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鬼と仏の国東半島めぐり

国東半島に残る鬼伝承と仏の里を菜花のお宿のおかみが ご案内します。楽しんでいただけたら幸いです。

出雲神在月 

[ 古社]

旧暦十月、神無月(かんなづき)と呼ばれるこの月を、出雲では神在月(かみありづき)と呼びます。全国の神々が出雲に集い、「神議(かむばかり)」という会議をし、集まった神様が「すべてのものご縁を結びつける」という決定をするそうです。
出雲大社

出雲大社では神在祭が11月18日から24日まで行われていますが、直接に出雲大社へ行くのではなく、八百萬の神々は、まず出雲市の朝山神社で旧暦十月一日から十日まで過ごされます。朝山神社では神迎神事を行い、旧暦十日の午後3時30分から神送神事が行われ、鳥居を出て宮司様が「お立ち、お立ち」の掛声で神送りをし、八百萬の神様は出雲大社へと向われます。出雲大社より先に神々の集まるという朝山神社とはどんな神社なのでしょうか?
▼朝山神社拝殿
朝山神社拝殿jpg
▼由緒
朝山神社由緒
▼神送祭
朝山神社神送祭1

朝山神社神送祭2
 ▼雲井滝
雲井滝

「朝山村史」には古老の伝説とし、大己貴命と邑日女命の神婚の後、邑日女命は懐胎を悲しみ、大川に出て神子を柏ノ葉に包み、大己貴命に流し届け、その御子は日御崎に着いたと書かれています。この伝承は海人族による南方系神話と近いものと考えています。

「旧暦出雲の神在社巡拝」によると日御崎神社の由緒には、天照大御神は「天の下の国民を恵まん」と仰って経島に降臨なさいました。素盞鳴尊は国造りを終えられ「吾が神魂はこの柏葉の止まる所に住まん」と仰って、放たれた柏葉が隠ヶ丘に止まりました。こうした神勅によって日御崎に二神がお鎮まりになりました。

この神話の二つを繋げると素盞鳴尊の母は邑日女命で朝山は、母なる神の居る場所となりましょう。
▼日御崎神社・神の宮
神の宮

神在月には古来より稲佐の浜から神様が出雲にみえられるとされ、神迎のご神事は11月17日午後7時から行われました(2018年)。神々を先導さなるのは「龍蛇神」とのことです。稲佐の浜の弁天岩付近には、動けないほど沢山の方々が、集まっています。海側でご神事を待っていると少しずつ波が寄せてきます。地元の方々は、雨靴を履かれていました。どうにか濡れずに済み、神様に感謝!
▼稲佐の浜の弁天岩 神迎え神事前日撮影
出雲弁天岩
▼神迎え神事 案内板より
神迎の道
▼11月17日午後7時からのご神事の様子
出雲神在祭稲佐の浜神事

出雲れきはく
出雲大社横の古代出雲歴史博物館では、神仏習合時、出雲大社と関わりがあるとされる鰐淵寺のご神像や松江市の成相寺のご神像が多く展示されています。朝山神社の別当寺が鰐淵寺とお聞きしたので眞玉箸玉之邑日女命のご神像かもしれないな?と思いながら、手を合わせて展示を楽しみました。

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吉井町の珍敷塚古墳の鳥についての仮説~日鮮神話伝説へ 

[ 対馬]

吉井町の珍敷塚古墳の鳥についての仮説~日鮮神話伝説へ

船の舳先にいる鳥を教育委員会では特定をしていませんが、私は太陽神と関りの深いカササギ(カチガラス)ではないかと考えています。カササギは、鵲と書きます。『三国遺事』の脱解伝説には、「鵲集一舡上舡中有一櫃子長二十尺、廣十三尺、曳其船置於樹琳下」とあり、鵲が脱解の舡を導いたと書かれています。鵲は天地の間を往来する霊鳥で、七月七日夜、
鵲は、牽牛織女の間にある天の川に橋を架けに行くという伝説が中国に詩人たちによっても歌われ、朝鮮半島でも俗信として語りつがれています。
カチガラス

 『三国史記』新羅本紀 著者 金 富軾著 訳者 林英樹より 

脱解はもと 多婆那国の生れでその国は倭国の東北(百)里の所にある。はじめ その国の王が女人国の王女を娶って妻としたが 妊娠して7年にして大きな卵を産んだ。王は「人が卵をうむとは不吉なことである。これを棄てよ」といったが 王の妻は棄てるにしのびず 絹で卵を包み 宝物と一緒に箱に入れて海に浮べてその流つく所にまかせた。はじめ金官国の海辺に流れ着いたが 金官国人はこれを怪しんで取らなかった。それから辰韓の阿珍浦の浜辺に流れついた。これは始祖赫居世在位39年の時のことである。 ちょうどその時 海辺に老婆がいて 縄を以て海岸にひきよせた。箱をあけてみると 中に1人の小児がいた。 その母はこの小児をとりあげて育てた。成年になるや身長が9尺もあり 風貌が秀朗であり 知識がひとよりもすぐれていた。 ひとびとは「この児の姓を知らない。はじめ箱が流れついた時に 鵲が鳴きながら飛んでついてきたので鵲の字の片方を省略して ”昔”の字を以て姓とし また箱を解いて脱け出して来たから名は”脱解”とするがよい」といった。脱解ははじめ魚取りを業として その母を養ったが少しも劣ることがなかった。母は「汝は普通の人ではない。骨相がすぐれているから学問をして巧名をたてるがよい」といった。彼はここにおいて学問に専心し兼ねて地理にくわしかった。楊山の下の瓠公の家を望見して そこが吉地であることを知り詭計を設けてそこの地を奪って住んだ。その地が後に”月城”になった。南解王5年になって 王は脱解が賢明だという話をきいて 王女を彼の妻として嫁がせた。王の7年になって彼を大輔に登用して政事をまかせた。

脱解が「多婆那国の生れでその国は倭国の東北(百)里の所」が倭国ではないかとの問いが、先生方の間で議論されてきました。私は、『日鮮神話伝説の研究』三品彰英氏の多婆那国は『三国遺事』のいう龍宮国(其の位置を新羅の東海はるか海洋)であるという考え方を支持します。三品氏は「物語の筋書きでは脱解の母は東海中の女国(龍宮)の女で、彼は生れ落ちると不祥事の為に捨子になり、赤龍に護られながら海路をさすらうというので、これを我が神話と比較するに、龍宮の女豊玉姫(その本体はワニとも龍とも考えられた)が、彦火火出見尊と結ばれ王子を生んだが、或タブーを犯したことによって、その御子は海邊に棄てられる運命となった云うものと甚だしく類似している。『書記』の一書には、この海童が眞床覆衾(まどこのふすま)及びカヤで包まれて波瀲(なぎさ)に置かれ、その名も彦波瀲武(ひこなぎさたけ)鸕鷀草葺不合尊と呼ばれ給うとあるが、『新羅本紀』には脱解の捨てられた場所を辰韓の阿珍浦に漂着して海邊の老母に養育されたと伝えている。又豊玉姫が海宮から海邊に来り、大鰐や龍の形になって御子を生むこと、赤龍が龍宮から卵を海邊まで導き、その卵から生まれ出ることとは、思想的に同系統の所伝であると。

又、三品氏は『古代祭祀と穀霊信仰』で眞床覆衾というシトネを、マレイ半島の稲の収穫祭で、稲魂(最後に刈り取った稲穂をヨリシロとする)のためにフトンと枕とが用意され、生まれたばかりの嬰児として扱われるという習俗と結びつけています。

▼対馬:和多都見神社
和多津美神社鳥居1

和多津美神社鳥居2

和多津美神社案内板

イソラエビス

イソラエビス2
▼豊玉姫の墳墓
対馬豊玉姫墳墓

海幸・山幸のお話は、山幸彦(彦火火出見尊)が、兄(海幸彦=隼人阿多君の祖)の釣り針を探しに海宮(龍宮)に行き、海神(綿津見神)の娘である豊玉姫と結ばれる神話です。山幸彦は潮満珠・潮干珠を入手して兄を屈服させます。『古代国家と神話伝承』松前健氏は、「天皇の支配は、地上の中つ国ばかりではなく、海底のワタツミの国にも及んでいると考えられていた」と書かれています。山幸彦は皇統の継承者となり、以後、海幸彦は、「吾当に汝に事へまつりて奴僕(やつこ)と為らむ」と服属の誓いをすることになります。

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装飾古墳:吉井町 

[ 壁画古墳]

福岡県うきは市吉井町富永の珍敷塚(めずらしづか)古墳は、六世紀後半頃の円墳で装飾古墳として日本の原始美術の祖とも賞賛されている古墳です。国指定史跡 昭和28年3月。
奥壁と側壁の輿石が残る長さ約4mの横穴式石室の中央には、赤と青の顔料を使い岩の地肌を利用して3色の色合いで装飾された壁画があります。
▼珍敷塚古墳
珍敷塚古墳奥壁jpg

珍敷塚古墳

珍敷塚装飾古墳は、全体が大きな船に乗ったような不思議な壁画です。冠をかぶった人物は船に盾をたて長い櫂(かい)で船を漕いでいます。船の舳先には大きな鳥がいて太陽の国から月の国(冥界)へと道案内しているようです。航路には船より大きな矢をさす靫(ゆぎ)が3つ描かれています。途中に描かれた蕨手(わらびて)文の意味は分かりませんが、月の国へ行くには権力の象徴とする大きな靫と長い矢が必要なのかもしれません。右手には月よりの使者と考えられているヒキガエルが2匹います。そこには盾をもつ人やカラスのような鳥もいます。
案内板には、「太陽から月へと船を進める様子は死者を葬る葬送儀礼を描いているようにみえる」と書かれていました。

同じく吉井町若宮には、同時期に造られた前方後円墳:日岡古墳・月岡古墳・塚堂古墳があります。日岡古墳は長さ3.8m、幅2m、高さ2m程の部屋の壁のほぼ全面に、赤・白・緑・青色で丸を幾つも重ねた同心円文や三角文、蕨のような模様の蕨手文が中心に描かれ、弓矢を入れる靫(ゆぎ)、太刀や盾、船や獣といったものもあります。
▼日岡古墳
日岡古墳

日の岡古墳解説

日岡古墳壁画

壁画実測図


▼月岡古墳
月岡古墳案内板

月岡古墳鳥居

月岡古墳鉄冑

月岡古墳石棺

月岡古墳には鳥居に月読神社の扁額があり、全長80mの前方後円墳で長さ5.5m×幅2.7mの長持型石棺をご神体とした社が建っています。記録によると石棺の内部には朱が塗られていたようです。1805年の発掘の際に出土した金銅装眉庇付鉄冑や豊富な副葬品から被葬者の繁栄ぶりが窺えます。長持型石棺と副葬品は畿内(近畿地方)との密接な繋がりが想定されているとのことです。(ようこそ古墳のまちに:吉井町教育委員会)から引用。

筑後平野に古墳時代に住んでいた人たちの語り継がれた神話や信仰が伝わってくるような装飾古墳の数々でした。

珍敷塚古墳は、第1・第3月曜日は休み。午前9時~午後17時開館。
管理人さんが常駐しています。
日岡・月岡古墳は、第2・第4月曜日は休み。電話予約が必要とのことです。
詳しくは、吉井町教育委員会生涯学習課(09437―5―3343)へお問い合わせ下さい。

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対馬-天道信仰(オヒデリサマ) 

[ 対馬]

対馬には、日本神道の原型祭祀と思われる神社が多く見受けられます。
特に対馬固有とされる天道信仰ですが、上県の佐護と下県は阿連の竜(龍)良山(たてらさん)と伝わります。
▼竜良山
竜良山

竜良山の八丁角の石積みは、天道法師とその母の墓所とされ、多久頭魂神社境内の不入坪(イラヌツボ)とあわせて「オソロシドコロ」と呼ばれ、竜良山という聖域の結界を構成しています。

『延喜式』神社に下県郡の阿麻氐留(アマテル)神社があります。場所は美津島町小船越の漁港のそばです。
ご祭神は天日神命(アマノヒノミタマノミコト)で天日神は対馬の古族、県直らの祖神とのことです。明治以前の両部神道の時代には照日権現と呼ばれていました。宝暦十年の『対馬国大小神社帳』には、照日権現社 祭神 天疎向津姫神  旧号天照(アマテル)乃神社 『特選神名牒』(内務省蔵版)には、山城の木島坐天照御魂神社、丹後の天照玉命神社などと同じく、当社も「天照国照火明命なるべし」と伝わります。
▼阿麻氐留神社
アマテル神社鳥居
▼拝殿
アマテル神社拝殿
▼拝殿中
拝殿中
▼阿麻氐留神社から見える小船越港
小船越

『海神と天神』永留久恵著によれば、船越の阿麻氐留神社が照日権現と称した例からして、これは本来、天照大神である。したがって、照日の女で日光に感じて孕んだという天童の母は、日神の神妻と解されよう。佐護の天道女躰宮(女房神)の神像は、まさにそのことを如実に形象している。この女神の固有名は知る由もないが、阿連の天童の母神はオヒデリ(日照神)と呼ばれている。

照日権現は、『対馬国大小神社帳』記載の天疎向津姫神というご神名です。伊勢の地主神である内宮の荒祭宮の神、天照大神の荒魂:撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(ツキサカキイツノミタマアマサカルムカツヒメノミコト)=瀬織津比咩神と同神と思われます。阿麻氐留神社は、皇祖神と別の男神の太陽神アマテルを祀った神社で後に照日権現と呼ばれる日神の神妻と一対で祀られていて一方が祭祀から消えたのかもしれません。そうであれば、上県町佐後の天道女躰宮の神体のように日輪を抱く日抱尊となりましょう(日抱尊については後記)。

『対州神社誌』には、「大小神社明細長」に佐須奈村の日吉権現社の脇宮の照日(テルヒノ)神社のご祭神に天照太神媛神(アマテルノダイシンノヒメガミ)と記載があります。

永留氏は、上県町佐後の神魂神社(天道女躰宮(俗称「女房神」))の神体は、腹部に日輪を抱いた女神で、縁起にいう日光感精神話を形象したものに相違なく、その像底には永享十二年(1440)の墨書銘がある。この天童縁起と同型の縁起に、有名な大隅国一ノ宮正八幡宮(現、鹿児島神宮)の所伝がある。(中略)朝鮮では高句麗の始祖神話がよく知られている。さらに中国にも日光感精神話があることから、天道信仰の本質は、東洋的祭天の古俗に発した日神崇拝の流れと解される。
▼神魂神社(天道女躰宮(俗称「女房神」))のご神像:『対馬国志』より
ご神像


『大和国家と神話伝承』松前健著には
対馬では古来太陽崇拝が盛んで、後世の天童信仰にも、これが、顕著である。伝説的神人天童法師は、照日の采という人物の女(むすめ)が、日光に感じて孕み、天童を産んだといい、または朝日に向って放尿し、受胎したとか、いろいろな日光感精譚が語られている。〔三品彰英『増補日鮮神話伝説の研究』〕
 
日抱尊について
『円空と瀬織津姫』下巻 菊池展明著に日抱尊に触れた部分があります。第Ⅵ円空の意思表示には、飛騨における伊太祁曽神社の「いたきそ」は、乗鞍大神の尊称「日抱尊(ひだきそん)」が転じたものである。(『飛州志』長谷川忠崇著も「所謂日抱尊ハヒダキソン・ヒダキソ・イタキソン・ダキソン以上四称あり、所謂日抱尊ノ一字ヲ誤リ伝フルナルベシ」と述べていた。また『飛州志』には、日輪神社の由緒に触れ、「按ズルニ曰祭神天照大神ノ荒魂ト云」という伝承があり、日輪神あるいは伊太祁曽神=日抱尊は「天照大神ノ荒魂」と伝えられていたこと、いいかえれば、瀬織津姫という伊勢の秘神を日抱尊とみる伝承が、飛騨国と紀伊国に共通してあった。
 円空は天照皇大神と乗鞍大神(伊太祁曽神=日抱尊)を一対の神と認識していた。

同じく菊池氏は『八幡比咩神とは何か』でも、廣田社の祭の時の神宴歌に広田大神と住吉大神との交親(ムツミ)が語られていたが、彦神と姫神との対偶関係のまま祭ることが封じられたとき、この彦神は、まさに「日子神」に変じて母神に抱かれることになる。と考察されています。

実は、『住吉神代記』には、住吉大神が、「吾が名、向匱男聞襲大歴五御魂速狭騰尊(ムカヒツノヲキキスオホフイツノミタマハヤサカリノミコト)」と語っています。松前氏は、ムカヒツノヲという名は、廣田社のムカツヒメと無関係とは考えられない。この名は住吉大神の別名とされている。もしかすると住吉神と廣田神とは、こんな名で夫婦神とされていたのかもしれない。と考察されています。

ムカヒツノヲと呼ばれる住吉大神もアマテル神と同様、海人族が奉祀する日神を秘めた男神と考えられます。

対馬の日抱尊とも思われる女房神像は、対偶神の祭祀を消されたものか、古くからの母子神信仰の表れかは判断出来ませんが、この女神像は天疎向津姫神のご神像とも考えられなくはありません。
対馬では、仏像盗難事件以後、どこも拝観が難しい現状ですが、一度は見てみたいご神像です。

最後に阿麻氐留神社には「弓射り神事」があります。旧2月9日。古文書には
「桃木の弓に竹の矢を造りて百姓是を射る也」と記されています。桃は悪魔を退散するという故事から、桃木の弓で悪魔を払い、村に幸をもたらすように願ったと伝えられています。
アマテル神社拝殿中

桃木の弓で悪魔を払うという神事は、まさに祓いの神事であり、照日権現と伝わる天疎向津媛命こと瀬織津比咩神の祓いの神徳が神事として伝承されたものではなかろうかと考えています。

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対馬の赤米と太陽の女神オヒデリサマ 

[ 対馬]

対馬の赤米と太陽の女神オヒデリサマ

『古事記』上つ巻の国生みの条には「津嶋」と記載し、またの名は天狭手依比売(あまのさでよりひめ)とあり、『日本書紀』は「対馬島(つしま)」、一書(第七)には対馬州(つしま)とも書かれています。
 対馬は、九州本土と朝鮮半島の間に浮かぶ面積約710平方km(属島含む)の大きな島ですが、面積の89%は山地であり、全島が岩がちで、農耕地は1%ほどしかありません。朝鮮半島までの距離は49.5kmしかなく国境の島と称されています。
平安時代に編纂された「延喜式」に記載された神社(官社、いわゆる式内社)が九州全体で98社ありますが、うち約3分の1にあたる29社が対馬に集中し、九州最多となっています。(壱岐の24社を加えると、両島で九州の半数を超えます)(対馬神社ガイドブックより)
▼気象条件がよければ釜山市の街並やビルを見ることができるという異国の丘展望台から
対馬展望台から

『海神と天神』対馬の風土と神々:永富久恵著によれば、ツシマの名義については、この島の地形が南北に高く中央部が低いため、遠方から見れば二島に見えることがあり、これによって対の字が選ばれたのではないかと考えられる。とあります。
また、同書には「天道信仰」に触れ、「豆酘(ツツ)の縁起によれば、ウツロ船に乗って漂着した女院が日光に感精して男児を出生、この男児が天道童子と称し、やがて法師となって卓抜した呪験を示し、人々に崇敬されたという。一方、天道の神体として礼拝される赤米の種は、天道がもたらしたというもので、稲の原生種に近い品種だが、その祭礼は真言密教で行われる。」と書かれています。

対馬の西南端に開けた豆酘には、稲の原生種といわれる赤米の新穀の種を鎮呪(まじない)して、神霊をつくる神事があり、年の暮にこの赤米で餅をこしらえ、これをテンドウと称して年神に奉安する神事がある。
▼赤米の神田
赤米神田1

赤米神田2

現在、赤米を作っている場所は、種子島と対馬だそうです。

厳原町阿連(いづはらまちあれ)の阿連川を遡った山中で行われる太陽神オヒデリサマに関する神事は、興味深いものがあります。

雷命(いかづち)神社(式内社)の祭神の雷命は、旧9月29日に出雲に旅立って不在(神無月)となるため、川上に鎮座するオヒデリを里に迎えます。11月1日に雷命が戻り、1週間オヒデリとともに暮らし、11月8日に大祭、11月9日に住民総出でオヒデリを川上に鎮座する神事(本山送り)が行われます。この時オヒデリは懐妊しているとされ、雷神・水神・男神である雷命と、太陽神・女神であるオヒデリが和合し、里に豊穣がもたらされる、という古い民俗学の世界が今に伝わります。(対馬神社ガイドブック)
▼雷命神社
対馬雷神社
▼雷命神社
雷命神社鳥居
▼本殿
雷命神社本殿

元山送りの日は、村の人々は総出で背に御幣をさし、青シデをつけた御幣を持って行列につらなります。鉦・太鼓・法螺貝の音の合図にオオカナグラベイを持った総代が、「イザヤ イザヤ トノバラヤ トノバラヲ 元の山に送り申す」と大声で叫ぶと、行列の一同は、「オウ― ウォ―」と大声で叫び返すそうです。
▼オヒデリサマ元山送り(対馬神社ガイドブックより)
オヒデリサマ元山送り

阿連川の水の枯れた川原の処までくると履物をぬいで小石の上を裸足で歩きます。元山のムクの木の根元にはオヒデリサマを祭っています。宮司の神事が始まると村びとは、一人ひとりローソクに火をともし、オヒデリサマに敬虔なお祈りを捧げます。
▼阿連川の川原
オヒデリ様神事
▼オヒデリサマの祠
オヒデリ様祠

 オヒデリサマと神婚されるのが、雷命神社のご祭神の雷大臣命ですが、鳥居には、八竜大明神・八瀧大明神・雷命神社の扁額がありました。『海童と天神』永留久恵著には
吉田東伍の『地名辞書』は、福岡県糸島雷山の項に、

山頂に雷神社あり、山下を筒原(ツツバル)という。雷神(イカヅチ)あるいは筒(ツツ)神と唱う。けだし筒男神に同じかるベし。

とあるのを引いて、谷川健一は「海神=雷神=筒神」とする等式を発表し、対馬の豆酘(つつ)にも雷神があることから、豆酘の地名をツツノヲの神に関係があるとした(「古代海神族の痕跡」)。

ツツノオとされる男神は、住吉大神で底筒之男命・中筒之男命・上筒之男命のこととされます。航海の目印となる星を意味する古語(ツツ)や対馬の豆酘などいくつもの説があります。雷神の男神と日照神(オヒデリサマ)である女神は、阿連(アレ)=御阿礼(みあれ)の地で豊穣の神となります。

つづく


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対馬―鳴滝 

[ 対馬]

対馬の浜久須の北東に鳴滝(奈留多幾)があります。対馬の方々にお聞きしますと対馬で唯一の滝とのことです。

「上対馬町誌」には、高さ4丈6尺、奔流の聲山谷に響き、因て名とするゆえんなり。とあります。

また、この滝が雨乞い祈願の聖地とされていたことと、古い雨請行事の儀礼として、「女たちが裸になって、瀧つぼで祈りをした」という古俗に触れています。

▼鳴滝
鳴滝神社1

鳴滝神社2jpg

鳴滝

鳴滝2

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高千穂 日本の滝百選 「真名井の滝」 

[ 瀬織津姫神]

高千穂峡の「真名井の滝」は、涼を求める観光客が多く訪れる場所です。

この高千穂峡は、阿蘇溶岩からの侵食谷を言い、上流の窓ノ瀬から下流の吐合間が中心で昭和9年11月20日五ヶ瀬渓谷として名勝天然記念物に指定されました。

▼真名井の滝
天真名井滝

真名井滝2

この「真名井の滝」の水は、「玉垂の滝」(ご祭神:瀬織津姫神)からおのころ池:桜川妙見社(池中の祠:瀬織津姫命を祀る)を経由し、滝口へと流れます。「桜川妙見社」は高千穂神社のご神幸地でもあり、十社大明神御浜出の所也と記載されています(「日本民族発祥の地・高千穂郷八十八社名録」より)。
おのころ島案内板

▼「玉垂の滝」とおのころ池
玉垂の滝とおのころ池
▼「玉垂の滝」
玉垂の滝
▼「玉垂の滝」水神祠(瀬織津姫神を祀る祠と思われます)
玉垂の滝神祠

瀬織津姫神が滝神として伝承されている神社は、岩手県桜松神社・根田茂神社(御瀧明神)・滝神社(大同年間(806-810)田村麻呂賊徒の強暴を鎮めんと祓戸大神を鎮座して神威を仰ぎ滝神社を奉安)・山形県二ノ滝神社・滝神社(高賀山岳信仰の一社・権現滝の裏から神々が出現して妖魔を追い払ったという伝説あり)・愛媛県松柏神社(旧鳴滝神社)等、、各地で崇敬されてきました。


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高千穂 天の安河原 

[ 瀬織津姫神]

宮崎県高千穂に天岩戸神社があります。岩戸川を挟んで西本宮・東本宮が建てられております。天岩戸神社のご祭神は天照皇大神で境内案内板には別の神名を大日霎尊(おおひるめのみこと)と書かれています。
天岩戸神社鳥居

西本宮

天の安河原へ

天岩戸神社から10分ほど渓流を見ながら岩戸川沿いに歩くと天の安河原宮(仰慕窟ぎょうぼがいわや)に着きます。『古事記』新潮日本古典集成には
八百万の神、天の安の河原に神集ひ集ひて、高御産巣日の神の子、思金の神に思はしめて、常世の長鳴鳥を集めて鳴かしめて、天の安の河の河上の天の堅石を取り、・・・・(後略)と続きます。案内板には天照皇大神の岩戸籠りの際、八百萬の神がご相談された場所と伝えられています。「古事記」の訳注には、「長鳴鳥」は、鳴声が暁を告げ闇の邪気を払う太陽の神使いの鶏とあります。天安河原宮に参詣すると願い事が成就する中風にかからない軽症ですむと伝えています。

▼天の安河原
天の安河原1

天の安河原3

天の安河原説明板

天の安河原2

▲天の安河原宮には瀬織津姫神が祀られていると地元の方からお聞きしました。
その方からは、以前は観音像も一緒に祀られていたが、現在は天の安河原宮に行く途中の祠に観音像が移されたとお聞きしました。
▼観音祠
観音祠

「高千穂町史」には新(荒)立の宮から二・三町に早川の瀬、桜ヶ瀬などという小川があり、また瀬折津(セフリツ)姫の社ありと書かれています。天真名井の近くかもしれませんが、不明です。
▼天真名井案内板
天真名井案内板

天真名井
▼ケヤキの巨木(1300年)の根元の天真名井からは、ゴボゴボと水の湧出る音が聞こえます。
天真名井ご神水

瀬織津姫神は伊勢神宮では天照大神の荒魂として祀られていますが、確認できるものに『神社啓蒙』第七巻があります。

荒祭宮 神名秘書ニ曰く・・とあり、天照荒魂亦ノ名ヲ瀬織津姫神是也 

天の安河原においても例外ではありませんが、神道界では瀬織津姫神は神名秘書とあるようにあまり表に出してほしくない神なのかもしれません。全国各地で御神徳が語られてもです。

今回は岩戸の神とは?で考えてみました。
私の知る範囲で岩戸の神とは・・・?と思い巡らすと二つの神社が浮かびます。
一つは滋賀県の日牟礼八幡宮の境内社の岩戸神社です。ご祭神は撞賢木厳之御魂天疎向津媛(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)です。大和岩雄氏のご本には、撞賢木厳之御魂と天疎向津媛の二神の合体されたご神名という考察をされていましたが、私の調べた範囲内では撞賢木厳之御魂天疎向津媛を祀る荒祭宮は一座であり、伊勢内宮には荒祭宮と多賀宮の並祭祭祀があった(「エミシの国の女神」・「円空と瀬織津姫」菊池展明著)という文献は、『神宮秘伝問答』とのことでした。
▼日牟礼八幡宮・境内社の岩戸神社
日牟礼八幡宮・岩戸神社jpg

岩戸神社案内板

『類聚神祇本源』巻十一の外宮別宮篇には
「私記元荒祭宮一所並座東方多賀宮西方荒祭宮此宮至干御眞荒祭宮東西遷宮違本宮遷座例也」

内宮に並祭されていた多賀宮の神は、豊受大神の荒魂として外宮に祀られています。

『先代旧事本紀』巻五には
 天照大日ル貴尊・・伊勢神宮の天照太神の御名である。また太神宮御鎮座次第記には、大日ル貴・天照大日ル貴尊とあり、諡(おくり)を撞賢木厳之御魂天疎向津媛命という。
と、貴重な記載もありました。

又、一つは福岡県糸島半島の桜井神社です。本殿には岩戸宮(奥宮)という扁額があり、八十枉津日神・神直日神・大直日神が祀られています。瀬織津姫神の異称として八十枉津日神のご神名があります。奥宮岩戸遇小額玉串参拝の由来と作法(案内板)には、「岩戸宮は、慶長十五年(1610)六月二日未明、初めてその神窟が開き、大変、霊験あらたかで、元来、七月二日の神霊顕現の吉日のみ岩戸開きが斉行されていました」と書かれています。
糸島・桜井神社岩戸宮
また、別の案内板には「寛永六年(1629)与止妃大明神の御神託で建立され黒田藩主黒田忠之によって造営された筑前の守護神で与止妃大明神を祭っている」とあり、神霊が顕われて黒田藩主による社殿建立までに十九年という時間がかかったようです。桜井神社は与止妃大明神を祀っているとのことですが、桜井神社HPでは、ご祭神を上記三神とあり、伊勢神宮から勧請した桜井大神宮が、敷地内に祭られていますから、与止妃大明神=八十枉津日神との認識かと思われます。与止妃神といえば、佐賀県一の宮の與止日女神社ですが、同社はご祭神を川上神・淀姫神とも伝えます。この淀姫は神功皇后の妹または、豊姫とも言われ、和歌山県田辺市の川上神社(河上大明神)は、肥前一の宮の川上神社からの勧請で、ご祭神は瀬織津姫神と伝えています。
桜井神社で共に祀られている神直日神・大直日神は、八十枉津日神の枉(禍・災い)を直す神として「記・紀」に登場します。江戸時代の国学者である本居宣長は八十枉津日神を悪神だと解釈しましたが、一方、平田篤胤は、善悪という枠から離れてその発想自体を否定しています。平田篤胤は『鬼神新論』で以下のように書いています。
 
大禍津日神と称すは、亦名は八十枉津日神とも、此は汚穢き事を悪ひ給ふ御霊の神なる因にて、世に穢らしき事ある時は、甚く怒り給ひ、荒び給ふ時は、直毘神の御力にも及ばざる事有りて、世に太じき枉事をも為し給ふ、甚建き大神に坐せり。然れども又常には、大き御功徳を為し給ひ、又の名を瀬織津比メ神とも申して、祓戸神におはし坐て、世の禍事罪穢を祓い幸へ給ふ、よき神に坐せり。穴かしこ。悪き神には坐まさず。

『円空と瀬織津姫』下巻:菊池展明著には、白山信仰の秘伝書に「瀬織津比咩と云う神、苦業の因[もと]を救うべし」という文言がみられると書かれています。神功皇后が三韓征伐をするときに祈る神に撞賢木厳之御魂天疎向津媛というご神名を見ます。また、朝廷がエミシ討伐を祈る神に瀬織津姫という神がいます。大分県佐賀関の古社・早吸日女神社でも神武天皇の祈る神に速吸日女=八十枉津日神がおりました。これらは瀬織津姫神の異称祭祀がもたらした解りにくさです。

滋賀県琵琶湖近くには岩戸隠れする前に天照大神が剣を置いたという伝承がありました。神話から伝承へもう少しの間、瀬織津姫神というに拘ってみたいと思います。

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京都祇園祭 鈴鹿山と瀬織津姫神 

[ 瀬織津姫神]

京都祇園祭は疫病退散を祈願する八坂神社の神事です。貞観11年(869年)都に疫病が流行したとき、その退散を願って始められた「祇園御霊会」が起源であるとされています。
古来、神事の中心となる7月17日の神幸祭(しんこうさい)と7月24日の還幸祭(かんこうさい)にあわせて、17日に前祭の山鉾巡行、24日に後祭の山鉾巡行をすることが習わしになっていました。
後祭に登場する鈴鹿山鉾は鈴鹿山で人々を苦しめた悪鬼を退治した鈴鹿権現(瀬織津姫神)を金の烏帽子をかぶり手にお長刀を持つ女人の姿であらわす。山洞には鬼首を示す赭熊を掛け、この山に限って松には鈴鹿関をあらわす山・木立・鳥居に宝珠を描いた絵馬がつけられ盗難除けの護符として鎮重される。(鈴鹿山HP・案内板より)

▼鈴鹿山
京都祇園祭・鈴鹿山5

京都祇園祭・鈴鹿山 11jpg

京都祇園祭・鈴鹿山 3

京都祇園祭・鈴鹿山 1

鈴鹿山の伝承を「三重県神社誌」から読んでみます。

片山神社 鈴鹿郡関町大字坂下624 
祭神 倭比賣命 瀬織津比賣命 気吹戸主神 速佐須良比賣神 坂上田村麿命 天照大神
速須佐之男命 市杵島姫命 大山津見神
由緒
延喜式内社に列せられている神社でもとは三つ子山に鎮座ましましたが、度々水火の難にみまわれたので、永仁五年(1297)現在地へ奉還し、鈴鹿神社をも合祀した。鈴鹿神社もまた水害に逢うこと一再ではなかったからである。かくして、奉斎した神社の位置が、名にし負う鈴鹿越えの難所であったので、東海道上り下りの旅人から『鈴鹿権現』として広く崇敬されるところとなり、往来する士民の安全祈願所となった。殊に、旱天の年には雨乞いに訪れる集落が四百を越したという。古くは国司の造営もあり、神領も多かったが、戦国の世となってからは横領せられることもしばしばで、亀山城主と信楽代官とが御供米を献ずるのみとなって廃藩の時を迎えたのであった。(後略)
▼鈴鹿山
鈴鹿峠

片山神社 1jpg

片山神社 3jpg

片山神社1-1
▼片山神社
片山神社 4

『鈴鹿山系の伝承と歴史』大川吉崇著によれば、

天皇から鬼神退治を命ぜられた田村麿は、京都の清水寺に祈願して観世音菩薩の霊感を得、さっそく鈴鹿山に向かった。  片山社は鈴鹿権現と呼ばれる。また一説に鈴鹿権現は、天照大神を祀る幻の明神といわれ、峠のあたりにあったとも聞いたことがある。・・・・・と書かれ、鈴鹿権現について興味深いことが述べられています。以下は同書から他の伝承を拾ってみます。

『我が国の民間信仰史の研究』堀一郎著の中で『三代田村』を要約して
田村麿が嵯峨天皇の勅命によって悪路王を退治し、のち、伊勢の鈴鹿山の魔女である立烏帽子と契りを結び、その援助のもとに霧山岳に住む大竹丸を布原岳というところで退治して天下を静かにした。

室町時代の作と推定されている『田村草子』には鈴鹿山の鬼神大岳丸討伐の命を受け、霊夢のおつげにより天女鈴鹿御前と縁を結び、大岳丸の怪剣を奪う、さらに千手観音と毘沙門天の加護をもうけて 鬼神を滅ぼし、その恩賞として田村麿は伊賀をたまわった。

江戸時代になると
伊勢国の鈴鹿山に、立烏帽子となづく鬼女があり、往還の旅人を害し財宝を奪う、故に、坂上朝臣田村五郎利成に勅命が出て、討伐すべきため山に行く。金殿玉楼の中に美女あり。この美女は陸奥国の霧力岳に住む悪路王鬼の妻であった。利成に愛着して悪路王を討つ。そののち鈴鹿山に利成は往来して、ひそかに男子を生ませた。其の子が成長すると正林と名づけた。月日を経て夫妻とも死ぬ。その化女を鈴鹿権現に祭り、利成を今の田村堂に祀る。
 
同書では室町時代から江戸時代にかけて鈴鹿山の悪鬼を退治した鈴鹿権現は田村麻呂と縁を結んでついには男の子まで生まれるという伝承を伝えます。が、仙台叢書版「田村三代記」(「悪路王伝説」定村忠士著より)には妹背の契りを結び、三年後に二人の間に正林という姫が生まれたとあり、伊勢の国の鈴鹿山に現れた立烏帽子は天竺(インド)大四天の魔王の娘として登場しています。そして初めは日本を覆すために鬼神大嶽丸のもとに天降ったと。

一方、「南牟婁郡誌下巻」(三重県立図書館所蔵)に収録されている
紀州熊野大泊観音堂略縁起には以下のような伝承が伝えられていました。

平城天皇の御宇大同四年に将軍坂上田村麿の建立せし霊場なり。其の草創を尋ねるに大同の比ひ諸国在に鬼神魔王蜂起して国土を悩まし人民を殺害す是れが為諸国よりの奏聞甚だ急なりしかば忝くも 天帝歎かせられ給ひ時の名将坂上田村麿に鎮定の宣言を下し給ふ。将軍先づ勢州鈴鹿に参向有て凶徒を悉く退治し給ふといへども鬼王眷属の討ち洩らされたるもの熊野山ににげ去りて深山幽谷に身を隠す。将軍即ち士卒を進め攻め来り討取り給ふ。今の八鬼山、九鬼、三木と申すも此時より始まれり。然れども鬼王猶討たれずして、のがれければ山々によぢのぼり谷々をうちめぐり尋ね給ふといへども行衛更にしれざりき。爰に一つの高山あり。将軍よぢのぼらせ給ひ御装束を改め立烏帽子を観念し一心稱名と心中に御祈念をなし給へば天女雲中に告げて曰く是より西に霊地あり行て陣所に定むべし。(今の大魔山是なり)又南の海邊に岩屋あり悪鬼此所にかくれ居れり行て討つべし。彌々汝が念ずる観音力とかき消す様に失せ給ふ。将軍歓喜のあまり御跡を拝し甲冑御装束をなし給ふ是に依って今に此處を烏帽子山と申すなり。即ち彼所に到り給ひ士卒に告て海邊を尋ねさしむ。果して岩屋あり東西三十間石面は滑らかにして削れる板の如く岩を積み重ねて塀の如し人倫通ひ難き険阻なれば討つべき様もなかりけり。前に又一つの嶋あり即ち此嶋に上り念波観音力と唱へ給へば童子一人忽然として嶋の上にあらはれ給ひ軍勢とともにけんしやう楽を舞ふべしと御弓矢を輿へ給ひ汝が念ずる観音力と失せ給ふ田村軍勢歓喜のあまりに袖をつらねて舞ひ遊ぶ時に鬼玉石の戸を開き見る所を件の弓にて射留め給ひ其の他眷属残らず亡し給ふ。今に至り此嶋を魔見(まみ)が島と申すなり討取る所の骸骨は「タヽタノメシメシガ原ノサシモ草タヽリチナサシ」と封じ給ひ大魔権現と崇め給ひ今の世までも諸人歩を運ぶなり。扨我幼少より掛け奉る一寸八分閻浮檀金の千手の尊像あり四神相應の霊地を見立て末代のしるしに納むべしと。爰に霊地ありて後は高山峨々とそびへて神徳の高き事を現し前は海水清浄にして弘誓の深き事をあらわし漲り落つる瀧の水には煩悩の垢をすゝぐべく山聲松風自ら妙音をのぶ霊験無双の名地なり。又一丈四面の巌洞あり奇々妙々治国平天下と此洞に安置し置き給ひ其後天勅を受けて建立し給ふ即ち京都音羽山に同じとて比音山清水寺と號すといふ。
御尋に付書上け申覚
置く熊野大泊村比音山清水寺は人皇五十一代平城天皇の御宇坂上田村将軍御建立本尊は1寸八分の千手観音永代秘仏にて御座候事。但前佛御正体御長一尺二寸の千手座像木佛。

以上のように鈴鹿御前は、田村麻呂との神婚伝承が語られておりますが、「紀州熊野大泊観音堂略縁起」では観音力を持った天女の託宣や童子が嶋の上に現れ軍勢とともに楽を舞い、鬼玉石の戸から開き見る所を軍勢が弓で射止め、眷属もろとも滅ぼしたことが語られていました。縁起の中で坂上田村麻呂の祈った観世音菩薩の化身は大魔権現であり鈴鹿権現でもありました。祇園祭の鈴鹿山では雷除・安産守護・諸願成就の神として瀬織津姫命の御神名をみます。人々を苦しめた悪鬼を退治した鈴鹿権現=瀬織津姫命は人々の信仰の中で確かに生き続けています。

▼2017年祇園祭
京都祇園祭・鈴鹿山8
▼鈴鹿権現瀬織津姫神は雷除・安産の神と崇敬されています。古代より雷神は農耕に関係の深い水神として信仰されてきました。
京都祇園祭・鈴鹿山10
京都音羽山清水寺のHPでは、坂上田村麻呂が音羽の滝の清らかさにちなんで清水寺と名づけたと伝えられています。本尊は十一面観世音菩薩像です。音羽の滝からは三筋の水が流れています。参拝客は、長い柄杓から滝水を頂いて祈念します。滝の背後には不動明王・役の行者などが祀られています。滝神について清水寺は語りませんが、私は音羽の滝に鈴鹿権現こと滝神である瀬織津姫神を重ねます。(瀬織津姫神については「エミシの国の女神」「円空と瀬織津姫」「八幡比咩神とは何か」菊池展明著に詳しく書かれています)
清水寺には日高見国胆沢を本拠とした蝦夷の首領阿弖流為と母禮の顕彰碑がありました。
▼清水寺
清水寺
▼音羽の滝
清水寺 音羽の滝jpg

清水寺 音羽の滝2

清水寺 音羽の滝

音羽の滝-6

清水寺 不動明王像

アテルイ・モレ之碑

アテルイ 顕彰碑jpg

滋賀県甲賀市土山町の田村神社は近江国と伊勢国の境にあり、古来には都より伊勢へと参宮する交通の要衝でした。 神社の言い伝えによると、「鈴鹿峠に悪鬼が出没して旅人を悩ましており、嵯峨天皇は坂上田村麻呂公に勅命を出してこれを平定させた」とあります。 それゆえに、交通の障害を取り除いて土地を安定させた坂上田村麻呂公の御遺徳を仰ぎ、弘仁3(812)年の正月、 嵯峨天皇は勅令を出して坂上田村麻呂公をこの土山の地に祀られることとなりました。(田村神社HPより引用)

坂上田村麻呂伝承は、東北地方に多く残されています。

浄瑠璃「田村三代記」は「坂上田村麻呂利仁」の陸奥誕生から、のちに鈴鹿山の鬼神「立烏帽子」を征したが成功せず、かえってこれを妻としてその助力をえて近江国の「高丸」を、ついで奥州達谷窟の「大嶽丸」を討つという雄大にして荒唐無稽な構想が展開する。(「坂上田村麻呂」高橋崇著)
と書かれていました。
▼田村神社
田村神社1

田村神社jpg


故風琳堂主人が坂上田村麻呂について書いていますのでご参照下さい。
ヤフーブログ千時千一夜
夷民祭る所の神、お熊様──田村麻呂伝説の解読へ【Ⅰ】
夷民祭る所の神、お熊様──田村麻呂伝説の解読へ【Ⅱ】
夷民祭る所の神、お熊様──田村麻呂伝説の解読へ【Ⅲ】

夷民祭る所の神、お熊様──田村麻呂伝説の解読への中では

日高見国の地で、朝廷軍の一方的侵略に対して、独立の天地を守るために敢然と抵抗・反撃をつづけた蝦夷連合軍の長が阿弖流為かとおもいます。その抵抗・反撃の並外れた強さによって、阿弖流為は悪路王の名で、つまり、悪の権化のような名で伝説化され、一方、必然的に田村麻呂の過剰な美化伝説として語りつがれることになります。

朝廷側からはエミシの討伐を祈る神として、蝦夷の民がそれまで信奉してきた「神」として瀬織津姫神はある。神は公平で双方の心に宿る。京都祇園祭の鈴鹿山に瀬織津姫神というご神名が残されていることはとても貴重に思いました。

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特別展 縄文 1万年の美の鼓動 東京国立博物館 

[ 遺跡]

東京国立博物館平成館で7月3日から、9月2日まで「特別展 縄文 1万年の美の鼓動」が始まりました。

東京都立博物館

縄文の国宝すべてが集結するという企画です。

国宝 火焔方土器 新潟県十日町市 笹山遺跡出土
国宝 土偶  土偶合掌土偶 青森県八戸市 風張1遺跡出土
国宝 土偶  仮面の女神  長野県茅野市 中ッ原遺跡出土
国宝 土偶  縄文のビーナス 長野県茅野市 棚畑遺跡出土
国宝 土偶  中空土偶   北海道函館市 著保内野遺跡出土
国宝 土偶  縄文の女神  山形県舟形町 西ノ前遺跡出土

▼遮光器土器 青森県つがる市 木造亀ヶ岡出土 「縄文―1万年の美の鼓動」図録
特別展縄文1
▼火焔方土器 新潟県十日町市 笹山遺跡出土 「縄文―1万年の美の鼓動」図録
特別展縄文2

▼縄文の女神 高さ45センチ 山形県舟形町 西ノ前遺跡出土  図録から
縄文の女神

「縄文―1万年の美の鼓動」図録には
縄文時代は旧石器時代が終わったおよそ1万3千年前から1万年続いた時代を指し、狩猟や漁撈、採集を生業とした縄文文化は、世界最古級の土器を生み出し、世界の先史土器のなかででも群を抜く造形美を誇る土器を作り出した文化ともいえる。日本で国宝の指定されている美術工芸品は約900件でそのうち、縄文時代の出土品で国宝に指定されているのはたった6件である。と書かれています。

図録の表紙となった火焔方土器や美しい縄文の女神などは、縄文中期(前3000年から前2000年)のもの。
古代、先進文化は朝鮮半島を通じてもたらされたと様々な書籍が語るが本当にそうなのだろうか?縄文人の命の躍動は豊かな大地の中で育まれてきたものではないだろうか?と私は考える。
美の競演のコーナーでは、インダス文明期の壺やイラクで出土した前青銅器時代の鉢など様々なものを展示しているが、縄文時代の火焔型土器にすごい迫力を感じ圧倒されてしまった。このたくましく力強い造形美を持った縄文人に敬意を表したい。

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○△□の伝言から 

[ 壁画古墳]

NHKの日曜美術館で3月に放映された「○△□の伝言~井浦新“にっぽん”美の旅4~」を観て熊本県山鹿市鹿央町岩原の装飾古墳館へ立ち寄りました。
番組では△を求めて奄美大島へ渡ります。△はノロの羽織る衣装にモチーフされています。特に印象に残ったのは、神事に使う衣装で幼いノロは霊力が弱いので身を守る為に多くの△の文様を必要としたことです。△は霊魂の象徴とされ魔除けの意味も込められてそうです。他界から霊魂を迎える信仰は五穀豊穣のために稲に宿る精霊(稲魂)を招き寄せるまつりにも見られます。
現地では△は蝶や蛾などを他界からきた霊的なものと考え、蝶の羽根の姿に△の文様をみました。
番組ではその後、うきは市の装飾古墳を巡ります。
九州は装飾古墳が多く日本の装飾古墳(660基)の約4割の存在が確認されているようです。韓国でも装飾古墳に太陽を思わせるような円が描かれていました。
番組を見てから熊本県山鹿市の装飾古墳館へ立ち寄る機会がありました。○△□に込められた思いとはどのようなものだったのでしょう。
番組で紹介されたチブサン古墳のレプリカや多くの壁画をゆっくり観ることができます。
チブサン古墳の○は鏡や太陽・月と考えられているようです。
▼チブサン古墳
チブサン古墳
▼弁慶が丘古墳
弁慶ヶ穴古墳jpg
▼弁慶が丘古墳案内板
弁慶が古墳案内板jpg

装飾文様の種類

次に秋田県阿仁地区のマタギの信仰が紹介されます。熊や鹿を狩猟し生業としている方々は、狩猟の始まりには必ず根子山の山神にご祈念するそうです。その山の神のご神像は女神像でした。山の神としかご祭神のお話はなさいませんでしたが、奥宮へ行くと流れの激しい滝がありました。奥宮の滝の神のご神体があの山の神とされる女神像であったのではないかと考えています。滝の神を追っている私にはとても興味深い番組でした。

自宅に帰って門戸の入口の階段を上がりながら・・・えっ・・・そう自宅にも□と△が彫り込まれていたことを改めて認識しました。というもの私は田舎暮らしを楽しむために11年前、中古住宅を購入し引越して落書き程度にみていた□の配列と△の文様の刻まれた階段を深く考えることもなく無意識に登っていたのです。以前住まわれた方は、建築された時に魔除の意味で石段に刻まれたのかもしれません。以前の持主はもう亡くなられていますからお聞きすることはできませんが、○△□の謎は、私にも共有できる関心事となりました。
石段

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英彦山豊前坊高住神社 

[ 古代八幡信仰]

英彦山豊前坊高住神社(福岡県田川郡添田町英彦山27)の紹介です。
高住神社鳥居

高住神社拝殿


高住神社でいただいた案内書には下記のように書かれています。

御祭神
豊日別命・・・豊前豊後の住民の守護神(豊日別国魂神とよひわけくにたまのかみ)
天照大神・・・日の神
天火明命・・・稲穂(農耕)の神(天照国照彦火明之命)
火須勢理命・・・鎮火(火伏)の神(火燗之命ほのすすみのみこと)
少名毘古那命・・・金厭(きんよう)祈祷・医薬の神
社伝によりますと、御祭神は豊前豊後の守護神として、もと鷹巣山に祀られ人々の病苦を救い、農業や牛馬・家内安全の神として古くから崇められ、社殿は遠く継体天皇の御代(約1500年前)藤原恒雄によって創建されたと伝えられています。又、当神社は豊前坊天狗神としても有名で、欲深く奢りに狂った人には天狗を飛ばせて子供をさらったり、家に火をつけたりして慈悲の鉄槌を下し、心正しく信仰する人には家来の八天狗をはじめ総べての天狗を集めて願い事を遂げさせ、其の身を守ると伝えられてきました。(中略)英彦山部豊前坊は九州の天狗群の棟梁格で、霊力が抜群という天狗倒しでも有名です。

八天狗尊神:彦山豊前坊・鞍馬山大僧正・伯耆大仙清光坊・愛宕山太郎坊・白峯相模坊・高雄内供奉飯綱三郎
        熊野大峰菊丈坊・比良山治郎坊

豊前坊扁額

中野幡能氏は『英彦山と九州修験道』の中で
英彦山の草創は、『彦山縁起』によれば、魏国の法師善正が継体天皇二十五年(531)に渡来し、豊後日田の藤原恒雄(後に忍辱と称す)なる者とともに開いたとしている。しかしこれはあくまでも伝承であり、英彦山の開基は続日本紀大宝三年(703)九月二十五日の条に出る法蓮から考えるべきではないかと考える。 とあります。
法蓮といえば、宇佐神宮の弥勒寺初代別当で医薬にたけ、宇佐君の姓を与えられた人物です。英彦山や六郷満山の開創と関わりの深い修験者といわれています。
高住神社案内板

英彦山豊前坊(18番)は、英彦山四十九窟の中で般若窟(玉屋神社1番)と同じく、窟の中に神社が造られています。由緒にもありますが、元の鎮座地は鷹巣山で神社の方のお話ではご祭神の豊日別国魂神が祀られていたとのことです。日韓古代史シンポジュウム「韓国・檀君神話と英彦山開山伝承の謎」長野覺・朴成壽編で高住神社を創建した藤原恒雄(ふじわらつねお)は韓国で山の神として祀られていた恒雄(かんゆう)信仰が英彦山に伝わり、その山岳信仰が藤原恒雄に乗托されたということではあるまいか。と中野幡能氏が語っています。『三国遺事』によれば古朝鮮の歴史は、桓因・桓雄・檀君から始まります。この三神は、祖父、父、子の間柄ですが、天神桓因の子が地に降りて地神桓雄となり、地神
桓雄が熊女と結婚して人神檀君を産んだというお話です。以前に檀君神話はご紹介しています。http://nabaanooyado.blog.fc2.com/blog-entry-223.html
高住神社には午玉宝印という呪符があります。熊野三山は烏ですが、英彦山のものは開山伝承と関わる3羽の鷹になっています。午玉宝印は、古くは文字だけでしたが、鷹や烏などの絵を用いたのは、熊野より英彦山の方が百年古いといわれています(相田二郎「起請文の料紙牛王寶印に就て」『史学雑誌』第五十一篇)その3羽の鷹絵とよく似た呪符が韓半島にもあるとのことです(「朝鮮の鬼神」)。(『英彦山と修験道』中野幡能著より引用)
高住神社 午玉宝印
牛王印
熊野の奥宮:玉置神社の弓神楽
玉置神社

高住神社のご祭神が以前祀られていたのが鷹巣山で宇佐で法蓮が修行した処が、鷹栖観音堂一帯です。八幡信仰と鷹は、特に関わりが深いと考えています。また、ご祭神にも興味深いものがあります。英彦山神宮の主祭神は天之忍穂耳命ですが、末社の大南神社には天火明命が祀られ、高住神社にも元初の太陽神として祀られた天火明命の祭祀があります。宇佐八幡宮の創祀に関わった宇佐氏・大神氏・辛島氏(秦氏系)の中の宇佐氏である法蓮に日子を奉斎する太陽信仰があったと考えられます。この信仰が山国川を渡ると応神天皇=八幡大菩薩という信仰(神仏習合)へと変化していきます。しかし、宇佐神宮の二大神事である放生会(銅鏡奉納儀礼も含む)にはご神体の銅鏡鋳造に関わる儀式に「天火明命を降す」とあり、宇佐神宮では応神天皇としか語られていない日子神(八幡大神)の存在があると私は考えています。宇佐神宮に応神天皇を祭祀すると母神の神功皇后も第三殿に祀られることになりますが、それは約98年後のことになります。比売大神は地主神とのことで応神天皇が祀られた8年後に託宣により第二殿に祀られますが、太古に奥宮のある御許山に天降ったのは三女神という伝承が今日まで語り続けられています。神功皇后が三韓征伐で祈った神は宇佐神宮で祀る比売大神で『八幡比咩神とは何か』菊池展明著には伊勢内宮の荒祭宮の神である撞賢木厳之御魂天疎向津媛命は瀬織津姫神と同神であり、その対偶神と語られている神が高住神社のご祭神の一柱である天火明命こと天照国照彦火明之命です。高住神社を創建したのが藤原恒雄という伝承に古朝鮮や高句麗建国のことなど再び本を読み直しています。
鷹巣山案内板

鷹巣山jpg

明日は高住神社で護摩修法が行われます。松会の起源は、各霊場で発祥年代がちがうようですが、五穀豊穣・家内安全を祈り、「求菩提(くぼて)山雑記」(天保六年)の縁起書には「此祭式、元正帝の勅によって行善和尚開白の後、年の豊凶に増減なく、当時に至って例年勤る祭礼也」と記載され、豊前での松会の起源を1200年から1250年前と考えることが出来るようです。現在、英彦山神宮では松会の名を廃し、御田植祭と称し、毎年3月15日に行われています。

高住神社1jpg

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高旗山垂迹の神―宇奈己呂和気神社 

[ 瀬織津姫神]

宇奈己呂和気(うなころわけ)神社の紹介です。

福島県郡山市三穂田町八幡字上ノ台76
▼宇奈己呂和気神社鳥居
宇奈己呂和気神社鳥居4

宇奈己呂和気神社2

『神道大系 陸奥国上』安積郡式内社史料によりますと「宇奈己呂和気神」は、国守より四時の奉幣を受けたという延喜式内明神大社にあたります。この聞きなれない宇奈己呂和気神社ですが、太古に垂迹されたご祭神名を「瀬織津姫命也」と伝えます。全国の明神大社は二二四社ですが、陸奥国には十五社あり、奥州二之宮で安積三十三総社という古社です。
▼拝殿
宇奈己呂和気神社拝殿
▼本殿
宇奈己呂和気神社本殿

同書より勧請の始めを読んでみます。
桓武天皇延暦年中(737~806)按察使藤原小黒丸・大伴家持、当国御下向御代村ニ御着、然ルニ蝦夷之悪黨蜂起セシ時、高旗山ニマシマス神力ニヨリテ、コトゴトク打平ラゲタルニ依テ、高幡【ママ】山ヨリ前後ノ川之落合山崎ニ勧請、無双之大社造営、略、社頭勘受之以前ハ遥ノ西禿倉トテ自然ノ神祠アリ、高幡【ママ】ノ神霊影向ノ處ニテ参詣ノ人々多シトナン(後略)

一方「あさかの神社誌」はご祭神を瀬織津比売命/誉田別命と記されています。
御由緒には、当社旧記によれば、宇奈己呂和気神社創草は第49代光仁天皇代、陸奥国の蝦夷はびこり騒がしきために朝廷は天応元年(781)1月、陸奥国出羽按察使として藤原小黒麿を任命し下向させるが実効なく、翌年延暦元年(782)6月、新たに即位した桓武天皇は、新しく大伴家持を陸奥国出羽按察使、兼鎮守府将軍に任命下向させたが、蝦夷の勢いたくましく盛んのため、家持は高旗山頂に登り潔斎神々を祀り祈念するや神霊顕われ、安積郡の山々八ツ旗山の奇瑞を現わす、家持神験を得て雄々しく蝦夷平定の軍を進め、更服常なき蝦夷を威服させ陸奥、出羽の騒乱を鎮め民心安穏を得ることが出来た。家持神恩に感じ高旗山頂に荘厳な社殿を構築鎮守神として崇めたが、時経るの間に荒廃に至り、その後、山崎の地(現在地)に宮殿は移されるに及んだ。「あさかの神社誌」には境内敷地約3150坪と記載され、戦国武将等から代々の崇敬を受けた文書を伝世している旧社とあります。
▼「瀬織津姫命」垂迹伝承:高旗山
高旗山
高旗山に神霊が垂迹したという伝承は、欽明天皇十一年(551)という説と大伴家持が延暦元年(782)に神霊顕われ、安積郡の山々八つ旗山に奇瑞を現わしたという説があります。朝廷から宇奈己呂和気神に奉幣が行われましたが、どうしてこの神社名になったかは不明です。
神社伝承では桓武天皇の時代、蝦夷討伐のために御下向の折、藤原小黒丸・大伴家持は高旗山の神に祈り、神力によってことごとく平らげることが出来たとあります。高旗山の神は、どうやら強力な軍神としての神徳があるとみなされ、崇敬されてきたようです。そして太古に垂迹されたその神の名を「瀬織津姫命」だと伝えています。

「あさかの神社誌」のなかでは「中野幡能編 八幡信仰」から引用して天平十八年(746)、応神八幡神(宇佐八幡宮)の贈位もみられ、対朝鮮半島放棄、外敵対抗神的性格が夷敵調伏として、この頃に勧請と共に合祀されたものではなかろうかと考えられると書かれています。

『神道大系陸奥国上』には地名の八幡は、三ツ森峠八幡臺という所に欽明天皇十一年の垂迹説、後に大伴宿禰陸奥守国道勅を承り、延暦三年サキ村に迁(セン)宮、今の八幡村とあり、遊覧志には延暦年中三森峠八幡平にあり、安部■守高幡山に建立、永承の頃源義家再興、大伴国道八幡を合祀す(後略)

以上のようにご祭神の八幡神の応神天皇は、後日の合祀のようです。
福島県古殿町にはもう一社、ご祭神を「応神天皇・瀬織津姫命」とする八幡宮があります。
複数の棟札(『八幡比咩神とは何か』菊池展明著より)は姫大神が三女神ではなく、瀬織津姫命であることを示しています。
このような貴重な資料が存在する国が陸奥国です。

 地元の方に「高幡山に降りた神様はどのように伝わっていますか?」とお聞きしましたら「水の神様だ」と答えられました。由緒では語られていない瀬織津姫命の水神のご神徳を氏子の方々は伝え聞いているようです。堂々たる山容の高旗山の頂上には現在も神祠があります。帰りに奈良時代まで宇奈己呂和気神社の神宮寺であった真言宗八幡山護国寺にも参拝させて頂きました。ご本尊は虚空蔵菩薩でお優しい奥様が、写真を写すことを快く承諾してくれました。
▼護国寺
護国寺jpg
▼護国寺院内
護国寺2
▼虚空蔵菩薩像
護国寺虚空菩薩像
▼不動明王像
護国寺不動像jpg

ご本尊の虚空蔵菩薩像は、凛々しい女神様のお顔に見えました。左横の不動明王像は細身ながら迫力があります。神仏習合時、瀬織津姫神の本地仏は、十一面観音や不動明王といわれています。故風琳堂主人は瀬織津姫命の本地仏が虚空蔵菩薩で祀られた背景に明星信仰があったのではないか?と考えられていました。

千時千一夜のブログ 丁寧に伝承を説明されています。

宇奈己呂和気神社の意志
https://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/MYBLOG/yblog.html?m=lc&sv=%B9%E2%B4%FA%BB%B3&sk=1

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遠州桜ヶ池と池宮神社・皇円伝承 

[ 瀬織津姫神]

静岡県御前崎市佐倉の池宮神社と阿闍梨皇円上人の伝承の紹介です。

桜ヶ池池宮神社略記の「桜ヶ池」より読んでみます。
御前崎半島県立自然公園の一環にあり、静岡県自然の森百選に選ばれた神秘な原生林に三方を囲まれ、数々の伝説を秘めた桜ヶ池は、約二万年前に出来た砂丘堰止湖で、広さ役二万平方メートル。往古よりこのかた満々と水を湛えた県指定名勝地で、万葉集にも歌われた名池である。この桜ヶ池に平安末期比叡山の名僧皇円阿闍梨が衆生救済のため、龍蛇と化し、弥勒菩薩の出現を待って入定され、池の主神となられた。

▼池宮神社
池宮神社鳥居
▼池宮神社由緒
池宮神社由緒
▼拝殿
池宮神社拝殿

池宮神社
御祭神 瀬織津比詳【ママ】命 
(相殿)事代主命 建御名方命
御神徳 大祓詞に現われる、代表的な清め祓いの神で諸々の罪穢れを祓い、開運厄除の御神徳極めて高い。事代主命・建御名方命は共に大国主命の御子神で、事代主命は通称エビス様と称せられ商売繁昌、福の神として、又、建御名方命は農、耕、水の守護神として崇められている。
御由来 創祀は敏達天皇十三年六月(584年)に瀬織津比詳命がご出現、社殿の造営がなされた。後、栄枯盛衰が激しく平安時代初めには衰退し、社殿は大破した。しかし、平安時代中期一条天皇の長保三年(1001年)社家の遠祖源朝臣信栄が社勢を再興した。(後略)

瀬織津姫神の研究者であった菊池展明氏は、『円空と瀬織津姫』の下巻で円空の入定(長良川河畔)が弥勒信仰によるものとし、円空がある「神」をおもい、弥勒下生のときを待つという発想をしたのは、円空が最初ではなかったとし、阿闍梨皇円の入定について触れていました。
皇円

以下は『円空と瀬織津姫』から引用します。
同書は熊本県玉名市の蓮華院誕生寺(真言律宗)に触れています。
蓮華院誕生寺は治承元年(1177)、平重盛によって創建された古刹で戦乱の荒廃の後、昭和五年、霊告があり是信僧正によって再興されました。この「霊告」の内容は、「我は今より七百六十年前、遠州(静岡県)桜ヶ池に菩薩業の為に龍身入定せし皇円なり。今心眼を成就せるをもって汝にその功徳を授く。よって今より蓮華院を再興し衆生済度に当れというものだった。」皇円は一条天皇の関白を務めた藤原道兼の末裔で「扶桑略記」を結実したと伝えられています。皇円は、嘉応元年(1169)6月13日、96歳で他界するというのが定説だが、皇円伝説では、この日、「突然、比叡の雄山に黒雲が迫り龍巻がおきました。風がやみ黒雲が散ったときその時、皇円上人は昂然と消えていたというものです。皇円はどこへ往ったかについては、遠州の桜ヶ池に往き、「龍身入定」したとされています。弟子たちは「龍身を受けて修行するのにふさわしい池を探せ」という皇円の願いに各地を探し、弟子の中で著名な浄土宗の開祖「法然」は観世音菩薩から「桜ヶ池を訪(とぶら)え」というお告げを受けたことが語られています。法然は「桜ヶ池の霊水」を比叡山に持ち帰り皇円に捧げると、皇円は大いに喜んだと伝えられています。なぜ、桜ヶ池の霊水を熊本県玉名市を生誕とする皇円が喜んだのか・・・
著者の菊池氏は、そこが江戸時代まで「池宮天王社」といわれ、奥宮的境内社に「桜之宮」があったからだはないかと書いています。同書には『三国地志』には「桜宮」は亦五十鈴宮朝日宮伊勢宮桜宮ト云ウ」と江戸期まで、神宮(天照皇大神宮)の異称に「桜宮」がありました。
現在、池宮神社の主祭神は、瀬織津比咩神で神社の説明では清め祓いの神とあり、大祓いの神としての認識しか、読み取れません。ただ、私が注目したのは、比叡山近くの滋賀県瀬田川の佐久奈度神社で中臣氏によって大祓祝詞の神として祀られる前に池宮神社の社伝では敏達天皇十三年(584)に瀬織津比咩神という神の出現があったということです。
琵琶湖畔では、458年の雄略天皇の時代まで瀬織津比咩神の祭祀の確認が出来ます。素人の調べですのでどの時期まで瀬織津比咩神という神の祭祀を遡れるのかが分かりませんが探索を続けたいと思っています。瀬織津比咩神は各地の神社伝承では、天照大神荒御魂(撞賢木厳之御魂天疎向津媛命)・八十枉津日神・大綾津日神等で確認されますが、「エミシの国の女神」には伊雑宮の御師の家のひとつに伝わる「西岡家文書」によると、伊雑宮の祭神として登場していた「玉柱屋姫命」は瀬織津姫と同神であると書かれています。複雑な異称祭祀を考える旅ですが、式内社からの分祀で勧請された神に瀬織津比咩神という新たな祭祀を見つけるともっと菊池氏に生きて書いてほしかったという想いが過ります。
桜ヶ池の皇円の碑を前にして「扶桑略記」のなかでは「天神地祗皆助歟」とあり、異称祭祀を含め、この神の名に触れていない皇円上人の心底を覗いてみたい衝動にかられました。「日本書紀」の神功皇后の条には撞賢木厳之御魂天疎向津媛命というご神名が記載されています。(詳しくは「エミシの国の女神」「円空と瀬織津姫」「八幡比咩神とは何か」参照)。
「扶桑略記」には八幡大神の神託に触れている箇所があるのになぜ、神功皇后の祈ったであろう神に触れていないのは何故なのか?龍神となって末法の衆生を救うという大願で池中入定した皇円上人に桜ヶ池の神は、どのように映っていたのでしょうか?
 桜ヶ池伝説の図

「桜ヶ池の伝説」社務所発行では、皇円上人が往って六年ほどして弟子の法然が桜ヶ池の水際に立ちます。法然はもう一度師の尊顔を拝したいと願うと一筋の叢雲が湖面を覆うと皇円阿闍梨の姿が元の姿で昂然と現れた。次に法然が龍体を現してくれるように願うと突如風騒ぎ、波怒り、水数丈の高さに上り、見る間に黒雲のうちに火焔迸り二十余尋の龍蛇炬(たいまつ)のごとく舌を吐き、爛々たる眼を怒らし雲中高く踊った。法然始め弟子三人は余りの恐ろしさに身も魂も絶え入るほどおののいた。しかし、かくまで恐ろしき龍蛇に変じ給うも、みなこれ衆生のためである。末法の衆生は聖道自力の修行では容易に成仏はできぬ。桜ヶ池入定は無辺なる衆生を愍み給う阿闍梨の慈悲の行であった。龍蛇には三熱の苦があり、八万4千の鱗の一つ一つに虫が寄生し、日夜上人の皮肉を喰い破り、その苦痛に上人は耐えていました。法然の水晶の数珠により、八万4千の鱗がはらはらと木の葉が散るように落ち、龍蛇は嬉しげに全身を波打たせ、やがて雲と共にたちまち消えました。法然は、湖畔で阿弥陀経を念誦し、赤飯を池に献げます。そして皇円阿闍梨の石像を池畔に建て京に帰りました。以上がかいつまんで入定した皇円上人の後日談の伝説です。
おひつ納め案内板

桜ヶ池とおひつ納め

現在、桜ヶ池では特殊神事として秋の彼岸に御櫃祭が行われています。信者の氏子の中から選ばれた人達が十数人立ち泳ぎして北岸に至り、お櫃を水面に片手で泳ぎ、池の中央に出て順次池心にこれを沈め、龍神に供える行事です。起源は法然上人が皇円阿闍梨のため供養したことに始まります。かつてひとつは神社に、もう一つは皇円阿闍梨に二櫃のみ捧げられたが、後に数が増えていった。駿河では、先祖の御霊は皇円阿闍梨上人の説法を求めて、初盆には必ず桜ヶ池に集まると云われています。慶応四年五月、徳川慶喜は桜ヶ池を参拝され、扁額「池宮神社」を奉納されたそうです。
上人の碑

月影のいたらぬ里はなけれども ながむる人の心にぞすむ (法然上人 続千載集)
記念館内

最後に桜ヶ池が諏訪湖と通底しているという伝承があります。信濃・善行寺の阿闍梨池とも通底伝承があります。「神道大系神社編 諏訪」を読むと諏方【ママ】上宮七不思議に湖水神幸があります。「厳寒の時に三日三夜に及び大明神上宮の濱より下宮の濱に御わたりまして、佐久郡新海明神と會合し給う」との記載は、諏訪上宮の男神と下宮の女神との逢瀬の神事のように考えます。ホツマのみ天照大神の配偶神として瀬織津比咩神のご神名を見ます。通底伝説は同じ信仰集団がそこに居るとも考えられ、どなたかの後日の探求を期待します。

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べっぷクリスマスHanabiファンタジア2017 

[ 観光情報]

べっぷクリスマスHanabiファンタジア2017 12月23日・24日です。
明日も午後8時から花火を見る事ができます。

温泉県大分では別府の市営温泉で毎年、年末から1月3日まで無料で温泉に入れます。HP等で検索してみてくださいね。

別府花火ファンタジア2017

別府花火ファンタジア2017-2

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琵琶湖の水神と不忍池 

[ 瀬織津姫神]

 竹生島宝厳寺は、神亀元年(724年)聖武天皇が、夢枕に立った天照皇大神より「江州の湖中に小島がある。その島は弁才天の聖地であるから、寺院を建立せよ。すれば、国家泰平、五穀豊穣、万民豊楽となるであろう」というお告げを受け、僧行基を勅使としてつかわし、堂塔を開基させたのが始まりです。(HP宝厳寺いわれより)
観光案内図
▼竹生島
竹生島2

『円空と瀬織津姫』下巻 菊池展明著には琵琶湖の水神と大祓-伊吹山・三井寺の箇所で竹生島のことに触れて
竹生島は「伊吹山と浅井丘が高さを競い合ったが浅井岳が一夜にして高さを増したため、夷服神が怒って浅井(岳)比咩命の頸(頭)を切ったところ、その頸は江嶋となった。」という伝説を紹介しています。
また、浅井丘が、小谷城があった小谷山ではないかとペンを進めます。小谷山=浅井丘にはかって浅井姫がいて、それが、竹生島の神になったのではないか・・と。
▼宝厳寺
宝厳寺2

宝厳寺1
▼弁財天像(本尊の弁財天は江戸時代まで島の東側の弁財天社(現、都久夫須麻神社本殿)に安置されていました)
弁財天
▼都久夫須麻神社
竹生島画像jpg
▼本殿
竹生島神社jpg


同書には円空上人は「寛永九年(1632)に美濃国(現在の岐阜県)に生まれ、元禄八年(1695)七月十五日に同国(現在の関市池尻)の長良川河畔に入定した。生涯に十二万体の仏を彫ることを己に課して諸国を行脚し、最後は自らの死期を悟るや土中入定をもって、つまり納得の上で、円空は自らの生涯を締めくくった。」と書かれています。
▼伊吹山
伊吹山

元禄二年(1689)三月、円空は、湖北の伊吹山で特大の十一面観音像(像高180.5cm)をまた、この観音の守護神とみられる不動尊(像高99.7センチ)の二体を彫っています。菊池氏はこの像が伊吹山の神をおもってこれらを彫像したにちがいないと円空歌から一首引用しています。以下『円空と瀬織津姫』下巻を読んで見ます。

 伊福山法ノ泉の湧出る水汲玉ノ神かと思ふ(歌番612)
  (伊福山〔伊吹山〕法(のり)の泉の湧き出(いづ)る水汲む玉の神かとぞ思ふ)

円空は、伊福山=伊吹山には「法の泉」が湧出していて、ここには、その霊水を汲む最上の神(「玉の神」)がいると詠っている。円空にとって、仏法の霊泉を司る神、あるいは、霊泉そのものである「水汲玉ノ神」がいるのが伊吹山で、この山神(水神)は十一面観音に化身する神だという認識である。

この十一面観音像の背には上段に漢詩、中段に和歌、下段に彫像経過が記されていています(以下は、上段の著者の読下し)。

(起句)桜朶(おうだ)の花枝(かし)は艶(えん)にして更に芳(かんば)し
(承句)観音の香力は蘭房(らんばう)に透(す)く
(転句)東風(こち)は吹送(ふきおく)りて終(つい)に笑(しょう)を成す
(結句)好(よ)く莚前(えんぜん)に向ひて幾場(いくばくかのじょう)を定めん

全体を意訳的に再読してみるなら、次のようになろうか。

「桜の花枝は艶やかに垂れ下がり、芳しい香りを放っている。伐りだした桜木をおいた室内には、清く芳しい観音の香りが満ちている。(薬師の浄土である東方瑠璃光世界からは)東風が吹きわたってきて、この風に吹かれて観音は笑みの表情となる。筵(むしろ)に立てた桜木に向って、わたしは、今、観音を彫ろうとしている。生まれた観音をまつるささやかな場を、ここ(伊吹山)に定めんとおもう」(後略)

円空は上記のように各地で彫像をし、沢山の歌も残しています。著者は琵琶湖には円空が歌うところの水汲玉ノ神がいると書いています。

『東浅井郡誌』では竹生島弁財天は、古来諸種の神の異説があるとして蹈鞴姫命、市杵嶋姫命、宇賀御魂神、浅井姫命などを挙げています。著者は水汲玉ノ神と詠まれた神が、十一面観音像と習合する瀬織津姫神という女神であり、竹生島の本源神と考えていました。竹生島宝厳寺のHPの最初に書かれた「すべては天照皇大神にお告げから」文字は大きな意味があると考えています。天照大神荒魂は瀬織津姫神と伝わるからです。

また、著者は日本の古代信仰は、太陽神(男神)と月神(女神:水神)の並祭であったと捉えていましたので伊吹山にも二神の存在を考察しておりました。比叡山延暦寺のHPには比叡山は、東には「天台薬師の池」と詠われた日本一の琵琶湖と望むとあります。琵琶湖には弁財天のほかに薬師と習合する神(男神)がいると思われますが、その考察はまたの機会に。

ここで琵琶湖から、上野の不忍池に移ります。
上野清水堂絵図

不忍池石碑

上野公園内の不忍池は、面積3万2千坪を有する大池でありましたが、明治以後、池辺は埋め立てられ、現在では昔の約3分の2になりました。また地底には数ヶ所の湧水があって旱魃にも涸渇することがないといわれています。池の名義については諸説が伝えられています。古くは「しのばすが池」「しのばずの池」「しのわづの池」とも呼び、篠輪津池の字を宛てていました。篠が生い茂って輪の如く池を廻っていたからともいわれますが、『江戸名所図会』には「不忍とは忍の岡に対しての名なり」といい、略記にも五百年前から上野台地が「忍が岡」といわれ、不忍池と呼ばれていたとあります。(参考:台東区史上巻、不忍池辯天堂略記)

東叡山寛永寺不忍池辯天堂略記より
天海僧正が上野にお寺を建てた理由は、天台宗祖伝教大師(最澄)さまが滋賀県の比叡山を開いて延暦寺を創立(788)し、国家の安泰を祈る道場を作られたことにならったものです。関東の叡山という意味で東叡山といい、延暦寺と寛永寺の寺号は共に年号を寺号とされたのです。比叡山は琵琶湖の西方にそびえ、京都の鬼門に当たります。天海僧正は上野の山の麓に広い不忍池があるこのあたりの景色が比叡山によく似ている江戸第一の景勝の地として上野に寛永寺を建てたのです。不忍池の中ほどに、古くから小さな島があって聖天さまをおまつりしてありました。
天海僧正は、寛永寺を建ててから数年の後、水谷(みづのや)伊勢守勝隆公と相談して、琵琶湖の竹生(ちくぶ)島にならって島を築くことになりました。伊勢守は領地から大勢の人をつれてきて、上野の山の土を舟で運び、聖天島の東南方に僅か十日程で忽ち大きな島を築きました。天海僧正は、大変喜ばれ、伊勢守が島に建立したお堂に辯天さまをお祀りして国家の安泰と人々の福寿円満を祈念されました。
▼寛永寺
寛永寺
▼宇賀神像
宇賀神像

辯天堂縁起には、御本尊の八臂(はっぴ)辯天の頭上には鳥居があり、あごひげを生やした人頭蛇身の老人の姿をした宇賀神(農業・食物神)が祀られているとあります。龍や蛇(白蛇)は辯天さまの化身となり、巳の日が縁日とされたそうです。

『続江戸名所図会を読む』川田壽著には、寛永二年(1625)寛永寺を建立するとき、天海僧正が、琵琶湖にみたてて池の真中に小島をつくり、弁財天を祀ったのがはじまりといわれる。参詣する人は、舟を仕立てて渡ったが、寛文十年(1670)ごろ、参道ができて便利になった。『江戸砂子』に、紅白の蓮の葉が水面を覆ってまるで芝生とようだとある。と書かれています。

『神道大系武蔵国』には、篠輪(不忍)津池ニ瀬織津比咩ヲ崇、山王ノ霊社ヲ移シテ護国ヲ祈玉フ。如斯魔障ノ禍ヲ攘肥穣豐富ノ里ニシテ、後来日本第一ノ官府ト成コソ處コトハリナレ。
▼寛永寺奥の院
奥の院弁財天社

不忍池に瀬織津比咩をあがめ、山王霊社を移して護国を祈る。かくのごとく、わざわいをはらい、肥沃豊かな里にして日本第一の官府となるところとする。となりましょう。

琵琶湖の弁財天(水神)は、上野の不忍池でやっと本来の神の名を残したということになります。大祓いの神としての瀬織津比咩神は、大海原に罪や穢れを押し流します。天海僧正が不忍池に瀬織津比咩をあがめ、比叡山信仰を上野に持ってきたのも琵琶湖の信仰を熟知していた上での勧請と考えられます。しかし現在の寛永寺は、水神の弁財天と食物神の宇賀神を合わせて「宇賀弁財天」を祀っているとし、本来の弁財天に習合する神の姿を探すことは残念ながらできません。

円空が詠った琵琶湖の水神:「水汲玉ノ神」は、瀬織津比咩神だったのではないかとの菊池氏の考察はするどく、円空上人の信仰に寄り添う旅をはじめてみたくなりました。



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兵庫県:木梨神社 

[ 瀬織津姫神]

兵庫県加東市藤田にある郷社の木梨神社の紹介です。

主祭神を八十枉津日神とする古社です。資料のみの以前ご紹介いたしましたが、やっと参拝できました。

木梨神社

木梨神社 由緒

明治四十五年に出版された「府縣郷社明治神社誌料」より

兵庫県播磨国加東郡福田村大字藤田の木梨神社(郷社)

ご祭神 
大直日神 八十枉津日神 表筒男命 神直日神 中筒男命 中津少童命 底筒男命 底津少童命 表津少童命

由緒
御神体は金紙幣帛に坐ます由、崇神天皇の御宇、丹波の玖賀耳御笠(クガミミカサ)の渠師謀反せしに依り、日子坐王をして
平定せしめ給ふ時、賊軍逃げて此里に来り、皆野中に身を隠せしかば、野を焼きて賊を亡せしに、皇軍忽病み臥せり、王太く患へ給ふ、時に八十枉津日神の御【言】【兪】あり、此里の東に醎(カン)水湧出づるを(今に醎水の湧出づる虚あり、此を藤田の醎水と云へり)汲み来て飲しめ給へば、病又忽癒えたり、於是王小祠を建て八十枉津日神・神直日神の三柱の神を鎮祭す、蓋是當社の創立なり、其後允恭天皇の皇子木梨軽太子(キナシカルノミコ)播磨に行啓の時、當社に住吉大神海童大神を奉祀し給ふ、因りて宮名を木梨神社と稱す、(後略)

木梨神社の由緒では崇神天皇が丹波の玖賀耳御笠(クガミミカサ)の渠師謀反を平定する時、野に隠れた賊軍を野を焼き亡した後、「皇軍忽病み臥せり、王太く患へ給ふ、」とありますから、相当に悲惨な戦いだったと考えます。
そこで託宣したのが、八十枉津日神で醎(カン)水の湧いている場所を教えます。醎(カン)水とはしおからい水と「広辞苑」には書かれています。この醎水により、たちまち病が癒えたとあります。

『日本書紀』の崇神天皇の条をみてみましょう。
崇神天皇五年に国内の疫の病多く、民(オオミタカラ)は大半は死亡して徳を以って治めることが難しかったとあります。この後、天照大神・倭大国魂の二柱神を天皇の大殿の内に並祭します。しかし、其の神の勢いを畏れて大殿の内で神と共に住むことが出来ませんでした。そこで天照大神を豊鍬入姫命に託して倭の笠縫村に祭ります。日本大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)は淳名城入姫命(ぬたきのいりびめのみこと)に託して祭りますが、髪落ち體瘦(やすか)みて祭ることが出来ませんでした。七年の春にはしばしば災いがあり、八十萬の神をつどいて再度占います。すると倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)に神懸りして「天皇、何ぞ国の治まらざることを憂える。若し、能く我を敬ひ祭らば、必ず當(まさ)に自平(たひら)ぎなむ」と託宣します。天皇は「如此(かく)教ふは誰(いずれ)の神ぞ」を訊ねると「我は是倭国の域(さかひ)の内に所居る神、名を大物主神と為ふ」と答えます。そこで教えのままに大物主神を斎祀ります。しかし、験がなかったとあります。その後、再度祈ります。すると夢に一人の貴人が自らを大物主神と名乗って云われるには「天皇、復な愁へましそ。国の治らざるは、是吾が意(こころ)ぞ。若し吾が児大田田根子を以て、吾を令祭(まつ)りたまはば、立(たちどころ)に平ぎなむ。亦海外の国有りて、自づからに帰伏ひなむ。」と託宣しました。その後、秋八月には穂積臣の遠祖大水口宿禰等の三人が同じ夢の中で神の託宣を聞きます。「大田田根子を以て、大物主大神を祭ふ主とし、亦、市磯長尾市(いちしのながをち)を以て、倭大国魂神を祭ふ主とせば、必ず天下太平ぎなむ」と。このように祭祀を行うと疫病始めて終息して国内がしずまったと書かれています。

木梨神社2-1

木梨神社 拝殿

木梨神社 拝殿の額

木梨神社本殿

ご祭神の八十枉津日神とは、荒祭宮の神、瀬織津比咩神のことであると『倭姫命世紀』下巻にあります。

荒祭宮一座 御形鏡坐
  皇太神宮荒魂。 伊弉諾大神所生神 
  名八十枉津日神也
  一名瀬織津比咩神是也
伊勢内宮8

八十枉津日神を祀る神社はあっても託宣する神という伝承と物部八十手が祀ったいう由緒も興味深く思いました。
氏子の方が親切に「多田池」を案内して下さいました。池は木梨神社より東に300mくらい離れた場所にありました。
伝説では、摂津の毘陽池のそばを通りかかった巡礼が若い女から小さな文箱を託され、多田池までやってきて箱を開けると小さな蛇がすべり落ち、それが、数十年後、大蛇になって人を呑みこむ様になります。以下は案内板(多田池の伝説)に書かれています。大蛇がやられてのたうちまわったのが、「蛇ころび」という場所(池の背後)で今でも草がはえてないことや「多田池」が神社の場所近くまで広かったこと、また、池の周辺の田は、酒米として作られて山田錦というお酒の原材料になっていることなど教えていただきました。

最後にご案内いただいたのが近くの闘竜灘でした。加古川中流に位置し、竜の躍動に似たことで名が付いたといわれ、川には奇岩や怪岩が起伏しています。    S様、大変お世話になり、ありがとうございました。
闘竜灘1

闘竜灘2

瀬織津比咩神については『エミシの国の女神』『円空と瀬織津姫』『八幡比咩神とは何か』菊池展明著に詳しく書かれています。

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大野湊神社と櫻谷:石川県 

[ 瀬織津姫神]

大野湊神社の紹介です。

石川県金沢市寺中町ハ163  

現在のご祭神は
本殿 八幡社 護国八幡大神 相殿鎮魂八神
    神明社 天照皇大神 相殿 瀬織津姫神
    佐那武社 猿田彦大神(佐那武大神)
境内社
   春日社 武甕槌命 経津主命 天兒屋根命 比咩大神
   西宮社 事代主神
   白山社 伊邪那岐命 少彦名命 天満宮
   荒魂社 荒魂大巳貴神
▼大野湊神社
大野湊神社鳥居

大野湊神社拝殿

大野湊神社由緒jpg

石川県神社庁HPの大野湊神社由緒は以下のように書かれています。

大野湊神社は、神亀4年(727)陸奥の人、佐那(さな)が航海中に猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)の出現を感じ、海辺の大野庄真砂山竿林(おおのしょうまさごやまさおのはやし)に存していた神明社の傍らに一祠を建立し勧請したことをその創祀としている延喜式内社(えんぎしきないしゃ)です。
この神明社、即ち天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)を奉斎した社の創立年代は不詳ですが、おそらく飛鳥朝時代であると考えられています。
この猿田彦大神を合祀してより、天平元年(729)には天に達し「佐那武大明神」(さなたけだいみょうじん)の称号を賜りました。

神社庁の紹介では、瀬織津姫神の鎮座を確認することが出来ませんし、風琳堂の全国瀬織津姫をまつる主要神社リストの中にも石川県は2社(瀬織津姫社・市姫社)のみでした。
▼神明宮(本殿に向って左側)
大野湊神社神明宮

佐那武大明神が猿田彦大神という説に異論を唱えたのが、大正十三年に発行された「石川縣石川郡神社誌」(発行:石川縣神職会石川郡支部)【以下神社誌という】で当社祭神を猿田彦大神となすことは当らずということ信じる旨を記載しています。

「石川縣石川郡神社誌」大正十三年発行を読んで見ます。
佐那武明神の號は佐那なる者が猿田彦神を勧請したるよりの称号に有らずして其の以前より大野郡海邊佐良嶽竿林に鎮座ありしより佐那嶽明神と称したるなりと得べきが如し。而して祭るところの神は天照大神(荒魂)なり。さらば佐那嶽大明神の称号は天照大神を主祭神とする佐那嶽明神を尊崇してのことなりと見るを當れりとすべし。天照大神の荒魂は即ち瀬織津姫神にして毎年八月一日海邊に於て祭祀の執行せらるるに見ても瀬織津姫神の主祭神たること明白なり。但し当社祭神瀬織津姫命は戸板村櫻谷社を合祀したる為、増加せるが如く思考さるれど往古よりの鎮斎なることは(天照大神の御名によりて)疑ひなき事に属す。

「金石町誌」には佐那が夢から覚めて急いで船を港に寄せ陸に上がれば、深林の眞砂山に竿の林があって神鈴を聴いて瑞祥ありとして神明宮を鎮斎したとあります。

地主神として祭られてきた佐那嶽大明神の神霊が現れるときには神鈴の瑞祥があったようです。『神社誌』は神明社の神として祭られた天照大神(荒魂)は、瀬織津姫神で大野湊神社の主祭神は、瀬織津姫神と主張しています。最後に櫻谷社からの合祀があったことが書かれていましたが、現在でも宮司様が櫻谷社の祭祀を続けられています。宮司様はちょうどお留守で「櫻谷社から瀬織津姫神が合祀されましたね。」と神職様にお聞きしますと「自分は行ったことがないけど住所だけなら分かります」とのことで住所をお聞きして櫻谷社へ向いました。小さなお宮さんでしたが、きちんと管理されていました。
▼櫻谷神社
櫻谷神社鳥居

櫻谷神社社殿

桜谷神社について

大野湊神社は、現在も本殿の神明社のご祭神を天照皇大神 相殿 瀬織津姫神とされている貴重な神社です。この祭祀は伊勢の地主神の祭祀の形そのものです。

最後に櫻谷について触れておきます。
「佐久奈度神社之記」によりますと「桜谷」は、公の災厄を祓うために天智天皇大津宮八年に右大臣中臣金連が滋賀県瀬田川の八張口で大祓詞の初期創作をしたと伝える祓之地です。この地は近江湖水の落出場所であるから八張口と云われたようです。中臣大祓では、高山の末、短山の末とは櫻谷北側鹿飛という所の東の峯を短山の末と云い、西の峯を高山と云い、その麓に鎮座するのが佐久太理神社でその両峯の下を櫻谷と云い、往古は忌伊勢と云う。
拾玉集慈鎮和尚の歌(撰者柿本朝臣人磨呂)には

匂テルヤ櫻谷ヨリ落瀧津波モ花咲宇治ノ網代木
▼佐久奈戸神社から見える瀬田川
佐久奈度神社から瀬田川を見る

とあり、櫻谷から落ちてくる急流を瀧と表現しています。この瀧によって総ての罪や穢れを大海原に持っていく大いなる水の力が瀬織津比咩という神のご神徳とします。佐久奈度神社では瀬織津比咩はかって一柱で祀られていましたが、現在では四柱の神が祓戸神と語られています。
「佐久奈度神社之記」には、往古は忌伊勢と云われていたとあり、『近江国風土記』では伊勢の佐久那太李(さくなだり)の神を忌みて、瀬織津比咩を祭れり。と書かれていました。確かに瀬織津姫神は伊勢の神でもありましたし、往古、伊勢は桜宮とも呼ばれていました。

大正十三年に主祭神は瀬織津姫神で佐那嶽大明神と同神と語った神職の方々の主張は、現由緒には反映されませんでしたが、天照皇大神の相殿として瀬織津姫神祭祀が残り、合祀されながらも櫻谷社が残され、大切に祭祀を続けてられていることをお伝えいたします。

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中津の古要神社「くぐつの舞い」のお知らせです! 

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10月12日(木曜)の午後6時から中津市の古要神社で3年に1度の「くぐつの舞いと神相撲」の奉納があります。

ユーチューブ(nabana88)でも見る事ができますが、実際に見るといかに楽しい奉納神相撲かが分かります。

お時間のある方は、是非、足を運ばれて下さい。

古要神社 10

▼中津市の観光公式サイト
http://www.city-nakatsu.jp/kankodocs/2013080600136/

神相撲では、黒くて小さな住吉大神が圧勝します。

大きな祇園大神や沢山の神様が住吉大神に戦いを挑みますが、束になってかかっても勝ち続けます。

どうして勝者が住吉大神なのか・・・

『八幡比咩神とは何か』菊池展明著には住吉大神を奉斎する氏族の津守氏は尾張氏と同族であり、

その祖神はともに火明命という男系太陽神と書かれています。住吉大神が南方系海人族の奉斎する太陽神的存在なら

同じく「くぐつ舞」が行われる豊前市の古表神社では神功皇后の妹とされる虚空津姫命(そらつひめのみこと)も南方系の服装をし

ています。

古表神社の木造女神騎牛像は祭神である神功皇后が黒牛のまたがり、虚空津姫命にみちびかれて三韓を征服したという伝説を

表現したものといわれています(「吉冨町の歴史と文化財」吉冨町教育委員会。

原初太陽信仰の面影の強い住吉大神が勝つ「神相撲」は、南方系に祖を持つと伝わる隼人にとってたまらなく面白く思えたであろ

うと私は考えます。

秋の夜空に単調に繰り返す笛の音と太鼓の音とガチャガチャと鳴るクグツの音がなぜか懐かしい響きに聞こえてきます。

▼古要神社案内板
古要神社案内板





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愛媛県:鳴滝神社 

[ 瀬織津姫神]

今日は、8月23日。風琳堂主人・菊池氏の命日です。

菊池氏を偲びつつ・・・瀬織津姫神が滝神として祀られている愛媛県八幡浜の鳴滝神社のご紹介をします。

場所は 愛媛県八幡浜市松柏野中甲449

八幡浜から車で10分大洲市方向に走ると八幡浜市立千丈小学校があります。

小学校近くからくねくねと離合できない細い道をしばらく上がりますが、

道をまちがえたかな?と思いはじめたころにやっと鳴滝神社の下の道までたどり着きます。

正確にいえば、現在の呼び名は松柏神社で鳴滝神社に各社が合祀されて社名が改められました。

手元に資料がないのですが、私の備忘録には

山中に飛瀑あり、瀑水は千丈の上から落下し、

瀑渕となってその深さ幾十尋か知れず、爆音は破鐘の響をもって数十町に聞こえ鳴瀧と・・・

鳴滝神社・滝3

社殿は、急な石段の参道を少し上がります。千丈鳴滝といわれた滝の傍でいばらく滝の音を聞いて過ごしました。
鳴滝神社


谷を流れる滝水の傍には奉納された不動明王像あります。

鳴滝神社・滝

鳴滝神社・滝と不動jpg
▼滝周辺の景色
鳴滝神社の周辺jpg


詳しくは菊池氏の書いた下記のブログで

月の抒情、瀧の激情の宇和海の守護神・鳴滝神──八幡浜・大島の龍神伝説をご覧下さい。
http://teamtamayura.blog87.fc2.com/blog-entry-6.html

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流浪する女神 

[ 瀬織津姫神]

京都府の名越神社のご紹介です。

京都府京丹後市網野町公庄竹クラベ100

祭神 瀬織津比女神(せおりつひめのかみ)

「網野町誌」下巻より

「郷村誌稿」には次のような説話が記されている。

当社殿内に古い幡(旗)一流が祀ってある。また一つの巻物があって久岡良左エ門がこれを蔵しているが、それには次のような話が書かれている。

寛政六年(1794)8月14日、この村の久岡新エ門の元祖の僧了雲の兄芳造が幼いころ、字北谷へ行ったとき、椎の木末(こずえ)にあやしい物が見えたので、これを竹の棒で振り落としてよく見ると、(その布には)菊桐の紋章があってその傍に『名越大明神』と染付がある「御幡」であった。幼子は何心もなくそれを鎌で切り裂こうとしたところへ同村重助の妻が来て、これを押し留め、すぐに御幡を久岡宅へ持ち帰った。橋木村の明徳締定律師を招いて事の次第を話したところ、希代の奇瑞と仰せられたので近村から参拝に人々が群集した。不思議なことに三日経ってから了倶【ママ】に夢の御告があった。それは「わたしは難風に吹き流れて海の浅瀬に留まったが、天の指図(さしず)によって計らずもここへ来たのである。我を信心するものたちの疫(やまい)の難を救い取ろう」という御誓言であった。そこで直ちに社を建てたのが名越神社の由来である。今でも一村中無病であるのは偏に明神の御加護であろうか、末世に至るまで疑ってはならないことである。―と。(原文を読みやすくあらためた)
注 名越考
六月祓(みなづきばらえ)は名越祓・夏越祓(なごしのはらえ)とも称した。ナゴシには「邪神をはらひなごむる」という悪霊の鎮撫を意味する場合と、夏と秋の交代の折り目にあたって行う夏越しの意味がある。(『日本民族文化大系4神と仏』)宮田登 小学館


大祓の神として滋賀県の佐久奈度神社に瀬織津姫神一柱が祀られたのが、天智天皇八年のことです。全国の祓戸神社のご神名に記されている瀬織津姫神は、名越神社では流浪する幡の女神であったようで北谷の椎の木末で幼子によって発見されます。村人が大切に祀ると「我を信心するものたちの疫(やまい)の難を救い取ろう」と託宣します。それから村は疫病の難からのがれた様です。
瀬織津姫神は、異称祭祀として八十枉日神という神名で祀られることもありますが、この禍津日神を本居宣長は悪の根元神であり、これを直すのが直日神であるとし、平田篤胤は悪を糺す神であり、祓いによって価値を生じる善神だと説く解釈説があります。

この名越神社では病の難を取り除こうと託宣した瀬織津姫という神は村人にとってとてもありがたい女神様だったという説話でした。 幡に寄り付く神のお話は、『八幡比咩神とは何か』菊池展明著(風琳堂)に書かれています。


 名越神社の説話  原文は大正四年の『丹後國竹野郡誌』参照

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京都:下鴨神社 

[ 瀬織津姫神]

京都の賀茂御祖(下鴨)神社の紹介です。
鴨川と高野川

鴨川と高野川の合流する三角州にある糺(ただす)の森は、古代から清水の湧く所、鴨川の水源の神地として信仰されてきました。室町時代の「諸社根元記」に「浮島の里、直澄(ただす)」と記されており、「糺」の語源の一説として知られています。糺の森の奥に賀茂御祖神社(下鴨神社)があります。平安遷都以降は、皇城鎮護の神、賀茂皇大神宮と称され全国に六十の荘園を持ち、山城国の一宮、全国賀茂神社1300社の総本宮として広く崇敬されてきました。境内の糺の森では古代祭祀復元跡も見られます。
古代祭祀跡2jpg

遺構復元案内板jpg

糺の森の中の河合神社境内の中には神社祀官系累にあたる鴨長明の家が復元されています。家は囲炉裏を中央に人間住むにはこれくらいがいいかなと思わせる五坪程の屋敷です。この地で鴨長明が読んだ歌が下記の歌です。

 「石川や せみの小河の清ければ 月もながれを 尋ねてぞすむ」
▼糺の森の小川
糺の森の小川

鴨長明について案内板

鴨長明屋敷

鴨長明庵

賀茂御祖神社発行の「御蔭祭 みあれ神事の歴史」には以下のように書かれています。

葵祭の名で知られる賀茂祭は、約1400年の歴史があります。前儀として、五月十二日におこなわれる御蔭祭は、それよりも古く、約二千数百年前に始められたとする御生(みあれ)神事が始原の祭りであります。神様がお生まれになった若々しいお力、荒御魂をお迎えする祭事です。その化粧は、日本最古の神幸列と伝えられています。今日でも賀茂祭と対を成す重要な祭事です。

▼賀茂御祖神社の由緒
賀茂御祖神社由緒記

下鴨神社楼門

ご祭神は神賀茂神社の祭神である賀茂別雷神の母の玉依媛命と玉依媛命の父の賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)とあります。「洛北誌」には賀茂御祖神社摂社の御蔭神社の項にご祭神の記載を「御祖神社荒御魂 東殿 玉依媛命 西殿 建津身命」とし、舊社なり高野より高野川を隔てて東方叡山の西麓字御蔭山にあり創立由緒種々の説あれど未だ定かならず

境内由緒には触れていませんが御蔭山にみあれした神は摂社の御蔭神社に祀られ、御祖神社荒御魂神がどのような神の荒御魂であるかは知らされず、口伝で伝えられたのではなかろうかと考えます。推定ですが、神官の末裔の鴨長明はご祭神のことを知っていたかもしれません。
そう思い彼が詠んだ歌をみると小河に映る月神の存在がみえるようです・・・
又、七不思議の一つに「烏の縄手」というものがあります。下鴨神社の案内板には賀茂建角身命は別名「ヤタカラス(太陽という意味)」と呼ばれています。またナワテとは細い(狭い)長い道ということでヤタカラスの神様へお参りする長い細い参道という意味と書かれています。賀茂御祖神社では賀茂建角身命が太陽神と仰がれていたと考えられます。
太陽神と荒御魂神祭祀を考察するとなぜか伊勢に行きつきます。伊勢の荒祭宮に天照大神の荒御魂神が祀られているからです。そして賀茂御祖神社では井上社(井戸の井筒の上に祀られたので井上社といいます)の祭神として瀬織津姫神のご神名をみます。案内板では災難厄除けの神様とあります。出雲では撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(天照大神荒魂)は痔病平癒の神として崇拝され、「大和志料」下巻には、天照大神ノ荒魂瀬織津姫神ヲ祭ルとあります。賀茂御祖神社は以前、賀茂皇大神宮と称されていましたから、伊勢を連想してしまった訳です。
残念ながら、賀茂御祖神社の荒御魂神については資料がなく、不明です。各地の神社伝承を見ると玉依媛命荒御魂なども登場するのでご祭神二神の荒御魂ともとれますが、御蔭神社のご祭神は三柱の神様の記載なのでこれも考えがたいです。

井上社の前の御手洗池は池に湧き出る水あわをかたどったのが「みたらし団子」を連想させ、みたらし団子発祥の地と伝えられ、団子は人の形を表現したものといわれています。井上社の前の御手洗池は葵祭の斎王代が池に手を浸し清める「斎王代御禊の儀」の場所でもあります。今年の御手洗祭は七月二十二日から三十日とのことです。是非、出かけてみてください。
井上社案内板

井上社

井上社本殿

みたらし団子発祥案内板jpg


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牽牛と織女図 

[ 神話・伝承]

明日は七夕、年に1回天の川を挟んで彦星と織姫の逢瀬が行われるとの伝説があります。

九州は梅雨前線が停滞しており残念ながら天の川をみることはかなわないようです。

福岡県の大島でも七夕伝説がありますが、京都の地主神社では「棚機(たなばた)」とは古い日本の禊ぎ(みそぎ)行事で、乙女が

着物を織って棚にそなえ、神さまを迎えて秋の豊作を祈ったり人々のけがれをはらうというものと伝わっています。他には京丹後

の天女伝説や琉球にも天女伝説があり、各地で明日は古代の伝説を思い浮かべながら、夜空を眺める方もいるかと思われます。

峰山郷土史(上巻)では「七夕伝説の織姫」に以下のような伝説を紹介しています。

比冶の里に三右衛門という狩人があってある朝、山頂の池(女池・雌池)で水浴する八人の天女を発見し、そのうち一人の羽衣を奪って天女と同棲して、三人の女児をもうけ、農業、養蚕、機織の業をひろめたが、天恋しさにたえかねた天女は、子供から羽衣のかくし場所を聞き出し、大黒柱の中にかくしてある羽衣をとり出すと、軒先の夕顔(干瓢)の蔓をよじのぼり、外から駆けもどって来た三右衛門に「七日々々に会いましょう」と再開の日を約束して昇天して行くという筋書で、七日々々が七月七日と聞き間違えたのは「あまのじゃく」という悪神のいたずらからであった―という。
―また、三右衛門は、天女を慕って夕顔の蔓をよじて天上にのぼり、天女に会い、天の川の架橋を請け負った。しかし、この工事が完成するまでは、天女のことを思い出してはならないという約束であったが、予定の七月七日が来て、橋がほとんど出来上がったとき、三右衛門は、天上にとどまり天女といっしょに暮らせるよろこびに、ふと天女を思い出した。と、たちまち洪水が出て、橋は押し流され、三右衛門は下界へ追いかえされた―という後日物語がある。(中略)
その後、三右衛門の家には代々美女が生まれたので、その美系にあやかるため、毎年七月六日・七日の祭りには遠近をとわず、参詣する人々で賑わったという。また、この天女がはじめて稲(水稲)の栽培を教えたので五穀の神、すなわち田畑の神として祭るのであるという。現在(昭和38年作成の郷土史の為、現在は確かめていません)でも三右衛門の家では2日間に限り、牽牛織女の画軸などが展覧される。

「世界の大遺跡シリーズ10 古代朝鮮のあけぼの」講談社では

1976年に発見された徳興里古墳に高句麗文化の遺産を見ることが出来ます。

江西一帯が古墳の密集地で高句麗王族や貴族と墓域と考えられているそうです。

徳興里古墳で関心を持ったのが「牽牛と織女図」です。図の解説には以下のように書かれています。

牽牛と織女図  徳興里古墳  三国時代高句麗 408年

青色の銀河が大きくうねって流れ、それを挟んで、牛をひく牽牛と犬を連れた織女を描く。年に一度、七夕の夜にしか

会うことを許されなかった2人。多分逢瀬の後であろうか、織女は悲しげに牽牛を見送る。

 七夕伝説が5世紀の高句麗にすでに伝えられていたことは興味深い。

上記のように書かれていましたが高句麗へは中国から伝説が伝わったと考えられます。

▼徳興里古墳 牽牛と織女図
牽牛と織女図

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日出町:”カフェシエル本日OPEN” 

[ 未分類]

 日出町深江港近くの回天大神訓練基地記念公園のそばに本日、Cafe Ciel(カフェ シエル)がオープンしました。

オーナーは第二の人生の夢がカフェの実現だったそうです。おいしいコーヒーとジュースと手作りケーキのカフェです。

今日は、多くの友人の方々からも祝福されて笑顔がいっぱいのカフェ空間でした。地元の方々にも愛される場所にしたいと

色々企画を考えているようです。回天記念公園に行かれたら、是非、新たな癒しの空間へお立ち寄り下さい。

ちなみに「シエル」はフランス語で「空」を意味します。回天の「天」から一字をもらって「天」を空(そら)と読んで「シエル」と名付けたそうです。

看板はオーナーが心を込めて書きました。

今日はダイエットは忘れて美味しいケーキをいただきました(^^) ごちそうさまでした。


カフェシエル1

シエルオーナー

シエルjpg

ケーキセット

いちごケーキ

回天基地案内板

回天公園












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速谷神社:広島県 

[ 瀬織津姫神]

広島県廿日市市上平良の速谷神社(旧郷社)のご紹介です。

ご祭神 飽速玉男命

当神社HPには以下のように書かれています。

当社にお祀りするは、飽速玉男命は古代、安芸国を開かれた大神です。成務天皇の時代に、安芸国造(あきのくにのみやつこ)を賜り、広く国土を開拓し、産業の道を進め、交通の便を開き、安芸国の礎をつくり固められた安芸建国の祖神です。
速谷神社鳥居
▼楼門
速谷神社楼門
▼由緒
速谷神社由緒
▼神門
神門jpg
▼境内図
境内図
▼拝殿
拝殿
▼拝殿中
拝殿中
▼本殿
本殿jpg
▼境内社:岩木神社
岩木神社
▼境内社:稲荷神社
稲荷神社

鎮座の年代は不明ですが、創祀千八百年余りとなる古社との説明があります。
『府縣郷社明治神社誌料』明治四十五年によりますと古事記傳に「瀬織津姫」、神名帳考證に「速素盞鳴尊」神祇志料に「多支都比咩乃命」とあります。また、地名辞書には速田大明神といわれ、伊都岐島を一宮というのに比し、二宮と見えます。往時は二宮速田大明神と称していたようで、昔市杵島姫神当国に鎮座の時、霊鳥従い来たり当村に留まる。時に岩木翁なるもの村の主たり、霊鳥のために十歩の地をかし以って棲えしむ。後社を建てこの鳥を祭る。今境内社岩木神社は即ち岩木翁を祭れるものなりと。(厳島道芝記、厳島図会)祭日には厳島の神官が来て祭儀を行い舞楽を奏したそうです。

境内の由緒案内板にもご祭神は飽速玉男命一座になっており、そこに瀬織津姫の御神名はありません。
御神名からあくまで推測ですが、安芸国造の奉祭した神は「速玉男命」という男系神と「瀬織津姫」という対偶神が並斎されていたのではなかろうかと思われます(拝殿中にもう一つの御幣がありました)。)『神道大系』でもご祭神は瀬織津姫神でした。 いつの時代か不明ですが、速谷神社の祭祀から、瀬織津姫神は消えてしまいました。雨上がり、古を偲びつつ、参拝した神社でした。  

                                                                                                                                                                                                                                                                              

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中津瀬神社:山口県 

[ 瀬織津姫神]

山口県宇部市新天町2-2-19の中津瀬神社の紹介です。

中津瀬神社の創建は江戸後期享和元年(1801)と伝えられ、新川(真締川マジメガワ)の疎通の神助を謝し、村里鎮守の神・農耕・水産諸事業の守護神として祀られています。地元の方々からは水神さんとして親しまれています。
度重なる水害や凶作に悩まされていた村人の願いを叶えたご祭神の中に神社名の中津瀬の名と縁の深い神様がおいでになります。

ご祭神
主祭神 綿積見神・瀬織津比賣神・倉稲魂神
配祀神 市杵島比賣神・田心比賣神・湍津比賣神・八王子神・赤崎大明神・金刀比羅神

神社統合により配祀神が祀られました。

「円空と瀬織津姫」下巻菊池展明著には以下のように書かれています。
「熊野那智山結宮並滝本年中行事」の三月二十一日の項には「川中の神供、瀬織津姫ノ神を祭る、那智山滝ノ上の中津瀬にてみそぎ祓いの式典あり」とあり

中津瀬神社は、新天町商店街に接し、境内の池の「真名井水」は良質な美味しし水(参拝に来られていた方から伺いました)と評判がよく遠方からも水を汲みに来られます。境内の狛犬さんは珍しいライオンさんでした。境内はきれいに掃き清められ、地域の方々から大切に守られている神社でした。
中津瀬神社鳥居

中津瀬神社由緒

中津瀬神社狛犬jpg

中津瀬神社扁額

中津瀬神社本殿

中津瀬神社境内社

中津瀬神社水神様

中津瀬神社ご神水


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山口大神宮:山口県 

[ 瀬織津姫神]

西の伊勢さまと呼ばれている山口大神宮の紹介です。

山口県山口市滝町4番4号
ご祭神
内宮-(主祭神)天照皇大神
    (配祀神)天手力男命 萬幡豊秋津姫命
外宮-(主祭神)豊受大御神
    (配祀神)天津彦火瓊々芸命 天児屋根命 天太玉命 建御名方神 八坂刀売命
主要祭典 例祭 十月17日 春祭 五月一日

境内神社
内宮別宮 荒祭宮 (荒御魂・瀬織津姫命)、内宮摂社 恵比寿社(事代主命)、外宮多賀宮(荒御魂・伊吹戸主尊) 末社岩戸社(天照皇大神外二座)、末社稲荷社(宇迦之御魂外三柱・末社御門守神社相殿
境内地 
一万七千坪(山林含む)
由緒 
永正十七年(1520)大内義興氏が御柏原天皇より勅許を得、伊勢皇大神宮より御分霊を勧請した神社。内宮に天照皇大神・外宮に豊受大御神を祀る。また伊勢神宮に習い、式年遷宮が定められている。現在の本殿は、平成十二年に御造営されたもの。西の伊勢参り、山口参宮として、古くから県内はもとより、中国地方や九州からの参拝が多い。(パンフレットより)

多賀神社 (おたかさま)
近江(滋賀県)の多賀大社かの御分霊を勧請した神社。御祭神は伊弉諾尊・伊弉再尊の二神。国生の神であることから、延寿・安産の神として古くより親しまれ、さらに縁結び・学業成就・病気平癒等広く信仰をうけている。

高嶺稲荷神社
農産物の守護を始め、商売繁盛・三難消除(病・火・盗)又、芸能 家社海運の神として広く信仰されている。

「山口県神社誌」によりますと山口大神宮は、永正十五年に勅許を賜り、十六年に外宮を同十七年に(1520)に内宮を造営しました。御柏原天皇より「高嶺大神宮」の御宸筆を賜り、さらに御陽成天皇より「伊勢」の勅額を賜る。以来「今伊勢」と称し、山口大神宮と尊称したとあります。神宮の前には道路を挟んで五十鈴川が流れています。伊勢に因んで名づけられた河川の名称と考えられますが、社宝のなかに河原禊図との記載がありますので今の河川がもう少し広く、河原で禊が行われたと思われます。
社殿の後方には鴻の嶺に岩戸社がありますが、当日は行けませんでした。パンプレットには「神話の天の岩戸に由来し、大きな岩窟の中に天照大御神を祀り、入り口に手力男命が祀られている」と書かれています。
山口大神宮鳥居
▼由緒
山口大神宮由緒jpg
▼境内図
山口大神宮境内図
▼古殿地上が内宮
山口大神宮・古殿地上が内宮
▼内宮
山口大神宮内宮
▼外宮
山口大神宮・外宮
▼多賀神社
山口大神宮・多賀神社jpg
▼五十鈴川
山口大神宮前の五鈴川

境内神社の記載から1520年当時、境内神社の荒祭宮で天照大神荒御魂が瀬織津姫神と認識されていました。
伊勢内宮では荒祭宮のご祭神は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)となっています。天照大神荒御魂=撞賢木厳之御魂天疎向津媛命=瀬織津姫神となりましょう。ただ、古代の文献等には荒祭宮のご祭神が瀬織津姫神と記載されてはいません。伊勢から勅許を賜り、勧請された山口大神宮の由緒は、大変貴重なものだと思っています。

山口大神宮を後にして近くに大内氏館跡の龍福寺に立ち寄りました。
▼案内板
大内館跡
▼龍福寺本堂と緋寒桜
龍福寺本堂と緋寒桜
▼緋寒桜
緋寒桜jpg
▼大内義興像
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▼辞世の句の案内板
大内氏辞世の句
▼境内にある岩や蘇鉄は豊後の国から船で持ってきたと書かれています。雨の夜は豊後が恋しいと泣いていたと。
豊後石


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小山田斎宮:福岡県古賀町 

[ 瀬織津姫神]

「日本書紀」巻第九 神功皇后の条に

九年の春二月に、足仲彦天皇、筑紫の橿日宮(かしひのみや)に崩(かむが)りましぬ。時に皇后、天皇の神の教に従わずして早く崩りたまひしことを痛みたまひて、以為(おもほ)さく、祟る所の神を知りて、財寶(たから)の國を求めむと欲(おもほ)す。是を以って、群臣及び百寮(つかさつかさ)に命(みことおほ)せて、罪を解(はら)へ過(あやまち)を改めて、更に斎宮(いはひのみや)を小山田邑に造らしむ。
三月の壬申(みずのえさる)の朔(ついたちのひ)に、皇后、吉日を選びて、斎宮に入りて、親ら神主と為りたまふ。則武内宿禰に命して琴撫(みことひ)かしむ。中臣烏賊津使主(なかとみのいかつのおみ)を喚(め)して、審神者(さには)にす。千繒高繒(ちはたたかはた)を以て、琴頭尾(ことかみことしり)に置きて、【言】【靑】(ねぎまう)して曰(まう)さく、「先の日に天皇に教えたまひしは誰(いづれ)の神ぞ。願わくは其の名をば知らむ」とまうす。七日七夜に逮(いた)りて、乃ち答へて曰(のたま)はく、「神風の伊勢國の百傳ふ度逢縣(わたらひのあがた)の拆鈴五十鈴宮(さくすずいすずのみや)に所居す神、名は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみこと)と。(後略)

「日本書紀」には仲哀天皇に託宣した神の名を神功皇后が神主となり、武内宿禰が琴を弾き、中臣烏賊津使主を審神者にしていずれの神かを尋ねています。其の場所が小山田邑の斎宮とあり、岩波書店版の訳注には不詳となっていますが、「宇佐神宮由緒記」には福岡県古賀町小山田ありと記載されています。

▼小山田斎宮
小山田斎宮:鳥居

小山田斎宮1

小山田斎宮2
▼拝殿
小山田斎宮3
▼拝殿の扁額斎宮:拝殿中には忌宮の額があり。
小山田斎宮:扁額
▼本殿
小山田斎宮本殿
▼境内社:鴨瀧神社
小山田斎宮境内社:鴨瀧神社

斎宮の右手には聖母屋敷(個人宅)があり、ご主人様に元斎宮のあった場所に案内していただきました。
木の下に社が一つあり、聖母神を祀っているとのことでしたが、斎宮のご祭神が天照御大神の荒魂と由緒記にもありますのでここでは、聖母神=天照御大神の荒魂と考えられます。ただ、古賀市歴史講座『古賀の昔と今』古賀市立図書館蔵では正八幡縁起を元に聖母屋敷には香椎神社と武内神社があり、香椎聖母大明神と触れています。
▼元斎宮地(香椎神社)
元斎宮地
▼聖母屋敷の武内神社他
聖母屋敷武内神社
以前、武内神社の下から沢山の仏画の描かれた石が多く出たそうでご主人様に見せて頂きました。私の関心は武内神社横の仏画の書かれた石の中心に祀られている十一面観音像。伊勢内宮の天照大神荒御魂として各地で祀られている瀬織津姫神は神仏習合では本地仏として十一面観音や不動明王で現します。素朴な十一面観音様ですが、その存在は大きいと私は考えています。
▼十一面観音像
聖母屋敷:十一面観音像
親切なご主人様とのお話の中で聖母屋敷の角にあった竹がほしいと言われ、差し上げたそうですが、災難にあってすぐに戻しに来られたそうです。他にも多々このようなお話があるそうです。小山田斎宮では勧請の経過は分かりませんが境内社に鴨瀧神社があるのも興味深く思いました。

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有王社:瀬織津日女祭祀 

[ 瀬織津姫神]

大分県日田市の夜明ダム近くの有王社の紹介です。

大分方面から夜明ダム横のトンネルを通過してすぐに右折して坂道を上がると左の角に鳥居が見えます。

有王社の由緒は案内板にあるように
「人皇八十代高倉天皇(平安時代末期1168~1183在位)の御代、大蔵永秀の豊後国の関門守護を任として築城の櫛崎城に鎮座の処、宝永二年(280年前)現今の地に御鎮座奉斎す。当時は有王宮と称す」とのことです。

以前、宮司様に他の伝承がないか確かめましたら、「他に伝えられているものはない」とのことでした。

異称で祭られる場合が多い、瀬織津姫神ですが、この案内板をみるとなぜかほっとします。

ご祭神の瀬織津日女神は罪・穢れを大海原の持ち出で給う神との記載があり、大祓いの神としての認識で一柱で祭られています。境内神社に菅原神社と水天宮があります。

▼鳥居
日田市有王社1
▼案内板
有王社2

有王社3
▼拝殿
有王社 4
▼本殿
有王社本殿
▼境内の土俵
有王社6



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ひな祭り 

[ 瀬織津姫神]

明日から三月ですね。ひな祭りについて調べてみました。

三月三日の上巳(じょうし)の節句、女児のある家で雛壇を設けて雛人形を飾り、調度品を具え、菱餅・白酒・桃の花などを

供える祭り。

上巳とは五節句の一。陰陽3月初の巳の日、後に三月三日。宮中では、この日、曲水の宴を張った。桃の節句。(『広辞苑』より)

故風琳堂主人(菊池展明氏)の千時千一夜のブログでは、桃の節句のことを愛知県一宮市の真清田神社の紹介で
以下のように触れていました。
http://blogs.yahoo.co.jp/tohnofurindo/MYBLOG/yblog.html?m=lc&sv=%BB%B0%B7%EE%BB%B0%C6%FC&sk=1

桃花祭は、真清田神が当地にまつられたのが三月三日であるとされ、真清田神社の最重要な例大祭とされます(現在は四月三日)。三月三日という桃の節句は、「人々は三月三日に桃の木で身を祓ひ、それを川(木曽川)に流してゐた」とされるように、その初源は祓いの神事で、真清田神・三明神がいかに「祓い」と縁故深い神であるかがわかります。

縁故深い神とは瀬織津姫神を指しています。「エミシの国の女神」・「円空と瀬織津姫」上下巻・「八幡比咩神とは何か」には
菊池氏が調べた各地に残る瀬織津姫神伝承を豊富に知ることができます。滝神・水神・祓神・航海神等、様々なご神徳が語られています。桃の節句とご縁のある女神様のお話です。
 
我家の玄関には、遠野で頂いた雛人形を飾っています。この表情がなんともいえません。

雛様

今日は、古代史の会の皆様と九州国立博物館で行われている特別展『宗像・沖ノ島と大和朝廷』をみてきました。国宝級の展示もありかなり迫力がありました。

文化交流展示室では、海の守り神の姥媽神の像を見ることが出来ました。
又、宮地嶽古墳の石室から出た冠は高句麗との関連を示すものとの説明もあり、大変興味深かったです。

今回の特別展は3月5日までです。
http://www.kyuhaku.jp/exhibition/exhibition_s46.html(九州国立博物館HP)



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