鬼と仏の国東半島めぐり

国東半島に残る鬼伝承と仏の里を菜花のお宿のおかみが ご案内します。楽しんでいただけたら幸いです。

○△□の伝言から 

[ 壁画古墳]

NHKの日曜美術館で3月に放映された「○△□の伝言~井浦新“にっぽん”美の旅4~」を観て熊本県山鹿市鹿央町岩原の装飾古墳館へ立ち寄りました。
番組では△を求めて奄美大島へ渡ります。△はノロの羽織る衣装にモチーフされています。特に印象に残ったのは、神事に使う衣装で幼いノロは霊力が弱いので身を守る為に多くの△の文様を必要としたことです。△は霊魂の象徴とされ魔除けの意味も込められてそうです。他界から霊魂を迎える信仰は五穀豊穣のために稲に宿る精霊(稲魂)を招き寄せるまつりにも見られます。
現地では△は蝶や蛾などを他界からきた霊的なものと考え、蝶の羽根の姿に△の文様をみました。
番組ではその後、うきは市の装飾古墳を巡ります。
九州は装飾古墳が多く日本の装飾古墳(660基)の約4割の存在が確認されているようです。韓国でも装飾古墳に太陽を思わせるような円が描かれていました。
番組を見てから熊本県山鹿市の装飾古墳館へ立ち寄る機会がありました。○△□に込められた思いとはどのようなものだったのでしょう。
番組で紹介されたチブサン古墳のレプリカや多くの壁画をゆっくり観ることができます。
チブサン古墳の○は鏡や太陽・月と考えられているようです。
▼チブサン古墳
チブサン古墳
▼弁慶が丘古墳
弁慶ヶ穴古墳jpg
▼弁慶が丘古墳案内板
弁慶が古墳案内板jpg

装飾文様の種類

次に秋田県阿仁地区のマタギの信仰が紹介されます。熊や鹿を狩猟し生業としている方々は、狩猟の始まりには必ず根子山の山神にご祈念するそうです。その山の神のご神像は女神像でした。山の神としかご祭神のお話はなさいませんでしたが、奥宮へ行くと流れの激しい滝がありました。奥宮の滝の神のご神体があの山の神とされる女神像であったのではないかと考えています。滝の神を追っている私にはとても興味深い番組でした。

自宅に帰って門戸の入口の階段を上がりながら・・・えっ・・・そう自宅にも□と△が彫り込まれていたことを改めて認識しました。というもの私は田舎暮らしを楽しむために11年前、中古住宅を購入し引越して落書き程度にみていた□の配列と△の文様の刻まれた階段を深く考えることもなく無意識に登っていたのです。以前住まわれた方は、建築された時に魔除の意味で石段に刻まれたのかもしれません。以前の持主はもう亡くなられていますからお聞きすることはできませんが、○△□の謎は、私にも共有できる関心事となりました。
石段

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英彦山豊前坊高住神社 

[ 古代八幡信仰]

英彦山豊前坊高住神社(福岡県田川郡添田町英彦山27)の紹介です。
高住神社鳥居

高住神社拝殿


高住神社でいただいた案内書には下記のように書かれています。

御祭神
豊日別命・・・豊前豊後の住民の守護神(豊日別国魂神とよひわけくにたまのかみ)
天照大神・・・日の神
天火明命・・・稲穂(農耕)の神(天照国照彦火明之命)
火須勢理命・・・鎮火(火伏)の神(火燗之命ほのすすみのみこと)
少名毘古那命・・・金厭(きんよう)祈祷・医薬の神
社伝によりますと、御祭神は豊前豊後の守護神として、もと鷹巣山に祀られ人々の病苦を救い、農業や牛馬・家内安全の神として古くから崇められ、社殿は遠く継体天皇の御代(約1500年前)藤原恒雄によって創建されたと伝えられています。又、当神社は豊前坊天狗神としても有名で、欲深く奢りに狂った人には天狗を飛ばせて子供をさらったり、家に火をつけたりして慈悲の鉄槌を下し、心正しく信仰する人には家来の八天狗をはじめ総べての天狗を集めて願い事を遂げさせ、其の身を守ると伝えられてきました。(中略)英彦山部豊前坊は九州の天狗群の棟梁格で、霊力が抜群という天狗倒しでも有名です。

八天狗尊神:彦山豊前坊・鞍馬山大僧正・伯耆大仙清光坊・愛宕山太郎坊・白峯相模坊・高雄内供奉飯綱三郎
        熊野大峰菊丈坊・比良山治郎坊

豊前坊扁額

中野幡能氏は『英彦山と九州修験道』の中で
英彦山の草創は、『彦山縁起』によれば、魏国の法師善正が継体天皇二十五年(531)に渡来し、豊後日田の藤原恒雄(後に忍辱と称す)なる者とともに開いたとしている。しかしこれはあくまでも伝承であり、英彦山の開基は続日本紀大宝三年(703)九月二十五日の条に出る法蓮から考えるべきではないかと考える。 とあります。
法蓮といえば、宇佐神宮の弥勒寺初代別当で医薬にたけ、宇佐君の姓を与えられた人物です。英彦山や六郷満山の開創と関わりの深い修験者といわれています。
高住神社案内板

英彦山豊前坊(18番)は、英彦山四十九窟の中で般若窟(玉屋神社1番)と同じく、窟の中に神社が造られています。由緒にもありますが、元の鎮座地は鷹巣山で神社の方のお話ではご祭神の豊日別国魂神が祀られていたとのことです。日韓古代史シンポジュウム「韓国・檀君神話と英彦山開山伝承の謎」長野覺・朴成壽編で高住神社を創建した藤原恒雄(ふじわらつねお)は韓国で山の神として祀られていた恒雄(かんゆう)信仰が英彦山に伝わり、その山岳信仰が藤原恒雄に乗托されたということではあるまいか。と中野幡能氏が語っています。『三国遺事』によれば古朝鮮の歴史は、桓因・桓雄・檀君から始まります。この三神は、祖父、父、子の間柄ですが、天神桓因の子が地に降りて地神桓雄となり、地神
桓雄が熊女と結婚して人神檀君を産んだというお話です。以前に檀君神話はご紹介しています。http://nabaanooyado.blog.fc2.com/blog-entry-223.html
高住神社には午玉宝印という呪符があります。熊野三山は烏ですが、英彦山のものは開山伝承と関わる3羽の鷹になっています。午玉宝印は、古くは文字だけでしたが、鷹や烏などの絵を用いたのは、熊野より英彦山の方が百年古いといわれています(相田二郎「起請文の料紙牛王寶印に就て」『史学雑誌』第五十一篇)その3羽の鷹絵とよく似た呪符が韓半島にもあるとのことです(「朝鮮の鬼神」)。(『英彦山と修験道』中野幡能著より引用)
高住神社 午玉宝印
牛王印
熊野の奥宮:玉置神社の弓神楽
玉置神社

高住神社のご祭神が以前祀られていたのが鷹巣山で宇佐で法蓮が修行した処が、鷹栖観音堂一帯です。八幡信仰と鷹は、特に関わりが深いと考えています。また、ご祭神にも興味深いものがあります。英彦山神宮の主祭神は天之忍穂耳命ですが、末社の大南神社には天火明命が祀られ、高住神社にも元初の太陽神として祀られた天火明命の祭祀があります。宇佐八幡宮の創祀に関わった宇佐氏・大神氏・辛島氏(秦氏系)の中の宇佐氏である法蓮に日子を奉斎する太陽信仰があったと考えられます。この信仰が山国川を渡ると応神天皇=八幡大菩薩という信仰(神仏習合)へと変化していきます。しかし、宇佐神宮の二大神事である放生会(銅鏡奉納儀礼も含む)にはご神体の銅鏡鋳造に関わる儀式に「天火明命を降す」とあり、宇佐神宮では応神天皇としか語られていない日子神(八幡大神)の存在があると私は考えています。宇佐神宮に応神天皇を祭祀すると母神の神功皇后も第三殿に祀られることになりますが、それは約98年後のことになります。比売大神は地主神とのことで応神天皇が祀られた8年後に託宣により第二殿に祀られますが、太古に奥宮のある御許山に天降ったのは三女神という伝承が今日まで語り続けられています。神功皇后が三韓征伐で祈った神は宇佐神宮で祀る比売大神で『八幡比咩神とは何か』菊池展明著には伊勢内宮の荒祭宮の神である撞賢木厳之御魂天疎向津媛命は瀬織津姫神と同神であり、その対偶神と語られている神が高住神社のご祭神の一柱である天火明命こと天照国照彦火明之命です。高住神社を創建したのが藤原恒雄という伝承に古朝鮮や高句麗建国のことなど再び本を読み直しています。
鷹巣山案内板

鷹巣山jpg

明日は高住神社で護摩修法が行われます。松会の起源は、各霊場で発祥年代がちがうようですが、五穀豊穣・家内安全を祈り、「求菩提(くぼて)山雑記」(天保六年)の縁起書には「此祭式、元正帝の勅によって行善和尚開白の後、年の豊凶に増減なく、当時に至って例年勤る祭礼也」と記載され、豊前での松会の起源を1200年から1250年前と考えることが出来るようです。現在、英彦山神宮では松会の名を廃し、御田植祭と称し、毎年3月15日に行われています。

高住神社1jpg

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高旗山垂迹の神―宇奈己呂和気神社 

[ 瀬織津姫神]

宇奈己呂和気(うなころわけ)神社の紹介です。

福島県郡山市三穂田町八幡字上ノ台76
▼宇奈己呂和気神社鳥居
宇奈己呂和気神社鳥居4

宇奈己呂和気神社2

『神道大系 陸奥国上』安積郡式内社史料によりますと「宇奈己呂和気神」は、国守より四時の奉幣を受けたという延喜式内明神大社にあたります。この聞きなれない宇奈己呂和気神社ですが、太古に垂迹されたご祭神名を「瀬織津姫命也」と伝えます。全国の明神大社は二二四社ですが、陸奥国には十五社あり、奥州二之宮で安積三十三総社という古社です。
▼拝殿
宇奈己呂和気神社拝殿
▼本殿
宇奈己呂和気神社本殿

同書より勧請の始めを読んでみます。
桓武天皇延暦年中(737~806)按察使藤原小黒丸・大伴家持、当国御下向御代村ニ御着、然ルニ蝦夷之悪黨蜂起セシ時、高旗山ニマシマス神力ニヨリテ、コトゴトク打平ラゲタルニ依テ、高幡【ママ】山ヨリ前後ノ川之落合山崎ニ勧請、無双之大社造営、略、社頭勘受之以前ハ遥ノ西禿倉トテ自然ノ神祠アリ、高幡【ママ】ノ神霊影向ノ處ニテ参詣ノ人々多シトナン(後略)

一方「あさかの神社誌」はご祭神を瀬織津比売命/誉田別命と記されています。
御由緒には、当社旧記によれば、宇奈己呂和気神社創草は第49代光仁天皇代、陸奥国の蝦夷はびこり騒がしきために朝廷は天応元年(781)1月、陸奥国出羽按察使として藤原小黒麿を任命し下向させるが実効なく、翌年延暦元年(782)6月、新たに即位した桓武天皇は、新しく大伴家持を陸奥国出羽按察使、兼鎮守府将軍に任命下向させたが、蝦夷の勢いたくましく盛んのため、家持は高旗山頂に登り潔斎神々を祀り祈念するや神霊顕われ、安積郡の山々八ツ旗山の奇瑞を現わす、家持神験を得て雄々しく蝦夷平定の軍を進め、更服常なき蝦夷を威服させ陸奥、出羽の騒乱を鎮め民心安穏を得ることが出来た。家持神恩に感じ高旗山頂に荘厳な社殿を構築鎮守神として崇めたが、時経るの間に荒廃に至り、その後、山崎の地(現在地)に宮殿は移されるに及んだ。「あさかの神社誌」には境内敷地約3150坪と記載され、戦国武将等から代々の崇敬を受けた文書を伝世している旧社とあります。
▼「瀬織津姫命」垂迹伝承:高旗山
高旗山
高旗山に神霊が垂迹したという伝承は、欽明天皇十一年(551)という説と大伴家持が延暦元年(782)に神霊顕われ、安積郡の山々八つ旗山に奇瑞を現わしたという説があります。朝廷から宇奈己呂和気神に奉幣が行われましたが、どうしてこの神社名になったかは不明です。
神社伝承では桓武天皇の時代、蝦夷討伐のために御下向の折、藤原小黒丸・大伴家持は高旗山の神に祈り、神力によってことごとく平らげることが出来たとあります。高旗山の神は、どうやら強力な軍神としての神徳があるとみなされ、崇敬されてきたようです。そして太古に垂迹されたその神の名を「瀬織津姫命」だと伝えています。

「あさかの神社誌」のなかでは「中野幡能編 八幡信仰」から引用して天平十八年(746)、応神八幡神(宇佐八幡宮)の贈位もみられ、対朝鮮半島放棄、外敵対抗神的性格が夷敵調伏として、この頃に勧請と共に合祀されたものではなかろうかと考えられると書かれています。

『神道大系陸奥国上』には地名の八幡は、三ツ森峠八幡臺という所に欽明天皇十一年の垂迹説、後に大伴宿禰陸奥守国道勅を承り、延暦三年サキ村に迁(セン)宮、今の八幡村とあり、遊覧志には延暦年中三森峠八幡平にあり、安部■守高幡山に建立、永承の頃源義家再興、大伴国道八幡を合祀す(後略)

以上のようにご祭神の八幡神の応神天皇は、後日の合祀のようです。
福島県古殿町にはもう一社、ご祭神を「応神天皇・瀬織津姫命」とする八幡宮があります。
複数の棟札(『八幡比咩神とは何か』菊池展明著より)は姫大神が三女神ではなく、瀬織津姫命であることを示しています。
このような貴重な資料が存在する国が陸奥国です。

 地元の方に「高幡山に降りた神様はどのように伝わっていますか?」とお聞きしましたら「水の神様だ」と答えられました。由緒では語られていない瀬織津姫命の水神のご神徳を氏子の方々は伝え聞いているようです。堂々たる山容の高旗山の頂上には現在も神祠があります。帰りに奈良時代まで宇奈己呂和気神社の神宮寺であった真言宗八幡山護国寺にも参拝させて頂きました。ご本尊は虚空蔵菩薩でお優しい奥様が、写真を写すことを快く承諾してくれました。
▼護国寺
護国寺jpg
▼護国寺院内
護国寺2
▼虚空蔵菩薩像
護国寺虚空菩薩像
▼不動明王像
護国寺不動像jpg

ご本尊の虚空蔵菩薩像は、凛々しい女神様のお顔に見えました。左横の不動明王像は細身ながら迫力があります。神仏習合時、瀬織津姫神の本地仏は、十一面観音や不動明王といわれています。故風琳堂主人は瀬織津姫命の本地仏が虚空蔵菩薩で祀られた背景に明星信仰があったのではないか?と考えられていました。

千時千一夜のブログ 丁寧に伝承を説明されています。

宇奈己呂和気神社の意志
https://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/MYBLOG/yblog.html?m=lc&sv=%B9%E2%B4%FA%BB%B3&sk=1

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遠州桜ヶ池と池宮神社・皇円伝承 

[ 瀬織津姫神]

静岡県御前崎市佐倉の池宮神社と阿闍梨皇円上人の伝承の紹介です。

桜ヶ池池宮神社略記の「桜ヶ池」より読んでみます。
御前崎半島県立自然公園の一環にあり、静岡県自然の森百選に選ばれた神秘な原生林に三方を囲まれ、数々の伝説を秘めた桜ヶ池は、約二万年前に出来た砂丘堰止湖で、広さ役二万平方メートル。往古よりこのかた満々と水を湛えた県指定名勝地で、万葉集にも歌われた名池である。この桜ヶ池に平安末期比叡山の名僧皇円阿闍梨が衆生救済のため、龍蛇と化し、弥勒菩薩の出現を待って入定され、池の主神となられた。

▼池宮神社
池宮神社鳥居
▼池宮神社由緒
池宮神社由緒
▼拝殿
池宮神社拝殿

池宮神社
御祭神 瀬織津比詳【ママ】命 
(相殿)事代主命 建御名方命
御神徳 大祓詞に現われる、代表的な清め祓いの神で諸々の罪穢れを祓い、開運厄除の御神徳極めて高い。事代主命・建御名方命は共に大国主命の御子神で、事代主命は通称エビス様と称せられ商売繁昌、福の神として、又、建御名方命は農、耕、水の守護神として崇められている。
御由来 創祀は敏達天皇十三年六月(584年)に瀬織津比詳命がご出現、社殿の造営がなされた。後、栄枯盛衰が激しく平安時代初めには衰退し、社殿は大破した。しかし、平安時代中期一条天皇の長保三年(1001年)社家の遠祖源朝臣信栄が社勢を再興した。(後略)

瀬織津姫神の研究者であった菊池展明氏は、『円空と瀬織津姫』の下巻で円空の入定(長良川河畔)が弥勒信仰によるものとし、円空がある「神」をおもい、弥勒下生のときを待つという発想をしたのは、円空が最初ではなかったとし、阿闍梨皇円の入定について触れていました。
皇円

以下は『円空と瀬織津姫』から引用します。
同書は熊本県玉名市の蓮華院誕生寺(真言律宗)に触れています。
蓮華院誕生寺は治承元年(1177)、平重盛によって創建された古刹で戦乱の荒廃の後、昭和五年、霊告があり是信僧正によって再興されました。この「霊告」の内容は、「我は今より七百六十年前、遠州(静岡県)桜ヶ池に菩薩業の為に龍身入定せし皇円なり。今心眼を成就せるをもって汝にその功徳を授く。よって今より蓮華院を再興し衆生済度に当れというものだった。」皇円は一条天皇の関白を務めた藤原道兼の末裔で「扶桑略記」を結実したと伝えられています。皇円は、嘉応元年(1169)6月13日、96歳で他界するというのが定説だが、皇円伝説では、この日、「突然、比叡の雄山に黒雲が迫り龍巻がおきました。風がやみ黒雲が散ったときその時、皇円上人は昂然と消えていたというものです。皇円はどこへ往ったかについては、遠州の桜ヶ池に往き、「龍身入定」したとされています。弟子たちは「龍身を受けて修行するのにふさわしい池を探せ」という皇円の願いに各地を探し、弟子の中で著名な浄土宗の開祖「法然」は観世音菩薩から「桜ヶ池を訪(とぶら)え」というお告げを受けたことが語られています。法然は「桜ヶ池の霊水」を比叡山に持ち帰り皇円に捧げると、皇円は大いに喜んだと伝えられています。なぜ、桜ヶ池の霊水を熊本県玉名市を生誕とする皇円が喜んだのか・・・
著者の菊池氏は、そこが江戸時代まで「池宮天王社」といわれ、奥宮的境内社に「桜之宮」があったからだはないかと書いています。同書には『三国地志』には「桜宮」は亦五十鈴宮朝日宮伊勢宮桜宮ト云ウ」と江戸期まで、神宮(天照皇大神宮)の異称に「桜宮」がありました。
現在、池宮神社の主祭神は、瀬織津比咩神で神社の説明では清め祓いの神とあり、大祓いの神としての認識しか、読み取れません。ただ、私が注目したのは、比叡山近くの滋賀県瀬田川の佐久奈度神社で中臣氏によって大祓祝詞の神として祀られる前に池宮神社の社伝では敏達天皇十三年(584)に瀬織津比咩神という神の出現があったということです。
琵琶湖畔では、458年の雄略天皇の時代まで瀬織津比咩神の祭祀の確認が出来ます。素人の調べですのでどの時期まで瀬織津比咩神という神の祭祀を遡れるのかが分かりませんが探索を続けたいと思っています。瀬織津比咩神は各地の神社伝承では、天照大神荒御魂(撞賢木厳之御魂天疎向津媛命)・八十枉津日神・大綾津日神等で確認されますが、「エミシの国の女神」には伊雑宮の御師の家のひとつに伝わる「西岡家文書」によると、伊雑宮の祭神として登場していた「玉柱屋姫命」は瀬織津姫と同神であると書かれています。複雑な異称祭祀を考える旅ですが、式内社からの分祀で勧請された神に瀬織津比咩神という新たな祭祀を見つけるともっと菊池氏に生きて書いてほしかったという想いが過ります。
桜ヶ池の皇円の碑を前にして「扶桑略記」のなかでは「天神地祗皆助歟」とあり、異称祭祀を含め、この神の名に触れていない皇円上人の心底を覗いてみたい衝動にかられました。「日本書紀」の神功皇后の条には撞賢木厳之御魂天疎向津媛命というご神名が記載されています。(詳しくは「エミシの国の女神」「円空と瀬織津姫」「八幡比咩神とは何か」参照)。
「扶桑略記」には八幡大神の神託に触れている箇所があるのになぜ、神功皇后の祈ったであろう神に触れていないのは何故なのか?龍神となって末法の衆生を救うという大願で池中入定した皇円上人に桜ヶ池の神は、どのように映っていたのでしょうか?
 桜ヶ池伝説の図

「桜ヶ池の伝説」社務所発行では、皇円上人が往って六年ほどして弟子の法然が桜ヶ池の水際に立ちます。法然はもう一度師の尊顔を拝したいと願うと一筋の叢雲が湖面を覆うと皇円阿闍梨の姿が元の姿で昂然と現れた。次に法然が龍体を現してくれるように願うと突如風騒ぎ、波怒り、水数丈の高さに上り、見る間に黒雲のうちに火焔迸り二十余尋の龍蛇炬(たいまつ)のごとく舌を吐き、爛々たる眼を怒らし雲中高く踊った。法然始め弟子三人は余りの恐ろしさに身も魂も絶え入るほどおののいた。しかし、かくまで恐ろしき龍蛇に変じ給うも、みなこれ衆生のためである。末法の衆生は聖道自力の修行では容易に成仏はできぬ。桜ヶ池入定は無辺なる衆生を愍み給う阿闍梨の慈悲の行であった。龍蛇には三熱の苦があり、八万4千の鱗の一つ一つに虫が寄生し、日夜上人の皮肉を喰い破り、その苦痛に上人は耐えていました。法然の水晶の数珠により、八万4千の鱗がはらはらと木の葉が散るように落ち、龍蛇は嬉しげに全身を波打たせ、やがて雲と共にたちまち消えました。法然は、湖畔で阿弥陀経を念誦し、赤飯を池に献げます。そして皇円阿闍梨の石像を池畔に建て京に帰りました。以上がかいつまんで入定した皇円上人の後日談の伝説です。
おひつ納め案内板

桜ヶ池とおひつ納め

現在、桜ヶ池では特殊神事として秋の彼岸に御櫃祭が行われています。信者の氏子の中から選ばれた人達が十数人立ち泳ぎして北岸に至り、お櫃を水面に片手で泳ぎ、池の中央に出て順次池心にこれを沈め、龍神に供える行事です。起源は法然上人が皇円阿闍梨のため供養したことに始まります。かつてひとつは神社に、もう一つは皇円阿闍梨に二櫃のみ捧げられたが、後に数が増えていった。駿河では、先祖の御霊は皇円阿闍梨上人の説法を求めて、初盆には必ず桜ヶ池に集まると云われています。慶応四年五月、徳川慶喜は桜ヶ池を参拝され、扁額「池宮神社」を奉納されたそうです。
上人の碑

月影のいたらぬ里はなけれども ながむる人の心にぞすむ (法然上人 続千載集)
記念館内

最後に桜ヶ池が諏訪湖と通底しているという伝承があります。信濃・善行寺の阿闍梨池とも通底伝承があります。「神道大系神社編 諏訪」を読むと諏方【ママ】上宮七不思議に湖水神幸があります。「厳寒の時に三日三夜に及び大明神上宮の濱より下宮の濱に御わたりまして、佐久郡新海明神と會合し給う」との記載は、諏訪上宮の男神と下宮の女神との逢瀬の神事のように考えます。ホツマのみ天照大神の配偶神として瀬織津比咩神のご神名を見ます。通底伝説は同じ信仰集団がそこに居るとも考えられ、どなたかの後日の探求を期待します。

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べっぷクリスマスHanabiファンタジア2017 

[ 観光情報]

べっぷクリスマスHanabiファンタジア2017 12月23日・24日です。
明日も午後8時から花火を見る事ができます。

温泉県大分では別府の市営温泉で毎年、年末から1月3日まで無料で温泉に入れます。HP等で検索してみてくださいね。

別府花火ファンタジア2017

別府花火ファンタジア2017-2

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琵琶湖の水神と不忍池 

[ 瀬織津姫神]

 竹生島宝厳寺は、神亀元年(724年)聖武天皇が、夢枕に立った天照皇大神より「江州の湖中に小島がある。その島は弁才天の聖地であるから、寺院を建立せよ。すれば、国家泰平、五穀豊穣、万民豊楽となるであろう」というお告げを受け、僧行基を勅使としてつかわし、堂塔を開基させたのが始まりです。(HP宝厳寺いわれより)
観光案内図
▼竹生島
竹生島2

『円空と瀬織津姫』下巻 菊池展明著には琵琶湖の水神と大祓-伊吹山・三井寺の箇所で竹生島のことに触れて
竹生島は「伊吹山と浅井丘が高さを競い合ったが浅井岳が一夜にして高さを増したため、夷服神が怒って浅井(岳)比咩命の頸(頭)を切ったところ、その頸は江嶋となった。」という伝説を紹介しています。
また、浅井丘が、小谷城があった小谷山ではないかとペンを進めます。小谷山=浅井丘にはかって浅井姫がいて、それが、竹生島の神になったのではないか・・と。
▼宝厳寺
宝厳寺2

宝厳寺1
▼弁財天像(本尊の弁財天は江戸時代まで島の東側の弁財天社(現、都久夫須麻神社本殿)に安置されていました)
弁財天
▼都久夫須麻神社
竹生島画像jpg
▼本殿
竹生島神社jpg


同書には円空上人は「寛永九年(1632)に美濃国(現在の岐阜県)に生まれ、元禄八年(1695)七月十五日に同国(現在の関市池尻)の長良川河畔に入定した。生涯に十二万体の仏を彫ることを己に課して諸国を行脚し、最後は自らの死期を悟るや土中入定をもって、つまり納得の上で、円空は自らの生涯を締めくくった。」と書かれています。
▼伊吹山
伊吹山

元禄二年(1689)三月、円空は、湖北の伊吹山で特大の十一面観音像(像高180.5cm)をまた、この観音の守護神とみられる不動尊(像高99.7センチ)の二体を彫っています。菊池氏はこの像が伊吹山の神をおもってこれらを彫像したにちがいないと円空歌から一首引用しています。以下『円空と瀬織津姫』下巻を読んで見ます。

 伊福山法ノ泉の湧出る水汲玉ノ神かと思ふ(歌番612)
  (伊福山〔伊吹山〕法(のり)の泉の湧き出(いづ)る水汲む玉の神かとぞ思ふ)

円空は、伊福山=伊吹山には「法の泉」が湧出していて、ここには、その霊水を汲む最上の神(「玉の神」)がいると詠っている。円空にとって、仏法の霊泉を司る神、あるいは、霊泉そのものである「水汲玉ノ神」がいるのが伊吹山で、この山神(水神)は十一面観音に化身する神だという認識である。

この十一面観音像の背には上段に漢詩、中段に和歌、下段に彫像経過が記されていています(以下は、上段の著者の読下し)。

(起句)桜朶(おうだ)の花枝(かし)は艶(えん)にして更に芳(かんば)し
(承句)観音の香力は蘭房(らんばう)に透(す)く
(転句)東風(こち)は吹送(ふきおく)りて終(つい)に笑(しょう)を成す
(結句)好(よ)く莚前(えんぜん)に向ひて幾場(いくばくかのじょう)を定めん

全体を意訳的に再読してみるなら、次のようになろうか。

「桜の花枝は艶やかに垂れ下がり、芳しい香りを放っている。伐りだした桜木をおいた室内には、清く芳しい観音の香りが満ちている。(薬師の浄土である東方瑠璃光世界からは)東風が吹きわたってきて、この風に吹かれて観音は笑みの表情となる。筵(むしろ)に立てた桜木に向って、わたしは、今、観音を彫ろうとしている。生まれた観音をまつるささやかな場を、ここ(伊吹山)に定めんとおもう」(後略)

円空は上記のように各地で彫像をし、沢山の歌も残しています。著者は琵琶湖には円空が歌うところの水汲玉ノ神がいると書いています。

『東浅井郡誌』では竹生島弁財天は、古来諸種の神の異説があるとして蹈鞴姫命、市杵嶋姫命、宇賀御魂神、浅井姫命などを挙げています。著者は水汲玉ノ神と詠まれた神が、十一面観音像と習合する瀬織津姫神という女神であり、竹生島の本源神と考えていました。竹生島宝厳寺のHPの最初に書かれた「すべては天照皇大神にお告げから」文字は大きな意味があると考えています。天照大神荒魂は瀬織津姫神と伝わるからです。

また、著者は日本の古代信仰は、太陽神(男神)と月神(女神:水神)の並祭であったと捉えていましたので伊吹山にも二神の存在を考察しておりました。比叡山延暦寺のHPには比叡山は、東には「天台薬師の池」と詠われた日本一の琵琶湖と望むとあります。琵琶湖には弁財天のほかに薬師と習合する神(男神)がいると思われますが、その考察はまたの機会に。

ここで琵琶湖から、上野の不忍池に移ります。
上野清水堂絵図

不忍池石碑

上野公園内の不忍池は、面積3万2千坪を有する大池でありましたが、明治以後、池辺は埋め立てられ、現在では昔の約3分の2になりました。また地底には数ヶ所の湧水があって旱魃にも涸渇することがないといわれています。池の名義については諸説が伝えられています。古くは「しのばすが池」「しのばずの池」「しのわづの池」とも呼び、篠輪津池の字を宛てていました。篠が生い茂って輪の如く池を廻っていたからともいわれますが、『江戸名所図会』には「不忍とは忍の岡に対しての名なり」といい、略記にも五百年前から上野台地が「忍が岡」といわれ、不忍池と呼ばれていたとあります。(参考:台東区史上巻、不忍池辯天堂略記)

東叡山寛永寺不忍池辯天堂略記より
天海僧正が上野にお寺を建てた理由は、天台宗祖伝教大師(最澄)さまが滋賀県の比叡山を開いて延暦寺を創立(788)し、国家の安泰を祈る道場を作られたことにならったものです。関東の叡山という意味で東叡山といい、延暦寺と寛永寺の寺号は共に年号を寺号とされたのです。比叡山は琵琶湖の西方にそびえ、京都の鬼門に当たります。天海僧正は上野の山の麓に広い不忍池があるこのあたりの景色が比叡山によく似ている江戸第一の景勝の地として上野に寛永寺を建てたのです。不忍池の中ほどに、古くから小さな島があって聖天さまをおまつりしてありました。
天海僧正は、寛永寺を建ててから数年の後、水谷(みづのや)伊勢守勝隆公と相談して、琵琶湖の竹生(ちくぶ)島にならって島を築くことになりました。伊勢守は領地から大勢の人をつれてきて、上野の山の土を舟で運び、聖天島の東南方に僅か十日程で忽ち大きな島を築きました。天海僧正は、大変喜ばれ、伊勢守が島に建立したお堂に辯天さまをお祀りして国家の安泰と人々の福寿円満を祈念されました。
▼寛永寺
寛永寺
▼宇賀神像
宇賀神像

辯天堂縁起には、御本尊の八臂(はっぴ)辯天の頭上には鳥居があり、あごひげを生やした人頭蛇身の老人の姿をした宇賀神(農業・食物神)が祀られているとあります。龍や蛇(白蛇)は辯天さまの化身となり、巳の日が縁日とされたそうです。

『続江戸名所図会を読む』川田壽著には、寛永二年(1625)寛永寺を建立するとき、天海僧正が、琵琶湖にみたてて池の真中に小島をつくり、弁財天を祀ったのがはじまりといわれる。参詣する人は、舟を仕立てて渡ったが、寛文十年(1670)ごろ、参道ができて便利になった。『江戸砂子』に、紅白の蓮の葉が水面を覆ってまるで芝生とようだとある。と書かれています。

『神道大系武蔵国』には、篠輪(不忍)津池ニ瀬織津比咩ヲ崇、山王ノ霊社ヲ移シテ護国ヲ祈玉フ。如斯魔障ノ禍ヲ攘肥穣豐富ノ里ニシテ、後来日本第一ノ官府ト成コソ處コトハリナレ。
▼寛永寺奥の院
奥の院弁財天社

不忍池に瀬織津比咩をあがめ、山王霊社を移して護国を祈る。かくのごとく、わざわいをはらい、肥沃豊かな里にして日本第一の官府となるところとする。となりましょう。

琵琶湖の弁財天(水神)は、上野の不忍池でやっと本来の神の名を残したということになります。大祓いの神としての瀬織津比咩神は、大海原に罪や穢れを押し流します。天海僧正が不忍池に瀬織津比咩をあがめ、比叡山信仰を上野に持ってきたのも琵琶湖の信仰を熟知していた上での勧請と考えられます。しかし現在の寛永寺は、水神の弁財天と食物神の宇賀神を合わせて「宇賀弁財天」を祀っているとし、本来の弁財天に習合する神の姿を探すことは残念ながらできません。

円空が詠った琵琶湖の水神:「水汲玉ノ神」は、瀬織津比咩神だったのではないかとの菊池氏の考察はするどく、円空上人の信仰に寄り添う旅をはじめてみたくなりました。



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兵庫県:木梨神社 

[ 瀬織津姫神]

兵庫県加東市藤田にある郷社の木梨神社の紹介です。

主祭神を八十枉津日神とする古社です。資料のみの以前ご紹介いたしましたが、やっと参拝できました。

木梨神社

木梨神社 由緒

明治四十五年に出版された「府縣郷社明治神社誌料」より

兵庫県播磨国加東郡福田村大字藤田の木梨神社(郷社)

ご祭神 
大直日神 八十枉津日神 表筒男命 神直日神 中筒男命 中津少童命 底筒男命 底津少童命 表津少童命

由緒
御神体は金紙幣帛に坐ます由、崇神天皇の御宇、丹波の玖賀耳御笠(クガミミカサ)の渠師謀反せしに依り、日子坐王をして
平定せしめ給ふ時、賊軍逃げて此里に来り、皆野中に身を隠せしかば、野を焼きて賊を亡せしに、皇軍忽病み臥せり、王太く患へ給ふ、時に八十枉津日神の御【言】【兪】あり、此里の東に醎(カン)水湧出づるを(今に醎水の湧出づる虚あり、此を藤田の醎水と云へり)汲み来て飲しめ給へば、病又忽癒えたり、於是王小祠を建て八十枉津日神・神直日神の三柱の神を鎮祭す、蓋是當社の創立なり、其後允恭天皇の皇子木梨軽太子(キナシカルノミコ)播磨に行啓の時、當社に住吉大神海童大神を奉祀し給ふ、因りて宮名を木梨神社と稱す、(後略)

木梨神社の由緒では崇神天皇が丹波の玖賀耳御笠(クガミミカサ)の渠師謀反を平定する時、野に隠れた賊軍を野を焼き亡した後、「皇軍忽病み臥せり、王太く患へ給ふ、」とありますから、相当に悲惨な戦いだったと考えます。
そこで託宣したのが、八十枉津日神で醎(カン)水の湧いている場所を教えます。醎(カン)水とはしおからい水と「広辞苑」には書かれています。この醎水により、たちまち病が癒えたとあります。

『日本書紀』の崇神天皇の条をみてみましょう。
崇神天皇五年に国内の疫の病多く、民(オオミタカラ)は大半は死亡して徳を以って治めることが難しかったとあります。この後、天照大神・倭大国魂の二柱神を天皇の大殿の内に並祭します。しかし、其の神の勢いを畏れて大殿の内で神と共に住むことが出来ませんでした。そこで天照大神を豊鍬入姫命に託して倭の笠縫村に祭ります。日本大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)は淳名城入姫命(ぬたきのいりびめのみこと)に託して祭りますが、髪落ち體瘦(やすか)みて祭ることが出来ませんでした。七年の春にはしばしば災いがあり、八十萬の神をつどいて再度占います。すると倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)に神懸りして「天皇、何ぞ国の治まらざることを憂える。若し、能く我を敬ひ祭らば、必ず當(まさ)に自平(たひら)ぎなむ」と託宣します。天皇は「如此(かく)教ふは誰(いずれ)の神ぞ」を訊ねると「我は是倭国の域(さかひ)の内に所居る神、名を大物主神と為ふ」と答えます。そこで教えのままに大物主神を斎祀ります。しかし、験がなかったとあります。その後、再度祈ります。すると夢に一人の貴人が自らを大物主神と名乗って云われるには「天皇、復な愁へましそ。国の治らざるは、是吾が意(こころ)ぞ。若し吾が児大田田根子を以て、吾を令祭(まつ)りたまはば、立(たちどころ)に平ぎなむ。亦海外の国有りて、自づからに帰伏ひなむ。」と託宣しました。その後、秋八月には穂積臣の遠祖大水口宿禰等の三人が同じ夢の中で神の託宣を聞きます。「大田田根子を以て、大物主大神を祭ふ主とし、亦、市磯長尾市(いちしのながをち)を以て、倭大国魂神を祭ふ主とせば、必ず天下太平ぎなむ」と。このように祭祀を行うと疫病始めて終息して国内がしずまったと書かれています。

木梨神社2-1

木梨神社 拝殿

木梨神社 拝殿の額

木梨神社本殿

ご祭神の八十枉津日神とは、荒祭宮の神、瀬織津比咩神のことであると『倭姫命世紀』下巻にあります。

荒祭宮一座 御形鏡坐
  皇太神宮荒魂。 伊弉諾大神所生神 
  名八十枉津日神也
  一名瀬織津比咩神是也
伊勢内宮8

八十枉津日神を祀る神社はあっても託宣する神という伝承と物部八十手が祀ったいう由緒も興味深く思いました。
氏子の方が親切に「多田池」を案内して下さいました。池は木梨神社より東に300mくらい離れた場所にありました。
伝説では、摂津の毘陽池のそばを通りかかった巡礼が若い女から小さな文箱を託され、多田池までやってきて箱を開けると小さな蛇がすべり落ち、それが、数十年後、大蛇になって人を呑みこむ様になります。以下は案内板(多田池の伝説)に書かれています。大蛇がやられてのたうちまわったのが、「蛇ころび」という場所(池の背後)で今でも草がはえてないことや「多田池」が神社の場所近くまで広かったこと、また、池の周辺の田は、酒米として作られて山田錦というお酒の原材料になっていることなど教えていただきました。

最後にご案内いただいたのが近くの闘竜灘でした。加古川中流に位置し、竜の躍動に似たことで名が付いたといわれ、川には奇岩や怪岩が起伏しています。    S様、大変お世話になり、ありがとうございました。
闘竜灘1

闘竜灘2

瀬織津比咩神については『エミシの国の女神』『円空と瀬織津姫』『八幡比咩神とは何か』菊池展明著に詳しく書かれています。

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大野湊神社と櫻谷:石川県 

[ 瀬織津姫神]

大野湊神社の紹介です。

石川県金沢市寺中町ハ163  

現在のご祭神は
本殿 八幡社 護国八幡大神 相殿鎮魂八神
    神明社 天照皇大神 相殿 瀬織津姫神
    佐那武社 猿田彦大神(佐那武大神)
境内社
   春日社 武甕槌命 経津主命 天兒屋根命 比咩大神
   西宮社 事代主神
   白山社 伊邪那岐命 少彦名命 天満宮
   荒魂社 荒魂大巳貴神
▼大野湊神社
大野湊神社鳥居

大野湊神社拝殿

大野湊神社由緒jpg

石川県神社庁HPの大野湊神社由緒は以下のように書かれています。

大野湊神社は、神亀4年(727)陸奥の人、佐那(さな)が航海中に猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)の出現を感じ、海辺の大野庄真砂山竿林(おおのしょうまさごやまさおのはやし)に存していた神明社の傍らに一祠を建立し勧請したことをその創祀としている延喜式内社(えんぎしきないしゃ)です。
この神明社、即ち天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)を奉斎した社の創立年代は不詳ですが、おそらく飛鳥朝時代であると考えられています。
この猿田彦大神を合祀してより、天平元年(729)には天に達し「佐那武大明神」(さなたけだいみょうじん)の称号を賜りました。

神社庁の紹介では、瀬織津姫神の鎮座を確認することが出来ませんし、風琳堂の全国瀬織津姫をまつる主要神社リストの中にも石川県は2社(瀬織津姫社・市姫社)のみでした。
▼神明宮(本殿に向って左側)
大野湊神社神明宮

佐那武大明神が猿田彦大神という説に異論を唱えたのが、大正十三年に発行された「石川縣石川郡神社誌」(発行:石川縣神職会石川郡支部)【以下神社誌という】で当社祭神を猿田彦大神となすことは当らずということ信じる旨を記載しています。

「石川縣石川郡神社誌」大正十三年発行を読んで見ます。
佐那武明神の號は佐那なる者が猿田彦神を勧請したるよりの称号に有らずして其の以前より大野郡海邊佐良嶽竿林に鎮座ありしより佐那嶽明神と称したるなりと得べきが如し。而して祭るところの神は天照大神(荒魂)なり。さらば佐那嶽大明神の称号は天照大神を主祭神とする佐那嶽明神を尊崇してのことなりと見るを當れりとすべし。天照大神の荒魂は即ち瀬織津姫神にして毎年八月一日海邊に於て祭祀の執行せらるるに見ても瀬織津姫神の主祭神たること明白なり。但し当社祭神瀬織津姫命は戸板村櫻谷社を合祀したる為、増加せるが如く思考さるれど往古よりの鎮斎なることは(天照大神の御名によりて)疑ひなき事に属す。

「金石町誌」には佐那が夢から覚めて急いで船を港に寄せ陸に上がれば、深林の眞砂山に竿の林があって神鈴を聴いて瑞祥ありとして神明宮を鎮斎したとあります。

地主神として祭られてきた佐那嶽大明神の神霊が現れるときには神鈴の瑞祥があったようです。『神社誌』は神明社の神として祭られた天照大神(荒魂)は、瀬織津姫神で大野湊神社の主祭神は、瀬織津姫神と主張しています。最後に櫻谷社からの合祀があったことが書かれていましたが、現在でも宮司様が櫻谷社の祭祀を続けられています。宮司様はちょうどお留守で「櫻谷社から瀬織津姫神が合祀されましたね。」と神職様にお聞きしますと「自分は行ったことがないけど住所だけなら分かります」とのことで住所をお聞きして櫻谷社へ向いました。小さなお宮さんでしたが、きちんと管理されていました。
▼櫻谷神社
櫻谷神社鳥居

櫻谷神社社殿

桜谷神社について

大野湊神社は、現在も本殿の神明社のご祭神を天照皇大神 相殿 瀬織津姫神とされている貴重な神社です。この祭祀は伊勢の地主神の祭祀の形そのものです。

最後に櫻谷について触れておきます。
「佐久奈度神社之記」によりますと「桜谷」は、公の災厄を祓うために天智天皇大津宮八年に右大臣中臣金連が滋賀県瀬田川の八張口で大祓詞の初期創作をしたと伝える祓之地です。この地は近江湖水の落出場所であるから八張口と云われたようです。中臣大祓では、高山の末、短山の末とは櫻谷北側鹿飛という所の東の峯を短山の末と云い、西の峯を高山と云い、その麓に鎮座するのが佐久太理神社でその両峯の下を櫻谷と云い、往古は忌伊勢と云う。
拾玉集慈鎮和尚の歌(撰者柿本朝臣人磨呂)には

匂テルヤ櫻谷ヨリ落瀧津波モ花咲宇治ノ網代木
▼佐久奈戸神社から見える瀬田川
佐久奈度神社から瀬田川を見る

とあり、櫻谷から落ちてくる急流を瀧と表現しています。この瀧によって総ての罪や穢れを大海原に持っていく大いなる水の力が瀬織津比咩という神のご神徳とします。佐久奈度神社では瀬織津比咩はかって一柱で祀られていましたが、現在では四柱の神が祓戸神と語られています。
「佐久奈度神社之記」には、往古は忌伊勢と云われていたとあり、『近江国風土記』では伊勢の佐久那太李(さくなだり)の神を忌みて、瀬織津比咩を祭れり。と書かれていました。確かに瀬織津姫神は伊勢の神でもありましたし、往古、伊勢は桜宮とも呼ばれていました。

大正十三年に主祭神は瀬織津姫神で佐那嶽大明神と同神と語った神職の方々の主張は、現由緒には反映されませんでしたが、天照皇大神の相殿として瀬織津姫神祭祀が残り、合祀されながらも櫻谷社が残され、大切に祭祀を続けてられていることをお伝えいたします。

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中津の古要神社「くぐつの舞い」のお知らせです! 

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10月12日(木曜)の午後6時から中津市の古要神社で3年に1度の「くぐつの舞いと神相撲」の奉納があります。

ユーチューブ(nabana88)でも見る事ができますが、実際に見るといかに楽しい奉納神相撲かが分かります。

お時間のある方は、是非、足を運ばれて下さい。

古要神社 10

▼中津市の観光公式サイト
http://www.city-nakatsu.jp/kankodocs/2013080600136/

神相撲では、黒くて小さな住吉大神が圧勝します。

大きな祇園大神や沢山の神様が住吉大神に戦いを挑みますが、束になってかかっても勝ち続けます。

どうして勝者が住吉大神なのか・・・

『八幡比咩神とは何か』菊池展明著には住吉大神を奉斎する氏族の津守氏は尾張氏と同族であり、

その祖神はともに火明命という男系太陽神と書かれています。住吉大神が南方系海人族の奉斎する太陽神的存在なら

同じく「くぐつ舞」が行われる豊前市の古表神社では神功皇后の妹とされる虚空津姫命(そらつひめのみこと)も南方系の服装をし

ています。

古表神社の木造女神騎牛像は祭神である神功皇后が黒牛のまたがり、虚空津姫命にみちびかれて三韓を征服したという伝説を

表現したものといわれています(「吉冨町の歴史と文化財」吉冨町教育委員会。

原初太陽信仰の面影の強い住吉大神が勝つ「神相撲」は、南方系に祖を持つと伝わる隼人にとってたまらなく面白く思えたであろ

うと私は考えます。

秋の夜空に単調に繰り返す笛の音と太鼓の音とガチャガチャと鳴るクグツの音がなぜか懐かしい響きに聞こえてきます。

▼古要神社案内板
古要神社案内板





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愛媛県:鳴滝神社 

[ 瀬織津姫神]

今日は、8月23日。風琳堂主人・菊池氏の命日です。

菊池氏を偲びつつ・・・瀬織津姫神が滝神として祀られている愛媛県八幡浜の鳴滝神社のご紹介をします。

場所は 愛媛県八幡浜市松柏野中甲449

八幡浜から車で10分大洲市方向に走ると八幡浜市立千丈小学校があります。

小学校近くからくねくねと離合できない細い道をしばらく上がりますが、

道をまちがえたかな?と思いはじめたころにやっと鳴滝神社の下の道までたどり着きます。

正確にいえば、現在の呼び名は松柏神社で鳴滝神社に各社が合祀されて社名が改められました。

手元に資料がないのですが、私の備忘録には

山中に飛瀑あり、瀑水は千丈の上から落下し、

瀑渕となってその深さ幾十尋か知れず、爆音は破鐘の響をもって数十町に聞こえ鳴瀧と・・・

鳴滝神社・滝3

社殿は、急な石段の参道を少し上がります。千丈鳴滝といわれた滝の傍でいばらく滝の音を聞いて過ごしました。
鳴滝神社


谷を流れる滝水の傍には奉納された不動明王像あります。

鳴滝神社・滝

鳴滝神社・滝と不動jpg
▼滝周辺の景色
鳴滝神社の周辺jpg


詳しくは菊池氏の書いた下記のブログで

月の抒情、瀧の激情の宇和海の守護神・鳴滝神──八幡浜・大島の龍神伝説をご覧下さい。
http://teamtamayura.blog87.fc2.com/blog-entry-6.html

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流浪する女神 

[ 瀬織津姫神]

京都府の名越神社のご紹介です。

京都府京丹後市網野町公庄竹クラベ100

祭神 瀬織津比女神(せおりつひめのかみ)

「網野町誌」下巻より

「郷村誌稿」には次のような説話が記されている。

当社殿内に古い幡(旗)一流が祀ってある。また一つの巻物があって久岡良左エ門がこれを蔵しているが、それには次のような話が書かれている。

寛政六年(1794)8月14日、この村の久岡新エ門の元祖の僧了雲の兄芳造が幼いころ、字北谷へ行ったとき、椎の木末(こずえ)にあやしい物が見えたので、これを竹の棒で振り落としてよく見ると、(その布には)菊桐の紋章があってその傍に『名越大明神』と染付がある「御幡」であった。幼子は何心もなくそれを鎌で切り裂こうとしたところへ同村重助の妻が来て、これを押し留め、すぐに御幡を久岡宅へ持ち帰った。橋木村の明徳締定律師を招いて事の次第を話したところ、希代の奇瑞と仰せられたので近村から参拝に人々が群集した。不思議なことに三日経ってから了倶【ママ】に夢の御告があった。それは「わたしは難風に吹き流れて海の浅瀬に留まったが、天の指図(さしず)によって計らずもここへ来たのである。我を信心するものたちの疫(やまい)の難を救い取ろう」という御誓言であった。そこで直ちに社を建てたのが名越神社の由来である。今でも一村中無病であるのは偏に明神の御加護であろうか、末世に至るまで疑ってはならないことである。―と。(原文を読みやすくあらためた)
注 名越考
六月祓(みなづきばらえ)は名越祓・夏越祓(なごしのはらえ)とも称した。ナゴシには「邪神をはらひなごむる」という悪霊の鎮撫を意味する場合と、夏と秋の交代の折り目にあたって行う夏越しの意味がある。(『日本民族文化大系4神と仏』)宮田登 小学館


大祓の神として滋賀県の佐久奈度神社に瀬織津姫神一柱が祀られたのが、天智天皇八年のことです。全国の祓戸神社のご神名に記されている瀬織津姫神は、名越神社では流浪する幡の女神であったようで北谷の椎の木末で幼子によって発見されます。村人が大切に祀ると「我を信心するものたちの疫(やまい)の難を救い取ろう」と託宣します。それから村は疫病の難からのがれた様です。
瀬織津姫神は、異称祭祀として八十枉日神という神名で祀られることもありますが、この禍津日神を本居宣長は悪の根元神であり、これを直すのが直日神であるとし、平田篤胤は悪を糺す神であり、祓いによって価値を生じる善神だと説く解釈説があります。

この名越神社では病の難を取り除こうと託宣した瀬織津姫という神は村人にとってとてもありがたい女神様だったという説話でした。 幡に寄り付く神のお話は、『八幡比咩神とは何か』菊池展明著(風琳堂)に書かれています。


 名越神社の説話  原文は大正四年の『丹後國竹野郡誌』参照

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京都:下鴨神社 

[ 瀬織津姫神]

京都の賀茂御祖(下鴨)神社の紹介です。
鴨川と高野川

鴨川と高野川の合流する三角州にある糺(ただす)の森は、古代から清水の湧く所、鴨川の水源の神地として信仰されてきました。室町時代の「諸社根元記」に「浮島の里、直澄(ただす)」と記されており、「糺」の語源の一説として知られています。糺の森の奥に賀茂御祖神社(下鴨神社)があります。平安遷都以降は、皇城鎮護の神、賀茂皇大神宮と称され全国に六十の荘園を持ち、山城国の一宮、全国賀茂神社1300社の総本宮として広く崇敬されてきました。境内の糺の森では古代祭祀復元跡も見られます。
古代祭祀跡2jpg

遺構復元案内板jpg

糺の森の中の河合神社境内の中には神社祀官系累にあたる鴨長明の家が復元されています。家は囲炉裏を中央に人間住むにはこれくらいがいいかなと思わせる五坪程の屋敷です。この地で鴨長明が読んだ歌が下記の歌です。

 「石川や せみの小河の清ければ 月もながれを 尋ねてぞすむ」
▼糺の森の小川
糺の森の小川

鴨長明について案内板

鴨長明屋敷

鴨長明庵

賀茂御祖神社発行の「御蔭祭 みあれ神事の歴史」には以下のように書かれています。

葵祭の名で知られる賀茂祭は、約1400年の歴史があります。前儀として、五月十二日におこなわれる御蔭祭は、それよりも古く、約二千数百年前に始められたとする御生(みあれ)神事が始原の祭りであります。神様がお生まれになった若々しいお力、荒御魂をお迎えする祭事です。その化粧は、日本最古の神幸列と伝えられています。今日でも賀茂祭と対を成す重要な祭事です。

▼賀茂御祖神社の由緒
賀茂御祖神社由緒記

下鴨神社楼門

ご祭神は神賀茂神社の祭神である賀茂別雷神の母の玉依媛命と玉依媛命の父の賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)とあります。「洛北誌」には賀茂御祖神社摂社の御蔭神社の項にご祭神の記載を「御祖神社荒御魂 東殿 玉依媛命 西殿 建津身命」とし、舊社なり高野より高野川を隔てて東方叡山の西麓字御蔭山にあり創立由緒種々の説あれど未だ定かならず

境内由緒には触れていませんが御蔭山にみあれした神は摂社の御蔭神社に祀られ、御祖神社荒御魂神がどのような神の荒御魂であるかは知らされず、口伝で伝えられたのではなかろうかと考えます。推定ですが、神官の末裔の鴨長明はご祭神のことを知っていたかもしれません。
そう思い彼が詠んだ歌をみると小河に映る月神の存在がみえるようです・・・
又、七不思議の一つに「烏の縄手」というものがあります。下鴨神社の案内板には賀茂建角身命は別名「ヤタカラス(太陽という意味)」と呼ばれています。またナワテとは細い(狭い)長い道ということでヤタカラスの神様へお参りする長い細い参道という意味と書かれています。賀茂御祖神社では賀茂建角身命が太陽神と仰がれていたと考えられます。
太陽神と荒御魂神祭祀を考察するとなぜか伊勢に行きつきます。伊勢の荒祭宮に天照大神の荒御魂神が祀られているからです。そして賀茂御祖神社では井上社(井戸の井筒の上に祀られたので井上社といいます)の祭神として瀬織津姫神のご神名をみます。案内板では災難厄除けの神様とあります。出雲では撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(天照大神荒魂)は痔病平癒の神として崇拝され、「大和志料」下巻には、天照大神ノ荒魂瀬織津姫神ヲ祭ルとあります。賀茂御祖神社は以前、賀茂皇大神宮と称されていましたから、伊勢を連想してしまった訳です。
残念ながら、賀茂御祖神社の荒御魂神については資料がなく、不明です。各地の神社伝承を見ると玉依媛命荒御魂なども登場するのでご祭神二神の荒御魂ともとれますが、御蔭神社のご祭神は三柱の神様の記載なのでこれも考えがたいです。

井上社の前の御手洗池は池に湧き出る水あわをかたどったのが「みたらし団子」を連想させ、みたらし団子発祥の地と伝えられ、団子は人の形を表現したものといわれています。井上社の前の御手洗池は葵祭の斎王代が池に手を浸し清める「斎王代御禊の儀」の場所でもあります。今年の御手洗祭は七月二十二日から三十日とのことです。是非、出かけてみてください。
井上社案内板

井上社

井上社本殿

みたらし団子発祥案内板jpg


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牽牛と織女図 

[ 神話・伝承]

明日は七夕、年に1回天の川を挟んで彦星と織姫の逢瀬が行われるとの伝説があります。

九州は梅雨前線が停滞しており残念ながら天の川をみることはかなわないようです。

福岡県の大島でも七夕伝説がありますが、京都の地主神社では「棚機(たなばた)」とは古い日本の禊ぎ(みそぎ)行事で、乙女が

着物を織って棚にそなえ、神さまを迎えて秋の豊作を祈ったり人々のけがれをはらうというものと伝わっています。他には京丹後

の天女伝説や琉球にも天女伝説があり、各地で明日は古代の伝説を思い浮かべながら、夜空を眺める方もいるかと思われます。

峰山郷土史(上巻)では「七夕伝説の織姫」に以下のような伝説を紹介しています。

比冶の里に三右衛門という狩人があってある朝、山頂の池(女池・雌池)で水浴する八人の天女を発見し、そのうち一人の羽衣を奪って天女と同棲して、三人の女児をもうけ、農業、養蚕、機織の業をひろめたが、天恋しさにたえかねた天女は、子供から羽衣のかくし場所を聞き出し、大黒柱の中にかくしてある羽衣をとり出すと、軒先の夕顔(干瓢)の蔓をよじのぼり、外から駆けもどって来た三右衛門に「七日々々に会いましょう」と再開の日を約束して昇天して行くという筋書で、七日々々が七月七日と聞き間違えたのは「あまのじゃく」という悪神のいたずらからであった―という。
―また、三右衛門は、天女を慕って夕顔の蔓をよじて天上にのぼり、天女に会い、天の川の架橋を請け負った。しかし、この工事が完成するまでは、天女のことを思い出してはならないという約束であったが、予定の七月七日が来て、橋がほとんど出来上がったとき、三右衛門は、天上にとどまり天女といっしょに暮らせるよろこびに、ふと天女を思い出した。と、たちまち洪水が出て、橋は押し流され、三右衛門は下界へ追いかえされた―という後日物語がある。(中略)
その後、三右衛門の家には代々美女が生まれたので、その美系にあやかるため、毎年七月六日・七日の祭りには遠近をとわず、参詣する人々で賑わったという。また、この天女がはじめて稲(水稲)の栽培を教えたので五穀の神、すなわち田畑の神として祭るのであるという。現在(昭和38年作成の郷土史の為、現在は確かめていません)でも三右衛門の家では2日間に限り、牽牛織女の画軸などが展覧される。

「世界の大遺跡シリーズ10 古代朝鮮のあけぼの」講談社では

1976年に発見された徳興里古墳に高句麗文化の遺産を見ることが出来ます。

江西一帯が古墳の密集地で高句麗王族や貴族と墓域と考えられているそうです。

徳興里古墳で関心を持ったのが「牽牛と織女図」です。図の解説には以下のように書かれています。

牽牛と織女図  徳興里古墳  三国時代高句麗 408年

青色の銀河が大きくうねって流れ、それを挟んで、牛をひく牽牛と犬を連れた織女を描く。年に一度、七夕の夜にしか

会うことを許されなかった2人。多分逢瀬の後であろうか、織女は悲しげに牽牛を見送る。

 七夕伝説が5世紀の高句麗にすでに伝えられていたことは興味深い。

上記のように書かれていましたが高句麗へは中国から伝説が伝わったと考えられます。

▼徳興里古墳 牽牛と織女図
牽牛と織女図

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日出町:”カフェシエル本日OPEN” 

[ 未分類]

 日出町深江港近くの回天大神訓練基地記念公園のそばに本日、Cafe Ciel(カフェ シエル)がオープンしました。

オーナーは第二の人生の夢がカフェの実現だったそうです。おいしいコーヒーとジュースと手作りケーキのカフェです。

今日は、多くの友人の方々からも祝福されて笑顔がいっぱいのカフェ空間でした。地元の方々にも愛される場所にしたいと

色々企画を考えているようです。回天記念公園に行かれたら、是非、新たな癒しの空間へお立ち寄り下さい。

ちなみに「シエル」はフランス語で「空」を意味します。回天の「天」から一字をもらって「天」を空(そら)と読んで「シエル」と名付けたそうです。

看板はオーナーが心を込めて書きました。

今日はダイエットは忘れて美味しいケーキをいただきました(^^) ごちそうさまでした。


カフェシエル1

シエルオーナー

シエルjpg

ケーキセット

いちごケーキ

回天基地案内板

回天公園












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速谷神社:広島県 

[ 瀬織津姫神]

広島県廿日市市上平良の速谷神社(旧郷社)のご紹介です。

ご祭神 飽速玉男命

当神社HPには以下のように書かれています。

当社にお祀りするは、飽速玉男命は古代、安芸国を開かれた大神です。成務天皇の時代に、安芸国造(あきのくにのみやつこ)を賜り、広く国土を開拓し、産業の道を進め、交通の便を開き、安芸国の礎をつくり固められた安芸建国の祖神です。
速谷神社鳥居
▼楼門
速谷神社楼門
▼由緒
速谷神社由緒
▼神門
神門jpg
▼境内図
境内図
▼拝殿
拝殿
▼拝殿中
拝殿中
▼本殿
本殿jpg
▼境内社:岩木神社
岩木神社
▼境内社:稲荷神社
稲荷神社

鎮座の年代は不明ですが、創祀千八百年余りとなる古社との説明があります。
『府縣郷社明治神社誌料』明治四十五年によりますと古事記傳に「瀬織津姫」、神名帳考證に「速素盞鳴尊」神祇志料に「多支都比咩乃命」とあります。また、地名辞書には速田大明神といわれ、伊都岐島を一宮というのに比し、二宮と見えます。往時は二宮速田大明神と称していたようで、昔市杵島姫神当国に鎮座の時、霊鳥従い来たり当村に留まる。時に岩木翁なるもの村の主たり、霊鳥のために十歩の地をかし以って棲えしむ。後社を建てこの鳥を祭る。今境内社岩木神社は即ち岩木翁を祭れるものなりと。(厳島道芝記、厳島図会)祭日には厳島の神官が来て祭儀を行い舞楽を奏したそうです。

境内の由緒案内板にもご祭神は飽速玉男命一座になっており、そこに瀬織津姫の御神名はありません。
御神名からあくまで推測ですが、安芸国造の奉祭した神は「速玉男命」という男系神と「瀬織津姫」という対偶神が並斎されていたのではなかろうかと思われます(拝殿中にもう一つの御幣がありました)。)『神道大系』でもご祭神は瀬織津姫神でした。 いつの時代か不明ですが、速谷神社の祭祀から、瀬織津姫神は消えてしまいました。雨上がり、古を偲びつつ、参拝した神社でした。  

                                                                                                                                                                                                                                                                              

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中津瀬神社:山口県 

[ 瀬織津姫神]

山口県宇部市新天町2-2-19の中津瀬神社の紹介です。

中津瀬神社の創建は江戸後期享和元年(1801)と伝えられ、新川(真締川マジメガワ)の疎通の神助を謝し、村里鎮守の神・農耕・水産諸事業の守護神として祀られています。地元の方々からは水神さんとして親しまれています。
度重なる水害や凶作に悩まされていた村人の願いを叶えたご祭神の中に神社名の中津瀬の名と縁の深い神様がおいでになります。

ご祭神
主祭神 綿積見神・瀬織津比賣神・倉稲魂神
配祀神 市杵島比賣神・田心比賣神・湍津比賣神・八王子神・赤崎大明神・金刀比羅神

神社統合により配祀神が祀られました。

「円空と瀬織津姫」下巻菊池展明著には以下のように書かれています。
「熊野那智山結宮並滝本年中行事」の三月二十一日の項には「川中の神供、瀬織津姫ノ神を祭る、那智山滝ノ上の中津瀬にてみそぎ祓いの式典あり」とあり

中津瀬神社は、新天町商店街に接し、境内の池の「真名井水」は良質な美味しし水(参拝に来られていた方から伺いました)と評判がよく遠方からも水を汲みに来られます。境内の狛犬さんは珍しいライオンさんでした。境内はきれいに掃き清められ、地域の方々から大切に守られている神社でした。
中津瀬神社鳥居

中津瀬神社由緒

中津瀬神社狛犬jpg

中津瀬神社扁額

中津瀬神社本殿

中津瀬神社境内社

中津瀬神社水神様

中津瀬神社ご神水


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山口大神宮:山口県 

[ 瀬織津姫神]

西の伊勢さまと呼ばれている山口大神宮の紹介です。

山口県山口市滝町4番4号
ご祭神
内宮-(主祭神)天照皇大神
    (配祀神)天手力男命 萬幡豊秋津姫命
外宮-(主祭神)豊受大御神
    (配祀神)天津彦火瓊々芸命 天児屋根命 天太玉命 建御名方神 八坂刀売命
主要祭典 例祭 十月17日 春祭 五月一日

境内神社
内宮別宮 荒祭宮 (荒御魂・瀬織津姫命)、内宮摂社 恵比寿社(事代主命)、外宮多賀宮(荒御魂・伊吹戸主尊) 末社岩戸社(天照皇大神外二座)、末社稲荷社(宇迦之御魂外三柱・末社御門守神社相殿
境内地 
一万七千坪(山林含む)
由緒 
永正十七年(1520)大内義興氏が御柏原天皇より勅許を得、伊勢皇大神宮より御分霊を勧請した神社。内宮に天照皇大神・外宮に豊受大御神を祀る。また伊勢神宮に習い、式年遷宮が定められている。現在の本殿は、平成十二年に御造営されたもの。西の伊勢参り、山口参宮として、古くから県内はもとより、中国地方や九州からの参拝が多い。(パンフレットより)

多賀神社 (おたかさま)
近江(滋賀県)の多賀大社かの御分霊を勧請した神社。御祭神は伊弉諾尊・伊弉再尊の二神。国生の神であることから、延寿・安産の神として古くより親しまれ、さらに縁結び・学業成就・病気平癒等広く信仰をうけている。

高嶺稲荷神社
農産物の守護を始め、商売繁盛・三難消除(病・火・盗)又、芸能 家社海運の神として広く信仰されている。

「山口県神社誌」によりますと山口大神宮は、永正十五年に勅許を賜り、十六年に外宮を同十七年に(1520)に内宮を造営しました。御柏原天皇より「高嶺大神宮」の御宸筆を賜り、さらに御陽成天皇より「伊勢」の勅額を賜る。以来「今伊勢」と称し、山口大神宮と尊称したとあります。神宮の前には道路を挟んで五十鈴川が流れています。伊勢に因んで名づけられた河川の名称と考えられますが、社宝のなかに河原禊図との記載がありますので今の河川がもう少し広く、河原で禊が行われたと思われます。
社殿の後方には鴻の嶺に岩戸社がありますが、当日は行けませんでした。パンプレットには「神話の天の岩戸に由来し、大きな岩窟の中に天照大御神を祀り、入り口に手力男命が祀られている」と書かれています。
山口大神宮鳥居
▼由緒
山口大神宮由緒jpg
▼境内図
山口大神宮境内図
▼古殿地上が内宮
山口大神宮・古殿地上が内宮
▼内宮
山口大神宮内宮
▼外宮
山口大神宮・外宮
▼多賀神社
山口大神宮・多賀神社jpg
▼五十鈴川
山口大神宮前の五鈴川

境内神社の記載から1520年当時、境内神社の荒祭宮で天照大神荒御魂が瀬織津姫神と認識されていました。
伊勢内宮では荒祭宮のご祭神は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)となっています。天照大神荒御魂=撞賢木厳之御魂天疎向津媛命=瀬織津姫神となりましょう。ただ、古代の文献等には荒祭宮のご祭神が瀬織津姫神と記載されてはいません。伊勢から勅許を賜り、勧請された山口大神宮の由緒は、大変貴重なものだと思っています。

山口大神宮を後にして近くに大内氏館跡の龍福寺に立ち寄りました。
▼案内板
大内館跡
▼龍福寺本堂と緋寒桜
龍福寺本堂と緋寒桜
▼緋寒桜
緋寒桜jpg
▼大内義興像
oouti
▼辞世の句の案内板
大内氏辞世の句
▼境内にある岩や蘇鉄は豊後の国から船で持ってきたと書かれています。雨の夜は豊後が恋しいと泣いていたと。
豊後石


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小山田斎宮:福岡県古賀町 

[ 瀬織津姫神]

「日本書紀」巻第九 神功皇后の条に

九年の春二月に、足仲彦天皇、筑紫の橿日宮(かしひのみや)に崩(かむが)りましぬ。時に皇后、天皇の神の教に従わずして早く崩りたまひしことを痛みたまひて、以為(おもほ)さく、祟る所の神を知りて、財寶(たから)の國を求めむと欲(おもほ)す。是を以って、群臣及び百寮(つかさつかさ)に命(みことおほ)せて、罪を解(はら)へ過(あやまち)を改めて、更に斎宮(いはひのみや)を小山田邑に造らしむ。
三月の壬申(みずのえさる)の朔(ついたちのひ)に、皇后、吉日を選びて、斎宮に入りて、親ら神主と為りたまふ。則武内宿禰に命して琴撫(みことひ)かしむ。中臣烏賊津使主(なかとみのいかつのおみ)を喚(め)して、審神者(さには)にす。千繒高繒(ちはたたかはた)を以て、琴頭尾(ことかみことしり)に置きて、【言】【靑】(ねぎまう)して曰(まう)さく、「先の日に天皇に教えたまひしは誰(いづれ)の神ぞ。願わくは其の名をば知らむ」とまうす。七日七夜に逮(いた)りて、乃ち答へて曰(のたま)はく、「神風の伊勢國の百傳ふ度逢縣(わたらひのあがた)の拆鈴五十鈴宮(さくすずいすずのみや)に所居す神、名は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)と。(後略)

「日本書紀」には仲哀天皇に託宣した神の名を神功皇后が神主となり、武内宿禰が琴を弾き、中臣烏賊津使主を審神者にしていずれの神かを尋ねています。其の場所が小山田邑の斎宮とあり、岩波書店版の訳注には不詳となっていますが、「宇佐神宮由緒記」には福岡県古賀町小山田ありと記載されています。

▼小山田斎宮
小山田斎宮:鳥居

小山田斎宮1

小山田斎宮2
▼拝殿
小山田斎宮3
▼拝殿の扁額斎宮:拝殿中には忌宮の額があり。
小山田斎宮:扁額
▼本殿
小山田斎宮本殿
▼境内社:鴨瀧神社
小山田斎宮境内社:鴨瀧神社

斎宮の右手には聖母屋敷(個人宅)があり、ご主人様に元斎宮のあった場所に案内していただきました。
木の下に社が一つあり、聖母神を祀っているとのことでしたが、斎宮のご祭神が天照御大神の荒魂と由緒記にもありますのでここでは、聖母神=天照御大神の荒魂と考えられます。ただ、古賀市歴史講座『古賀の昔と今』古賀市立図書館蔵では正八幡縁起を元に聖母屋敷には香椎神社と武内神社があり、香椎聖母大明神と触れています。
▼元斎宮地(香椎神社)
元斎宮地
▼聖母屋敷の武内神社他
聖母屋敷武内神社
以前、武内神社の下から沢山の仏画の描かれた石が多く出たそうでご主人様に見せて頂きました。私の関心は武内神社横の仏画の書かれた石の中心に祀られている十一面観音像。伊勢内宮の天照大神荒御魂として各地で祀られている瀬織津姫神は神仏習合では本地仏として十一面観音や不動明王で現します。素朴な十一面観音様ですが、その存在は大きいと私は考えています。
▼十一面観音像
聖母屋敷:十一面観音像
親切なご主人様とのお話の中で聖母屋敷の角にあった竹がほしいと言われ、差し上げたそうですが、災難にあってすぐに戻しに来られたそうです。他にも多々このようなお話があるそうです。小山田斎宮では勧請の経過は分かりませんが境内社に鴨瀧神社があるのも興味深く思いました。

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有王社:瀬織津日女祭祀 

[ 瀬織津姫神]

大分県日田市の夜明ダム近くの有王社の紹介です。

大分方面から夜明ダム横のトンネルを通過してすぐに右折して坂道を上がると左の角に鳥居が見えます。

有王社の由緒は案内板にあるように
「人皇八十代高倉天皇(平安時代末期1168~1183在位)の御代、大蔵永秀の豊後国の関門守護を任として築城の櫛崎城に鎮座の処、宝永二年(280年前)現今の地に御鎮座奉斎す。当時は有王宮と称す」とのことです。

以前、宮司様に他の伝承がないか確かめましたら、「他に伝えられているものはない」とのことでした。

異称で祭られる場合が多い、瀬織津姫神ですが、この案内板をみるとなぜかほっとします。

ご祭神の瀬織津日女神は罪・穢れを大海原の持ち出で給う神との記載があり、大祓いの神としての認識で一柱で祭られています。境内神社に菅原神社と水天宮があります。

▼鳥居
日田市有王社1
▼案内板
有王社2

有王社3
▼拝殿
有王社 4
▼本殿
有王社本殿
▼境内の土俵
有王社6



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ひな祭り 

[ 瀬織津姫神]

明日から三月ですね。ひな祭りについて調べてみました。

三月三日の上巳(じょうし)の節句、女児のある家で雛壇を設けて雛人形を飾り、調度品を具え、菱餅・白酒・桃の花などを

供える祭り。

上巳とは五節句の一。陰陽3月初の巳の日、後に三月三日。宮中では、この日、曲水の宴を張った。桃の節句。(『広辞苑』より)

故風琳堂主人(菊池展明氏)の千時千一夜のブログでは、桃の節句のことを愛知県一宮市の真清田神社の紹介で
以下のように触れていました。
http://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/MYBLOG/yblog.html?m=lc&sv=%BB%B0%B7%EE%BB%B0%C6%FC&sk=1

桃花祭は、真清田神が当地にまつられたのが三月三日であるとされ、真清田神社の最重要な例大祭とされます(現在は四月三日)。三月三日という桃の節句は、「人々は三月三日に桃の木で身を祓ひ、それを川(木曽川)に流してゐた」とされるように、その初源は祓いの神事で、真清田神・三明神がいかに「祓い」と縁故深い神であるかがわかります。

縁故深い神とは瀬織津姫神を指しています。「エミシの国の女神」・「円空と瀬織津姫」上下巻・「八幡比咩神とは何か」には
菊池氏が調べた各地に残る瀬織津姫神伝承を豊富に知ることができます。滝神・水神・祓神・航海神等、様々なご神徳が語られています。桃の節句とご縁のある女神様のお話です。
 
我家の玄関には、遠野で頂いた雛人形を飾っています。この表情がなんともいえません。

雛様

今日は、古代史の会の皆様と九州国立博物館で行われている特別展『宗像・沖ノ島と大和朝廷』をみてきました。国宝級の展示もありかなり迫力がありました。

文化交流展示室では、海の守り神の姥媽神の像を見ることが出来ました。
又、宮地嶽古墳の石室から出た冠は高句麗との関連を示すものとの説明もあり、大変興味深かったです。

今回の特別展は3月5日までです。
http://www.kyuhaku.jp/exhibition/exhibition_s46.html(九州国立博物館HP)



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H29:修正鬼会 

[]

2月3日(金)の豊後高田市の天念寺・2月4日(土)に無病息災・五穀豊穣を祈る「修正鬼会」が行われます。
※天念寺についてはhttp://www.showanomachi.com/events/detail/68
※岩戸寺についてはhttp://www.city.kunisaki.oita.jp/soshiki/kanko/syujoonie2017.html
上記のHPでご確認下さい。
▼鬼に扮するのは、六郷満山の僧侶の方々です。
画像18

『神々の祭祀と伝説』上田正昭著には新羅が日本神話には敵対関係だけではなく、新羅を「金銀の宝」があふれている豊穣の国としてみる視覚も強く反映されているということが書かれ、新羅を神功という架空の人物として征伐に行かせたのは、桃太郎が鬼ヶ島を征伐して宝物を沢山持って帰る民話の構造と似ていると考察する。実際、日本人が新羅を人間が住むところではなく、鬼の国と見ている例が、神功皇后を主題にした中世の「社寺参詣曼荼羅」の絵によくあらわれているという。そこでは新羅を征伐している日本人は、きわめて普通の人間の姿をしているのに反して、彼らと戦って負けている新羅人は鬼のように書かれているのである。日本人にとって新羅人は宝を持っている鬼の国だったのである。という内容が書かれていました。
筑紫の磐井の乱・隼人の乱の背景に新羅擁護の姿勢を示す神が登場していました。その神が本ブログで取り上げている「天照大神の荒御魂=撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)」瀬織津姫という神です。この神様のことは「エミシの国の女神」「円空と瀬織津姫」「八幡比咩神とは何か」菊池展明著に詳しく書かれています。

国東半島の鬼会に登場する鬼は、福をもたらす豊穣の神でありますが、上田氏の視点には、日本神話に登場する王権神話の大きな特徴は、他界を訪問することによって今まで置かれてきた弱者の立場を逆転させることが出来ると書く。そういう意味で王権神話における他界とは、主人公の身分を変換させてくれる象徴的空間だったとある。

ブログタイトルの「鬼と仏の国東半島めぐり」で今まで鬼関連を取り上げませんでしたが、上田氏の新羅を宝を持っている鬼の国とする上記の本を興味深く読みましたので「鬼会」の紹介のついでに触れてみました。神仏習合の濃く残る国東半島もある意味では他界の存在する空間なのかもしれません。

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新年のご挨拶 

[ ご挨拶]

笑門来副

旧年中は、拙いブログにお越し下さり、大変ありがとうございました。

本年もどうぞよろしくお願い致します。

▼1月1日:日出町深江港
2017元旦
▼鳥尾の滝(ちょうのおのたき)別名「那智の滝」広島県庄原市:昨年5月撮影
鳥尾の滝

伯耆の鳥上山(島根県奥出雲町の船通山)にある「鳥上滝」に対して比婆山を鳥尾の峰といい、この滝を「鳥尾の滝」と呼ぶそうです。30m余の高さから落下する様から尾長鳥の尾を連想することもできると案内板にありました。

本年も皆様にとって幸せな1年となりますようにお祈りします。 おかみ

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「宇治拾遺物語」小野篁(たかむら)の頓知のお話 

[ 本の話]

「今昔物語集・宇治拾遺物語」小林保治訳に隠岐に配流された小野篁(たかむら)の頓知のお話がありますのでご紹介します。

〔内裏の立札〕
今は昔、小野篁という人がおいでになった。嵯峨帝が在位中の時、誰かが内裏に札を立てたが、それには「無悪善」と書かれてあった。帝がお召しになって、「読め」と仰せられたので、篁が「読めは読めますが、おそれ多いことでございますので、申し上げかねます」とお答えすると、「ともかく申せ」と仰せられるので、篁はしかたなく、「さがなくてよからんということでございます。すなわち我が君を呪い申し上げているわけでございます」と奏上した。すると帝が「おまえ以外には誰が書こうか」と詰問なさったので、「こういうことになっては困りますので、初めに申し上げますまいと申し上げたのでございます」と篁が困惑して申し上げる。
〔難題への明答〕
帝が「では、書いてあるものなら何でも読んでみせると言うのだな」と仰せられたので、「何にても読み申しましょう」と篁が御返答になると、帝は紙に片仮名の子という字を十二お書きになられて、「読め」と仰せられた。篁が即座に「ねこの子の子ねこ、ししの子の子じし」と読んでみせたので帝は微笑まれて、何のおとがめもなく終わったという。

小野篁(たかむら)―漢学者・書家・歌人(八〇二~八五二)。八三四年、遣唐副使に任ぜられたが、正使と争って乗船せず、八三八年、隠岐に配流され、「わたの原八十島かけて漕ぎいでぬと人には告げよ海人の釣り船」(『古今集』)の歌を詠んだことは有名。
◇無悪善―無悪を「さが、なし」と訓じて「嵯峨無し」の意とした。◇片仮名ー当時は片仮名の「ネ」が「子」と表記されたので、「し・こ・ね」の三通りの読み方ができた。

「子子子子子子子子子子子子」凡人の私には読めません^^

さて以下は隠岐の島に配流された小野篁の見たであろう景色です。
壇鏡の滝に行く途中の都万の海辺です。
隠岐の島1

隠岐の島2

以下は帰りのフェリーから写しました。

隠岐の島4

隠岐の島3

隠岐の島5

隠岐の島6

隠岐の島7

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松江市八束町大根島の瀬織津姫神祭祀 

[ 瀬織津姫神]

「大根島の由来」を島根県八束町島めぐりのパンフレットには以下のように書かれています。

「出雲風土記」には大根島は踞蛸(たこ)島と記され、当時の人は栲(たく)島と呼んでいたという。戦国時代ににはすでに大根島の名があり、江戸時代の「懐橘談(かいきつだん)」には焼(たく)島、俗に大根島とふ、とある。タコ島、タク島が大根島と変化したのか、あるいは、大根の名産地ゆえに名づけられたのか、島名の由来については定かではない。

ちなみに「広辞苑」には栲(たく)をコウゾの古名。豊後風土記に「-の皮を取りて木綿を造る」とありました。コウゾはクワ科の落葉低木で樹皮の繊維から糸や紙を作るそうですから、この地域一帯にはコウゾの木が多く自生していたのかもしれません。
大根島案内板

大分県中津市の八面山の麓に宇佐神宮の摂社で「大根川神社」という社があり、ここには神功皇后が大根を洗ったなどと伝承が伝わり、大根とはなんぞやと思っていましたので町役場で確認しましたら、この由来の記載のあるパンフレットを頂きました。

およそ20万年前の火山活動によってできた島が大根島で、中海に浮かぶ大根島の周囲には弁天島などもあり、隣接江島の工業地帯とは別ののどかな風景が広がっています。パンフレットを見ると他にぼたん園や観光バラ園などもあるようです。
▼三社神社
三社神社
▼三社神社の鳥居近くに大きな石灯籠がありました。島で一番大きいものだそうです。
三社神社石灯籠
▼拝殿
三社神社拝殿
三社神社(ご祭神:大己貴命・事代主命・三保津姫命)は、こんもりとした林の中にありました。瀬織津姫神は三社神社に明治42年、遅江地区から合祀されました。(明治期の神社明細帳より)

以前祀られていた間津崎(まつざき)神社跡は、遅江地区の区民会館敷地内に今も祠が残っています。パンフレットにも小さく紹介されていますが、ご祭神は瀬織津姫命と速秋姫命(ママ)で海上の守神として信仰されていました。現在では竜宮社と豊受社を祀るようです。間津崎神社では明治時代末までは盛大な祭が行われ大勢の人で賑わったといいます。
間津崎神社跡
▼遅江区民会館前から中海を見る
遅江から
▼島の風景:全隆寺の花咲き観音像
全隆寺(曹洞宗)花咲観音像
▼入江にある小さな島(近くで島の名前をお聞きしましたが分かりませんでした)
入江

 島根県立図書館所蔵の明治期の神社明細帳を全て閲覧しましたら、八幡神社比売神の記載は宇佐神宮から勧請や岩清水八幡宮からのものもほぼ玉依姫一色で宇佐の比売神は玉依姫かと思わず思ってしまうほどでした。「古事記」(中)次田真幸著では「玉依姫は神霊の依りつく巫女を表します。」とあります。他に水神はほぼミズハノメ神で統一されていました。
明治期に3~4回ほど全国的に神社の由緒やご祭神を神社庁に各神社から提出させられた時期があります。その中で無格社は村社へそして郷社へと昇格願いが出されましたが多くの神社で瀬織津姫という神はご神名のまま、生き残ることが出来ませんでした。
島根県で気づいたのは、瀬織津姫神の異称として伝わる八十枉津日神は石見国邑智郡日貫村字櫻井山(旧地名)の郷社である大原神社の摂社桜井神社ではご祭神名に八十麻賀津毘神との記載があり、天暦八年に静馬庄左衛門ナル者紀州本宮より勧請一社を建立スとされています。他の祭神構成をみると紀州本宮とは熊野大社のことだろうと推測されます。那智の滝神でもあった瀬織津姫神は八十麻賀津毘神としてご祭神に記載されたのでしょうか?そして重要文化財「佐太神社  佐太神社の総合的研究」発行者 鹿島町立敵視民俗資料館には「天保本」の収集の住吉奏神のなかで

八十狂都毘ノ神との記載のあとに八十狂津日神ハ内宮ノ摂神荒祭りノ宮ニ坐す神直日神大直日神ハ外宮ノ摂神高宮ニ坐す・・・という記載となります。

「エミシの国の女神」菊池展明著には
『倭姫命世記』に「荒祭宮一座 皇大神荒魂(すめらおおかみのあらみたま)、伊奘那伎大神所生神、名は八十枉津日神(やそまがつひのかみ)也、一名瀬織津比咩神是(これ)也」とあります。

また、島根県の明治の神社明細帳の石見国那賀郡今福村(旧地名)の村社八幡宮ではご祭神の一柱として八十狂日神の記載がありました。大分県神社明細牒や三国名勝図会にも散見された瀬織津姫神の異称である八十枉(禍)津日神というご神名は古事記記載の「穢れ繁き国に到りたまふ時の汚垢(けがれ)によりて成れる神ぞ・・」に因があるのかは解明できませんが、各地で枉という字が狂という字に置き換えられるとき、そこに暗い闇を感じます。そしてその闇は島根県にも存在しました。

他に島根県では、瀧神社のご祭神として瀬織津姫神が祀られている例が数社が見受けられたことを報告します。

あと、石見国那賀郡井野村(旧地名)に郷社八幡宮があり、文治元年土佐守重信という郷士が或る夜、夢で林の中に神鏡懸かっているのを見て林の中で見つけ城主に報告し、岩清水八幡宮を勧請して神鏡をご神体として祀ったとあります。この八幡宮のご祭神は応神天皇・神功皇后・湍津姫命です。この湍津姫命は滝津姫命で滝の女神である瀬織津姫神の異称同体の神であります。
八幡神比売神のご祭神名に玉依姫オンパレードが続いたあとだったのでふ~と力が抜けたのを覚えています。宇佐神宮では比売神を宗像三女神としますが、湍津姫命はその中の一神でもありますが、宗像祭祀の中で最重要な神であります。瀬織津姫神という神を全国規模で調べ、本に残した菊池展明氏(故風琳堂主人)は最後に出雲を旅する予定でした。志半ばで逝ってしまった故人に代わり、出雲の地を少しずつ歩いてみたいと思います。

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隠岐の島 壇鏡神社 

[ 瀬織津姫神]

隠岐の島の壇鏡神社のご紹介です。
壇鏡神社鳥居

主祭神 瀬織津姫命
配祀  諾浦姫命(峯津神社)・大山咋命(日吉神社)・事代主命(三保神社)、牛頭天王・八幡社合祀
神紋  逆二巴
祭日  例祭 四月1日 祈年祭 3月1日 新嘗祭 12月1日
境内社 弁財天社
由緒・沿革
     創立年月日は詳らかではないが、縁起書の伝える所によると、光山寺第二代住職慶安が一夜夢想あるによって、峻険なる山道を登り行くに源来滝と称する小滝があり、傍の壇の上に一鏡あるを見て之を祀ったのが社名の起こりであると。この光山寺は参議小野篁が隠岐配流中滞在せる寺院なる所から推察すると、凡そ千二百年前の創立と見られる。しかしてこの社霊験あり、しかも社地狭小なるにより、後世この源来滝の下流にある壇鏡滝の畔の現在地に移転したものである。この滝は裏見滝で隠岐島第一の壮観と讃えられ、しかも往古より唯一の修験場としても知られ、祭神は罪穢を清め、凶事の除去特に鎮火の神として霊験があるにより、広く島民一般の崇敬をあつめ国内神名帳所載の神社である。(後略)
壇鏡神社・石碑

壇鏡神社への石段

壇鏡神社拝殿

壇鏡の滝(本殿背後))
▼裏見滝
壇鏡神社裏見の滝
▼滝の裏の崖窟に祀られている虚空蔵菩薩・不動明王像もう一体は不明(光山寺に祀られていたが明治の廃仏毀釈で野ざらしになっていたのを大正時代にここに祀った
虚空蔵菩薩・不動明王
▼壇鏡の滝案内板
壇鏡の滝案内板
▼本殿より下の滝
壇鏡の滝(神社より左下)

▼壇鏡神社の近くには光山寺跡があり、小野篁(おののたかむら)の在所跡。
(案内板より)
創建は宝神年間(770~780)といわれ、平安時代に遠流となった小野篁が過ごした場所といわれています。
小野篁は承和元年(846)遣唐副使となるものの、渡航しなかったことなどの罪により、承和5年(838)に隠岐に遠流の刑に処せられました。配所は、当初島前の海士町豊田でしたが、その後島後に渡りこの光山寺に移ったとされています。その後、承和7年(840)に許されて帰京するまで、ここから小路の満願寺へ仏像を彫るために通う途中、その途中の都万目の里のあこなという女性と恋仲になるなど悲恋伝説を残しています。平安時代の勅撰和歌集「古今和歌集」には、篁が隠岐への船出の際に詠んだとされる和歌「わたの原 やそしまかけて こぎいでぬと 人にはつげよ あまのつり舟」と、隠岐に流されていたときに詠んだといわれる歌「おもきひや ひなのわかれに おとろへて あまのなはたき いさりせんとは」が収められています。古い堂宇は、明治の廃仏毀釈で焼失し、往時を偲ばせるものは礎石のみとなっています。大正9年(1920)、檀家により小堂が建立され、本尊と小野篁作と伝えられている焼け残った仏像が安置されています。また、境内には江戸時代に那久村に配流となった流人の墓があります。
▼小野篁在所跡
在所跡

小野氏は滋賀県大津市周辺を本拠としていましたが、武蔵国一ノ宮の小野神社のことに触れて「円空と瀬織津姫」下巻菊池展明著には円空の時代、武蔵国一宮は氷川神社であったが、同社が「一宮」を名乗るのは中世以後のことで、それまで武蔵国一宮は小野神社であり、ご祭神は『延喜式』神名帳では瀬織津姫神一座で瀬織津姫神は小野氏が奉祭した神とみられるとあります。

壇鏡の滝案内板には小野篁は、赦免となって帰京できるように壇鏡の滝に打たれ、一心不乱祈願したと伝えられています。
遠流となった隠岐で小野篁は小野氏の奉祭する瀬織津姫神という滝神に祈りを込めたと思われます。
壇鏡の滝案内板にはここの水は全国名水百選のひとつで勝者(女神)の水、火難防止の水としても有名で、750年の歴史のある島の闘牛大会や、隠岐古典相撲大会には出場する関係者は必ずこの水を大会前日(深夜)に先を競って迎え、清めて大会に臨む慣習が今もなお続いている。また、野焼き等の火入れの祭には必ずこの水で清め御守として利用するとともに、島内でも長寿者が多いところから長寿の水(万病に効く水)としても重宝がられていると書かれていました。とても島民に崇敬されていることが伝わる神社でした。
 引用 「神国島根」「都万村誌」

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古代八幡信仰ー語られぬ氏族 

[ 古代八幡信仰]

宇佐神宮鳥居

古代宇佐宮は、地主の宇佐氏・応神天皇を現した大神氏・秦氏系と伝えられる辛嶋氏の三氏族が主に関わりました。

また、「八幡本紀」には祠官四姓を「宇佐、大神、田部、漆間」と記しています。

「姓氏家大辞典第二巻」には田部氏について以下のように書かれています。

豊前の田部氏 田部勝の裔にして、宇佐八幡の祠官也。「八幡本紀」に祠官四姓を「宇佐、大神、田部、漆間」と見えたり。

日向の田部氏 宇佐大鏡に「諸縣大夫田部宗綱」なるものを載せたり。前項氏の族なり。猶ほ諸縣條参照。又日向纂記に

「直彦宿禰は宇佐八幡宮の総辨官たり、田部姓を賜ふ。・・・」

※辨官とは律令制の官命で太政官に所属し、文書を受理し、命令を下達するなど行政執行をすると広辞苑に書かれています。

「古代氏族系譜集成」には

田部 宇佐八幡宮の祠官家 饒速日命を祖とする物部氏とあります。

宇佐八幡宮の総辨官たり、田部姓を賜ふとあるのは、祠官のなかでもかなりの地位にあったものと思われますが、

宇佐市では物部氏の祀る原初太陽神である饒速日命を祀る神社は1社のみで宇佐神宮祭祀の中からは完全に消えています。

私は物部氏の信仰を原初八幡神に重ねて考えています。「八幡比咩神とは何か 隼人の蜂起と瀬織津姫神」菊池展明著には

宇佐神宮の二大神事である「放生会」に関わる銅鏡鋳造時に火明命の降臨が語られていました。

銅鏡奉納儀礼は途絶えましたが田部氏の信仰の片鱗がどこかで見つかるやもしれず、もう少し八幡信仰を追ってみたいと

思っています。

「古代氏族系譜集成」でもうひとつ面白い記載を見つけました。

大神氏 「三輪高宮家系」(「大神神社史」)・『古代氏族系譜集成』『宇佐神宮史』『姓氏家大辞典』

大神(おおみわ おおが) のちに「おおが」と訓じた 宇佐八幡祠官家

大国主命を祖とし、比義の注には欽明29於宇佐郡菱形山(ママ)祭八幡姫大神


大神比義が五穀を三年断ち、祈ると三歳の童子として現れ、「我は是れ日本人皇第十六代誉田天皇広幡八幡麻呂なり。我名を

ば、五穀霊験威力神通大自在菩薩と曰ふ。」と託宣をしました。

応神八幡神を現した大神比義に姫神信仰が語られるのはなぜでしょうか?

それも欽明時代のこととして・・・

速見郡大神の愛宕神社は比義の勧請と語られていますが、東北に行くと愛宕神社のご祭神は

カグツチではなく瀬織津姫神だそうです。比義の信仰の一端を垣間見たようなはっとした記載でした。

宇佐八幡の姫神は宗像三女神と伝えられ、三女神の中心神がタギツ姫神(滝津姫)=瀬織津姫神です。

詳しい考証は「八幡比咩神とは何か 隼人の蜂起と瀬織津姫神 追録 宗像祭祀の解読」菊池展明著に書かれています。









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『大和志料』にみる瀬織津姫神 

[ 瀬織津姫神]

「エミシの国の女神」菊池展明著に『大和志料』の広瀬神社の項に記載の荒祭神社の引用がされています。

荒祭神社
本社の艮(鬼門の方角)にあり。天照大神の荒魂瀬織津姫神を祭る。同抄(「広瀬神社由緒書」)に摂社荒祭神殿一座(昔廊内の本社の艮に在った)。天照大神の荒魂で、この神は祓戸神瀬織津姫神と同体と言う。(引用者現代語訳)

引用の箇所や他の部分を実際に読みたくなり、古書店から取り寄せました。

『大和志料』は奈良県小牧知事が明治二十三年此の地に関する調査を大神神社宮司の斉藤氏に託したもので所陵墓、村里、山川、神社、佛寺、城壘等を詳しく記載したものです。奈良県教育委員会が大正三年十二月に出版し、私が入手した『大和志料』は昭和十八年に改訂されたものです。
大和志料


『大和志料』のなかで新たな瀬織津姫神の祭祀を見つけることが出来ましたのでご報告します。
「エミシの国の女神」の付録Ⅱには奈良県の本殿主祭神をまつる神社は以下の5社を紹介しています。

大将軍神社   吉野郡十津川村小井
菅原神社    吉野郡十津川村村上湯川
水分神社    吉野郡東吉野滝野
水分神社    吉野郡東吉野平野
高生神社    高市郡高取町清水谷

以下は『大和志料』より

祓戸神社 春日神社(三笠山麓)参詣の前にここで祓いを修めとあり、祓戸明神 瀬織津比咩明神是也と1柱で記載あり 上巻

祓處神社 狭井坐大神荒魂神社( 狭井川の南)二の鳥居左側にあり、同社社記に「祓殿宮、瀬織津比賣神」 中巻

多坐弥志理都比古神社神社 多村大字多ノ宮内にあり、   中巻
社司多神命秘傳 
珍子聖津日霎神者天忍穂耳尊。春日郡ニ坐ス宇豆御子神社同體異名也
天祖聖津日霎神者天疎向津媛命。春日郡ニ坐ス高座天照大神々社同體異名也
ウィキペディヤには「多坐弥志理都比古神社神社」は多氏の祖神である神八井耳命を祀ったものとみられると書かれていますが、『延喜式神名帳』には「大和国十市郡 多坐彌志理都比古神社二座」と記され、水知津彦神、火知津姫神の水知津彦神は大宮に祀られる天忍穂耳尊、火知津姫神は天疎向津媛命とあります。若宮の竹田神社には原初太陽神の火明命のご神名も見られ、特に興味深い神社であると感じました。春日郡の天照大神高座神社には白飯之滝があり、どのような旱天でも水が絶えることがないと言われます。神奈備さんHPには同所の岩戸神社にはご祭神を市杵島姫大神とし、1100年前に空海が高座神社参詣の折、大神の託宣によって創建し、日本最古の岩窟弁財天と称せられたという神社の栞を紹介しています。託宣する神・白飯之滝神・弁財天と習合する神を考えると同體異名也と書かれた『大和志料』は興味深いです。

甘樫坐(あまかしにます)神社 下巻
飛島村大字豊浦
八十禍津日命 大禍津日命 神直昆(日)命 大直(日)命
正邪を判定する方法に「盟神探湯」の神事が伝えられています。
詞林采葉ニ「衣ヲホスト云フコトハ甘橿明神トテヲハスルハ人ノトガノ虚実ヲ正シ給フ神ニテ其衣ヲ神水ニヌラシホスト申傳ヘタリ」
甘橿神ニ新誓シ衣ヲ神水ニ濡ラシ之ヲ干シ其ノ曲直ヲ判ズルハ即チ盟神探湯ノ遺法ヨリ出デタルモノナランモ、其ノ方法詳ナラズ。

高角神社  下巻
高見村大字平野
祭神は埴山彦命トスルモ建角身命ナルベシ とありますが、
明細帳ニハ、平野村字高見山 無格社 瀬織津姫トアリ




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託宣する神:宇佐神宮3 

[ 託宣する神]

「八幡宇佐宮御託宣集」霊巻五によれば、

金刺宮御宇二十九年戊子。筑紫豊前国宇佐郡菱形池の辺(ほとり)、小倉山の麓に鍛冶の翁有り。奇異の端を帯ぎ、一身と為(し)て、八頭を現す。人聞いて実見の為に行く時、五人行けば即ち三人死し、十人行けば即ち五人死す。故に恐れを成し、行く人無し。是に於て大神比義行きてこれを見るに、更に人無し。但し金色の鷹、林の上に在り。丹祈の誠を致し、根本を問ふて云わく。誰か変を成すや、君の為す所かと。忽に金色の鳩と化り、飛び来って袂の上に居る。爰(ここ)に知りぬ。神変人中を利すべしと。然る間、比義五穀を断ち、三年を経るの後、同天皇三十二年辛卯二月十日癸卯、幣を捧げ、首を傾けて申す。若し神為(た)るに於いては、我が前に顕わるべしと。即ち三歳の少児と現れ、竹の葉の上に於て宣ふ。辛国の城に、始て八流の幡と天降って、吾は日本の神と成れり。一切衆生左にも右にも、心に任せたり。釈迦菩薩の化身なり。一切衆生を度(すくは)むと念じて神道と現れるなり。我は是れ日本人皇第十六代誉田天皇広幡八幡麻呂なり。我名をば、五穀霊験威力神通大自在菩薩と曰ふ。
▼宇佐神宮菱形の池
菱形池

最初に語られる五人行けば即ち三人死し、十人行けば即ち五人死すというお話は「播磨国風土記」の佐比岡にも見られます。

佐比岡 佐比と名づくる所以は、出雲の大神、神尾山に在しき。此の神、出雲の國人の此處を経過(すぐ)る者は、十人(とたり)の中、五人を留め、五人の中、三人を留めき、故、出雲の國人等、佐比を作りて、此の丘に祭るに、遂に和(あまな)ひ受けまさざりき。然る所以は、比古神(ひこがみ)先に来まし、比賣神(ひめがみ)後より来ましつ。ここに、男神、鎮まりえずして行き去りましぬ。この所以に、女神恨み怒りますなり。然る後に、河内の國茨田(まむた)の郡の枚方の里の漢人(あやひと)、来至たりて、此の山の邊に居りて、敬ひ祭りて、僅(はつか)に和(やは)し鎮むることを得たりき。此の神の在(いま)ししに因りて、名を神尾山といふ。

「播磨国風土記」では荒ぶる神が女神で先に鎮座してくれるはずの男神がいないので怒ってしまい、出雲の国の人がここと通ると十人のうち、五人殺し、五人来れば三人殺したとなりましょうか。宇佐の伝承ももしかすると荒ぶる神は女神で男神が祀られなかった為に荒ぶる神になったと考えられないでしょうか?大神比義が現した神は金色の鷹から鳩へと変身します。五穀を三年断ち、祈ると三歳の童子となって現れ、我は是れ日本人皇第十六代誉田天皇広幡八幡麻呂なり。我名をば、五穀霊験威力神通大自在菩薩と云います。そして現在の宇佐神宮の第一殿に祀られるのが、七二五年(神亀二年)のことです。

「播磨国風土記」で語られる出雲の男女神の伝承は、とても興味深いものでした。
別に出雲の神社で荒神についての記載で面白いものを見つけました。
「荒神社」の祠を見つけた方が、太田亮博士曰く、荒氏は「任那帰化族なるべし」と推量されているとし、おそらく南朝鮮の伽耶地方を故郷とする氏族なのであろうとし、古代朝鮮半島の全体もしくは一部をカラ(韓)、カヤ(伽耶)、アヤ(漢)、アラなどと呼んだとすれば、「荒神社」は韓神を祀る祠なのかもしれないと想像してしまうというものです。「播磨国風土記」で枚方の里の漢人(あやひと)が祀ると鎮まったとありますのでこの荒神社の祠について書かれた方の記述はあながち的を得ているのかもしれません。

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託宣する神:宇佐神宮2 

[ 託宣する神]

「八幡御託宣集」日本国御遊化の部より引用

始は辛国宇豆高嶋(からくにうつのたかしま) 天国排開広庭(あまつくにおしひらきひろにわ)天皇御宇三十二年辛卯、宇佐郡(のこおり)菱形の大尾山に霊異有るの間、大神比義祈り申す時、天童(あめのわらは)として現れ、言(のた)まはく。

辛国城に始めて八流の幡と天降りて、我は日本の神と成れり。一切衆生(あるほどのひと)、左(そ)も右(う)も心に任せたり。
釈迦菩薩の化身なりてへり。余は略す。

人皇第一主、神日本磐余彦(かんたまといわれひこ=神武天皇のこと)尊御年十四歳の時、帝釈天に昇り、印鑰を受け執り、日州辛国城に還り来たまふ。蘇於峯是なり。蘇於峯は霧島山の別の号なり。

訳注(大隅国にあり、東西の二峰あり、東峰は高千穂または予峰(ほこのみね)といい、西峰は韓国嶽という。両峰は競い立つので、高千穂二神の峰という。


高千穂峰の鉾は、霧島ジオパーク案内板に戦前には雨乞いの神ともされ、鉾の前で祭祀を行っていたと書かれています。
天孫降臨とともにそこに見えてくるのは水を司る神の伝承です。

写真で高千穂峰をみていただきましょう。
高千穂峰1-1

▼霧島ジオパーク案内板
案内板
高千穂峰と御池(「三国名勝図会」には性空上人(910~1007)が御池のほとりで修行中に九頭の神龍が現れ、上人に宝珠を渡したとの記述があります。ジオパーク案内板より)
高千穂峰の下の御池jpg
天孫降臨神籬斎場 (古宮址)ここから見えるのは御鉢部分。
高千穂峰8
▼東霧島神社元宮と高千穂峰
高千穂峰

高千穂峰3
▼高千穂峰
高千穂峰2

高千穂峰4

高千穂峰6
▼天之逆鉾
高千穂峰5

▼桜島を望む
高千穂峰7

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託宣する神:宇佐神宮 

[ 託宣する神]

八幡
▲宇佐神宮第二殿
「八幡宇佐宮御託宣集」は八幡宇佐宮の根本縁起が書かれたものです。著者の神吽(じんうん)が正応三年(1290)二月十日頃に起筆し、正和二年(1313)八月頃稿了されたものです。正応三年は神吽の六十歳に当り、八十三歳まで書いて翌年五月に死去しています。第三巻冒頭の序文によれば、この書を編纂着手の時点で、すでに二十余年間にわたる準備期間があったと伝えられています。神吽の生年は寛喜三年(1231)で辛嶋・宇佐両氏と並んで宇佐神宮の神職であった大神氏の家系に属します。応神八幡神に奉祀した司祭者として大神比義がおりますが、神吽は大神比義の第二十一代の家に生誕し、出家して宇佐宮の神宮寺の弥勒時安門坊に住み、学僧として弥勒寺講代を勤めました。
 「八幡宇佐宮御託宣集」の第三巻には八幡神の神託が多くみられます。この第三巻の中心テーマは「日本国御遊化部」で大隅の曽於郡の霧島山に八幡神が天降ってより、小倉山の三神殿の成立までに言及しています。
(以上は、「八幡宇佐宮御託宣集」重松明久校中訓訳の解題部分からの一部引用です。)

私は大切な資料の「八幡宇佐宮御託宣集」は背景に応神八幡神系の神吽が書いたものであるとの認識で読むことが必要と考えています。たとえば、

辛国城に始めて八流の幡と天降りて、我は日本の神と成れり、一切衆生、左も右も心に任せたり。釈迦菩薩の化身なりてへり。(後略)人皇第一主、神日本磐余彦尊御年十四歳の時、帝釈天に昇り、印鑰(いんやく)を受け執り、日州辛国城に還り来たまふ。蘇於峯是なり。蘇於峯は霧島山の別の号なり。
▼硫黄山と霧島山
えびの高原からみる霧島山

▼高千穂の峯からみえる霧島山
霧島山

「八幡神」の依り代が八流の幡として書かれていますが、ここで神吽は八流の幡を詳しく述べていません。大分市の一宮の柞原(由原)八幡宮は以前紹介しましたが、「大分市史」下巻に由原八幡宮縁起絵巻が伝わっています。一部紹介されていますから読んでみます。
上巻
<第一段>仲哀天皇が、新羅国郡兵とともに攻めてきた塵輪を射殺する。塵輪は頭が八つある怪物である。天皇は流れ矢にあたり、神功皇后に、異国への出兵を遺言して崩御する。
<第二段>神功皇后が、三韓に向って出発したところ、その途中に住吉明神が老人の姿で現れて行をともにする。
<第三段>住吉明神が行く手を妨げる大牛を海中に投げ込む。
<第四段>住吉明神が浅瀬にかかった船を置きに押し出す。
<第五段>住吉明神が弓に矢をつがえて岩を貫く。
<第六段>住吉明神がせいのうの枚を舞って、磯童を海中からまねきよせる。
<第七段>神功皇后が竜宮より、磯童が持参した満ち珠・干珠を使って、新羅の軍船を全滅させる。
下巻
<第一段>神功皇后が新羅王の前で戦に勝ったことを岩に書く。
<第二段>神功皇后が凱旋して、筑前国の鵜羽根葺(うばねぶき)の産屋で応神天皇を出産する。
<第三段>応神天皇が崩御し箱崎に戒定会の箱を埋め、しるしの松を植える。そこに赤幡白旗各四枚が、天からたれさがって降りる。
<第四段>応神天皇の霊が宇佐の馬城峯(まきみね)の岩に垂迹し、岩が金色の光を放つ。仁徳天皇が勅使を派遣すると、金色の鷹になって現れる。大神比義(おおがのこれよし)の請いに応じ、三歳の童児になって竹の葉に現れ、われは誉田天皇であると名乗る。
<第五段>和気清麻呂が称徳天皇の怒りにより、両足を切られ、猪に乗って宇佐八幡宮に参詣する。小蛇に足をなめられ足が治り、足立寺を建てる。
<第六段>金亀和尚が宇佐宮に参籠し、神託により賀来社に八幡を勧請し、みこしの行列が通る。

以上のような十四場面の物語は伝承では文亀二年(1502)に絵を藤原光茂が書を第二位の親王と記し、青蓮院宮尊鎮奉親王ではないかと考えられています。

「日本書記」に書かれていた仲哀天皇の琴を弾く話も神功皇后の船の先鋒として軍船を導く荒魂の話もここには語られていない。大分弁でいうと「なしか?」となろう。八流の幡は由原八幡宮縁起絵巻によると赤幡・白旗の各4枚の幡でした。この幡が赤幡の神、白幡の神という太陽神の男神と月神の女神と考察したのが、故菊池展明氏でした。「八幡比咩神とは何か」風琳堂出版には白幡の神が宇佐神宮第二殿の比売大神だと。宇佐神宮では第二殿のご祭神は宗像三女神と伝えられていますが、宗像祭祀の解読についても同書に詳しく書かれています。学僧といわれた神吽が書いた「八幡宇佐宮御託宣集」にはどのような託宣が書かれているのでしょうか?(つづく)

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