元宮と高千穂峰
高千穂峰

高千穂峰3
▼高千穂峰
高千穂峰2

高千穂峰4

高千穂峰6
▼天之逆鉾
高千穂峰5

▼桜島を望む
高千穂峰7

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託宣する神:宇佐神宮 

託宣する神

八幡
▲宇佐神宮第二殿
「八幡宇佐宮御託宣集」は八幡宇佐宮の根本縁起が書かれたものです。著者の神吽(じんうん)が正応三年(1290)二月十日頃に起筆し、正和二年(1313)八月頃稿了されたものです。正応三年は神吽の六十歳に当り、八十三歳まで書いて翌年五月に死去しています。第三巻冒頭の序文によれば、この書を編纂着手の時点で、すでに二十余年間にわたる準備期間があったと伝えられています。神吽の生年は寛喜三年(1231)で辛嶋・宇佐両氏と並んで宇佐神宮の神職であった大神氏の家系に属します。応神八幡神に奉祀した司祭者として大神比義がおりますが、神吽は大神比義の第二十一代の家に生誕し、出家して宇佐宮の神宮寺の弥勒時安門坊に住み、学僧として弥勒寺講代を勤めました。
 「八幡宇佐宮御託宣集」の第三巻には八幡神の神託が多くみられます。この第三巻の中心テーマは「日本国御遊化部」で大隅の曽於郡の霧島山に八幡神が天降ってより、小倉山の三神殿の成立までに言及しています。
(以上は、「八幡宇佐宮御託宣集」重松明久校中訓訳の解題部分からの一部引用です。)

私は大切な資料の「八幡宇佐宮御託宣集」は背景に応神八幡神系の神吽が書いたものであるとの認識で読むことが必要と考えています。たとえば、

辛国城に始めて八流の幡と天降りて、我は日本の神と成れり、一切衆生、左も右も心に任せたり。釈迦菩薩の化身なりてへり。(後略)人皇第一主、神日本磐余彦尊御年十四歳の時、帝釈天に昇り、印鑰(いんやく)を受け執り、日州辛国城に還り来たまふ。蘇於峯是なり。蘇於峯は霧島山の別の号なり。
▼硫黄山と霧島山
えびの高原からみる霧島山

▼高千穂の峯からみえる霧島山
霧島山

「八幡神」の依り代が八流の幡として書かれていますが、ここで神吽は八流の幡を詳しく述べていません。大分市の一宮の柞原(由原)八幡宮は以前紹介しましたが、「大分市史」下巻に由原八幡宮縁起絵巻が伝わっています。一部紹介されていますから読んでみます。
上巻
<第一段>仲哀天皇が、新羅国郡兵とともに攻めてきた塵輪を射殺する。塵輪は頭が八つある怪物である。天皇は流れ矢にあたり、神功皇后に、異国への出兵を遺言して崩御する。
<第二段>神功皇后が、三韓に向って出発したところ、その途中に住吉明神が老人の姿で現れて行をともにする。
<第三段>住吉明神が行く手を妨げる大牛を海中に投げ込む。
<第四段>住吉明神が浅瀬にかかった船を置きに押し出す。
<第五段>住吉明神が弓に矢をつがえて岩を貫く。
<第六段>住吉明神がせいのうの枚を舞って、磯童を海中からまねきよせる。
<第七段>神功皇后が竜宮より、磯童が持参した満ち珠・干珠を使って、新羅の軍船を全滅させる。
下巻
<第一段>神功皇后が新羅王の前で戦に勝ったことを岩に書く。
<第二段>神功皇后が凱旋して、筑前国の鵜羽根葺(うばねぶき)の産屋で応神天皇を出産する。
<第三段>応神天皇が崩御し箱崎に戒定会の箱を埋め、しるしの松を植える。そこに赤幡白旗各四枚が、天からたれさがって降りる。
<第四段>応神天皇の霊が宇佐の馬城峯(まきみね)の岩に垂迹し、岩が金色の光を放つ。仁徳天皇が勅使を派遣すると、金色の鷹になって現れる。大神比義(おおがのこれよし)の請いに応じ、三歳の童児になって竹の葉に現れ、われは誉田天皇であると名乗る。
<第五段>和気清麻呂が称徳天皇の怒りにより、両足を切られ、猪に乗って宇佐八幡宮に参詣する。小蛇に足をなめられ足が治り、足立寺を建てる。
<第六段>金亀和尚が宇佐宮に参籠し、神託により賀来社に八幡を勧請し、みこしの行列が通る。

以上のような十四場面の物語は伝承では文亀二年(1502)に絵を藤原光茂が書を第二位の親王と記し、青蓮院宮尊鎮奉親王ではないかと考えられています。

「日本書記」に書かれていた仲哀天皇の琴を弾く話も神功皇后の船の先鋒として軍船を導く荒魂の話もここには語られていない。大分弁でいうと「なしか?」となろう。八流の幡は由原八幡宮縁起絵巻によると赤幡・白旗の各4枚の幡でした。この幡が赤幡の神、白幡の神という太陽神の男神と月神の女神と考察したのが、故菊池展明氏でした。「八幡比咩神とは何か」風琳堂出版には白幡の神が宇佐神宮第二殿の比売大神だと。宇佐神宮では第二殿のご祭神は宗像三女神と伝えられていますが、宗像祭祀の解読についても同書に詳しく書かれています。学僧といわれた神吽が書いた「八幡宇佐宮御託宣集」にはどのような託宣が書かれているのでしょうか?(つづく)

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国東半島の瀬織津姫神Ⅱ 

瀬織津姫神

国東半島は神仏習合時代の姿が色濃く残っている半島です。
六郷満山の各寺院の背後には六所神社や身濯神社の名が見受けられます。豊後高田市の真玉川の上流には無動寺の鎮守の身濯神社で「八十猛津日命」のご神名がありますが、明治十五年の「大分県神社明細牒」には「八十枉津日命」と記載されております。「八十枉津日命」は瀬織津姫神のことです。「円空と瀬織津姫」上巻には福島県の福島大神宮の境内末社(かっては摂社)の川濯(かわそ)神社の紹介があり、「女性の守護神」「安産の神様」として信奉者が多いとあります。また、『福島村史』には祭神の瀬織津姫命は「宇宙清掃を司る女神」と壮大な讃辞が伝えられていることを紹介しています。瀬織津姫神の「禊神」という神格が川濯神社という社名によく表れている(身を川で濯ぐ→川濯)とは「円空と瀬織津姫」菊池展明著に書かれていることですが、国東半島の地図を見て身濯神社という社名を見つけて行ってみたらと声をかけてくれたのが著者の菊池氏でした。当時はご祭神を知らないで神社の社名で瀬織津姫神祭祀を見つける菊池氏に大変驚いたものです。あとで気づきましたが同書では伊勢の五十鈴川の別名は御裳濯(みもすそ)川でそそ=濯の女神と触れていました。
▼無動寺鎮守:身濯神社
身濯神社鳥居

42-1身濯神社由緒

『倭姫命世記』には
荒祭宮一座〔皇太神宮ノ荒魂。伊邪那伎大神所生神(アレマス)。八十枉津日命と名づくる也。〕一名は瀬織津比咩神是れ也。御形は鏡に在します。
鎌倉時代に成る『『倭姫命世記』ですが、ここには神宮祭祀の秘伝的古伝承がみられる箇所です。(『八幡比咩神とは何か』菊池展明著より)

伊勢内宮の別宮の荒祭宮はご祭神を「天照坐皇大御神荒御魂」と祭神表示されていますが、山口県の山口大神宮、〔永正17年(1520)に大内義興が朝廷に奏聞して勅許を得、伊勢皇太神宮のご分霊を勧請した神社である。(山口大神宮HPより)〕では荒祭宮のご神名を荒御魂:瀬織津姫命と表示しています。
▼伊勢別宮:荒祭宮
荒祭宮
▼山口大神宮:荒祭宮の表示
山口大神宮由緒
遠方に話が飛びましたが無動寺に戻ります。
▼無動寺不動明王像
無動寺不動明王像

無動寺の由緒では養老年間の創建にして本尊は不動明王なりとあり、鎮守六柱神のご神名で相当するのは「俗ニ滝権現ト称ス」と「西国東郡誌」に書かれているようにこの不動明王が滝神でもある瀬織津姫神(八十枉津日命)と神仏習合した姿となりましょう。無動寺の案内板には不動明王様は慈悲相を表し、霊験あらたかな像と伝えられています。

豊後高田市の熊野磨崖仏は国の重要文化財に指定されている磨崖仏で今熊山胎蔵寺奥の巨大な岩壁に不動明王と大日如来が刻まれています。
熊野磨崖仏

『エミシの国の女神』菊池展明著に

平安後期の学者・大江匡房の著である『江談抄』に「熊野三所は伊勢太神宮と同体である。本宮ならびに新宮は太神宮、那智は荒祭である」(引用者意訳)という認識を書いていた。

『長寛勘文』に、熊野権現は、伊勢太神宮と其名異にして、其神は同一であるとし、また熊野本宮は伊勢の内宮であり、新宮は外宮、那智は荒祭宮であると勘申したことが記されている。(岩田貞夫「皇大神宮別宮 伊雑宮謀計事件の真相」)

那智の滝神が荒祭宮の神と同体であるという説を紹介していました。熊野磨崖仏の不動明王は那智の滝神である瀬織津比咩神の神仏習合した姿であり、大日如来には熊野の日神である太陽神の姿が投影されていると思われます。平安時代末期の作と伝えれている熊野磨崖仏にも熊野修験の奉斎した神の姿がよく見えるようです。

「円空と瀬織津姫」菊池展明著の上巻には以下のように書かれています。

円空は宇佐八幡の大元神ともいえる御許山の神(八幡比売神=宗像女神)について、次のような歌を残している。

万世に開は花の主成か御評(許)の山の守在世
(万世に開(さく)か花の主なるか御許(おとも)の山の守在世(まもりましませ)

白鷺や池主の玉ならは御許山の神かとそ思ふ
(白鷺(しらさぎ)や池主(いけのあるじ)の玉ならば御許山の神かとそ思ふ

江戸時代の僧である円空の足跡を追いながら、瀬織津姫神の祭祀を明らかにしていくという「円空と瀬織津姫」上下巻により私は多くのことを学びました。生前菊池氏からは同書を心血注いで書いたとお聞きしています。

詳しくは宇佐神宮の謎の比売大神を書いた
「八幡比咩神とは何か」菊池展明著に譲りますが宇佐神宮の第二殿に祀られている比売大神は国東半島では身濯神であり、不動明王とも習合する女神となります。多くの瀬織津姫神の神社伝承を調べて本に残してくれた菊池氏に深く感謝します。

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御霊神社:大阪市 

瀬織津姫神

大阪市中央区淡路町の御霊神社の紹介です。
昨年12月発売した『八幡比咩神とは何か』菊池展明著の写真挿入のために関西に行き、御霊神社に立ち寄りました。
御霊神社は船場のごりょうさんとして親しまれ、崇敬されている神社です。
神社のHPには以下のように記されています。

ご祭神
天照大神荒魂(瀬織津比売神)
津布良彦神(旧摂津国津村郷の産土神)
津布良媛神(旧摂津国津村郷の産土神)
応神天皇(広幡八幡大神)
源正霊神(鎌倉権五郎景政公霊)

創祀は、平安時代に書かれた『文徳天皇実録』の嘉祥三年(850)に八十嶋祭の祭場とされた圓神祠にはじまります。
この圓神祠こそが、御霊神社の始まりで、千年以上の歴史がうかがえます。

圓江は禊祓する場所であり、ツミ、ケガレは川へ流しただけでは徹底しないため、都人たちは遠路わざわざ難波津までやってきて、自らの息を吹きかけてケガレを移した人形を海に流しました。

瀬織津姫神を祓いの神としたのは中臣金で天智八年(669)のことと記憶していますが、御霊神社は祓いのご神徳を語るも瀬織津姫神を天照大神荒魂として祀っている神社です。神様を総称して呼んでいるのかもしれませんが、ごりょうさんの響きがとてもいいです。
御霊神社鳥居

御霊神社拝殿

御霊神社由緒1

御霊神社由緒2
拝殿横の松之木神社横には小さな不動明王像が大切に祀られており、入口近くの石碑には観音霊場の碑が建っています。瀬織津姫神は十一面観音や不動明王とも習合しますので旅の疲れを忘れてほっとしたのを覚えています。
御霊神社松之木神社

御霊神社不動明王像

御霊神社 11面観音像

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豊後大野市の瀬織津姫神 

瀬織津姫神

豊後大野市朝地町板井迫736の瀬織津姫祭祀は、故菊池氏の調べた資料の全国祭祀リストに記載されている神社です。大分県内で他には中津市の闇無浜神社・杵築市大田の日枝神社・日田市の有王社などがあります。
▼神明社
神明社1

リストには合祀されたことが書かれていましたが、郷土資料を見てもどこから合祀されたものか解りませんでした。
数年前、明治期の神社明細牒で字妙見からと書かれたものが見つかりましたので周辺の方にお聞きしてあるお宅を
お訪ねしました。神社らしきものは現存しませんが、以前は裏の岩のところに何体かの像が祀られていました。その像が
下の写真です。
画像1

今回、もう一度訪問をして御神像の写真を写させて頂き、ブログに掲載してもよいとの許可をいただきましたので
ご紹介出来ました。このお宅のご先祖は、大友氏の家来で戦いに行く時には必ず一緒に持っていかれてこのご神像に武運長久の祈りを捧げたそうです。
ご先祖様がこの地に来られたのは、この地が妙見だったからと以前お聞きしたことがあります。400年前と云われていましたが当主の方は瀬織津姫神というご神名はご存知ではありませんでした。妙見という地に住まわれて守護神として祀られてきました。亀に乗って剣を立てている姿は確かに勇ましいものがあります。妙見神として瀬織津姫神のご神名を残しているの神社は他にも宮崎県の衾田八幡宮の境内社で見受けられます。下記の像はご神像としてご紹介出来る数少ない像の一つだと思っています。
神明社妙見神像


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「八幡比咩神とは何か」菊池展明著より 

瀬織津姫神

「八幡比咩神とは何か」菊池展明著に紹介されている神社です。

豊後高田市真玉町の真玉川沿いに香々地町方面に走ると左手に八面宮の鳥居があります。

明治初期の「旧藩神社明細牒」大分県立図書館所蔵には城前 八面大明神とあり

ご祭神は少童命・瀬織津姫命・速秋津姫命の三柱の神様と記載されています。

ところが明治十五年「西国東郡神社明細牒」になるとご祭神は八面に合わせて次のように変わります。

天之狭土神・国之狭土神・天之狭霧神・国之狭霧神・天之闇戸神・国之闇戸神・天之惑女神・天之惑子神

この露骨な祭神の改名はどのような意図があったのでしょうか?

又、真玉川の上流には身濯神社や六所神社のご祭神として瀬織津姫神は異称である八十枉津日神で

祀られていることをお伝えします。明治という時代は、全国各地で廃仏毀釈やご祭神の改名等、神仏にとっても

氏子様にとっても本来の真の姿が見えなくなった時代でした。大分県立図書館には

明治初期の「旧藩神社明細牒」~明治44年「神社明細牒」まで神社を調べた記録が残されているので

時代を追ってご祭神の変化を知ることが出来たのですが他の県では、このような形では公開されていません。

各地の神社調べが明治期以前まで遡ることができれば、もっと多くの瀬織津姫神祭祀が探せると思っています。

では八面神社をご紹介します。

八面宮鳥居

八面宮拝殿
八面神社本殿
八面宮本殿2
本殿の下の石碑には八面大明神として祀られたのが元正天皇の御宇の神亀元年であることを告げています。
神亀元年といえば、724年のことです。本来はこの場所ではなく、もっと川沿いに社殿があったようですが、元禄の洪水の時に流され、社殿が遷されました。
八面宮本殿
八面神社の変えられたご神名は、現在氏子の方々により、本来のご祭神に戻され、祀られています。



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笠沙の岬と瀬織津姫祭祀 

瀬織津姫神

あけましておめでとうございます。

本年もよろしくお願いいたします。

昨年12月に風琳堂から出版した『八幡比咩神とは何か 隼人の蜂起と瀬織津姫』菊池展明著には

心暖まる激励やご注文を沢山いただき、大変ありがとうございました。

今年もゆっくりと古代史を学ぶ旅を続けて行きたいと思います。

宜しくお願い申し上げます。

昨年は、本の中に挿入する写真を写す為に鹿児島へ随分と走りました。

本日は笠沙の岬に残る太陽神である火明神と月(水)の神の瀬織津姫神祭祀の紹介です。

鹿児島県神社庁のHPには県内の神社のご祭神について詳しく載せていますが、

現地に行って調べると別の発見があって楽しいです。

まずは、『八幡比咩神とは何か 隼人の蜂起と瀬織津姫』にも触れている南さつま市の笠沙の岬です。
案内図
笠沙の岬
笠沙の岬1
笠沙の岬の写真を写そうと海岸に着くと伊勢社が祭られていました。
笠沙の岬の伊勢神宮
そしてその先には立神さんと呼ばれている大岩がありました。
立神さん

笠沙の岬周辺
野間岳(591m)
野間岳

野間岳中腹には野間神社があり、ここで始めて私は姥媽神を知りました。
野間神社鳥居

野間神社拝殿

野間神社本殿
野間神社由緒
野間神社由緒
『三国名勝図会』の野間嶽
野間獄

野間神社は勧請年月は不詳のようですが元は野間岳山頂にあり、東宮にニニギノミコト・コノハナサクヤヒメを西宮にホノスソリノミコト・ヒコホホデミノミコト・ホアカリノミコトを祭り、『加世田再撰帳』には西宮は姥媽神女・千里眼・順風耳を祭っていると書かれています。
『笠沙町郷土誌』<上巻>には野間権現末社の記載があります。

白石権現
野間岳の頂上から下に400mぐらいの所に北側の片浦に面して、高さ約10mの大きな岩山がある。これが白石権現の御神体であった。側には清水が湧いており御手水と呼び、神之水として崇められている。野間権現の正祭のときにここでも祭ることになっていた。
一王子
末社の一つ、野間山中にあり湍津嶋姫(おきつしまひめ)を祀っていた。石がご神体。
二王子
末社の一つ 祭神不詳

野間岳山中には本地堂があり二尺5寸木造の阿弥陀佛と一尺6寸5分の石造の姥媽神、脇士に一尺3寸の順風耳と千里眼の石造が記録されています。

『先代舊事本紀』には以下のように書かれています。

次に湍津姫命(せつひめのみこと)亦の名は多岐都姫命(たきつひめのみこと)亦の名は遺津嶋姫命(をきつしまひめのみこと)。
宗像の辺津宮に座す。是海浜(これわたつはま)に居所者(ましませるかみ)なり。

『八幡比咩神とは何か 隼人の蜂起と瀬織津姫』菊池展明著より引用。

湍津嶋姫(おきつしまひめ)はタキツ姫の異称でもありました。
笠沙の岬には、元初太陽神とされる火明命と月(水)神の湍津嶋姫(おきつしまひめ)と記載されるも異称での瀬織津姫祭祀がありました。笠沙の岬の立神さんは太陽神の降りた神岩あり、末社に残る湍津嶋姫祭祀双方が阿多隼人の古の信仰と考えられます。

野間岳には神火の伝説があり、夜、航海で方角が分からなくなった時に祈願すると必ず頂に神火が現れ、助けてくれるように書かれています。これは航海守護のご神徳を持つ、瀬織津姫神伝承で語られるものと同じで大分県中津市の闇無浜神社や福岡県福津市の波折神社などにも伝承されるお話です。『笠沙町郷土誌』<上巻>史料編には本地堂より三町南の山中に、堂の鼻と云う所があり、ここに往古権現社が有り、夫より絶頂に御遷宮有りと云う一説を紹介しています。姥媽神と呼ばれる女神がいつから祀られるようになったかは定かではありませんが、野間神社にはどのような神様が祀られていますか?という私の問いに伊勢にいる神様と同じすごい女神様が祭られていると初老の男性が答えてくれました。思わず、嬉しくなったひと時です。

『エミシの国の女神』で書かれたように伊勢の地主神として祀られていた女神は、遠野では早池峰山の女神でもありました。
次の『円空と瀬織津姫』では、円空の足跡から瀬織津姫神祭祀の残像を見つめて歩いた旅であることや消された神への鎮魂の彫像の旅であったことを明かしました。また、円空がアマテラスを男神で彫ったことやスサノオノミコトの本地である牛頭天皇を「女神」として彫っていること等興味深い内容が紹介されています。
そして次の九州では隼人(ハヤヒト)の信仰に月(水)神である瀬織津姫神の祭祀を考察しました。
一昨年の夏、他界した風琳堂主人こと菊池展明氏は地方によりご神名が変わる複雑な神社祭祀の実像を明快に答えてくれる頼もしい歴史研究家でした。今年も氏の著作や瀬織津姫祭祀、郷土史に残る地域の伝承等を紹介していきたいと思います。

野間権現略縁起

野間山大権現略縁起

抑、薩摩の國野間山といへるは大悲の霊場なり、往古唐土福建の南海の甫田といふところあり、此浦の漁家林氏の娘生れて霊異あり、十余歳にして、我ハ是海神の化身なり、海洋ニ入て往来の船を守護すへしとて、忽海水に没死す、則甫田に廟社を建て、船神として是を崇祭りて今にあり、時に大明の天子にて、天妃姥馬の諡(シ)号を賜り、則観世音菩薩の化身として、唐土の諸船甚尊敬し奉ぬ、其海洋に没せし尊骸は、流れて薩州の海邊に寄来れるを、取あけ、即山上に葬奉り畢ぬ、其後種々霊異の事とも有之、往来の船の諸願も叶へ給へり、仍而長崎往来の唐船も、洋中にてはしめて此霊山を見れば、紙銭を焼き、金鞁をならして拝祭せり、是よりして、此山を野間山権現と号せり、野間の和訓は是姥媽の唐韻の轉語なり、又長崎の津外七里の南に野母(のも)と云る浦里あり、高山の麓に寺あり、本尊一体、御長七尺、行基菩薩の作にて、元享釈書にいへる、日御崎の観世音これなり、此高山の下を日の御崎といふ、唐船も亦これを遥拝す、野間と野母の通韻にて、殊にいつれも観世音の霊地なれはなり、皆姥媽の轉韻なり、故に野間・野母の両山ともに、唐土の人は天童山と号し奉しぬ、右は、崎陽西川先生の文にして、則これを長崎夜話艸と題し、五巻の草紙にしてありしを、予乞い求めて、ひしてつれつれなる雨夜の折に、ひとり寝の友と詠めしに、如何して洩れけん、薩陽の聖師、姥媽の巻計りを写しくれよと、せちに乞給ふによりて、求に應し侍る、
于時天明六稔    崎山人一瓢軒   丙午仲冬二日 恕柳


野間権現神火ノ伝説

野間権現御潮井取トシテ、海邊へ御下リト、往古ヨリ俗ニ唱ヘテ、折々野間山絶頂白石の邊ヨリ神火相見得、其火甚タ大ニシテ、後平ノ方ヘ廻ラセラレシ、神渡・打寄ノ邊へ御下リ、夫ヨリ又本ノ通御道筋御上リ帰ラセ給フト云、其神火、野間池邊ヨリ折々相拝ミ候、又洋中ニテ難船ノ折、夜中方角不弁進退相窮リ候節、御祈願ヲ掛候得ハ、必ス右絶頂ヘ火顕レ、方角相分リ助命イタシ候者過半有之、右様ノ事度々ニテ、本朝ニ限ラス、異国ノ船マテモ深ク尊敬ノ御岳ニ候、是レ七奇所ノ一ツナリ、

野間山大権現略縁起には「野間・野母の両山ともに、唐土の人は天童山と号し奉しぬ」と書かれています。対馬に残る天童信仰を
重ねて縁起を読んでいました。いつか対馬を歩いてみたい・・・。


資料:『笠沙町郷土誌』<上巻>より引用




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『八幡比咩神とは何か』菊池展明著本日発売! 

古代八幡信仰

『八幡比咩神とは何か』菊池展明著本日発売!

八幡

『エミシの国の女神』『円空と瀬織津姫』上下巻を書いた菊池展明氏の遺作集が風琳堂から出版されました。

本の始めは鹿児島市隼人町の犬飼の滝です。

ユーチューブでもご覧いただけます。https://www.youtube.com/watch?v=8bt-SEB3gsc

犬飼の滝

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新刊「八幡比咩神とは何か 隼人の蜂起と瀬織津姫神」 

風琳堂

12月22日風琳堂から『八幡比咩神とは何か 隼人の蜂起と瀬織津姫神』菊池展明著が出版されます。
≪追録≫宗像祭祀の解読を含む、約400ページのものです。

 鹿児島~宇佐~宗像まで宇佐神宮の比咩神の謎を追って原初八幡信仰の原像に迫まります。同書は、昨年他界した菊池氏の遺作集となりました。今年の後半は、本に挿入する写真を写す為に鹿児島~福島県まで走りました。
 菊池氏に生前、写真を特に綺麗に写してほしいと依頼された場所があります。霧島山・鹿児島の犬飼の滝・中津市の八面山・そして宗像の大島です。一度は全部写して送りましたが、編集者の顔を持つ鬼の筆者からは再度チャレンジするように促されボツになりました。鹿児島の犬飼の滝へは5~6回足を運んだでしょうか・・・。天気のよい日、雨上がりなど時間も変えて行く(ちなみに当地から片道高速でも5時間かかります)のですが、なかなかいい写真は写せませんでした。校正の期日も迫り、もうこれが最後になるだろうと再度犬飼の滝へ向いました。午後3時を過ぎていたと思います。前回は雨の後で滝の水は多く濁っていましたので私にあるのは小さな希望だけでした。その時、私の見た犬飼の滝の姿は・・・・・・?
本の始めに載せています。どんな写真を写したかはお楽しみです。22日にはユーチューブで見ていただけるようにしたいと考えています。
チラシも出来上がりましたので風琳堂HPからご覧下さい。http://furindo.webcrow.jp/
当ブログを見て早速ご注文していただいた皆様にとても感謝しています。
ありがとうございました。
▼薩摩半島野間岬(笠沙の岬)
ハヤト(ハヤヒト)の文献上の初出は『古事記』の天孫降臨の段につづく場面です。天孫「天津日高日子番能邇邇芸能命」は「筑紫の日向の高千穂の久士布流多気」に降り立つと、次のような言葉を呟きます。
「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、此地は甚吉き地。」中略
「笠沙の御前」は薩摩半島「阿多」地方にある、現在の野間岬とされます。(『八幡比咩神とは何か』より)
本の写真は白黒なので笠沙の岬をみてほしいと思い、アップしました。
笠沙の岬


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香春町 天照大神宮と呉媛のお墓 

古代八幡信仰

古代宇佐神宮の二大神事の一つに放生会があります。その出発地となるのが、福岡県田川郡香春町です。

風土記の豊前国の記載を読んでみます。

鹿春郷

豊前(とよくにのみちのくち)の国の風土記の曰はく、田河(たがは)の郡(こほり)。鹿春(かはる)の郷(さと)。 此の郷の中に河あり。年魚(あゆ)あり。其の源は、郡の東北(うしとら)のかた、杉坂山より出でて、直(すぐ)に正西を指して流れ下りて、眞漏川(まほろがは)に湊(つど)ひ会えり。此の河の瀬清浄(せきよ)し。因りて清河原の村と號けき。今、鹿春の郷と謂ふは訛(よこなま)れるなり。
昔者、新羅の国の神、自ら度り到来りて、此の河原に住みき。便即(すなわ)ち、名づけて鹿春(かはる)の神と曰ふ。又、郷の北に峯あり、頂に沼あり、黄楊樹生ひ、兼、龍骨(たつのほね)あり。第二の峯には銅(あかがね)、並びに黄楊・龍骨等あり。第三の峯には龍骨あり。
▼香春岳
香春岳
八幡神の分霊を祀って放生会を行っている神社は多く見受けられるが、銅鏡奉納儀礼は受け継がれなかったと書いたのは宇佐神宮について多くの著書を残した中野幡能氏でした。放生会については、後日、触れたいと思います。
 
清祀殿の天照大神宮はご存知の方もいると思いますが、採銅所近くの天照大神宮を訪れる方は少ないのではないでしょうか。香春駅に設置の案内板には、以下のように書かれていました。

天照大神宮
神功皇后が仲哀天皇に祟る神を知るため、神託を聞いたと伝えられている

どうしてこの場所にこのような伝承があるのか不明ですが、興味深いことだとは思います。日本書紀には祟る神についてどのように書かれていたのか巻第九を読んでみます。

皇后、吉日を選びて、斎宮に入りて親ら神主と為りたまふ。即ち武内宿禰に命(みことのり)して琴撫かしむ。中臣烏賊津使主(なかとみのいかつのおみ)をして審神者(さにわ)にす。
「先の日に天皇に教へたまひしは誰(いづれ)の神ぞ。願はくば其の名をば知らしむ」とまうす。七日七夜にいたりて、乃ち答へて曰はく、「神風の伊勢国の百傳(ももづた)ふ度逢縣(わたらひのあがた)の拆鈴五十鈴宮(さくすずいすずもみや)に所居す神、名は撞堅木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)と。(後略)
「さにわ」語注ー皇后の神託を請い聞き、意味を解く人とあります。

神功皇后が聞いた神託では、祟る神は伊勢の五十鈴の宮に居ます神として長いご神名が続きますが、内宮の荒祭宮の神のことです。この神を西の伊勢と呼ばれる山口大神宮では、瀬織津姫神と記載しています。

▼香春町採銅所近くにある天照大神宮
香春天照大神宮鳥居
▼拝殿
香春天照大神宮拝殿
▼本殿
香春天照大神宮本殿

次は、呉媛の伝承です。
仲哀トンネルからすこし入ったところに呉媛のお墓があります。
▼呉媛案内板
呉媛の墓
▼呉媛の墓
呉媛の墓2

案内板によりますと四婦女が呉(中国)から筑紫に渡ってきて、そのうち一人は宗像大神に奉り、あとの三人は津の国に行ったとあります。風琳堂主人が千時千一夜ブログの最後に書いた遠野の伝承には三人の姫神の母神が書かれていました。遠野はこの母神の存在を伝承している貴重な里です。

http://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/31039473.html(遠野郷天女伝説の故地)


『エミシの国の女神』菊池展明著には遠野郷の母神のことや伊勢の地主神について詳しく考察されています。12月22日発売予定の『八幡比咩神とは何か 隼人の蜂起と瀬織津姫神』菊池展明著(風琳堂)は、隼人の国の女神ともいえる内容が書かれています。この本は昨年他界した菊池氏の遺稿集となりました。八幡大神の原像や宇佐氏の奉祀する女神のルーツに迫ります。古代史に関心のある方や八幡神社の氏子様に是非読んで頂きたい書です。

12月22日は、冬至日で古代には冬至を1年の始まりとしたそうです。新しい年の始まりを寿ぎ、出版日とさせていただきました。

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宗像大社:みあれ祭・高宮神奈備祭 

平成27年宗像秋季大祭は、9月30日の午後5時、総社地主祭から始まりました。神事は辺津宮拝殿で行われると思っていましたが、秋季大祭が無事行われるように祈念する総社地主祭は、辺津宮拝殿横にある榊の木の前で厳かに行われました。社の中の神に祈るのではなく、榊の前でなければならない理由がそこにはあると思われます。
▼辺津宮拝殿横の榊の前の祭壇
総社地主祭
▼辺津宮拝殿(神勅の神額)
辺津宮拝殿
▼みあれ祭
10月1日、朝からの風雨でみあれ祭は中止になるのではないかと傘を差しながら、祭の船団を待ちました。予報では午前中雨でした。みあれ祭は沖津宮・中津宮から出御した御座船が、大島~地島を経由して神湊へ海上神幸します。 船が大島を出御するころになると雨と風は、すこし静かになり、空には明るい日差しが射しました。さっきまでの風雨がうそのようです。そのとき私は宗像の神様の神徳と神様を信じて荒波に船を出す海の男達の勇ましさを感じました。
みあれ祭り1
▼御座船 赤と白の旗をなびかせて船が進みます。
宗像みあれ祭
▼神湊につくと辺津宮からも神輿が着いて3基の神輿が揃って遁宮祭の神事が行われました。
中津宮神輿jpg
▼10月3日午後6時から高宮神奈備祭:辺津宮から高宮への参道を通って庭上祭祀が行われている祭場へと向います。
高宮祭場案内板
▼高宮祭場
高宮祭場
▼高宮神奈備祭(悠久舞奉奏 八女神事古歌奉唱)
高宮祭場2

takamiya 12月出版予定の『八幡比咩神とは何か 隼人の蜂起と瀬織津姫神』菊池展明著の本に挿入する写真撮影のために宗像大社に向いました。忙しくしていたため、みあれ祭のご紹介が遅くなりました。

以前、著者の菊池氏は千時千一夜のブログのなかで次のように書いていました。
 
伝説を読むとは、伝説を語り継ぐ人々の「心」を読むのと等価であるようにありたい。

故菊池氏は、語り継ぐ人々の「心」を読むことのできる稀有な作家でした。おかげさまで氏の本を出版することの大変さと面白さを体験させていただいています。

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地蔵院の不動明王像 

古代八幡信仰

宇佐神宮の奥宮(大元神社)のある御許山は、三女神降臨の地と伝えられています。

『日本書記』巻第一には以下のように書かれています。

「即ち日神の生まれませる三(みはしら)の女神(ひめかみ)を以(も)ては、葦原中国(あしはらのなかつくに)の宇佐嶋(うさのしま)に降り居(ま)さしむ。」

▼御許山
日足から見る御許山
▼九合目には、宇佐神宮の奥宮の大元神社があります。
大元神社1
▼奥宮の鳥居 鳥居の奥は禁則地になっています。
大元神社奥宮
御許山には神仏習合の時に正覚寺がありましたが、他に僧房もいくつかありました。その中に成就寺(院)があり、不動明王像が祀られていました。明治の廃仏毀釈の時には、日足の方々が総勢で御許山の上から、大きな不動明王像を運んだとお聞きしています。今は、日足の地蔵院の一角に安置されております。この不動明王像は寺伝(本朝無双木目不動尊御略記)によると仁聞菩薩が一刀三禮して彫られたと伝えれています。
 略記には養老四年の隼人の乱にこの不動尊に祈念したと書かれていますが、南北朝の頃の像との説もありますので略記の記述は定かではありません。国東の千燈寺の五智岩屋には同じ縁起が語られていました。『速見郡誌』には「養老四年大隅隼人の反乱の時、ここ五智の岩屋で仁聞が自ら書いた不動明王の像を掛けて五壇の秘法を修した」との記載があります。いずれも隼人の乱の時に不動明王と習合する神(八幡大神)に異敵降伏を祈念したのではないかと考えられます。
 
地蔵院の不動明王像は、大分県下のなかでもとても力強い作だと思います。

▼地蔵院
楼門
▼略記
不動尊略記
▼不動堂
不動堂
▼不動明王像
御許山不動明王

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